007<夏の庭と冬の庭> ― Ⅲ
誕生日会は無事に成功し、来客たちは皆笑顔で帰って行った。
会場の後片付けをするウィルヘルムにアルノルトが優しく声をかけてくる。
「ウィルヘルム。ちょっといいかな? お前に大切な話がある」
その父の言葉にウィルヘルムは、待ってました! と意気込んで、父の方に体を向けた。
「ついてきなさい」
そう言う父の後を、ウィルヘルムはマリアの手を引いてついて行く。
何も知らないマリアは「どこに行くの? お兄ちゃん?」と不安そうに聞いてきた。ウィルヘルムは満面の笑みで「教会」と彼女に答える。彼はこれから何をするのか、もう分かっているようだった。
「これからとっても大事な儀式をするんだよ。マリアも一緒に来てほしい」
三人は屋敷からそれほど離れていない、小さな教会へと歩いて行く。
時刻はもう夕食の時間を回っているというのに、日はまだ落ちずに空は明るい。
灰色と白色の石レンガを積み上げた古い教会は、大きな石の三角屋根に軽く押し潰されているような形をしており、一本だけ建っている細い鐘つき塔も、まるで途中で火が消えた蝋燭のように、中途半端に背が低かった。
教会の中も随分と殺風景で、コンクリート打ちっぱなしといった質素な造りをしてるのだが、正面のステンドグラスだけは息をのむほどに美しく、モザイク画のように散りばめられた赤や黄色といった温かな光が、ウィルヘルムたちをやさしく歓迎する。
普段は日曜のミサや聖歌隊の練習でしか来た事のない特別な場所で一体何が起こるのか。得体のしれない儀式にマリアは心臓をドキドキさせながら祭壇前のアーチを潜った。
「さて、ウィルヘルム?」
父の問いかけに、ウィルヘルムは「はい!!」と力強く返事する。
彼のチャームポイントである垂れ目もキッと目一杯に吊り上げられ、熱く父の姿を見据えている。引き締まる息子の顔立ちに、父は彼の決意を悟って頷いた。
「もう分かっているだろうが、今日よりお前を五代目、牧師のグリムアルムとして迎い入れようと思っている」
アルノルトの言葉に一番びっくりしたのはマリアだった。彼女は顔全体で驚きを表し、凛々しく引き締まった兄の顔を見た。ウィルヘルムは先と変わらずジッと父の姿を見ているが、口角の筋肉はヒクヒクと、上に向くのを懸命に抑えている。
「……っと、なると、今まで以上に厳しい修行がお前を待っている。覚悟はできているかね?」
「僕はこの日をずっと待っていました。覚悟はとうにできています。一族に恥じないグリムアルムになってみせましょう!」
高々に宣言するウィルヘルム。彼の顔は一瞬で喜びに溢れかえっていた。長年待ち続けたこの瞬間を、笑顔なくして祝えない。マリアも自分の事のように喜んだ。本当は彼女も兄と同じくグリムアルムに憧れていた。しかしそれよりも、大好きな兄の夢が叶った事の方が嬉しかったのだ。あの誕生日会で感じた孤独など、すっかり忘れてウィルヘルムに大きな拍手を送っている。
アルノルトは胸ポケットから短冊形の紙を取り出した。
<夏の庭と冬の庭>と書かれた真っ白な栞。栞の周りを縁取る装飾の中には、お城を背景にした庭の中、美しい女性と黒い獣が二人寄り添った姿が描かれている。
「ウィルヘルム。手を……」
そうアルノルトが指示するが、彼は素直に手を出さない。
不思議がる父にウィルヘルムは静かに口を開く。
「僕はこの瞬間を……グリムアルムとして認められるこの瞬間をずっと、ずっと待っていました。……ですがお父様、僕はマリアと共にグリムアルムになりたいのです!」
考えもしなかったウィルヘルムの言葉にマリアはより一層驚いた。
自分もグリムアルムになれるのか? 突如舞い降りた希望に胸を弾ませ、ウィルヘルムの次の言葉を聞いていた。
「マリアと一緒ならば、僕は歴代のどの一族にも負けない立派なグリムアルムになれる自信があります。僕にはマリアの力が必要なんです! お父様、どうかマリアにも、このグリムアルムの引継ぎの儀をさせてください!!」
ウィルヘルムは彼女の手を取り、強く握る。
すっかりマリアはウィルヘルムに置いて行かれるものだと思っていた。
父があの日、泣きじゃくるマリアをあやした時に言った言葉。
マリアが居なくても、ウィルヘルムは自分一人の力で大丈夫なほどに成長した。それを彼は証明する。と言ったその言葉を、彼女は信じてウィルヘルムの誕生日会を眺めていた。そしてそれは見事に証明されてしまった。
しかしその兄が今、マリアの力が必要だと、父に訴え、彼女の手を強く、固く握っている。
固く繋がった兄の手から勇気をもらったマリアは、今まで押し殺していた自分の思いを包み隠さず父に告げる。
「お父様! マリアも! マリアも本当はグリムアルムになりたいの!
