006<腕のいい猟師> ― Ⅰ
――こうしてお兄さんと妹は、死ぬまで一緒に幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。
小部屋にある細長いベッドの上に、二人の少女が並んで絵本を読んでいる。
一人は学校からの帰りなのか、学生服を着ている三つ編みの少女。
もう一人は金色の髪を二つに結んだ真っ白いスカートの幼い少女。
「またこうして兄妹二人で本に戻れてよかったね」
読み終えた童話の表紙を見るとそこには[兄と妹]というタイトルが書かれてあった。
この絵本は何の変哲もない、そこらの本屋さんで売っている児童向けの絵本だ。しかし彼女らは昨夜、本物の<童話・兄と妹>に出会い、言葉を交わして触れ合った。
童話のキャラクターと会話ができるだなんて不思議な話なのだが、それは彼女たちの知り合いであるハンスが管理する赤い本の<グリム童話集>に収められた<童話>たちだからこそできる事なのだ。
この<童話>というのは、戦争や疫病などといった厄災を人々にまき散らし、不幸を楽しむとんでもない奴らである。
グリム兄弟はそんな悪しき者たちを<童話集>の中へとまとめて封印したのだが、どういう訳か本の封印は解かれてしまい、<童話>は逃げ出してしまったのだ。
彼らは今なお国中を駆け回り、グリム兄弟の意思を継いだ者たち、グリムアルムの手から逃げ続けているのであった。
しかし昨夜出会った<兄と妹>という<童話>たちは、元々大人しい性格をしていたため、願いが叶うと素直に本の世界へと帰って行った。
まぁ大人しい性格だと言っても、妹の方は兄を捜すために呪の泉を連れまわし、沢山の人を鹿に変えていたのだが……。
「うん。本当によかった」
白い少女が幸せそうに[兄と妹]の絵本を抱きしめる。
彼女の天使のような愛らしさ。三つ編みの少女は我慢の限界だといった感じに白い少女に飛びついた。
「あー! もう! マリア可愛いよぉ、かわいいよマリアァ―!」
学生のなされるがままにマリアと呼ばれた白い少女は、帽子やら服の上からぐりぐりと、全身くまなくくすぐられる。
「あはは! くすぐったい! くすぐったいよぉ、桐子ちゃん!」
「よーし、よしよしよしよし! この子はね、良い子でね、私の可愛い天使ちゃんなんですよぉ~」
「それ何の真似? 意味わかんない。あははははぁ!」
日本の親友とバカをする時のように、桐子はマリアにじゃれついた。
彼女と出会ってから、もう二か月経つ。大分桐子もマリアと打ち解けてきたようだ。二人はどこから見ても仲慎ましい姉妹のよう。
二人が仲良くくすぐり合いっこをしていると、玄関の方ではトントントンッという扉を叩く乾いた音が鳴っていた。
「ごめんください」
彼女たちが居るのは二階のマリアと、彼女の兄であるウィルヘルムが寝泊まりしている小さな部屋。騒いでいた二人の部屋から一階の玄関までは、そこそこ距離があったのだが、マリアはぴたりと動きを止めて、閉じられた扉をジッと静かに見つめていた。
「はーい。ちょっと待ってください」
そう言ってこの童話図書館の館長ハンスが慌てて玄関扉を開けてみると、そこには清楚に髪を整えた、がたいのいい男が立っていた。
館長のハンスは190センチ越えの高身長であるのだが、彼も中々背が高く、ずっしりとした安定感を持っている。しかもハンスよりも男らしく、顔や手先がうっすらと日焼けしていて健康的な印象を受けた。
「あらルドルフ。お久しぶりね」
ルドルフと呼ばれた男性は爽やかに笑うと、
「どうもハンス君ご無沙汰振り。前よりも綺麗になった?」
と、上手な事を言ってくる。
彼とは対照的で日焼けもしていなければ、肩幅だけがしっかりしているもやしっ子。しかも、常に黒いロングドレスを愛着しており、女性的な口調で会話をする。
そんなハンスは「もう、お世辞はよして! 全然嬉しくないんだから」なんて、謙虚な返事をするのだが、満更でもなさそうに肩を揺らしてニコニコと笑っている。彼にとってはソコソコの褒め言葉のようだ。
「さあ、入って入って! 丁度、おやつの準備をしてたのよ」
「それでは、お邪魔します」
ルドルフは図書館の中へ招き入れられると、本棚に囲まれた部屋の奥にある扉の中へと通される。そこはハンスたちが普段使っている居住スペースの一部、俗にいうダイニングキッチンであった。狭い空間のほとんどを占める大きな木製の食卓には、ちょうど一人の少年が美味しそうにケーキを食べていた。
フルーツをたっぷり閉じ込めた焼きケーキ。サクサクとした食感に誰もが笑顔をほころばせる。しかしルドルフを見た少年は、何か悪いことをしでかした子供のように嫌そうな顔をして、ケーキに手を付けるのを止めてしまった。
