005<兄と妹> ― Ⅲ
少女たちは各々の用事を果たすべく、名残惜しそうにその日は別れた。
今度はいつ会えるか分からない。それでも彼女らはまた会えることを約束し、互いに見えなくなるまで何度も、何度も振り返っては大きく手を振った。
日が延びたおかげでまだ明るいうちに図書館に着くことができたのだが、やはりと言うか図書館の周りは相も変わらず淀んだ空気に覆われており、不気味な雰囲気を醸し出していた。
だがすっかりその雰囲気にも慣れてしまった桐子は躊躇なく図書館の玄関に手をかける。いちいち怯えていた桐子の姿が懐かしい。
「こんにちはー」と、挨拶をすると同時に扉を開ける。すると中から「こら! ヨンヘルおとなしくしなさい!」という少女の声と共に、子鹿が元気良く桐子目掛けて飛び出して来た。
突然のことに驚き、押し倒された桐子は目の前の子鹿を確認しようとしたのだが、愛くるしい瞳に見つめられ、つい「きゃ……きゃわいい」なんて力の抜けた声を漏らしてしまった。
「あ! 桐子ちゃん、こんにちは!」
「こんにちわ。この子がウィルが言っていた<子鹿の童話>?」
「うん。この子はヨンヘル。<兄と妹>っていう<童話>なんだ」
見た感じ温厚そうな<童話>だ。桐子に撫でられ気持ち良さそうにすり寄ってくる。
マリアはヨンヘルの首に抱きつき、桐子から引き剥がすと彼女を家の中へと招き入れた。
一階から二階へと大きく吹き抜けられた本棚の玄関ホール。そこは魅惑的な本たちに埋め尽くされた楽園なのだが、今日の目当てはそれではない。
「ウィルから聞いたよ。その子、怪我してるんだって? 可哀想だね」
マリアが座る椅子の隣にちょこんと座ったヨンヘルは、桐子の言葉が分かるのか申し訳なさそうに首を垂らした。確かに彼の左後ろ足には、よれた包帯が巻き付けられている。
「そうなの。それとね、妹ちゃんとはぐれちゃって困ってるんだって。
だから今ね、ウィルのカラス達が妹ちゃんを探しに行ってるんだ。妹ちゃんが見つかるまでこの図書館に泊めようって話になってて……」「ダメだ! なーに勝手に泊める方向で話を進めてるんだ!」
階段の上から聞こえた怒鳴り声に少女たちは振り向いた。そこには先に学校から帰ってきていたウィルヘルムが立っており、不機嫌そうにドタバタと下りてくる。彼の後ろには、ウィルヘルムの怒鳴り声に呆れたような微笑みを浮かべる黒いロングドレスの男、ハンスも優雅に階段を下りてくる。しかし彼は桐子たちの方には行かず、少し離れた階段の手すりに寄りかかって、子供たちの事を見守っている。
ウィルヘルムは<童話>の力を使い過ぎたせいか、学校で見た時よりも隈が大分育っている。
「ウィルお願い! 私が絶対お世話するから!」
「だーかーらー! 見ず知らずの鹿野郎をこれ以上マリアのそばに置いてられっか! そもそもコイツだって元は人間の男なんだぞ!」
「野郎だなんて口が悪いよウィル。この子はヨンヘ……」「勝手に名前をつけるな! そんなんだから情が移るんだろ!!」
フェルベルト兄妹は桐子が思っていた以上に本格的な口喧嘩をしていた。一方的にウィルヘルムの方が抑え込んでいるかのように思えるが、マリアは怯むことなく堂々と兄に立ち向かい、彼の言葉を一言一句聞いている。
「この間の<七匹の子ヤギ>での事、まだ怒ってるよ? 話も聞かないで封印するだなんて」
「あれは明らかに危ない<童話>だったろうが! なあ!」
急に会話を振られた桐子は慌てて当時のことを振り返る。
思い出したくもない一ヶ月前のあの事件。確かにあの時の<童話>は桐子とマリアがもっとも油断する姿、ウィルヘルムの姿に変形して彼女たちに近づき、マリアの首に牙を向けた。
