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グリムアルム  作者: 赤井家鴨
第一幕
19/114

004<狼と七匹の子山羊> ― Ⅴ




爽やかな午後の陽気が、長い廊下を温かく包み込む。

しかしウィルヘルムはその中を面倒くさそうに歩いていた。この長い廊下が終われば彼の目的地、生徒指導室の前へとたどり着くからだ。

別に彼は眼鏡ちゃんを救った事に対して悔いているわけではない。それと、やり過ぎたとはいえ自分が悪い事をしたとも思ってはいなかった。

それでは何故彼はこんなにも窮屈そうな顔をしているのか。

それはこの"生徒指導"の内容が良くても悪くても、生徒の親御さんたちへと手紙として報告されてしまうからであった。これは学校側の教育方針なので誰も逆らうことができない。

ウィルヘルムの場合、彼が宿として暮らしている童話図書館、もといハンスの元にこの手紙が届いてしまうのだ。

「あぁ最悪だ。また仕事を増やされる……」

後の事を考えれば考えるほどウィルヘルムの足先は重くなっていく。しかし、足を動かし続けていれば目的地というものは勝手にたどり着いてしまうもの。丁度、 指導を終えた一人の生徒が部屋から出てきて、近づくウィルヘルムに気がつくと、じっと彼を睨んできた。

「ようベッカー、お前も大変だったな」

ベッカーと呼ばれた少年もまたウィルヘルムに負けないほどに窮屈そうな顔をしていた。

冴えない雰囲気を醸し出し、影の存在といってもいいこの少年。実はあの中庭での事件の日、ガキ大将の取り巻きとして金魚の糞のように小さく後ろについていた。

「フェルベルト……」

ため息まじりにウィルヘルムの名を呼ぶ。しかしそれに意味はない。さらに彼は深いため息をつくとウィルヘルムの隣を通り過ぎていった。

「なぁベッカー。悪いことは言わねえけどよ、いい加減つるむ奴は考えたほうがいいぜ」

優しく注意したって彼は振り向かずにただただゆっくりと歩いて行く。

「……注意したからなー」

と言ったって聞こえているのか、いないのか。

小さくなっていく彼の後姿を見送るとウィルヘルムは生徒指導室の扉へと体を向けた。そして覚悟を決めたかのように鼻から息を吐き出して、彼は強く扉をノックする。




「あーあ、なんだって僕までこんな目に会わなきゃいけないんだぃ」

少年ベッカーはブツブツと呟きながら歩いて行く。彼だってこんな大事にはならないものだと思っていた。しかし事はすでに起きてしまったし、決着はもう着いてしまった。

ウィルヘルムは正義の主役になって、自分は悪い日陰者。いや、それ以下の存在だ。

少年もまた重い足を引きずりながらとある場所へと向かっていた。

ベッカー少年がたどり着いた場所。そこはあの忌まわしき事件が起きた中庭だった。

「ハラス。おいで、ハラス。僕だよ」

小さな声で何かを呼ぶ。その声に茂みの中から老犬が現れた。

老犬は『くう〜ん……』と小さく弱った声を出す。よく見れば随分とやせ細っており、健康的とはあまり思えない。病気を持っていると言われればそうかと信じてしまうほどに薄汚れているのだが、手先だけは手袋をはめているみたいにスベスベと白かった。ベッカー少年はビクつくことなく、困ったようにその犬の背中を撫でてやる。

「もう、ハラス。お前のせいだぞ! お前が学校の関係者に見つかったからこんなことになったんだ。二人にも迷惑かけちゃったし、野良犬を学校でかくまっていただなんてパパとママが知ったら、すっごく怒るだろうなぁ……」

家に帰った後の事を考えて少年の顔色はだんだんと不安の色に染まっていった。しかし犬にとっちゃそんな事、知ったこっちゃない。ハラスは少年の手から逃げ出すと彼のカバンをカリカリと引っ掻いた。

「お前は呑気でいいな。僕はこんなにも寂しい気持ちでいっぱいなのに。

明日、保健所の人がお前のお迎えに来るってよ。さっき先生がそう言ってた。きっとこれが最後にあげるご飯だ。大事に飲めよ」

そう言うと心優しい少年は茂みに隠しておいていた犬皿を引っ張り出し、その中にヤギのミルクをたっぷりと注いでやった。

皿まで食べてしまいそうなほどの飲みっぷり。いつにない飲みっぷりにベッカーは「こんなにがっつくなんて珍しい。最後の最後でお前の好物を知るなんて……」と寂しそうな声で笑った。そして名残惜しそうにハラスの背中を撫でてやる。

