006<腕のいい猟師> ― Ⅳ
路地裏の狭い階段を上るルドルフは、とても生き生きとした顔をしており、お気に入りのオペラなんぞを口ずさんでいる。
「狩りに勝る楽しみはあるか? 命高ぶるこの喜び」
――ゴトンッ
彼の背後から何か物が落ちる音がした。その音に反応して後ろを振り向くが、誰もいない。
「角笛響き 駆ける草原」
彼は悔しがる素振りも見せずに、そのままオペラを歌い続ける。そして分かっていたかのように余裕な顔をして階段を見上げると、猟銃を構えた。
「獲物 捉え」
スッと階段の上に横切る小さな影。
「引き金 引く」
歌が終わると同時に彼は引き金を引いた。するとその銃弾は見事<童話>の足を打ち抜いた。これには<童話>もバランスを崩して石畳の上に倒れ込む。
ルドルフは満足げにフフンと笑うと、獲物の元へと駆け上った。しかし<童話>も諦めてはいない。彼女は急いで立ち上がると、さらに坂の上へと逃げていった。
「まだまだ遊び足りないのか……。俺もだよ」
共感したくもない彼の喜びに、<童話>は応えるかのようにまだまだ坂を駆けのぼる。そしてもう一度路地の中へと飛び込んで、ルドルフをあるところへと導いた。
彼もその事に気が付いてはいたのだが、あえてその作戦にのっていた。その方が面白そうだから。という単純な理由で。
建物の隙間を抜けると、人気のない雑木林にたどり着く。坂は緩くなり、高台の頂上付近に来たのだとうかがえられる。そしてそのまま駆けて行くと、少し開けた場所に出てきた。先には古城の城壁が重々しく建ち並んでいるのがよく見える。
「そういえば、あの<鹿>を見つけたのもこんな雑木林の中だったなぁ……。
ピーピー、ピーピーうるさくってさぁ、近所迷惑ったらありゃしない」
<童話>の動きが一瞬鈍る。しかしそれでも彼女は、金の鎖を鉤縄のように使って難なくと城壁を飛び越えた。
ルドルフは焦らずにゆっくりと壁の前まで歩いてくると、辺りを軽く見渡した。少し離れた所に小さな見張番の塔がある。この塔を通って行けば簡単に城壁を越えられそうだ。入口の扉はとっくの昔に朽ちており、あっという間に侵入することができてしまった。
<童話>に鉛玉を撃ち込む瞬間を想像しながら、マガジンに新しい弾を込めていく。込められた弾丸はルドルフに仕えている<童話・腕のいい猟師>の力を授かり、不気味に緑色の光を放っていた。
「あの時、あの<鹿>を俺が仕留めていれば、お前らも仲良く兄弟ごっこを続けられたのになぁ! 迷惑な<童話>だったよなぁ!」
挑発するように<童話>に話しかけるが返事がない。もう次の場所に逃げてしまったのか? しかし慌てる必要はない。これ以上<童話>が逃げ込むような場所は何処にもないとルドルフは知っていた。
確か、この壁の向こう側は古城の大きな倉庫の裏側になっていたはず。挟まれた道なりを進んでいけば、どうしても障害物が何もない、見通しのいい庭園に出てしまう。その中を走って逃げているようであれば、たやすく撃ち抜くことができるだろう。
ついに追い詰めたと自分の勝利を確信し、にやけるルドルフは銃を構えて勢いよく塔の中から飛び出した。しかし彼の想像した勝利など、<野良童話>のようなおつむのない相手にしか通用しない妄想。
「なぁ……そうこなくっちゃねぇ。張り合いがないってもんだよ」
一筋の汗を垂らしながら、ルドルフは強がりをぼそりと言う。
彼の目の前には何十本もの金の鎖が、くもの巣のように張り巡らされていた。まるで檻の中に閉じ込められてしまったようだ。ルドルフが侵入してきた入り口も、他に逃げ込めそうな古い道も、金の鎖がすぐに封鎖してしまい隠れて作戦を考える場所など、もうどこにも無くなってしまった。
