005<兄と妹> ― Ⅰ
新月の暗闇に染まった高台の公園。
雑木林の中を縫うようにして走る一頭の影が遊歩道の方へと飛び出した。その時、
――――ダンッ
っという銃声が辺りに低く鳴り響く。寝静まっていた森の鳥たちが一斉に羽ばたき、別の森へと飛び立った。
遊歩道の街頭に照らされた影の正体は金色の毛並みが美しい子鹿で、撃たれた後ろ足を引きずりながらも一生懸命に下へと伸びる階段へ向かっていた。
子鹿を撃った猟銃がもう一度、今度は子鹿の脳天に狙いを定めて静かにその時を待つ。
しかし、猟銃がまた音を立てるよりも先に子鹿の方が階段にたどり着いてしまった。しかもそのまま子鹿は足を滑らせて階段の下へと転がり落ちる。
後を追って飛び出す人影。獲物が転げ落ちた場所に急いで銃口を構える。が、そこには一人の少女が、怪我をした子鹿に気が付いて駆けつけているところであった。
金色の髪を二つに結いた幼い少女。少女は驚いた様子で子鹿に話しかける。
「大変! 大丈夫?」
心配そうな顔をする少女を見た人影は、しばらく彼女と子鹿を見つめると、何もすることもなく、静かにその場を後にした。
少女はスカートのポケットから白いハンカチを取り出し、子鹿の傷口にきつく巻きつける。
そして子鹿を支えながらゆっくりと、彼女の家である童話図書館へと向かうのであった。
* * *
「俺の妹が鹿を飼いたがっている」
目の下に大きなクマを作った少年ウィルヘルムが疲れ切った声でそう言った。
季節はすっかり春となり、穏やかな日々が続いていた。
町の花壇には色とりどりの花が咲き乱れ、短い春休みを終えた学生たちは久しぶりの授業よりも友人との再会を大いに喜んでいた。
温かな日差しに包まれて全てが眩しく美しい。しかしその輝きがより一層ウィルヘルムの陰気くさい顔を際立たせる。
「何よ急に」
とウィルヘルムの前でレポートをまとめる一人の少女、桐子が面倒臭そうに声をかけた。
彼女はいつもの食堂で忙しくノートに目を通す。今の彼女はウィルヘルムの心配よりも、午後の授業で提出するレポートの完成度の方が心配なのだ。正直、彼の話に付き合う暇などない。
ないのだが……、ウィルヘルムの声がどうも構ってもらいたさそうに聞こえたので、つい桐子はウィルヘルムに声をかけてしまった。
桐子の目の前で突っ伏していたウィルヘルムは、彼女の声に応えるように詳しい話をし始める。
昨夜、彼の妹マリアが急に外に出て行ったかと思うと、傷ついた子鹿を連れて帰ってきたのだという。どうやらその子鹿は<兄と妹>という<童話>で、怪我が治るまで介抱したいのだと、マリアはウィルヘルムとハンスにお願いした。しかしウィルヘルムは彼女のお願いに猛反対。
<童話>が怪我をしているという事は、別の<童話>に襲われたという事。
仕留め損ねた<兄と妹>が人間に保護され、傷を癒しているなどと知られたら、自分たちまで襲われてしまうかもしれない。
これはお前の為だと、ウィルヘルムは何度もマリアに説明した。しかし頑固なマリアはその言葉に大きくへそを曲げ、それ以降ウィルヘルムとは口を利かなくなったそうだ……。
「あんた達も喧嘩するのね」
「うっ、まぁ……な。でも、こんな頑固なマリアは初めてだ」
酷く落ち込んだ様子のウィルヘルムに桐子は段々と、彼の事が可哀想に思えてきた。
「ハンスさんはなんだって?」
「<童話>を介抱することは賛成だが、マリアのことは自分でなんとかしろ。だって……」
それですっかりウィルヘルムはお手上げ状態となってしまい、珍しく桐子に相談したというわけだ。
「なぁ、お前からもマリアになんとか言ってくれよ」
ウィルヘルムからの頼み事。本来ならば大喜びで引き受けるものなのだが、桐子は素直に頷くことが出来なかった。
話を聞く限り、彼が追い出そうとしている<童話>は傷ついて弱っている<童話>だ。そんな<童話>を追い出そうだなんて、マリアに頼めるわけがない。
そもそもマリアは全ての<童話>を親友だと言ってるような子だ。桐子から頼んだとしても彼女が「はい。分かった」と納得してくれる様なイメージが湧かない……。
<兄と妹>が夜のうちに封印されていないという事は別段、攻撃的な子ではないということだろうし……。
マリアの望み通り、子鹿の介抱をすればいいのでは? と桐子はマリアの肩を持とうとした。が、ウィルヘルムの言い分もよく理解できる。
<兄と妹>を襲った<童話>の存在がどれほど危険な奴なのか。ウィルヘルムとハンスの手に負える敵なのか。それが分からない今、安心して子鹿を介抱することは、できないのではないのだろうか。
煮え切らない考えが桐子の頭の中をグルグルめぐり、彼女はしばらく「うーん」と考えた。
そして結局、現状を見なくては判断に欠けると決断し、「よし分かった。マリアを説得するかどうかは別として、ちょっと彼女と話してみるよ。あんまり期待しないでね」と気が乗らない様子で返事をした。
「私は午後まで授業があるけど、ウィルは?」
「俺はもう終わったから先に図書館に帰ってるよ。お前も図書館ぐらいは一人で来れるだろ?」
<七匹の子ヤギ>以降彼らを襲う<童話>は特に現れず、桐子はようやく留学ライフを謳歌していた。その間にウィルヘルムとも特訓を続けていたので、前よりかはほんの少しだけ体力もついてきていた。