あの時のマリアが言っていた「<童話>にも何かしらの理由がある」という言葉も分からなくはないが……。
桐子は小さく頷き、それを見たウィルヘルムは得意げに胸を張ってマリアを見下ろす。それにはマリアも頬を膨らませて桐子の事を睨むのだが、桐子は困った様に眉をひそめた。
「マリア。あの時、マリアが言ってくれた言葉はよくわかるよ。<童話>だからって差別はいけない。おかげで私は目が覚めた。だけどね、やっぱりあの<狼>は危なかったよ。ウィルがあの時助けに来てくれていなかったら、きっと今頃マリアも私も大怪我してた。けどね……」
と一瞬言葉を止めて、ウィルヘルムの方へと振り向く。
「けどね、ウィル。男の嫉妬は醜いぞ」
桐子の意外な言葉にウィルヘルムは「なぁ?!!」と両目を大きく見開いた。少し離れた場所で桐子達の様子を見ていたハンスもその言葉にはフッと吹き出し、顔をそらして笑いをこらえている。
「いくらマリアが取られたからって、怪我している子を邪険に扱うのはいけないよ。
この子が悪い<童話>で襲いかかるようなことがあっても、ここはグリムアルムの図書館の中だし、ウィルならパパッと封印できるでしょ? 妹の優しいお願いぐらい聞いてあげる余裕を持たなきゃ!」
すっかりヨンヘルの虜となり、ウィルヘルム軍から寝返る桐子。さらにはマリアが「そうよ、そうよ」とはやし立てる。
「そうよウィル! ヨンヘルも、ご迷惑をおかけして大変申し訳ございません。って言ってるよ! こんな礼儀正しい子が悪い子のように見えるの?」
「えっ、マリア。ヨンヘルの言葉がわかるの?」
「うん。ずっとウィルにごめんなさいって言ってる。怪我が少しでも癒えたら出て行きますって……」
あまりにも出来過ぎたヨンヘルにウィルヘルムの苛立ちがより一層募っていく。立場が逆転し、自分が抑えられる側に立たされると、ウィルヘルムは溜めに溜めた感情を爆発させた。
「五月蠅い!! そんなんじゃねーよ!」 「ハンスちゃんもなんか言ってちょうだい!!」
調子に乗ったマリアは声を張り上げ、傍観者であったハンスにも声援を求める。
しかし彼は未だに「男の嫉妬は醜いんですってよ。ウィルヘルム」と可笑しそうに笑うだけで、ウィルヘルムの怒りを更に刺激するのであった。
「でも、まぁ良いじゃないの。困っている<童話>を助けるのもグリムアルムのお仕事よ。乱暴な子は別だけど……。それでも嫌なら、マリアに黙ってさっさと封印すればよかったじゃないの」
どうやら反対意見はウィルヘルムだけらしく、彼は納得いかないと言いたげに眉間に大きくシワを寄せた。
自分の思い通りに事が進まない苛立ち。そして愛する妹に敵意ある眼差しで睨まれる現実。全てがもう嫌になったウィルヘルムは「あー、もう分かったよ! さっさと見つけてくればいいんだろ!!」と、ついに観念して階段をまた荒々しく駆け上がった。
階段を上りきったウィルヘルムは廊下の扉を開ける前に、吹き抜けの手すりからマリアに言う。
「だがな、ソイツの妹を見つけたら、さっさと封印するからな!」
「えぇー! 封印しちゃうの?」
<童話>は封印するものと思っていた桐子は、驚きと疑問を抱いてハンスに聞く。
「ハンスさん。<童話>って必ず封印して集めるものじゃないんですか?!」
「ええ。そうよ。私たちの最終目的はグリム兄弟が集めた<童話>の再封印だから、一匹だって逃さないわ」
この言葉に反抗的な顔をするマリアはハンスの事をジッと睨む。しかし彼は優しい笑顔でマリアの瞳を見つめ返した。
「だけどね、私はなるべく<童話>の願いは応えてあげたいの。彼らだって好き好んで封印されたわけじゃないからね」