そんな彼にルドルフは、警戒する少年の心を和ませようと優しくにっこり笑いかけた。
「ウィルヘルム。大きくなったね」
「叔父さん……ご無沙汰しております」
なんと、ルドルフはウィルヘルムの叔父であった。彼は笑ったままウィルヘルムの前の席に座る。
「あぁ、気にしないで。そのまま食べていなさい。今日は封印した<童話>を収めに来ただけだから。大丈夫。兄さんにはここの事を言っていないよ」
大丈夫。この言葉に違和感を持つウィルヘルムは、急いでケーキを食べきると「御馳走様」と言って跳ねるように席を立った。
「ちょっと待って、これを二階の桐子に……」
ハンスは部屋から去ろうとするウィルヘルムに、紅茶とケーキが乗ったお盆を渡そうとする。しかし、振り返った先にはもうすでに、桐子が部屋の入り口に立っていた。
部屋を出ようとしていたウィルヘルムは、ぼんやりと間抜け面を晒す桐子に足を止められ、機嫌を更に悪くする。
「あのぉ、ごめんなさい。何か声がしたから……、えっと……お客さん?」
「おや、ウィルヘルムのお友達かい?
始めまして。ウィルヘルムの叔父さんのルドルフ・フェルベルトです」
前にハンスが紹介すると言っていたもう一人のグリムアルム。
それがウィルヘルムの叔父と聞いて驚いた桐子は、ウィルヘルムの気持ちなど読み取る気もなく、彼の隙間から叔父と言った人を好奇心ある目でじっくり見る。
「といいますと、グリムアルム?」
「君はグリムアルムを知っているのか! はははっ! そうだよ。私は“狩人のグリムアルム”四代目。残念ながらフェルベルトの跡は継げなかったけどね」
明るく卑屈なことを言う彼は、出されたコーヒーを一口飲むと、おいしいコーヒーだと笑ってハンスの仕事を労った。
なるほど、ハンスもいい顔をするわけだ。ウィルヘルムの反抗的な態度で少し心配していたが、彼の温厚そうな人柄にすっかり桐子も安心する。
カップを置いたルドルフは、小さくため息を吐くと、自分が言ったことについて少し残念そうに補足する。
「グリムアルムの跡を継げるのはね、家の長男だけなんだ」
「それでもグリムアルムになれるのですか?」
「簡単にはなれないけどね。私の様に一族の後を継げなかった兄弟や、飛び抜けて<童話>を見たり会話できる子は、希望すれば空いてる席をもらえる可能性が上がるんだ。
私には兄さんが一人いるから、彼がフェルベルト家の跡を継いだ。私も自分の家のグリムアルムになりたかったのだが、規律だから仕方がない。
グリムアルムは諦めて、もう一つの夢であった警察官を目指したよ。グリムアルム同様、人々を助けるお仕事だからね。今はこの仕事に誇りを持っている。
だけど、警察として働いても<童話>の悪事を罰することはできないんだ。彼らを見ることができるのに、その脅威から人々を守る事ができない。段々と歯痒くなった私は、ハンス君のお父さんにどうしてもグリムアルムになりたいと頼み込んだんだ。そしてようやく、空いていた席の一つである狩人のグリムアルムを譲り受けたんだよ」
嬉しそうに語る彼は、随分とグリムアルムの仕事を気に入っているようだ。
グリムアルムの話になればずっとペラペラと喋っていそう。しかしその高い志は尊敬するに値する。感激した桐子はルドルフに対して尊敬の眼差しを送っていた。
「とても、素晴らしいです。私も何度か<童話>に襲われましたが、自分からグリムアルムになろうだなんて、怖くって思いつきませんよ。それなのに自ら進んで、皆んなを守るためにとグリムアルムになるだなんて……その、すっごくカッコいいです!!」
桐子の素直な言葉にルドルフは恥ずかしそうに照れ笑う。すると今度はウィルヘルムがチャチャを入れるかのように「いいんじゃねーの? 俺もすごいと思うよ」と感情のこもっていないトーンで言い放った。
彼は急いでハンスの手から桐子の分のケーキを奪い取る。そして未だに道を塞いでいる桐子のことを恨むような目つきできつく睨んだ。
「お前の分はねーから!」
そう嫌みたらしく桐子の顔めがけて言ってやったウィルヘルムは、逃げるようにして部屋を飛び出すとドタバタと慌ただしく二階へと駆け上ってしまった。
「ちょっと! ウィル! あぁ、私のケーキぃ……」
悲しいかな。ハンスお手製のケーキを奪われた桐子は情けない声を出して彼の後姿を見送った。
哀愁漂う彼女の背中にハンスは優しく声をかける。
「大丈夫よ桐子。まだまだケーキは沢山あるから」
そう言って彼はまだ半分残っているホールケーキから一人分を切り取ると、たっぷりの生クリームを添えて彼女の席に置いたのだった。
「ところで桐子くん。君はなぜ、グリムアルムを知っているのかい?
