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グリムアルム  作者: 赤井家鴨
第一幕
33/114

007<夏の庭と冬の庭> ― Ⅴ




騒がしい庭の音と<童話>が獲物に憑りつく匂いにアルノルトはひどく慌てて飛び起きた。彼は足早に裏口から庭へと出てみるが、そこにはもう誰もいない。<童話>の匂いも、先ほどよりも薄れている。

気のせいか? いいや、庭は確かに騒いでいた。それでは一体、何に騒いでいたのだろうか。アルノルトは辺りを警戒しながら見渡した。するとイルゼが真っ青な顔をして屋敷の中から駆けつけてくる。

「あなた、大変よ! 子供たちが……子供たちが居ないの!!」

 書斎室の白い栞も無くなっており、何か良からぬことが起きると予感した二人は、急いでハンスに電話をかけた。



 ハンスはまだ童話図書館には戻っておらず、フェルベルト家のある町から一時間ほど離れた都会のビジネスホテルに滞在していた。

「それは心配ですね。はい、分かりました。明日の朝、もう一度病院に行って手続きをしなくてはいけないので、そうですね……早くてもお昼頃には着くと思います。

はい、その間に見つかるといいのですが……」

「すまない。栞が無くなっていたから連絡したというのに、子供たちの心配をしてもらって……本当にありがとう」

「何を言っているのですか! 大切な息子さんでしょ。彼までもがいなくなっては、アナタ方が心配だ。

 <童話>が相手だったら我々の出番ですが、相手が人間で、誘拐が目的だったら……」

 ハンスの思いもよらない気遣いに、夫婦は感謝の気持ちを持った。電話越しからでも感じられる彼の深い優しさに、二人の不安が少しだけ和らいだ。

 アルノルトは安堵の笑みを小さく浮かべると、「ありがとう」と強く心のこもった一言を最後に、静かに電話の受話器を置いた。



 そして次の日、太陽が最も高い位置にいる時間。

川沿いの大道路を真っ黒い車が走ってく。車は目的の教会の前に停車すると、颯爽と運転手が降りてきた。

「フェルベルト卿、遅くなってすみません」

 運転席から降りてきた青年ハンスが、心配そうにフェルベルト夫婦と、事態を聞いて駆けつけてきていたルドルフのもとへと小走りしてくる。が、彼の姿を見たフェルベルトの者たちは、一瞬だけ我が目を疑った。

何せ葬式の時は好印象を受けるスーツ姿だった青年が、今は真っ黒な女性用のロングドレスに身を包んでいる。しかも今日も日差しは高くて暑いというのに、黒の長袖で黒のニット指ぬき手袋なんかもはめている。見ているこっちが暑くてしょうがない。

 だが彼は別にふざけているわけではなかった。ハンスは本当に心配そうな顔をして昨日の晩、子供たちが居なくなった時の事を詳しくアルノルトたちに聞いてきた。

 夫婦は昨日の夜に感づいた<童話>の気配、ウィルヘルムと栞、そしてマリアの遺骨が消えた事を彼に詳しく説明する。

「栞でしたら私が一番に見つけられると思います。ですが、<童話>に出くわしたら……」

「それなら私とハンス君、兄さんとイルゼさんとで分かれて捜すのは?」

「いや、家にも誰かいた方がいい。イルゼが家に残って、私が一人で子供達を捜す。今日中に見つからなかったら、本格的に警察にも頼もう。

 いいか、ルドルフ。もし<童話>に出くわしても戦おうとはせずに、ハンス君の身を一番に守って急いで教会に戻ってくるんだ。分かったな」

 兄の注意にルドルフは深くうなずき、三人は二手に分かれて町の端という端を捜しだした。


 繁華街の大通りや子供達が楽しそうに遊ぶ公園の中。ぶどう畑の茂みに工房で働く職人達が密かに休息する路地の裏まで。<童話>達が好きそうで、子供を隠せるような、そんな場所。同じ場所も見方を変えて徹底的に調べまくった。しかしそれでも、子供達どころか<童話>の尾っぽすらもつかめずにいる。

