005<兄と妹> ― Ⅴ
「……くっ!!」
ウィルヘルムは悔しさのあまり唇を噛みしめ、石畳の上に右腕を振り下ろす。
――ぱしゃんっ
水の弾けるような音が、ウィルヘルムの耳の中に深く響いた。彼の右腕は何か冷たいものを触っており、急いでその腕をどかして確認する。
水だ。先ほど妹の霊が防御のために使った水が、大きな水たまりになるほどに湧いており、彼はその水たまりの縁を思いっきり叩いてしまっていたようだ。
水は森の泉のように澄んでおり、美味しそうにせせらいでいる。
ウィルヘルムはつばを呑み込むと、再びあることに気が付いた。急いで<兄と妹>のあらすじを思い出す。そして彼は一か八かの賭けに出た。
逃げ場を無くした妹の霊。彼女に向けてクラウンは未だに憎悪の念を送っている。そして、これで終わりだと言うように、彼女は大剣を大きく振りかざした。
「おい、クラウン!!」
ウィルヘルムの呼びかけに、クラウンはため息をついて視線だけを彼の方に向ける。するとそこにはなんと、ウィルヘルムが水たまりの水をすくう姿があった。彼はムリに笑顔を作り、クラウンの事を挑発する。
「その<妹の霊>は……、俺のものだ」
すくった水を一気に飲み干すと、ウィルヘルムの体は一瞬にしてカラスの羽のように黒くて艶やかな美しい子鹿となった。あまりにも衝撃的な事にクラウンは目を真ん丸く見開くと、全身を使ってウィルヘルムの方へと振り向いた。
「お、お前バカか?! 自ら進んで<童話>に憑りつかれるヤツがいるかよ!!」
『フェルベルト家は牧師のグリムアルム。我が身を<童話>の姿に変えて、彼らの心を理解し、清き道に導くのが俺たちの仕事。得意分野じゃねーかよ……』
そう言いながらウィルヘルムは妹の霊に近づき、頭を上げて彼女の顔を見る。
実は内心ビクついていた。最後の<童話>の力もこれで使い果たしてしまったため、この姿で攻撃をくらえば反撃することも、守りの態勢に入ることもできない。思い切った賭けだ。しかし、彼女の顔を見たウィルヘルムの心の中には、勝利と感動の喜びが押し寄せてきた。
彼女は、笑っていた。哀しみの残る優しい微笑み。涙で潤む瞳で子鹿を見つめると、やさしくウィルヘルムを抱き寄せる。
『お兄さん……』
あまりの展開にクラウンは更に驚いていた。
「そんな捕え方があるものか! あってたまるものか!」
『お前の言った通り。この子は泉を飲んだ人たちを子鹿に変えて、罪を重ねてきたかもな。
だけどそれは意図的にではない。彼女はただずっと、一人だけしかいない自分の兄を呼び続けていただけなんだ。かつて、兄をおびき寄せたこの呪いの泉と共に』
「阿保らしい。ワザとじゃなければ赦せっていうのか?」
『ワザとじゃなくても赦されない罪はある。だけど……、彼らにもその罪を犯さなくてはいけない理由が何かしらあるはずなんだ。そして、その罪に深く傷つき、悔い改める心があるのであれば、俺は彼らを……赦したい』
苦しそうなウィルヘルムの声。その声には何か己の決意めいたものも混じっていた。
「そんなモノ。理解したく無いし、認めたくも無い。
だけど……、その<童話>の敵意は確かにお前がとった行動で止んだ。
ウィルヘルム・フェルベルト。今回はオイラが引き下がってやるよ。だがな、今後もオイラの前でそんな生半可な捕らえ方をするようであれば……<童話>共々お前のことも斬ってやる」
捨て台詞を言ったクラウンが暗闇の中へと去っていく。その足音をウィルヘルムはただただ黙って聞くだけで、彼女を追うようなことはしなかった。
足音が完全に聞こえなくなると『さあ、こっちにおいで』と言って、ウィルヘルムは子鹿の姿のまま、妹の霊を童話図書館の方へと導いた。
* * *
待ち疲れたマリアはスヤスヤと、椅子の上で眠りこけている。彼女の足元にいる金色の子鹿も丸くなって眠っていた。桐子は一人と一頭に優しく毛布をかけてやると、心配そうに頭を撫でてやる。
窓の向こうはすっかり真っ暗。これから一体どうなるのか。子鹿の妹は無事に見つかるのかと、心配する桐子にハンスが「お疲れ様」と言って出来立てのコーヒーを持ってきた。
「あ、ありがとうございます」
「いいえ。私もマリアの面倒を見てもらって助かっているわ」