そして、彼の前に張られた金の鎖の上には、もう逃げも隠れもしない、幼い少女の姿をした恐ろしい<化け物>が、復讐の暗い炎をその目に宿して、ルドルフの事を見下ろしていた。
桐子とウィルヘルムは思い通りに動かない足を引きずりながら、マリアたちの気配を探って少しづつ彼らの後を追っていた。
銃声が響く方へと二人は振り向き、<童話>の匂いを感じたウィルヘルムが桐子に「こっちだ」と指示を出す。桐子は言われた通りにウィルヘルムの体を案じながら、人目を避けて狭い道を上っていった。
「さっきはすぐに助けに行けなくって、ごめんなさい」
「お前が来たところで何の役に立つ? 余計な足手まといになるだけだから来なくてよかった」
彼の言葉は最もだった。自分なんて彼らのお荷物でしかない。それでも何かしらの役には立ちたかった。二人は口数少なく坂道をのぼり、マリアたちとは違うルートで高台の頂上へとたどり着く。
主を失い廃墟同然の古い城。今は高台の上という素晴らしい立地を利用して、町を一望する観光スポットになっていた。もちろん桐子もこの古城は初めの頃に観光した。だが今日は閉館日のようで、桐子とウィルヘルム以外の人影はどこにもいない。
しかしウィルヘルムには<童話>の力が城の方からひしひしと伝わってくるようだ。彼は桐子の腕から離れると、チケット売り場の柵にしがみつく。
「もうここまででいい。お前はハンスを呼んでこい。そしたらそのまま寮に帰れ」
思いがけないウィルヘルムの言葉に桐子は悲しそうな顔をする。
「どうして? ハンスさんを呼んでくるのは賛成だけど、一人だけ帰るなんてこと、できないよ」
なにせ今のウィルヘルムは柵につかまってようやく立っていられる状態だ。このまま彼を置いてけば、糸が切れた操り人形のように崩れ倒れてしまうだろう。そんな彼をほって帰れるわけがない。
「さっさと帰らないと反省文書かされるんだろ?」
「マリアがピンチだっていうのに、そんな事のために帰れっていうの?! どんだけあんたの中の私はバカなのよ! 私もマリアを助けたい!」
「これはグリムアルムの問題だ! 部外者が黙ってろ!!」
「私はマリアの友達だ!! マリアが好きなのはウィルだけじゃない!」
珍しく声を張る桐子に、ウィルヘルムは驚いて口をつむった。そして短い沈黙のうち、桐子が少しずつマリアへの思いを語りだす。
「マリアってさ……目が真ん丸くって、可愛いリンゴのほっぺたで、いつも<童話>やみんなのことを思ってくれる優しい子でさ、今みたいに私たちが喧嘩しても笑ってごまかしてくれるよね」
懐かしい日々を思い出すように、寂しい笑顔で桐子は語る。しかしウィルヘルムは苦しそうに眉を細めていた。
「桐子ちゃん、桐子ちゃんってさ人懐っこくって……ちょっと我慢ができなくって、わがままで、おてんばが過ぎる時があるけれど、だけど……私と違ってちゃんと自分の言葉を言える強い意志を持った……」「違うっ!!」
違う……。確かに彼はそう言った。愛する妹を、彼は否定した。
桐子は驚きウィルヘルムを見るも、彼もまた、自分の言葉に驚いていた。瞳を小刻みに震わせながら、口を小さく開けている。
「ウィル……?」
動かぬ彼を心配し、肩に手をかけようとしたのだが、遠くの方でドンッという大きな物が落ちた音が聞こえてくると、ウィルヘルムは顔を青くして古城の方に目をやった。
柵から離れて自分の足で歩いて行こうとしていたが、思った通り、彼は膝から地面に崩れ落ちてしまう。しかし桐子が急いで彼の体をつかんだので、完全に倒れることはなかった。