たとえ<童話>に憑りつかれた者であろうとも、今の時代グリムアルムを知っている人なんて滅多にいないよ?」
「あ、そうなんですか? その、先ほども言いましたが、私、ドイツに来てまだ二ヵ月ほどしか経っていないんですけども、来独して早々に<童話>に憑りつかれたり襲われたりしてまして……。その時に、ウィルヘルムくんとマリアちゃんが助けてくれ……」
「マリア?」
ルドルフがピクリと反応する。その一瞬で彼の表情は険しいモノへと変わっていき、疑いの眼差しで彼女を見た。
何かまずいことでも言ってしまったのか。と、焦る桐子の前にハンスがトンっと熱々の紅茶を差し出した。まるで二人の会話を止める様に。
「マリア様の事よ。ねっ」
「天の主ではなく?」
「彼女にとってはマリア様も神様も、崇めるものは一緒なんだと理解しているのよ」
「それはいけない! とんでもない勘違いだ!」
感情に任せて立ち上がるルドルフに、桐子はなだめるように反論する。
「いやいや、それぐらい分かって……」
しかし今度は砂糖の壺が、トンっと桐子の前に差し出された。
「ごめんなさい桐子。お砂糖をウィルヘルムの所に届けてもらいたいの。
それと、これからお仕事のお話をするから、あの子と一緒に上で食べてもらえないかしら?」
ハンスのいつもの笑顔。ではあるが、少し違う。どこか緊張しているように感じられるその面立ちに、圧をかけられた桐子はただ小さく「はい」と返事をするしかなかった。
紅茶とケーキ。そして砂糖の壺をお盆に乗せた桐子はいそいそと、二階のウィルヘルムたちの部屋へと入っていく。
「ウィル~。追い出されたから、一緒に食べよー」
扉の前には、目を輝かせながら美味しそうにケーキを頬張るマリアと、湯気立つ紅茶をアイスティーに変えるため<氷の力>を使っているウィルヘルムの二人が、彼女の声に振り向いた。
「もうちょっと早くに来いよ。冷めた紅茶じゃあ砂糖が溶けにくいだろ」
「うわぁ……<童話>の無駄遣い。紅茶ぐらいフーフーして飲みなさいよ」
相変わらずいがみ合う二人にマリアが楽しそうにケラケラ笑う。
「そうだマリア。マリアの叔父さんが来ているよ!」
親切心に教えたつもりなのだが、笑っていたマリアがその事を知るとピタリと動きを止めて無表情になってしまった。
彼女の瞳は変わらず桐子の顔を見ているが、視線がどうもそのさらに遠くの方を見ているよう。何を考えているのか分からないその反応に、同じグリムアルムの親戚が来た事を喜ばないのかと桐子は不思議に思っていた。
「会いに行かないの?」
「私、あの人嫌い」
包み隠さず発せられたマリアの言葉。その言葉に桐子は心底驚いた。誰にでも分け隔てなく優しく接するマリアが、あの温厚そうな叔父を嫌いだとはっきり言ったのだ。
「酷い人なの?」
「…………」
「じゃあ、なんで?」
「…………」
言葉が詰まる。彼女は桐子から目線を逸らして、うつむき黙り込んでしまった。話を聞いていたウィルヘルムが不機嫌そうにマリアの代わりを言う。
「あんまし人んちの事情に首を突っ込むなよ。無神経だぞ」
それを聞いて桐子は確かにと、すんなり納得してしまった。
初めの頃より仲良くなったと思っていても、まだまだ出会ってから二ヵ月ほどしか経っていない。それに元々、桐子とウィルヘルムの関係は<童話>に憑りつかれた人間と、その<童話>を祓うグリムアルムだ。たとえその壁を越えたと桐子が思っていても、ウィルヘルムもそう思っているとは限らない。
というよりかは、人のご家庭の事情にまで首を突っ込むのは、グリムアルム云々の話以前に、人としてとんでもなく図々しい。
自分がやっている事に気が付いた桐子は、折角築き上げた関係をこんな無神経なことで壊したくないと思ったので、これ以上は何も聞くまいと謝罪の言葉だけを口にして、しょんぼりと紅茶をすするのであった。