お兄ちゃんと一緒にこの街を、この国の人々を悪い<童話>たちから守りたいの!」
いつもはワガママ一つ言わない穏やかな子が、こんなにも真っ直ぐで力強い眼差しをするのかと、父は彼女の意志の強さに驚き、深く感心した。
だが、そんな彼女の強い芯を、彼は折らなくてはいけなかった。
アルノルトはマリアの目線に屈みこみ、悲しそうに彼女に言う。
「マリア……。お前の意志はとっても素晴らしい。<童話>を操る力も、兄や私に負けないぐらいの才能を持っている。
だけどね、マリア。私たちの使命は女性にはとてつもなく過酷で恐ろしいものなんだ。
昔お話しした、女の人のグリムアルムの事を覚えているかい?」
すっかり怯えた小動物のような目になるマリアは、父の問いに小さく頷いた。
「うん。私もね、マリアがそんな酷い目に合わないかって心配なんだよ。別に意地悪をしているわけじゃない。お前は本当に立派な才能を持っている。<童話>の居場所が正確に分かるだなんて、とっても大事な才能だ。ウィルヘルムなんか、ちょーっと体調を悪くしただけで、すぐに<童話>の居場所が分からなくなってしまう。私もそうだ」
ウィルヘルムはムッと悔しそうな顔をするが、すぐに「そうだよ! 僕はマリアと一緒じゃなきゃ!」と彼女の弁護に回ってくる。しかし父は、彼の弁護を聞き入れないようだった。
「<夏の庭と冬の庭>が何故お前たち二人の為に、わざわざ力を二つに分け与えたのかも、ずっと私は考えていた。<夏の庭と冬の庭>は二人一緒に次のご主人様になってもらいたいのではないかって。でも私はやっぱり、お前が可愛くって心配なのだ。もちろん、ウィルヘルムも大事な息子だが、私はお前を信じている。
別にグリムアルムにならずとも、兄と共に戦えるよ。ウィルヘルムに<童話>の知恵を分け与えるだけでは、だめなのか?」
駄目だという事は分かっていた。それでも一瞬、僅かな希望を持ってしまった。
マリアは苦しそうに小さく頷く。それでもウィルヘルムは頑なにその答えを拒絶する。
「お父様! マリアは僕が守るから! ねえ今、僕のことを信じているって言ったでしょ! だったらっ!!」
「お兄ちゃん、いいの……。マリアは大丈夫…………」 「でもっ!!」
振り向いて見たマリアの顔は、とっても辛そうにウィルヘルムの事を見つめていた。彼女が一言でも口を開けば、ボロボロと大粒の涙が溢れてしまいそうだ。
「大丈夫。お兄ちゃんに必要って言ってもらえただけでもマリアは嬉しい。
マリアも、お兄ちゃんの事、信じているけど……やっぱり、お父様が言った女の人のグリムアルムの事を思い出すと<童話>たちがとっても怖い」
「僕だって怖いよ! でも、マリアと一緒ならば全然怖くない」
きつく繋いだ小さな手と手。しかしマリアはこの手を離さなくてはいけないと、自然と心で感じていた。
本当はずっと握っていたいのだけれども、このまま繋いだままだと、今日見たあの、大人になるために前進する輝かしい兄の足を引っ張ってしまう。
「大丈夫だから……、お兄ちゃん。別にグリムアルムになれなくったって、<童話>たちやお兄ちゃんとはお別れじゃないって、お父様も言ったでしょ。
お兄ちゃんが……、また……、マリアの力が必要だって言ってくれれば、お兄ちゃんのお手伝い、マリア絶対するから……絶対、絶対するから、だからぁ…………」
ついに溢れ出たマリアの涙。ウィルヘルムは繋いでいた彼女の手をゆっくり離すと、マリアは両手で一生懸命自分の涙を拭い始める。
「マリア……、本当にグリムアルムにならないの?」
ウィルヘルムの寂しそうな声にマリアは答えない。聞こえるのは彼女のすすり泣く声ばかり。
今日がマリアと一緒にグリムアルムになれる最大のチャンスだというのに。しかし、泣いている彼女にこれ以上の無理強いはさせたくないと、ウィルヘルムは静かにその場は引き下がった。