二人は不安な色を浮かべながらも、決意した瞳で見つめ合う。そして互いに協力し、柵を越えると古城の公園へと侵入した。
綺麗に掃除された白い砂利道を歩き、古城前に広がる小さな庭園に近づいた。すると桐子の耳にもはっきりと聞こえるほどに、金属同士がぶつかり合う音が響いてくる。
「おい、あそこの建物の横を曲がってくれ」
彼が指した先は古城の一番隅にある立ち入り禁止区域の倉庫であった。観光客どころか関係者すらも近づかせない薄暗い雰囲気を漂わせているのだが、確かにそこから争い合う音が聞こえてくる。
彼らに怖気付く暇などない。迷いなく城壁と倉庫に挟まれた通路の中へと入ろうとするが、彼らの目の前には数本の金の鎖が、二人の侵入を拒んでいた。
「マリア! そこにいるのか!」
返事は来ない。だがよく見ると奥の方でルドルフと少女が戦い合っている姿が確認できた。
鎖のせいでうまく銃を構えることができなくなったルドルフは、ベルトで猟銃を肩から腰に吊るし下げ、かわりに湾曲した片刃の短剣を握っている。だがその剣の刃も髄分とボロボロになっていた。
<童話>は手加減を知らない子供のように容赦なくルドルフを攻撃する。そこらに転がっていた瓦礫を見つけると、鎖を使って彼に向かって投げ飛ばした。ルドルフがそれを避けて反撃に出ようともすれば、彼女は倉庫の壁から城壁までを繋いでいる無数の鎖の上に飛び乗って、右往左往に駆け回る。そして不気味な歌を歌って彼を肉体的にも、精神的にも追い詰めていくのであった。
「母さん、僕を殺したの……」
「おいおい、マジかよ」
驚くルドルフは慌てることなく短剣で金の鎖を断ち切った。しかしいくら鎖を切っても、また新しい鎖が建物や地面から生えるように現れて、彼女の道を繋げていく。
「父さん、僕のお肉を食べた……」
彼女の鳥が光の輪から石臼を作り出すと、ルドルフの背後にある城壁目掛けて突き落とした。
粉々になった城壁の破片が、かつて見た路地裏での戦いのように、ルドルフの背中に突き刺さる。大きく開いた城壁の穴も、金の鎖がすかさず道を塞ぎにかかった。
「くっそ強いなぁ。場所が悪いんだよ場所が。失敗したな」
<童話>にまんまと誘導されて、彼お得意の高い位置からの狙撃が縛られたっていうのに、ルドルフはまだ楽しそうに剣を振るっていた。
突如、彼の頭上にいた<童話>が金の鎖から飛び降りると、その勢いに任せてかかと落としをきめにきた。しかしそれに気が付いたルドルフは、紙一重に彼女の攻撃をかわして、叩きつけるように短剣を振り下ろす。
「ッツ……!! 妹のマルレーンちゃんが……僕の骨を残らず拾って ネズの下」
それでも彼女は歌うのをやめない。一気にルドルフから距離を取ると、子供らしくない、冷たい表情をして彼を見る。
彼女の姿は目を覆いたくなるほどに傷だらけになっていた。銃弾を受けた跡が何発も刻まれており、無数の切り傷がウィルヘルムの心を大きく悲しみに突き落とす。
「キウィット! 僕はなんて綺麗な鳥なんだ!!」
高く突き上げられた少女の両腕の先には、力強く羽ばたく真っ白い鳥が『キーウィット!』と怒鳴るように叫んでいた。すると、今までに見たこともないほどの大きな光の輪が、彼らの頭上に輝きだす。
「頼む! もうやめてくれ!! 俺が悪かった。
俺が……俺のわがままで……、もうお前が傷つくところを見たくない!」
桐子の肩を離れ、ウィルヘルムは金の鎖にしがみつく。そして鎖を潜ると、気力だけで彼らの元へと歩いて行った。桐子は急いで彼を助けようと腕を伸ばしたが、振り払われて邪険に扱われてしまった。
「叔父さん! 頼むから、その子は逃がしてくれ!
俺はどうなってもいい。フェルベルトの名前なんて、家を出た時に捨てたんだ!