それを聞いたウィルヘルムはタチ悪く鼻で笑うと「<童話>を忌み嫌う一族が聞いて呆れるぜ」とハンスを馬鹿にするように言った。しかし彼自身も同意するかのように自分を笑う。
「本当ね。子供の頃からずっと<童話>と一緒だったから毒されたのかも。
アナタはどうなの? ウィルヘルム。アナタだって<童話>を嫌っているのに無闇に彼らを封印しないじゃない」
「それは……、元々<コイツら>だってこっちの世界の住人だし」「それじゃあヨンヘルも!!」
「それはダメだ! 何度も言うが、傷を負っているということはな、攻撃的な<童話>に襲われたという事だ! マリアと一緒に居させるわけにはいかない!」
頭越しなに本気で怒鳴るウィルヘルム。その大きな声にその場のみんなが驚いた。
特にマリアは今にも泣き出しそうな顔をしてウィルヘルムの事を見つめている。そして震える口を大きく開き「ウィルの……ウィルのばぁかぁーー! あーーーーっ!!」と大声を上げてうずくまってしまた。
まるで悪人となったウィルヘルムは一瞬、彼もそのマリアの姿に驚くが、自分は悪くないと言いたげに、急いで扉の中へと逃げてしまった。
うずくまるマリアの肩を優しく抱く桐子。「うっ、うっ」と嗚咽を漏らすマリアの背中をさすって慰める。
「もう……ねぇマリア泣かないで。マリアが泣くと私も寂しいよ」
その声にマリアは顔を上げるが、以外にも彼女は泣いていなかった。ただただ悲しそうな顔をしてヨンヘルの事を見つめている。
「ウィルはマリアが可愛くって、心配であんなことを言ったんだよ。別に意地悪しているわけじゃない」
「うん。分かってる。ウィルはマリアのことを思っている素敵なお兄さんよ。そんな素敵なお兄さん、嫌いになれるわけないじゃない。私のバカ」
自虐的になるマリアに、子鹿も彼女を慰めるように鳴いてすり寄ってくる。
「その子はなんて言ってるの?」
「喧嘩、ごめんなさい。だって。いいのよ、貴方のせいじゃないわ。ウィルが物分りの悪い子だからいけないの」
「……マリアはウィルのどこが好きなの?」
「全部。へっぽこで、怖がりなのを私に隠しているところ。とても可愛い。あと、何よりもマリアを一番に思っている。
桐子ちゃんが言った通り、この子を追い出そうとしてるのもマリアのため。自分たち兄妹のためだもの。いつまでもずっと、私を小さな可愛い妹だと思っている。実際にそうだけどね」
フフッと嬉しそうに笑うマリア。さっきまでの悲しそうな表情は少しだけ和らいでいた。
「でもね、私はいつまでも自分たちのためにって、この子たちをほっぽり出すのは良くないと思うの」
そう言って彼女は子鹿をもう一度抱きしめると、囁くように彼に言った。
「だからね、安心して。私が貴方を守るから」
その時のマリアの表情はとても大人びており、どんなものよりも美しかった。そして、何の迷いもない真っ直ぐな彼女の澄んだ声が、ヨンヘルや桐子たちの心を優しく撫でる。
「おいカラスども! まだ見つかられねーのかよ!」
二階のバルコニーには、六羽のカラスを操るウィルヘルムの姿があった。夕暮れのまぶしい日差しの中に黒くて小さいシルエットがいくつも並んで飛んでいる。
『はぁ、妹探しなんて……』
と一羽のカラスが言う。
『僕たち、見つけられた側なんで……』
と、もう一羽のカラスが申し訳なさそうに言う。
「ごちゃごちゃ言うな! さっさと見つけないと、晩御飯のソテーにしてやるぞ!」
痺れを切らして辺りに怒鳴り散らすウィルヘルムとは対照的に『はいはい』と言うカラスたちの呑気な声が夕焼け空に虚しく消えた。