だが、彼の野望はまだ途絶えてはいない。
父は、お前を信じていると言った。しかし、マリアをグリムアルムとして迎い入れないのは、自分のことを本当は頼りなく思っているからなのだ。
そう思ったウィルヘルムは、心から信用してもらうために、自分を厳しく鍛えぬいてやろうと心に深く決意した。そうすればマリアを安全に守りながら共に<童話>と戦うことができるし、父にも認められる立派な戦士になることもできる。
どんな厳しい修行や試練が待っていようとも、彼女のグリムアルムになりたいと言う夢を叶えるためならば、長い月日をかけてでも絶対にその夢を現実のものにしてみせよう。そうウィルヘルムは密かに心の内で熱く誓うのであった。
ウィルヘルムは一歩前に出て、父が差し出す白い栞を受け取った。
「お前たちが我が家の<守護童話>に大いに祝福され、その歳で栞を持たずとも、これほどの力を操れることを父は心の奥底から、本当に誇りに思っている。
でもね、いいかいウィルヘルム。これからはこの力を、助けを求める者達の為だけに使うんだ。今までみたいに、自分たちの欲望のために使う事など、決してあってはいけないよ。
マリアも聞いていなさい。<童話>に身を委ねても、己の心だけは決して委ねるな。決してな」
教会のステンドグラスに見守られながら、アルノルトは声高々に引継ぎの儀を始める。
「我、アルノルト・フェルベルトの名において、ウィルヘルム・フェルベルトを次の牧師のグリムアルムに任命する。汝、栞を用いて<童話>の名を呼びなさい」
「さあ<夏の庭と冬の庭>、僕についてくるんだ!」
ウィルヘルムは右手人差し指の先を小さく切って、滴る血を栞の上に垂らしていく。血の染みは大きく広がらず、吸い絞るかのように栞の中へと入っていった。すると、今度は栞の中から渦を巻くように、凍った風が吹き荒れた。まるでウィルヘルム自体を欲するかのように、栞へと吸い込む力が強くなる。熱い風と冷たい風とが交互に彼の体力を奪い、今までに感じたことのない強大な力に、ウィルヘルムは負けてしまいそうになっていた。
そんな彼の体を、マリアが堪え切れずに支えに来る。何の足しにもならない小さな力だが、ウィルヘルムはマリアの頑張りに応えるかのように、<童話>に強く命令した。
僕がお前のご主人様だ。僕の命令を大人しく聞け。と。
すると、<夏の庭と冬の庭>はウィルヘルムの命令を聞き入れて、栞の中へと収まっていった。
最後に吹いた冷たい風。その風が大気中の水蒸気を一瞬にして小さな氷晶に変えていき、氷晶はキラキラと光りを反射させてウィルヘルムの頭上に降り注ぐ。
こうしてフェルベルト家の五代目グリムアルム、ウィルヘルム・フェルベルトが誕生した。
* * *
外はようやく夕暮れ時を迎えていた。しかし今は夜の九時。兄妹たちは仲良くふかふかなベットの中に沈み込んでいる。
グリムアルムの引継ぎの儀を終えて、彼れらは屋敷に帰っていた。庭は変わらず夏と冬とで分かれている。
ウィルヘルムとマリアは白い栞を見つめながら今日の出来事を思い返していた。
誕生日会で成長の喜びを分かち合い、教会で一族を継ぐ意志を示して、心に大きな野望を抱いた。目まぐるしい一日であった。楽しい一日であった。
手に持っていた栞がだんだんと下へと降りていき、ウィルヘルムの瞼もおりていく。
今はすっかり瞼を閉じてしまった。
「お兄ちゃん……」
「ん?」
マリアが小さな声で兄を呼ぶ。しかし彼は目を開けずに生返事を返すだけ。
感情が激しく浮き沈みしたせいか、ウィルヘルムはすぐにでも深い眠りにつきそうだ。
「マリアを必要だって言ってくれて、ありがとう……」
「ん……」
返事というよりかは、喉を鳴らして出した声。しかしそれを聞いたマリアは満足そうにウィルヘルムの頭をやさしく撫でたり、額に軽くキスをする。そして彼女はひっそりと、ベットから一人起き上がり、長くて暗い廊下へと出ていった。