 もうすでに別の場所へと移動してしまったのか。時間的にもそろそろ間に合わないかと、懐中時計を見つめるハンスの顔に焦りの色が現れる。

「ハンス君……ちょっといいかな……」

神妙な面持ちをしたルドルフが、俯いていたハンスに声をかけた。

 何か子供たちについて知っている事があるのかと、ハンスは期待の目で彼を見る。が、どうやらそういう事ではないらしい。彼の瞳には黒い影が宿っていた。

 実はこの時のルドルフは、猟師のグリムアルムでも何でもない、ただの、町の平和を表から守る、いち警察官でしかなかったのだ。

 そんな彼が、そんな恐ろしい目でハンスに、ちょっといいかな? と話しかけてきたのだ。ルドルフのグリムアルム狂いの噂を聞いていたハンスは、彼が何を話そうとしているのか、薄々と勘付いてしまっていた。

 だがそれと同時に、ハンスはかすかだが、傾く日差しの方角に栞の気配を感じ取る。

「お話しはまた今度、図書館に来てもらった時に、父と共に聞きましょう。

 それと、まだ明るいですけれど、もう夜の七時です。ルドルフさんは一度図書館に戻って、お兄さんたちと情報を共有して来て下さい」

「ハンス君は一緒に戻らないのか?」

「ええ。私はもう少し捜します」

「!! それなら二人のほうが……」

しかしルドルフが話し終わる前に、ハンスは首を横に振る。そして彼は自虐的な笑顔を作った。

「いいえ、私一人で大丈夫です。心当たりができたので……。

それに……、アナタよりも”ハンス”だけの方が<童話>も出て来やすいでしょうしね」

 その笑顔と言葉の意味を、ルドルフは理解できなかった。

彼は兄に言われたことを守るため、ハンスを引きとめようとしたのだが、それよりも早くハンスは向かうべき道へと足を進めていた。



 右へ左へ、ワイン横丁を抜けて観光地から離れた職人街へ。栞の気配が近づき強くなると、ハンスの足取りも自然と早くなる。

 ぽつぽつと並ぶ家々の前を通りすぎ、隣町に着いてしまいそうな距離まで駆け足で来ると、その途中でハンスは急に立ち止まった。そして一歩、二歩その場から少しだけ引き戻る。

 新しい、白い家と家との間。その先の袋小路に子供が小さくうずくまっていた。彼はこちらに背中を向けて膝を抱えているようだった。その背中と、栞の気配で、ハンスはこの子がウィルヘルム本人であると確信する。

 ハンスは子供を見つけた喜びに、一歩足を前に進める。が、その先から感じる異様な雰囲気におのずと顔を歪ませた。

 彼は慎重にゆっくりと、ウィルヘルムの背中に声をかけた。

「ウィルヘルム……、大丈夫? ご両親たちが心配しているよ。早く帰ろ……」

「いやだ!! 帰らない! 僕はグリムアルムを継がない! マリアとこれからも一緒にいるんだ!!」

マリアとこれからも一緒に……。

その言葉にハンスは眉を細めるも、もう二、三歩彼に近づいた。そして彼に近づくことにより、その言葉の意味を理解する。

 うずくまって何かを隠すウィルヘルムの腕の隙間から、誰かがこちらを覗いていた。

 日没の空に似た暗い紺色の瞳が、不思議そうにこちらを見つめている。黄金の麦畑のように美しい金髪から覗く少女の幼いまん丸顔は、ハンスが棺の中で見た、少女マリアの顔そのものであった。

ハンスは彼女に恐怖し、一歩後ずさる。

 <童話>だ。彼女の遺骨に<童話>が取り憑いた。<童話>がマリアの姿をして、ウィルヘルムを取り込もうとしている。一刻も早く祓わなくては、彼が危ない。

 ハンスは勇気をだして、ウィルヘルム自らが察するようにと、落ち着いた声で語りかける。

「ウィルヘルム……。それはマリアじゃない。それは<童話>……」 「違う! これはマリアだ! 僕がマリアを生き返らせたんだ」

予想だにもしなかった彼の行動に、ハンスは目を見開いて驚いた。

「君は禁句を犯したね? 死者を蘇らせようと、私欲の為に<童話>を利用した。

私は君に罰を与えなくてはいけない。さあ早くこっちに来るんだ!」

「いやだ!」

「ウィルヘルム!!」

「嫌だ!! お前なんかあっち行け!」

 彼の暴言と身勝手な行動に、ついにハンスは激怒した。彼は無理矢理にでもウィルヘルムを連れ出そうと、彼の肩を強く掴んだ。しかしその時ジャラジャラと、金属がこすれ合う嫌な音がハンスの方へと近づいてゆく。その音は不気味に鳴り続いているのだが、ハンスはその音よりも、ウィルヘルムの肩にかけた自分の腕を凝視していた。