「そんなのお安い御用です! もっと頼ってもいいですよ?」
嬉しそうにニッコリと笑う桐子にハンスはしんみりと、落ち着いた笑顔をつくって見せる。
「それじゃあ桐子。もう一つ頼まれてもらえないかしら?」
「なんなりと」
そう言うとハンスはヨンヘルを避けるようにして桐子に新しい包帯を手渡す。
「この子の包帯を新しく替えてもらいたいの。できるかしら?」
確かにヨンヘルの足に巻かれた包帯は随分とヨレており、すぐにでも替えた方がよさそうだ。しかし、裁縫を趣味とする手先が器用なハンスがやれば、何時間たっても緩まない立派な包帯が巻かれそうなものなのだが……。
「できますけど……もしかしてハンスさん、鹿が嫌いなんですか?」
いたずらっぽく聞く桐子にハンスは「まぁね」と苦笑いする。
鹿が嫌いだなんて珍しい。しかし誰だって苦手なものはある。そう納得した桐子は彼の手から包帯を受け取ると、眠るヨンヘルに気を使いながら巻いてあった古い包帯をといてやる。すると驚く事に、ヨンヘルの足には傷なんてものはどこにもなかった。
マリアたちが言っていた事は嘘だったのか。驚きの顔でマリアを見るが、彼女はまだまだ幸せな夢の中で旅をしている。
傷一つないヨンヘルの姿を見たハンスは、あーあっと呆れたように笑顔を引きつらせた。
「あはは……あれだけウィルヘルムを怒らせたんだもの。怪我の治りが早くって当然だわ」
「え? どういう事ですか?」
「<童話>の栄養は人間の負の感情だって言ったわよね。その子はウィルヘルムの感情を吸い取って、自分の傷を癒したのよ」
その説明に桐子はヨンヘルを、恐ろしいものを見るような目で見なおした。ウィルヘルムが疲れた顔をしていたのは<カラスの童話>を使い過ぎていただけではなかったのか。そして、不安や悲しみだけでなく、怒りの感情も<童話>の糧になると知ると、何処までが負の感情なのか分からなくなってきた。
「ハンスさん、<童話>が好む負の感情って具体的にはどんなものなのですか?」
「そうねぇ、その子たちによって好みは違うのだけれども……極端に例えば、激しい怒りや憎しみ、泣くほどの悲しみや焦り。かしらね。思いつく限り。感情の変化が激しい思春期の子供たちや、気が弱い人なんかが好みみたいよ」
それは正しくウィルヘルムはもちろん、桐子だってその好みの範囲に入ってしまう。
桐子に憑りついている<いばら姫>もヨンヘルと同様に、いつの間にか彼女の不安な感情を蓄えながら力を取り出し、いつの日か自分の意識も感情も全て乗っ取ってしまうのだろう。そう考えると、とても怖くなってきたのだが、その感情もきっと今、<いばら姫>は美味しく頂戴しているのだろう。
「でも、それらだけを注意したって意味が無かったりするものよ。本当にどんな些細な感情でも、飢えた<童話>たちにとっては有難いお恵みなのよ。
ペットが亡くなって悲しむ人。事件に巻き込まれて焦る人。人とちょっとした事で喧嘩して、いつの間にか流血沙汰になるような人なんかはもうご馳走でしょうね。他には隣の人のケーキの取り分が多い……」
「ケーキ?!」
「そう! たかがケーキへの執着心で。もっとあるわよ。あいつの態度が気に入らないとか、嫌いな人と服が被ったー、とか。見知らぬ人に足を踏まれた。すれ違いざまに肩がぶつかった。ふとした事で、誰かと自分の目と目があった……とか」
ハンスの真っ赤な瞳と桐子の不安げな瞳とがじっくり交わる。金縛りにあったように動かない体。このまま彼の目に焼き尽くされそうな恐怖で桐子は焦りを感じていた。しかし、
『おーい、ハンス。扉を開けてくれ。見つけたぞ』
二階にいるはずのウィルヘルムの声が、玄関の方から聞こえてきた。
呼ばれたハンスは返事をすると、桐子から目を離して扉を開けに立ち上がる。金縛りが解けた桐子はほっと一息ついて、ハンスが向かった玄関の方へと目をやった。
開かれた玄関の向こうには白い女性の幽霊が嬉しそうに、黒い鹿を連れて立っていた。
「あらあらまぁ……さすがね、お兄ちゃん」
<童話>の気配に気づいたのか、マリアとヨンヘルも目を覚まし、桐子と一緒に玄関の方へと見に行った。