大人しくなった桐子にウィルヘルムは満足したのか、氷をカラカラと鳴らしてアイスティーを軽やかにかき回す。そして砂糖が溶けきったことを確認すると、俯くマリアに手渡した。アイスティーを飲んだマリアの顔が次第と元の笑顔に戻ってゆく。
幸せそうな彼らを見るだけで十分ではないか。誰が好き好んで彼らの嫌がる事を聞けようか。マリアとウィルヘルムの笑顔を見た桐子も、嬉しそうにケーキを頬張ると、その幸せをしんみりと味わった。
「先ほどの桐子という子……まだ憑りつかれていますよね。祓わないのですか?」
向かい合うように食卓に着くハンスとルドルフの間に重い空気が流れている。
ルドルフはフォークでケーキを一口サイズに切り分けると、口の中に放り込んだ。それをハンスは腕組しながら、彼に刻まれるケーキの姿をじっと見つめている。
「祓うわよ、ちゃんと。でも不思議なのよ。<童話>は黙ったままで、私たちとは一切口を利いてくれないの」
「なるほど……。それに、<童話>が憑りついているというのに、彼女の自我がしっかりとしているのも珍しい。
確かに、<悪魔>や<死神>、<魔女>といった人の不幸が大好物な<童話>たちなどは、ワザと人間の自我を残しといて、憑りついた人間とその周囲の関係者たちとが不幸に落ち入る様を見て楽しんでおりますが……。
悪いですが、彼女の精神が<童話>を支配するほどに強いものとも考えられない。
何という<童話>が彼女に取り憑いているのですか?」
一通り考察し終えたルドルフの顔を、俯いていたハンスがチラリと見る。それに気づいたルドルフはニッコリと彼に笑い返した。
不意を突かれた笑顔にハンスは一瞬ためらうも、何かを決意したかのように小さくため息をついて、口を開く。
「<いばら姫>よ」
「<いばら姫>! それじゃあ、きっと呑気に寝てるんだろうね」
笑って答えてくれるルドルフに、ハンスもつられて笑顔を作る。すると今まで堪えていたハンスの中に眠る<童話>への不安が、一気に彼の口を動かし始めた。
「あー、もう! 語りかけても駄目、ツムの先に触っても駄目。何をやっても駄目、ダメ、だめ! もう、うんざりよ!
話せれば説得して祓えるのにぃ。このままじゃ、彼女がお婆ちゃんになっても取り憑いたままだわ!」
「貴方が、そんな投げやりになるだなんて珍しい」
「しゃべらない奴と、どう仲よくしろっていうのよ!」
感情的になっていくハンスに圧倒されたルドルフも、一緒に考えるような素振りをみせる。
「そうですねぇ。いつも通りでいいのでは? 無理矢理引き出そうとはせずに、いつもみたいに自分から心を開き、閉ざされた心を開くのです。
そして、彼らの些細な声も聞き洩らさないようにと常に注意していれば、おのずと道は開けるはずですよ。変に引っ張り出そうとすれば、引っ込むっというのは貴方が一番知っているはず」
道徳の教科書にでも載っていそうな素晴らしい答えにハンスは少し、うーんと考える。そして今まで築き上げた経験から彼の言葉に納得した。
「…………それもそうね、無理に声を聞こうと知恵を絞ったって、<童話>には見透かされているのかも。桐子には申し訳ないけれど、地道に付き合ってもらいましょう。ありがとう、ルドルフ」
「お役に立てて光栄です」
ハンスは溜まっていた心のモヤがやっと晴れたのか、自然と笑顔になっていた。
しかし、これだけではまだまだ話したりない様子。普段はウィルヘルムや桐子にも話さないような話しも、ついそのまま話し始めてしまった。
「やっぱり、人に相談すると心が軽くなるわねぇ。
お兄さんの教会はここから距離があるし、ハウストには絶対行きたくないし……」
「まだあのお爺さんと喧嘩でもしているのですか? まぁ確かに、できる事なら会いたくはない人ですが」