 彼の腕には細い金の鎖が、蛇が木を這い上るかのように絡みついている。

しかもその鎖は絡みつくだけでは飽き足らず、彼の皮膚に喰い込んで、ズブリズブリと肉の中へと沈んでゆく。肉すらも通り越し、骨の髄まで彼を自分(<童話>)の中に引きずり込もうとしているようだった。

 ハンスは我に返ると、急いで腕を引っ込めた。幸いにも腕から引きちぎられた鎖は深追いせずに、スッと消えてなくなったが、彼の腕にはくっきりと、鎖が這った跡が残ってしまった。

 しかし彼の腕はよく見ると、無数の傷跡が刻まれていた。

切り傷やらミミズバリ。他にも火傷の跡などがある。数え切れないほどの傷と治癒した跡が歪に重なり合っているのだが、それらは無理やりに手袋の中に隠されていた。

 ハンスは傷ついた腕をかばいつつ、マリアの姿をした<童話>を、警戒した目つきで睨みつける。

 やはりこれは危険な<童話>だ。これ以上被害を出す前に早く封印しなくては。

緊張しているハンスを、<童話>は変わらずクリクリとした瞳でボーッと見つめている。

「小さなグリムアルムを……イジメないで」

 少女の言葉にハンスは心底驚いた。なんと<童話>はウィルヘルムを……敵であるグリムアルムを庇ったのだ。

「違うよマリア。僕のことはウィルヘルムかお兄ちゃんって呼ぶんだよ」

「……うぃる?」

 一体どういうことなのか。見た感じ、<童話>はウィルヘルムが封印したものではなく、マリアの骨に取り憑いた、何処にも属さない、そこらを流離う<野良童話>だ。

しかし、<童話>は敵であるグリムアルム(ウィルヘルム)を自らの意志で庇い、危害を与えるものに攻撃の意を示した。それに彼は気付いているのだろうか。気付かずに<童話>を慕えさせているのであれば……。

 ハンスは冷や汗をたらして、グッと息を飲み込んだ。

「わかったわ……。私はその<童話>に余計な手出しはしない。好きにすると良いわ」

 彼の負けを認めるような言葉に、ウィルヘルムは喜んでハンスの方へと振り向いた。が、そこには暗い影を落とす、恐ろしい悪魔のような男が立っていた。

 瞳は地獄の炎のように赤く燃え上がっているのだが、その眼光は氷のように凍てついている。そしてその顔には、人をさげすむような憎たらしい笑顔が、薄っすらと張り付いているのであった。

 ゾッと背筋を凍らせるような恐怖を感じるウィルヘルム。しかしハンスはすぐに顔色を変えると、腕を組んでワザとらしい口ぶりで語りだした。

「だけど困ったわー。これでグリムアルムも、邪道のハウスト家だけになってしまったわー。困った、困った。

 あの家って乱暴に<童話>を封印するって言うし、無害の人に<童話>を取り憑かせて、<童話>使い同士で戦わせるのが趣味なんだって言うのよねー……困った、困った」

「何が言いたい」

「あらごめんなさい、独り言よ。気にしないでちょうだい」

 そう言うとまた「あぁ困ったわ」と嘘くさいため息をついて、ウィルヘルムに背を向けた。そしてゆっくり一歩づつ、女性が歩くようにくねくねと、足をくねらせながら小路を出ようとする。

「待て……」

 去ろうとしているハンスを、ウィルヘルムが急いで呼び止めた。彼はしばらく考え事をした後に、疑うような口ぶりでハンスに聞く。

「その、ハウストって言うのは……強いのか?」

「そうね、グリムアルムの中で一番強いかも。私の家がグリムアルムを上から指示する指揮官だとすれば、彼はグリムアルムを現場でまとめる副指揮官よ。

グリムアルム歴はアナタのお父様よりも遥かに長いし、場数も多く踏んでいるでしょうね。

それとね、私の家の遠い親戚だから、<童話>の原書や栞の事もとーても詳しいはずよ」

 自分の父が一番<童話>のとこを知っていると思っていたウィルヘルムにとって、それは信じられない話であった。しかしグリムアルムのトップであるハンスがそう言うのだから本当の事なのだろう。