「ウィル? どこかに行ってたの? わぁ、鹿さんがもう一頭!」
喧嘩していたことも忘れたのか、マリアはウィルヘルムと同じ目の高さにしゃがみこむと、嬉しそうにニッコリ笑う。彼の可愛らしい子鹿の姿につい桐子も「ウィル鹿……可愛いじゃねーかよ! チクショーメッ」と親友の口癖が移る始末であった。
兄と妹の感動の再会。それは何年、何百年ぶりなのだろうか。妹の霊はウィルヘルムの元を離れると、彼女の兄である金の子鹿を強く抱きしめた。そして彼女はぽろぽろと大粒の涙をこぼし始める。
「ヨンヘル、本の世界に帰っちゃうの? 本来はこっちの世界が、貴方達の本物の世界なんだよ?」
マリアが寂しそうに彼に問う。しかし彼の心はすでに決まっているようだ。
『この世界は恐ろしくなった。故郷の森は懐かしかったけど、偽りの森もなかなか過ごしやすいもんだよ』
その言葉を聞き入れたマリアは名残惜しそうに彼の鼻先を力一杯抱きしめる。
「ヨンヘル。私はいつでもあなたの味方よ。元気でね」
『ありがとうマリア。キミも元気で』
最後の別れを言ったマリアはヨンヘルから離れると、急いで桐子の胸へと飛びついて、自分の顔を隠してしまった。
別れの経験の少ない子供にとって、この「元気でね」と言う言葉は特別重い言葉なのだ。桐子は優しくマリアを抱くと、彼女もうっすら涙を浮かべる。
「それじゃあ、ウィルヘルム。封印の支度を」
「はいはい。あー! もう、ちょっとは休ませてくれよぉ。もー!」
悪態を吐きつつ、二人は図書館の中に入っていく。
桐子たちがしばらく外で待っていると、赤い本を持ったハンスと人の姿に戻ったウィルヘルムが、中世の王様のような格好をして恥ずかしそうに外へと出てきた。
その姿に桐子とマリアがけらけら笑うも、ウィルヘルムは五月蠅いと言って蹴散らした。
「さぁ、ウィルヘルム。お願いね」
そう言ったハンスが赤い本を開くとウィルヘルムに手渡す。
コホンッと小さく咳き込んだ彼は、声の調子を整えると、空白のページに白い栞を挟んで言った。
「そなたこそが、我が愛する妻」
童話、兄と妹の妹の呪いを解く呪文。それを聞いた妹の霊はみるみると実体を取り戻し、血色がよくなると誰もが息をのむほどに美しいお妃さまの姿に戻った。
マリアが桐子の手をつかみ、かつて妹の霊だった人のことをじっと見る。
「自分から本に戻る意思がある<童話>はね、お話通りに終われば自然と本に帰るのよ。桐子ちゃんの<童話>も戻る意志があれば自然と離れてくれるはず」
お妃さまはピンクに染まった小さい手で、優しく子鹿の頭を撫でる。すると子鹿の体が光り輝き、元の人間の姿に戻った。
二人は嬉しそうに手を取り合うと、再会を祝ってもう一度、強く互いに抱きしめる。
『ありがとう』
抱きしめ合った<兄と妹>の体が黄金に輝くと、紙の束がその場にふわりと舞い散った。
真っ白な紙が大量に舞う中、ハンスが黒い紙を拾い上げる。そしてその紙を本に挟むと、舞っていた白い紙は霞のように消えていく。
辺りにまた夜の暗闇が戻ってくる。
しかし四人の瞳には、今起きた美しい黄金の輝きが焼き付いており、桐子は何とも言えない感動の余韻に浸っていた。
「お疲れ様。こうしてまた迷える<童話>を救う事ができたわね」
「当たり前だ! また今夜もマリアと同じ部屋であの鹿野郎を寝かせてやれるかよっ!」
「嫉妬は醜いぞ! ウィル。でもよかったねマリア」
「うん! ウィル、ありがとう! 大、大、大好きだよ!」
マリアもまた兄に抱き付き、満面な笑みを彼に向ける。その笑顔が彼の心を優しく包み込むと、ウィルヘルムの目頭がジーンと熱くなってきた。
「あれ? ウィル、泣いてるの?」
茶化す桐子にウィルヘルムは相変わらずキツく言う。と思いきや
「泣いてねーよ、馬鹿っ! あの光、目に刺さって痛いんだよぉ」
なんて可愛く誤魔化すものだから、ウィルヘルム以外の三人は優しく彼に笑いかけた。
童話図書館よりしばらく離れた坂の上にて、猟銃のスコープをのぞく一つの影が四人の姿を見つめていた。そして驚きと悲しみが混じった声でぽつりと言う。
「おぉ、まさか! やはりあの子はっ!! 神よ……こんな事が赦されてもよろしいのでしょうか…………あぁ、マリア……」
<つづく>