それからしばらくたつと、ウィルヘルムは自然と目を覚ましていた。パッチリと目が覚めた。というわけでなく、部屋の中の異様な蒸し暑さによって起こされた。
確かに真夏日の夜だから、暑いのは当たり前の事だろう。だが昼間のように……いや、それ以上に暑い夜だった。
嫌な暑さにウィルヘルムはボーっとした頭で起き上がる。この時、彼は隣で眠っているはずのマリアがいない事に気が付いた。
彼女も喉が渇いて、水を飲みに台所へと向かったのか。自分も喉が渇いたから水を飲みに行こう。と、眠気まなこをこすりながら廊下を出る。
しかし廊下に出てみると、先の部屋以上に蒸し暑い。それは正しく、植物園のような蒸し暑さ。しかも台所のある一階へと向かえば向かうほどに、屋敷の空気が暑くなる。
何か悪い予感がした。ウィルヘルムの歩く足取りは次第に早くなり、走って一番暑い場所へと向かっていた。
熱の根源と思える応接間にたどり着くと、彼の両親が二人そろって暖炉の前でしゃがんでいる。何をしているのだろう。そう疑問に思っていると、微かな声が二人の間から聞こえてきた。
熱い、熱いと囁く声に誘われて、ウィルヘルムは恐る恐る父の手元を覗き込む。そこには大量の汗を流しながら衰弱していく愛しいマリアの姿があった。
「マリア!」
驚いたウィルヘルムは彼女の名を叫び、両親の間に割って入った。
しかし、帰還してそのまま屋敷に泊まっていたルドルフが、台所から氷を詰めた袋を持ってくると、ウィルヘルムの体を跳ね飛ばし、急いでマリアの額に袋を当てる。
だが氷は空しくも、あっという間に溶けてしまい、ぬるい水に変わってしまった。
「マリア…………どうして?」
彼が不思議に思うのも無理はない。兄に呼ばれてようやくマリアは目を開き、彼にゆっくり話し出す。
「お兄ちゃん……。ごめんなさい…………。マリアね、やっぱりグリムアルムになりたかったの。でも、今のマリアは弱いから、お兄ちゃんの足を引っ張っちゃう……」
彼女の言葉にウィルヘルムは深く傷ついた。決してそんな事ないのに。彼女がそばにいるだけで、それだけで十分なのに彼女の焦りが、彼女の寿命を縮めてしまった。
「お兄ちゃんに追いつくように頑張れば、お父様も認めてくれると思ったの。だから、暖炉に火をつけてって<夏の庭>にお願いしたら、上手に暖炉に火がついたのよ。だけど、急に言うことを聞かなくなって…………」
マリアは咳き込み、苦しそうにゼーゼ―と音を立てながら息をする。ウィルヘルムは、彼女がこれ以上無理をしないことを願ったのだが、マリアは手に握っていた白い栞を「ごめんね」と言いながら彼の手の中にそっと返した。
「マリア、お前は強い子だ。しかし、<童話>を受け入れるにはまだ器が小さすぎたんだ。
もっとしっかりと訓練を積んで、器を大きくしていれば、<童話>同士の戦いでも、兄を援護するほどには強くなれただろう」
「そう……、マリアはあわてん坊さんだったのね」
マリアはニッコリと笑顔を作るも、どんどんと<童話>の力に押されてしまい、小さな体は弱っていく。
「お父様……、マリアを…………マリアを、どうか助けて下さい!」
その場にいた誰もが、かつてのグリムアルムに期待の眼差しを向けていた。しかし悲しい事に、アルノルトの重い口が悔しそうに開かれる。
「それは無理だ。この<童話>の力はあまりにも強大過ぎて、私も最後まで完璧に操る事が出来なかった。その証拠があの庭だ。
溢れた力は庭に注がれ、上手くバランスを保っていた。しかし今のマリアはその庭に注がれていた分の力も引き出してしまい、<童話>に完全に憑りつかれてしまっている」
その彼の言葉の通り、屋敷の庭は全て真っ新な雪に覆われていた。いつもなら雪の降らない夏の庭にも雪が深々と降っており、若い緑の葉の上に白い雪が積もる奇妙な光景ができていた。