「それでも僕が追い返してやる……」

「グリムアルムでもないのに? あ、そうそう、栞は返してもらうわよ」

「! さっき、好きにしても良いとっ」 「栞の力は(グリムアルム)のもの。グリムアルムを破棄するアナタに、それを持つ資格は無い」

 またハンスはあの恐ろしい真っ赤な瞳で、小さなウィルヘルムを見下ろした。

ウィルヘルムはその瞳に怖気づいてしまったが、正直、栞は渡したくなかった。

 この栞はウィルヘルムと<夏の庭と冬の庭>とを繋ぐ大切な架け橋だ。

この栞があるからこそ、小さな子供のウィルヘルムでも巨大な力を持つ<夏の庭と冬の庭>を操ることができるのだ。

しかしそれをハンスに返せば、自分もマリアと同じように<童話>の力に押し負けて、氷漬けになってしまうのだろう。そうはならなくとも、<夏の庭と冬の庭>がグリムアルムの(おさ)であるハンスの手にした栞に帰れば、自分はただの子供に戻ってしまう。それではマリアを守れないじゃないか。

 彼は今にも泣き出しそうな顔をして栞を強く握りしめた。

「催促するようで悪いけれど、早く返してもらえないかしら? この後、教会に戻ってこの事を報告しなくてはいけないの。

 勘違いしないでね、別に私がその<童話>に手出しできないからアナタのお父様にお祓いを頼むとかじゃないのよ。明日からは警察に捜索を頼むっていう話だったから、その必要は無いと報告するだけ」

 そうは言っても安心できない。彼にその気がなくとも、必ずアルノルトはウィルヘルムを追ってくるだろう。体を壊して引退したと言っても、彼はついこの間まで<童話>と戦っていたのだ。ハンスから新しい栞を受け取れば、ひよっこな自分たちはあっという間に捕まってしまう。それとも、恐ろしいハウストという奴らがマリアの<童話>を嗅ぎ付けて奪いに来たら。<童話>を持っていない自分は、果たしてそいつらを追い返すことができるのだろうか。

 目を閉じ、悩み苦しむウィルヘルムの顔を<童話>は不思議そうに眺めていた。そして彼女は腕を伸ばして、優しくウィルヘルムの頬を撫でる。

「大丈夫……。私がうぃるを、守るから……」

彼女の声に反応し、ウィルヘルムはゆっくりとまぶたを開いた。

 まだ幼さが残る丸い顔に大きな瞳。頼りがいのないほどに小さな彼女の手のひらが、ウィルヘルムの悲しみをより一層、色濃く染めてゆく。

 もう彼女を手放したくない。失いたくない。でも今の自分ではそれらは叶えられない。

ならば一体どうすれば。もう自分で選択肢を作る事が出来ないのか。己の不甲斐なさに深く絶望し、力のない、しかしはっきりとした声で小路の入り口に佇むハンスに彼は問いかけた。

「……どうすれば…… 僕は、一体どうすればいい?」

ハンスは呆れたように苦笑いをする。

「それを決めるのはアナタよ。どうしたい?」

 ウィルヘルムは震える足を地面に立たせて、ハンスの方に振り向いた。そして一歩、また一歩と、ハンスの前に近づいてゆく。

 先ほどは小路の中が暗くて分からなかったが、ウィルヘルムの顔は涙や泥でぐちゃぐちゃに汚れていた。彼は汚れを袖で拭き取ると、顔を引き締め、チャームポイントである垂れ目を吊り上げると、目の前に佇むドレス姿の悪魔に助けを乞いた。

「僕は、もうマリアとは離れたくない! 教会にも戻りたくない!

