007<夏の庭と冬の庭> ― Ⅱ
「お母様がね、大人しくお留守番しててねって言ってたよ」
「これは特別だ。ウィルヘルムの為だからね」
そう言って二人はアイスクリームを食べながら、ぶらぶらと下り道を歩いていた。
緑豊かなワインの街。山の傾斜に連なるぶどう畑は夏の日差しをたっぷり浴びて、気持ちよさそうに揺らいでいる。堅苦しい都会と違って、川風が吹き通るほどに開けた町なのだが、それでも暑いものはやっぱり暑い。
そもそもこんな真夏日に外出する方がおかしい。いつもは真昼間からワインを浴びるようにして飲んでいる陽気なおじさん達も、今日はお家でお昼寝をかましているらしい。観光客と思われる人が一人、二人とワイン横丁を通り過ぎるだけで、観光地にしてはとっても寂しかった。
二人も涼しそうなお店に入っては次のお店に入ってを繰り返し、暑さと戦いながらウィルヘルムへの誕生日プレゼントを探し回っている。時折、父のどうでもいい買い物や、マリアのお菓子探索も混ざってしまったが、結局彼女の納得する特別なプレゼントは何処にも見つからなかったのだった。
悔しそうな顔をするマリアをよそに、父は額に流れる汗を一生懸命ハンカチで拭っている。長時間歩き続けて、すっかり太陽の日差しにバテてしまったようだ。ついでにと買った分厚い本や新作のお菓子も、彼の体力を削っていた。彼は何とかして屋敷に帰ろうと、マリアを優しく説得し始める。
「もう母さまも帰っている頃だろう。そろそろお家に帰ろうか。大丈夫、明日こそ特別なプレゼントは見つかるよ」
根拠のない父の励ましにマリアは小さく頷いた。しかし彼女の口はへの字に曲がっており、心の底では納得していない様子。アルノルトは荷物を片手にまとめると、もう片方の手でマリアの小さな手を取った。
帰り道はたいした木陰もない真っ直ぐな一本道。しかし、そこそこ傾斜のある坂道が二人の体力を奪っていく。マリアは弱音も吐かずに、急ぐ父の足を引っ張らないようにと懸命に足を動かした。その努力のお陰か、いつもよりも早くに教会の壁が見えてきた。あと少しで涼しいお家にたどり着く。マリアは家に着いたら冬の庭に寝転ぶことを目標に、ラストスパートをかけたのだった。
しかし、あと少しの所。教会前の広場にある老舗のお花屋さんが「あら、フェルベルトさん」と二人の足を止めてしまった。
花屋のおばさんは毎週、教会に立派なお花を届ける律儀な人だ。無視して帰るわけにもいかない。
「こんな真夏日にお散歩だなんて、フェルベルトさんも物好きね」
「いやぁ、今度うちの息子が十歳の誕生日なもんで、娘と誕生日プレゼントを探していたんです」
人見知りのマリアは父の陰にサッと隠れようとしたのだが、父に背中を押されて花屋のおばさんの前に差し出されてしまう。何処に視線を合わせればいいのか分からないマリアは、とりあえず店先に並ぶ花を一つ一つ眺めようとした。しかし丁度、花屋のおばさんは店先の花を猛暑から守るため、店の奥に花をしまい込んでいる最中であった。外に置いてある花の数は少なく、あっという間に見終わってしまった。
「お嬢ちゃん、何か気に入ったものはあったかい?」
しわくちゃの笑顔が優しくマリアの顔を覗いてくる。驚いたマリアは一歩後ずさろうとしたのだが、未だに背後は固められている。オドオドするマリアを、父と花屋のおばさんは期待の眼差しで見つめていた。
笑いかけてくれたお花屋さんに、何か良い答えを出さなくっちゃ。
焦りだしたマリアはもう一度、店先の花をじっくり吟味した。どれがいいか、何がいいか。だけども、どれもイマイチと答えは先に出てしまっている。次第に混乱していく頭の中、泣き出したいのを堪えて、マリアは一輪の花を指さした。
「これにする!!」
たまたま視界の隅に映った鮮やかな赤い花。何の花かも分からず選んでしまったが、本当にこれでよかったのか。堂々と「これ」と言ってしまったから、もう引き返す事もできないと、マリアは瞳を震わせて、不安と後悔に押しつぶされそうになっていた。