白い栞も叔父さんにあげるから! だから……だから、もうマリアを……これ以上……もう、傷つけないでくれ……」
か細くなっていく彼の声に、桐子も堪えてきた涙をぽろぽろとこぼしていた。
彼女の知りえなかったウィルヘルムの最も弱くて傷ついた姿。彼は今までマリアと自分が<童話>と絡むことを極力拒み続けていた。それが妹を<童話>の手から守る最良の策だと信じていたから。しかし<童話>である彼女にかけられたグリムアルムの呪いが簡単に解けるはずもない。
いつか必ずこの惨劇が来ることを、五年前の彼が分かっていただろうか。おそらく分かってはいなかった。五年前、十歳のウィルヘルムには禁句よりも妹の死の方が恐ろしかったのだ。そのツケがただ今日来ただけ。
力を蓄えどんどんと大きくなっていく光の輪と、ボロボロで頼りない銀の短剣。
おそらくこの一撃で決着がつくのだろう。そんな張りつめた空気が彼らの間に流れていた。
桐子も彼らを止めなくてはと、鎖の間を潜って行く。たとえお荷物だと言われても、ここで動かなくてはこの先ずっと後悔する。と、そう思ったら自然と体が動いていた。
ウィルヘルムはもう少しの所までマリアの背後に近づいていた。しかしほんのわずか、あと鎖一本分潜れば彼女に触れられるというのに、足の力が抜けてしまい、前のめりに倒れてしまう。
「動け! 動けよ、この野郎!」
自分に喝を入れて地面に足を踏ん張らせる。膝は激しく震え、体中に走る激痛で何度もむせ返ってしまったが、それでも彼は何とか立ち上がり、最後の鎖に手をかけた。その時だ、ルドルフは右手に持っていた短剣を<童話>の前に投げ捨てた。と思ったら、次には猟銃の引き金に指をかけ、あらぬ方向に弾を撃つ。
短剣に目を奪われていた<童話>もその銃声に驚き、すぐさま光の輪を、石臼にも変えずにルドルフの頭上に突き落とそうと、高く上げた両腕を振り下ろした。
「やめろーーーー!!」
ウィルヘルムの悲鳴にも似た叫びが辺りに響く。しかしその結末は思いもよらない侵入者の手によって、幕を下ろした。
ぽーんっ……と、跳ねる金の毬。
いや、それは金の毬ではなくマリアの小さな頭であった。二つに結わいた金の髪が、リボンのようになびいている。
「にぃ……さん……」
最後に漏れた少女の声。
彼女の瞳には、魔弾を受けて崩れ落ちる白くって美しい鳥の姿が映っていた。しかしその鳥が消えてしまう前に、彼女の瞳にゆっくりと瞼が下りてくる。
ルドルフも左腰から右肩までを一文字で斬りつけられて、背中からその場に倒れてしまった。全て一瞬の出来事であった。
「マ……マリア……」
ウィルヘルムの瞳の色は悲しみを通り越し、絶望の色に染まっていた。
光の輪はガラスのように砕け散り、道を塞いでいた金の鎖も粉々に砕けて、まるで黄金の雨のように降り注いでいた。
ふらふらと駆け寄り、弾け飛んだ妹の頭を抱きしめようと手を伸ばす。しかし指先が触れる前に<童話>は力尽きて、真っ新な紙の束に変わってしまった。
風にあおられ宙に舞う。その束に守られていたかのようにマリアの頭蓋骨がひっそりと顔をのぞかせた。所々ヒビが入った、歪んで汚い小さな骨。他にも白い欠片がいくつも散らばっているのだが、どれがどこの骨なのか分からないほどに砕けていた。
ウィルヘルムは優しく、震える手で彼女の骸を拾い上げると大切そうに抱きしめる。
「ウィル!」
黄金の雨の中、急いでウィルヘルムの元へと駆け寄る桐子。
しかし彼女はその先に見たくもないものを見てしまった。この争いを止めた侵入者。背後からマリアの首を切り落とした卑怯者のクラウンの姿を……。
<つづく>