僕はとんでもない罪を犯したって言うんでしょ? だけど僕は間違った事をしたとは思っていない! だから絶対に謝りたくはない! けど……だけど、どうすればそう出来るのか……僕には、もう……分からない…………」

 折角決めたカッコいい顔も、話しているうちにどんどんと崩れてしまい、赤く腫れた瞼から、もう一度涙が溢れそうになっていた。

 ハンスはそんな彼を、冷めた目で静かに見下ろしている。

もう何を言っても無駄だろう。ここで見過ごしてもどの道、警察に捜索されて彼は無理やりにでも教会に戻される。そうすればフェルベルト卿がマリアに取り憑いた<童話>を祓って、ウィルヘルムは余計に鬱ぎ込んでしまうだろう。

そのままやさぐれても、ハンスにとっては知ったこっちゃない話しなのだろうが、<野良童話>が無条件で彼に従うのも珍しい。才能ある人をここで手放すのは、少々惜しいか…………。

「それじゃあ……」

遠く、空の向こうを見つめるハンスが小さく口を開いた。

「それじゃあ、私の図書館に来ない?」

「え?」

「このままだとハウストや<野良童話>達が殺さないにしろ、アナタ達を痛めつけに来るのは確かでしょうね。アナタみたいなしみったれた子、<童話>達も大好きでしょうし。

 だけど私なら、その<童話>に手を出せないわ。さっき約束したもの。そうすると、アナタ達にとって一番安全な場所は童話図書館だと思うの。

 その代わり、こっちから出す約束も守ってもらうわよ。グリムアルムはそのまま続けて、お祓いの依頼には絶対に協力する事。その<童話>の面倒はすべてアナタが見る事。その<童話>に、私に危害を出さない事を約束させて。

 アナタのお父様から聞いていないかしら? <童話>と私の一族はとーっても仲が悪いのよ。私の寝首をその子にかっ切られた時、誰が一番困るのかしら。それに……、それに、フェルベルト卿には子供を見つけたら保護するって言ってしまったから……」

「本当に……? 本当にマリアには…………、手を出さない?」

「私は約束は守るわよ。アナタも、私との約束を守ってくれればの話だけどね」

 呆然と立ち尽くしていたウィルヘルムが、ハンスの言った言葉の意味を理解すると、感極まって急いでマリアの元へと駆け戻った。そして彼は涙を流しながら彼女に強く抱きついた。

「マリア、マリア、もう離さないよ。絶対にお前を離さないよ」

「うぃる……」

 ボーッと虚ろだった彼女の顔が、泣き笑いするウィルヘルムの顔を見ると、嬉しそうに、にっこりと彼に微笑み返した。






……

………………

………………………………

…………………………………………


 しかしその笑顔はもうどこにもいない。

ウィルヘルムの腕に抱かれたマリアの頭骸骨が、そう悲しく物語っている。


 懐かしい思い出から五年後の春、十四歳のウィルヘルムは古城の隅で妹の亡骸を抱いていた。彼自身も体中傷だらけで見るに堪えない姿となっている。

「かわいそうな<童話>たち……」

 マリアの骸に取り憑いていた<童話>の首を切り落とした美しい女性、クラウンが呆れた声で囁いた。

 胸元を一文字に斬り裂かれたルドルフを、彼女は道の隅へと蹴飛ばした。そして彼の相棒である<童話>が宿った猟銃を易々と奪い取ると、深くため息を吐いた。

「さすがに同情するよ。従える主人はみーんな自分勝手でわがままな奴らだ。

兄妹ごっこにつき合わされるわ、能力以下の仕事をさせられるわ……」

 そう言うとクラウンは、奪い取った猟銃を誰もいない方向へと撃ち放つ。しかしその銃弾は、倒れているルドルフの左肩を撃ち貫いた。突然の痛みにルドルフは、おもわず声を上げて苦しんだ。

「どんな的外れな場所に撃っても、ちゃんと主人が思った所に当たる悪魔の魔弾……。

折角の魔弾をワザと外して<童話>を狩るとはねぇ……いい趣味しているよ」

「一度っきりなんて、もったいないだろ?」

脂汗をかきながらルドルフはにやりと笑った。

しかしクラウンは表情一つ変えずに彼の眉間に銃口を当てる。

「オイラは面倒くさいのが嫌いなんだ。……残りの<童話>をさっさと出しな」

渋々とルドルフは隠し持っていた<童話>と、青い栞をクラウンの前に差し出した。

 正義のために戦うと言っても、自分の命が一番可愛い奴なのだ。今のルドルフは、奪われた<童話>を恨めしそうに見つめる力しか残っていない。それを確認したクラウンが、今度はウィルヘルムの方へと近づいた。ウィルヘルムは未だにうずくまり、指一本も動かさない。だが、彼の周りには次第と冷たい空気が漂い始める。