「今、栞に残っている<冬の庭>を操ったところで、力を完全に取り戻した<夏の庭>を封封じ込むことは出来ないだろう」
「それでは一体どうすれば……、どうすればマリアを助けることが出来るのですか?」
父は固く口を閉ざしている。それは絶望的な状況なのだと、その場の皆が気づいてしまった。
きっと彼にグリムアルムの栞を戻したところで、<夏の庭>を封印することは不可能なのだろう。目の前で苦しむ幼い娘を、助けられない歯がゆさに、誰もが苦しみ悲しんだ。
「お前のせいだ。ウィルヘルム……」
突如、ルドルフが可笑しなことを口走る。
「お前がマリアに自慢したんだろ? なあ、そうだろ!」
ルドルフはウィルヘルムの胸倉を掴んで、彼をマリアのそばから引きずり離した。
「止めて! ルドルフ!」 「イルゼさんは黙っててくれ!」
ルドルフは声を荒げてウィルヘルムを責め立てるが、決して本心でそう言っているわけではなかった。ウィルヘルムを睨む目つきは不安でガタガタと泳いでいる。
彼はとにかくこの受け止めがたい現状に何かしらの理由をつけて、その理由をこの場から排除したかったのだ。しかし相手がまずかった。大人の仲間入りをしたばかりのウィルヘルムに、その役はあまりにも重すぎた。
「違う……。僕は……」
「いいや、ウィルヘルム。お前のせいだ! お前のせいでマリアが今、苦しんでいるんだ」
「し……知らない。どうしてそんなこと……。僕がマリアを……、なっ、何でこんなことに」
「今マリアが言っただろ! マリアはグリムアルムになりたかったんだ!
それなのにお前が無神経に、マリアに栞を自慢するから……」 「離してルドルフ!!」
怯える我が子を助けるために、イルゼはルドルフの手からウィルヘルムを引き離した。
母の胸に抱かれたウィルヘルムは、茫然とマリアの姿を見つめている。
彼女は一生懸命に息をしているが、それがあまりにも苦しそうで、とっても可哀想に見えてしまった。
「僕の……、僕のせいなの?」
僕のせいでマリアは苦しんでいるの?
僕がグリムアルムにならなければ、マリアはこんなつらい思いをしなくて済んだの?
混乱するウィルヘルムは母の腕の中、意味も分からず固まってしまった。
「お兄ちゃん……」
微かな声が兄を呼ぶ。しかし兄は動かない。
「お兄ちゃん……お庭さんを……怒っちゃ…………嫌だよ?」
マリアはこの期に及んで<童話>の事を心配をしていた。失いかけた意識の中、彼女はルドルフとウィルヘルムとのやり取りをうまく聞いてはいなかったようだ。
しかし今のウィルヘルムには、正直その言葉の意味が分からなかった。
自分のせいでマリアが死にかけているのだと、そう責め立てられたばかりだというのに、なぜ彼女は<童話>の事を心配する。
「お父様も、お母様も…………狼おじさまも、お庭さんを怒らないで……。お庭さんはマリアのワガママに付き合っただけ。わざとじゃないの。マリアのせいなの……」
虚ろな瞳が天井を見つめている。母は娘の最後を見まいと目をそらし、ルドルフは目頭を赤く染めて、マリアの小さな手のひらを強く握りに行った。
「お兄ちゃん……」
彼女は優しくにっこり笑った。その笑顔がウィルヘルムには、この世のどんなものよりも恐ろしく思えた。
なぜマリアは死の瀬戸際に笑っている。
彼女は自分を赦すのか。それとも怯える自分をバカにして嘲笑っているのか。
この世で最も恐ろしいものは、意味の分からない微笑みだと思う。しかし幸いにも、ウィルヘルムは彼女の微笑みの意味を知ることが出来た。
彼女は最後の息を吐くと同時に、彼に最後の言葉を送る。
「大好き……」
そしてマリアは深い眠りについた。長くて遠い眠りの中へ。
<夏の庭と冬の庭>は、また元の一つの力を取り戻し、栞の中へと帰って行った。
屋敷の庭は一面銀世界となっていたのだが、その上には小さな花々が、露を流して静かに咲いた。