しかし、それを見た花屋のおばさんは「お目が高い!」と彼女の選択を称賛した。
「丁度、今日の朝に仕入れたんですよ! 真っ赤なひまわり! 素敵でしょ?」
花屋に言われえてようやく気が付いたのだが、よく見るとその赤い花は立派な大輪のひまわりだった。ひまわりは黄色いものだと思っていたマリアは目を輝かせて感動する。
「凄い! 真っ赤なひまわり! 珍しい!」
すっかり大喜びするマリアの笑顔に、父も嬉しそうに頷いた。
「それじゃあこのひまわりにしよう。ウィルヘルムの誕生日まで預かってもらえませんかね」
そう言って父は花屋に代金を先払いし、誕生日の日に花を届けてもらうようにと予約した。そんな大人のやり取りをよそに、マリアは赤いひまわりをニコニコとじっくり眺めている。そして大喜びする兄の姿を想像して、一人楽しく笑っていた。
そして迎えたウィルヘルムの十歳の誕生日、当日。
ウィルヘルムは前の日に作っておいたスポンジケーキを冷蔵庫から取り出すと、自分の感性に任せて生クリームを大胆に盛りつけた。パーティー会場も彼のイメージ通りに飾り付けられており、窓の外にはちゃんと夏の庭と冬の庭が見えている。今日も倒れてしまいそうなほどの猛暑日だが、冬の庭は相変わらず深々と雪が降っていた。
これでいつお客様が来ても万全なお出迎えをする準備は整った。満足そうに冬の庭を眺めるウィルヘルムの耳に、玄関チャイムが鳴る音が響いてきた。
「イルゼさん、本日はお招きありがとうございます」
ウィルヘルムの母、イルゼが玄関扉を開けると、そこには大きな花束を持ったルドルフがニッコリ笑って立っていた。
「いいえ、こちらこそ。いつも新鮮なお肉をありがとう。とても美味しいお肉だから、今日のパーティーにも少し使わせてもらったわ」
花束を受け取るイルゼの背後から、鉄砲玉のように子供たちが駆けてきた。
「叔父さん!」
「狼おじさま!」
兄妹は大好きな叔父に飛びつくと、笑顔で彼の来訪を歓迎する。
「よう、ウィルヘルム。誕生日おめでとう! お前もまた一つ年を喰ったな。マリアも、随分と素敵なフロイラインになったもんだ」
ルドルフは二人の頭をゴシゴシと撫でてやって、満足そうに笑っている。
この時の彼はまだ、ウィルヘルムに対して特別な憎悪を持っているわけではないようだ。
「ほら、お前たちにお土産だ」と言って、鳥と魚の絵が描いてある手持ちキャンディーを取り出した。
「喧嘩しないで好きな方を選びなさい」
ルドルフは念のためにと二人に忠告するが、それは必要なかったようだ。ウィルヘルムが「こっちちょうだい!」と鳥の飴を選ぶと、マリアが「あっ……じゃあ、マリアはこっち」と控えめに魚の飴を取って行く。
二人は円盤状の飴に描いてある鳥と魚のイラストを嬉しそうに見つめると、飴を振り回しながらパーティー会場へと走って行った。
「叔父さん早く来てよ!」
先を行くウィルヘルムをルドルフは優しい眼差しで見送った。しかしその後を追うマリアを、彼は小さな声で呼び止めた。不安そうな顔をするマリアに、ルドルフは膝をついてもう一本、鞄からキャンディーを取り出した。
「マリア。これ、ウィルヘルムには内緒だよ?」
それはウィルヘルムが持っていった鳥のキャンディーの色違いであった。
「わぁ! ピンクの小鳥さんだ! 可愛い……。狼おじさま、ありがとう」
満面な笑みでルドルフに笑いかけ、軽く彼の頭を抱きしめる。マリアは急いで兄のもとへと駆けて行ったのだが、そのあまりにも可愛いらしい姪っ子の行動に、ルドルフはたまらず一人で悶えていた。
「ウィルヘルム、お誕生日おめでとう!!」
何の合図もなく自然と始まったウィルヘルムの誕生日会。
彼の友達や父と母の古い仲間たち、近所のお世話になっているおじさんおばさん。などなど、招待状を送った人、誰一人欠ける事無くウィルヘルムの元へと集まった。ウィルヘルムも満足そうに鼻の穴を広げ、来客たちにご自慢の手料理を振舞っている。
「ウィル、誕生日おめでとう! ほれ、プレゼント!」
「なんだよこれ? シュネッケングミかよ! ありがとう!」