しかしそうとは言っても、まだまだ自分に自信が持てない桐子。彼女は一人で図書館に行く事に心細さを感じていた。だけど今のウィルヘルムを見ていると、そんなワガママは言っていられないようだ。彼はずっとソワソワとしており、今すぐにでも帰って妹の安否を確認したい様子。
桐子は小さく息を吐き、彼の心を汲み取った。
「うん。人通りが多い場所を通って行けば大丈夫だから、ウィルはマリアのために早く帰ってあげて。それじゃ、また後で」
桐子の気遣いに気付くはずもなく、ウィルヘルムの表情が少しだけ晴れた。よっぽどマリアのことが心配なのだろう。
「おう! それじゃあ、また後で。なるべく早めに来てくれよ!」
解放されたウィルヘルムは抑えきれない焦りを力にし、急いで食堂から外へと飛び出した。
止まることなく走っていくウィルヘルムを見送ると、桐子はうーんっと背筋を伸ばした。
この一ヶ月の間、桐子はフェルベルト兄妹と共に過ごし、前よりも彼らの事を理解できるようになっていた。今回の件もウィルヘルムならば何だかんだと言って、良い方向に解決してくれるに違いない。そう桐子は彼に強い信頼を持っていた。そのせいかお陰か、見知らぬ<童話>の話を聞いても今の桐子は随分と落ち着きを保っている。
伸ばした背筋の緊張をパッとほぐすと、彼女は次の授業へと頭のスイッチを切り替えるのであった。
正門へと続く並木道の中、下校する生徒たちを避けながら急いでウィルヘルムは駆けて行く。
今の彼を止められる者は、おそらくこの世にいないだろう。そう思えるほどの勢いであった。
だが実際のところそんな事はなく、並木道の途中で駄弁っていた三人組の内の一人に「フェ……フェルベルト!」と呼びかけられれば、キュッと勢いを止めて呼ばれた方に振り向いた。
そこには見覚えのある三人組。そのうちの一人はベッカー少年で、彼が急ぐウィルヘルムを呼び止めたのであった。
彼はしばらくモジモジと、言葉を詰まらせ黙っている。いつまでも続きそうな沈黙に、先に痺れを切らしたのはベッカーの後ろに立つ二人の少年で、彼らに背中を突っつかれてようやくベッカー少年はウィルヘルムに言いたかった言葉を口にした。
「こっ! ……この間はどうも」
ベッカーは気まずそうな顔をしながらも、ウィルヘルムにお礼の言葉を言う。のだが、肝心のウィルヘルムは「この間?」と思い出せずに頭にハテナマークを浮かべていた。
「!! ほら、この間! 三月の初め頃! 僕が急に高熱を出して倒れていた所を、フェルベルトが助けたっていう……」
それはあの<七匹の子山羊>事件の後の話であった。
<童話・狼と七匹の子山羊>に取り憑かれたベッカー少年は、無事ウィルヘルムの手によって<童話>を祓ってもらったのだが、ひどく体力を消耗してしまい高熱を出して一週間も入院していたのであった。
<童話>に取り憑かれていた間の記憶は全くないが、倒れていた自分を助けてくれたウィルヘルムにちゃんとお礼を言わなくては。と、彼は何度もチャンスをうかがっていた。しかし、学校に復帰した後もウィルヘルムにお礼を言うことが出来ず、春休みになった後もズルズルと引きずり伸ばしていた。
それが、ようやく勇気を出してウィルヘルムにお礼の言葉を言ったというのに、彼はすっかりその事を忘れてしまっていたのであった。ベッカー少年はご立腹である。
彼の言葉にようやくウィルヘルムは「あぁ、あの時の……」と思い出すが、「いいよ別に。人として当たり前のことをしただけだし……。それじゃあ」と軽くあしらおうとする。
過去の終わった話しよりも今、目の前にある危険からマリアの身を守ることが最も大事なことなのだ。早く図書館に帰りたい。
しかしそのウィルヘルムの態度を罰するかのように、まだまだベッカー少年は「それともう一つ……」と言って彼の足に食い下がる。しかも今度は敵意ある目をして。
「つるむ奴はちゃんと選べ。って言ってたけど…………僕は、二人と縁を切る気はないからな!」
彼が言う二人とは、あの中庭の事件でベッカー少年と共にいたガキ大将たちの事であり、今も彼の背中を押してくれた少年たちの事である。
彼らの評判はあまり良いものではなく、教師たちもお手上げの問題児。二人に振り回されてばかりでいるベッカーの今後を考えれば、さっさと縁を切れとアドバイスするのも無理もない。
しかし、ウィルヘルムはキョトンとした顔をして、睨みつけてくるベッカーに「おう、そうか!」と元気よく答えたのであった。
その反応に一番ビックリしたのはベッカー本人である。
ベッカーを取り巻く大人たちはウィルヘルムと同様に「つるむ奴はちゃんと選べ」と彼に言いつけ、散々彼の友人たちを哀れ罵ってきたのであった。
ウィルヘルムも同じように二人を馬鹿にしているのだろう。そうベッカーは信じて疑わなかったが、実際の彼はそんなこと一言も言わなかった。それどころかウィルヘルムは「三人は幼馴染なんだろ? 俺、転校してきたからそういうの居なくって憧れるんだぁ。これからも大事にしろよな」と優しく、本当に羨ましそうに言ってきたのである。
ウィルヘルムがベッカーに忠告した「つるむ奴」とは誰だったのか。
それをベッカー少年が知る術はもう無い。もう無いのだが、彼の心は重りが取れたように軽くなり、「じゃ!」と言って去って行くウィルヘルムに「う、うん。本当に……ありがとう」と、小声ながらも素直に感謝の気持ちを伝えることが出来るようになっていた。