 春の陽気は何処へやら。空は暗い雲に覆われて、風にどんどん流される。雑木林の木々たちも、この後起きる予期せぬ事態に恐怖して、一斉にザワザワと騒ぎ始めた。 

 クラウンよりも先に何かを感じ取ったルドルフが、ウィルヘルムに向かって細い声で注意する。

「ウィルヘルム……ダメだ。ここで暴れさせるな……」

「何の話をしている? まぁいい……。ウィルヘルム・フェルベルト、次はお前だ。お前の持つ<童話>を全部よこしな」

全く動かないウィルヘルムに、クラウンは銃口を向けて脅した。

「…………………………なぜ、マリアを斬った?」

蚊の鳴くような声で聞くウィルヘルムを、クラウンは鼻で笑い飛ばす。

「言っただろ? <童話>と生半可な事をしていたら、お前のことも斬ってやるって。

まさかお前の妹が<童話>だったとは思わなかったけどな。通りで考えが甘い……わ……け…………」

言葉を言い終わる前に、クラウンもウィルヘルムの妙な気配に勘付いた。

 マントにわが身を隠すウィルヘルムからバキッボキッと、骨が折れるような気持ち悪い音が響いてくる。その異様さに、ウィルヘルムの背後にいた桐子も、恐怖で二、三歩、彼のもとから離れてしまった。

 次第にマントのシルエットが人間の形を保てづに、不気味な音を立てながら二倍の大きさに膨れあがった。気付けば辺りは真冬のような凍える寒さに包まれており、雪もどんどん吹雪いてきた。

 さすがにヤバい事が起こると察したクラウンが、崩れた城壁の穴から逃げ出そうと後ずさった。その時だ、目の前のマントが二枚に引き裂かれ、鋭い爪が彼女を襲う。


 大きな爪が、軽くクラウンの頬をかすめて行った。そして振り下ろされた太い腕が、小さな塔にぶつかると、頑丈なレンガが煙を吹いて粉々に砕け散る。

 優しく撫でるようにかすめただけなのに、クラウンの左頬からは大量の血液が流れ出た。

その血を恐る恐る拭ったクラウンは、今までに感じた事のない、<童話>とは別の、得体のしれない恐怖にかられてしまう。

 彼女の目の前には真っ黒な体毛を逆立たせる、全長二メートルはあるであろう巨大な獣が牙をむいて唸っていた。

 クラウンは今まで沢山の<童話>たちと戦ってきたが、彼らがクラウンに向けてくる感情は大体、憎しみや悲しみ。恐怖に焦りといった雑念も混ざった感情ばかりであった。だがこの獣は、たった一つの感情しか持っていない。それは、クラウンに対する(たぎ)るような怒り。

 呆気に捕われたクラウンの一瞬の隙を、獣は見逃がさずに突進する。思っていた以上の素早い動きに、ついて来れないと判断したクラウンは急いで剣を盾のように身構えた。そして獣の体が彼女の剣に衝突する。

クラウンの体はゴム玉のように弾き飛び、見ている側としては、彼女の体にとてつもない力がかかったように感じられた。しかしクラウンは、これぐらいならすぐに体勢を立て直せると確信し、次に地面に着地した時、すぐに立てるようにと準備した。が、今度は彼女の斜め後ろから、氷柱が急に生えだした。互い違いにかかる強い力に押しつぶされて、クラウンは「ガハッ!」と苦しい声を漏らしてしまう。

 その光景を見ていた桐子がついに「やめて!!」と悲鳴のような声を上げたのだが、獣は立ち止まらずに、どんどんとクラウンの方へと歩いて行く。

 気づけば辺り一面が雪に覆われており、強い吹雪がクラウンの体力を奪っていた。氷柱も一本だけでなく、いくつも地面から生えている。

近づく獣の気配に、クラウンはふらふらと立ち上がった。ポタリと頬から垂れる赤い血液が、雪の上を少しだけ赤く染める。しかしその赤も、一瞬にして白に塗り替えられてしまった。