それは包装もされていない、スーパーに売っているままの姿で手渡されたタイヤグミ。小さなお菓子バケツいっぱいに詰められたタイヤグミを、ウィルヘルムは嬉しそうに一つ手に取った。そしておいしそうに食べると、プレゼントしてくれた友人たちにもそのグミをすすめていく。
この誕生日会は、主催者であるウィルヘルムが、無事、皆さまのお陰でこれだけ立派に成長しました。と、報告する為のものなので、特にウィルヘルムはプレゼントを欲しがってはいなかった。しかし彼の誕生日を祝いたい人は沢山いるようで、来客一人一人に挨拶回りをしている最中にも、彼は本や花など色んなプレゼントを貰っていた。
期待していなかった分、プレゼントは貰えるととっても嬉しい物。ウィルヘルムは頬を赤く染めて皆にありがとうと言って回った。
そんな彼に熱い視線を送る少女が一人、後ろの方で佇んでいる。そう、それはやっぱりマリアであった。
彼女はまだ特別のプレゼントを手に持っておらず、花屋のおばさんが来るのをずっと落ち着きなく待っている。しかしその間にもウィルヘルムの両腕を、彼を祝う誕生日プレゼントが次々に埋めていく。焦りで泣き出したくなった頃、父アルノルトがマリアを呼びにやってきた。
「玄関に花屋のおばさんがやってきているよ」
それを聞いたマリアは急いで部屋からとび出すと、玄関の前に立つ花屋のおばさんの元へと駆けて行った。
おばさんは「お待たせ」と言ってマリアに例の花を差し出した。しかしマリアは感謝の言葉を言い忘れるほどに焦っており、おばさんから鉢植えを受け取ると、急いで兄のもとへと戻って行く。その姿にアルノルトは困ったように笑い、おばさんに娘の失礼を詫びると、彼女もウィルヘルムの誕生日会へと招待した。
鉢植えを抱きかかえたマリアは急いで兄の姿を探していた。すると両親の友人たちに囲まれて、楽しそうに団らんするウィルヘルムの後姿を発見した。
「お兄ちゃん!!」
つい大きな声で呼びかけてしまった。呼ばれたウィルヘルムは笑顔のままマリアの方に振り向いた。
大好きな兄の笑顔を見たマリアは、急に緊張してしまい、ピーンっと体を強張らせる。
「どうしたマリア、楽しんでる? ケーキ食べた? マリアの大好きなアプフェルシュトゥルーデルも作ったんだよ」
興奮する兄にマリアは息を飲み込んで、抱きしめていた鉢植えを勢いよく彼に差し出した。
「お兄ちゃん……お誕生日…………おめでとう」
可愛らしいリボンで結ばれた鉢の中には、真っ赤なヒマワリが一輪だけ立派に咲いている。
しかしそれに負けないほど、マリアの顔も真っ赤に染まっていた。気に入ってもらえなかったらどうしよう。愛想笑いされたらどうしよう。今度はそんな不安ばかりがマリアの心に迫ってくる。
周りにいたおば様たちは「まあ真っ赤なひまわり」「綺麗だわね。どこで見つけたの?」「よかったわね。ウィルヘルム」と感心して彼女のプレゼントを褒めちぎるが、肝心のウィルヘルムの反応がよくなくては、このプレゼントは大失敗だ。
彼の顔を不安いっぱいの眼差しで見つめているマリア。はたして彼の反応は……。
「マリア…………ありがとう! すっごく立派なひまわりだね。入り口に飾ってもいい?」
「うん……………………いいよ?」
「ありがとう! それじゃあ飾ってくるね!」
どうやら彼はとても喜んでいるようだ。
ウィルヘルムは色んな人から貰ったプレゼントを一度机の上に置き、マリアの手からひまわりを受け取ると、急いで入口の、他の来客から貰った花束と一緒の列にその真っ赤なひまわりを並べて来た。
他のお客さんたちも、面白いひまわりがある。と言ってマリアのひまわりを眺めていく。
これはマリアの狙った通りのサプライズ。の、はずなのだが、彼女はちょっと不満そうな顔をしていた。
それもそうだ。彼女の求めていた反応とウィルヘルムが見せた反応。それは天と地ほどの差があった。彼女が思い描いた彼の反応はこうだ。
「すっごい! 凄いぞマリア! 綺麗で、カッコよくって、特別なひまわりだ!