「共感してもらっちゃった。でもまぁ、それでも彼を入れればグリムアルムは三人だけ。一枚、栞はあるけれど……」
ハンスは赤い本に挟まれた朱色の栞を取り出した。装飾のない真っ新な栞。それを見たルドルフは深刻そうな声を出す。
「プフルーク家の栞は……盗まれたままなのですか?」
「えぇ。でも、栞を持っている子は見つけたわ」
「ついに……」
ルドルフはゴクリとつばを飲み込み、じっとハンスの言葉を待った。
「アナタも気を付けなさい。プフルーク家の栞<長靴をはいた牡猫>を使って闇雲に<童話>を狩る<童話>使い……。彼女の名前はクラウン」
「彼女……女性の方なのですか?!」
彼が驚くのも無理はない。グリムアルムの栞を継ぐものは男性だけであると、彼らの中で決められているからだ。差別的な意味ではなく、グリムアルムという仕事がどれほど女性にとって過酷で恐ろしいものなのか。それを知った彼らの先祖が急遽決めた規律なのだ。
それなのに無謀にもこの世界に自ら進んで入ってきた女性がいると知り、ルドルフは驚きを隠せないでいる。
「彼女を甘く見てはいけないわ。ウィルヘルムとも何度も戦っている。もし彼女と出会っても、戦おうとはしないで。私にすぐ連絡をしてちょうだい」
「なぜです? そんな危ない子を……。早く捕まえなくては!」
「無駄な争いをしてはダメよ。彼女は桐子だけには心を開いているの」
桐子の名を聞き、彼は合点がいったように、ほーっと声を漏らした。
「それで彼女にグリムアルムのことを話したのですね」
「えぇ、まぁ……。ちょっと違うかしら。
でも、彼女は不思議な子よ。散々<童話>に酷い目に合わされたというのに、自ら進んでグリムアルムの力になりたいと言ってるの」
「自分が置かれている立場を理解していないだけでは?」
「そんな事ないわよ。彼女を襲った<童話>っていうのはね、クラウンの<童話>のことなのよ。それなのに、クラウン自身は悪い<童話>を捕まえようとしているだけだって、彼女から聞き出したうえで自分も協力したいと言ってるの。
その結果、今ではクラウンとも嘘のように仲が良いと聞くわ。きっと彼女なら、争うことなくクラウンを説得して、私たちグリムアルムの仲間に迎え入れてくれるはず」
ハンスの今までにない強い眼差しを見てルドルフも「随分彼女に肩入れしますね。私も少し興味を持ちました」と深く感心するのであった。
「ケーキ、ごちそうさまでした。とてもおいしかったです」
脱いだコートを羽織り、帰りの支度をするルドルフは玄関の前でもう一度ハンスの仕事を褒め称えた。しかしお手製のケーキを褒められたというにハンスはどこか寂しそうな顔をして笑っている。
「実は今日は休暇でしてね、これからちょっと狩りに行くんですよ」
「ご趣味でしたっけ?」
ハンスは彼の手荷物である細長い鞄を軽く見た。ルドルフは嬉しそうにそれを持ち上げ、肩にしょう。
「週に一度の楽しみです。銃の腕が上がって、グリムアルムの仕事でも役に立つんですよ。
ですがこの前、害獣をもう少しのところで逃がしてしまいましてね……。今日は狩れるといいな」
楽しそうに話すルドルフとは違い、ハンスの顔はうっすらと曇る。
「アナタも無闇に<童話>を捕まえてはいないでしょうね?」
「えぇ勿論。ですが、私の声を聞かずに弱き者に害なす<童話>は仕方なく引き金を引いていますよ。私はあくまで人間の味方ですから……」
それではと会釈して帰っていくルドルフを、冷めた目で見送ったハンスは緊張した肩の荷をストンっと降ろし、二階にいる子供たちを呼びに行く。
「子供たち。叔父さんはもう帰ったわよ。まだおやつは食べる?」
「食べる―!」
扉を開けてドタバタと出てくるマリアと桐子、そしてウィルヘルム。
マリアの元気の良い返事に、ハンスは静かな笑みを浮かべていた。