「ウィルヘルム、やめろ! 死にたいのか?」

ルドルフの叫び声に、桐子が「ウィル?! あれが?」と我が目を疑った。


<夏の庭と冬の庭>

フェルベルト家の<守護童話>であり、<消された童話>の一つ。

夏と冬が同時に存在する庭を持つ黒い獣の物語。その主人公の姿になったウィルヘルムの心には、彼の希望を奪われた怒りの感情だけしか残っていない。理性を無くした彼は完全に<童話>の中へと取り込まれてしまっていた。


 クラウンは作戦を変えようと、剣をしまってルドルフから奪った猟師を、ウィルヘルムに向けて構えた。しかし慣れない武器に焦って手こずってしまう。その間にも、またもや彼の重い一撃が、彼女の右脇腹に打ち込められた。

 猟銃は彼女とは反対の方向へを飛んでいき、クラウン自身は雑木林の中へと吹き飛ばされた。全身を打撲した痛みに、クラウンは咳き込んで倒れている。

 彼女にとどめを刺そうと、黒い獣がまた彼女の方へと歩いて行った。

しかしそれよりも早く、桐子が急いでクラウンのもとへと駆けつける。彼女は自分の体を盾にて、クラウンの前に膝立ちすると、両手に持ったあるモノを黒い獣の方へと大きく掲げた。

「やめてウィル! そんな事してもマリアは喜ばない! クラウンを殺したって、マリアは帰ってこないんだよ!」

 彼女の手にあったモノ、それはマリアの小さな頭蓋骨であった。

勇ましく、堂々とした桐子の姿に、クラウンは心底驚くが、彼女の掲げた両腕は大きくガタガタと震えている。声も裏返りそうになっていたし、歯のこすれ合う音も、彼女たちの耳に入るほどに大きく鳴っていた。周りに気にせずに大粒の涙をボロボロ、ボロボロと流しているのに、彼女はそれでも己の身を盾にして、ウィルヘルムが間違った道へと進まないようにと、彼に強く訴えた。

 だが、今のウィルヘルムにはどんな声も届かない。たとえマリアの遺骨を目の前に掲げられても、その事実は変わらない。

獣は大きく吠えると、二人同時に切り裂くために、その太い腕を勢いよく頭上に振り上げた。

 そして……、そして、温かな、夏が始まる前の日差しにも似た温もりが、桐子の両手を優しく包む。

 それは次第に大きく広がり、彼女達の周りの雪を溶かしてゆく。桐子の足元には新芽が生い茂り、小さな花々も元気よく咲き乱れた。

黒い獣の背中を温かな光が照らしているのだが、その目の先には、真っ赤な花が咲いていた。


――お兄ちゃん、お誕生日おめでとう。


あぁマリア……。

記憶の少女が蘇る。

恥じらい嬉しそうに笑う彼女に手渡された赤いひまわり。

彼女はいつもウィルヘルムを見ていた。

彼女はいつも彼を誇りに思い、愛していた。

それなのに今のウィルヘルムときたら……。

彼の心に孤独の悲しみが襲い掛かる。


 ウィルヘルムの動きが一瞬止まった。

そしてその瞬間を、クラウンは決して見逃がさない。

彼女は桐子を押しのけると、ウィルヘルムの懐に潜り込み、しまっていた大剣を力一杯に突き出した。

 大剣は獣の脇を深く貫き、芝生の上に大量の血液が、バケツをひっくり返したように降り注ぐ。悲鳴を上げながら桐子は両腕を広げて獣姿のウィルヘルムを抱き止めようとした。

すると、彼を包んでいた<童話>の紙の束がぱらぱらと宙を舞い、元のウィルヘルムの姿が現れた。

 クラウンは急いで彼の破れたマントから、白い栞を抜き取ると、桐子から一歩後ずさった。

「ウィル、お願い死なないで! 死んじゃいやだ! 死んじゃいやだよぉ……」

 抱きしめられたウィルヘルムは死人のように蒼白で、クラウンにつけられた大きな傷からはいつまでも真っ赤な血が溢れ続けていた。

 桐子の泣き叫ぶ声が、古城の庭園にまで響いている。嗚咽を漏らし、呼吸も乱れ、涙で顔をクシャクシャにするその姿に、クラウンの心はきつく締めあげられた。

 クラウンは首から下げた金の鍵を握りしめ、彼女から逃げるように一人、雑木林の中へと姿を消して行った。




<つづく>



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