真っ赤なひまわりなんて見たことないぞ! こんな特別な花を見つけて僕にくれるだなんて、さすが僕の自慢の妹だ! おーい、みんな見てくれ! この美しい赤い太陽をくれたのは誰だと思う? 僕の愛する妹さ!」
…………といった感じだ。
少しばかり大袈裟に盛っているようにも思えるが、大体こんな事を考えていた。無邪気に喜ぶウィルヘルムを、マリアはひっそり求めていた。
しかし実際の反応は随分とさっぱりとしたもので、その理想と現実に挟まれた八歳の少女は、悲しそうにふてくされてしまうのであった。
マリアは寂しさを紛らわそうと、彼に勧められたアプフェルシュトゥルーデルを取りに行く。
ウィルヘルムはまた、両親の友人たちの元へと戻って行き、途中で切り上げてしまった会話を楽しそうに続けていた。ウィルヘルムの友人たちは、食事を終えると、冬の庭へと駆けだして真夏日の雪合戦を楽しんでいる。それを遠く離れた所から一人ぽつんと眺めていたマリアは、彼らの違いに驚いた。ウィルヘルムと、彼の友人たちは同じ歳のはずなのに、ウィルヘルムの方が一回りも、二回りも大きく立派に映っている。
これが大人になるという事か。
―― 一人立ちの準備をしているんだよ。
っと言う父の言葉を思い出し、静かにあたりを見渡した。
お客さんの顔を見れば、誰もがみんな笑顔であった。それはウィルヘルムが計画した誕生日会がそれほど素晴らしいものである。という事を証明してくれている。
彼の作ったご馳走も殆ど無くなっており、部屋の飾りつけも、部屋に入ってきたお客さんはみんな揃って感心した声を漏らしていた。そして彼への誕生日プレゼントも、何も置いてなかった机の上が、沢山の花で埋め尽くされている。
ウィルヘルムは正しく大人になるための成長を、一歩成功させたのであった。それにマリアは強く感動し、これからも前進していく兄の姿を強く応援したくなった。
マリアは兄の作ったお手製アプフェルシュトゥルーデルを一口食べて、よく味わおうと、何度も何度も噛みしめた。そのパイはとっても甘くって、おいしくて…………本当は、ほとんど母の手によって作られたケーキなのだが、それでもマリアの心の中には兄の偉大なる成長を称える感情と、小さな不安がつのっていた。
成長する彼を誇りに思うし、今まで見てきたどのウィルヘルムよりも輝いていて、一番大好きになっていた。しかし……しかし、成長する兄の姿が、何故だか遠くに感じていた。
そのまま彼が遠く離れて行ってしまうのではないか。
置いてけぼりにされてしまうのではないか。
だけど、彼を止めるようなことを決して自分はしたくない。
来客の楽しそうな団らんの中、小さな少女は心の中に深い悲しみを、どんどんと大きく膨らませていくのであった。