「あれ?」

とその時、少年は何か疑問を感じ取った。保護してから幾度となく撫でてきた老犬の背中。その背中が先よりも明らかに、大きく、歪な形へと変形していく。




* * *




桐子は急いで校門の方へと駆けていた。自分が見つけた新事実を一早く図書館にいるハンスたちに知らせるために、それはもう彼女一の全力疾走で駆けていた。

しかしその勢いもつかの間のこと。校門の陰に妙な白い布を見つけると、彼女は走る速度を落としてしまった。

それは左右に揺れたり上下に跳ねたり、回ったり。そういった落ち着きのない奇妙な動きを繰り返しおこなっていた。

不思議に思いながらゆっくりと近づくとそれの正体を知る事ができる。

「…………マリア?」

そこにいたのは紛れもなくウィルヘルムの妹マリア・フェルベルトの姿だった。

白い布は彼女の白いワンピースの裾で、ふわふわと奇妙な動きを繰り返していたのはその裾をつかんでフラフラと待ちぼうけていたからであった。

マリアは「わっ!」と驚いたような声を上げて桐子を見上げる。

「あー、桐子ちゃん! もう、びっくりさせないでよ! びっくりさせようと思っていたのにー」

「大丈夫。もうびっくりしてる。んで、どうしたの? こんなところで」

「えへへ〜、桐子ちゃんと早く遊びたくって……一人でナイショで来ちゃった! ハンスちゃんにはナイショだよ!」

可愛らしく人差し指を立てて"秘密"と桐子にお願いする。

どうやら彼女はハンスの目を盗んでこっそりとここまで来たようだ。何も悪びれるそぶりなく楽しそうに笑っている。

本来ならばここでマリアに注意すべきだろう。勝手に図書館から抜け出して、ハンスさんが心配してたらどうするの? っと。しかし今の桐子の頭の中は<童話>のことでいっぱいだった。

「あ、そうだ! 聞いて、聞いて! 犯人が探しているもの分かっちゃった!

ケルンのサッカーチームのマスコットにフランケン産のワインボトル! 両方ともヤギが関わっているんだよ! きっと犯人の<童話>はヤギを探しているんだよ!」

世紀の大発見! とでも言わんばかりに桐子は興奮した様子でマリアに言った。

それには彼女も目を真ん丸くして驚くと、わっと花咲くように拍手した。

「わー! 本当だ! 桐子ちゃんすごーい! すごーい!!」

おめでとう、おめでとうと彼女は手放しに桐子の事を褒めちぎる。ここまで褒められるとは思ってもいなかった桐子は、つい嬉しさのあまり顔がへんにゃりとにやけてしまった。しかしマリアはにっこりと笑顔のまま桐子に悲しい事実を告げた。

「ハンスちゃんもね、先週にはそこまでたどり着いたのよ」

「え……えー?!」

まさかの上げてっからの突き落とす。桐子の伸びに伸びた鼻は一瞬にしてへし折られた。

「あの後ね、もう一度被害にあった人たちの共通点を探そうって話になったの。それでね、被害にあった人たちの持ち物やその日の行動を再確認してみたらね、あったの。共通点。

襲われた女子高生は学生カバンにヤギのキーホルダーを付けていたし、桐子ちゃんが特訓を始めた日ぐらいに襲われた人も牧場でヤギのお世話をしているお家の末っ子坊だったの。最初と次の事件は桐子ちゃんが見つけた通りだよ!」

両手でVサインをするマリア。それを見て桐子は再度えーっと言ってがっかりした。

名探偵にでもなったつもりで推理していた自分が恥ずかしい。耳まで真っ赤に染まっていく桐子を尻目にマリアは辺りを見回した。

「ウィルは?」

呼び出しをくらっているなどと素直に言ったらウィルヘルムの兄としての威厳が危ういだろう。赤く火照った顔を押さえながら「あー……まだ用事があるから、先に図書館に行っててって……言われた……」と少し濁しながらマリアに言った。

別に嘘は言っていない。が、聞いてきた割にマリアは案外素っ気なく「えー、そうなの?」と興味なさげに言い放つ。そして「それじゃあ桐子ちゃん、一緒に遊びましょ!」と彼女の右手を強く引っ張った。

「え?! 早く図書館に行ったほうがいいんじゃない? 犯人の目的は分かってても、<童話>はまだ捕まってないんでしょ?」

「大丈夫! 桐子ちゃんはちゃーんと強くなっているから。それに、いざとなったらマリアの<ネズの木>で桐子ちゃんの事を守ってあげる!」

そう言ってマリアは桐子の意思など気にせずに彼女を繁華街の方へと誘導するのであった。



昼時を過ぎた繁華街は通行人もまばらで、二人はお土産にもらったチーズに合う美味しいパンを求めて色んなパン屋さんを渡り歩いていた。

「あっちのパン屋さんも美味しいんだけど、ハンスちゃんはあっちのパン屋さんの方が好きみたい」

マリアは桐子の手を引きながら、寄り道を交えて嬉しそうに歩いていた。そして、その桐子の方はというと、一人っ子の彼女は実の妹ができた気分で何だかんだとこの買い物を楽しんでいた。

八つほど年下の小さく可愛い素敵な少女。その少女が楽しそうにケラケラと笑いかけてくるので、桐子の心もほっこりと温まっていた。

しかし思えば、彼女もグリムアルムの家の子だ。恐ろしい<童話>たちと常日頃、辛く苦しい戦いを繰り広げているのだろう。そう思うと桐子は緊張した面立ちでマリアに聞いた。

「…………マリア。マリアの<ネズの木>も、あなたを守ってくれる<守護童話>なの?」

「ううん。違うよ。<ネズの木>はマリアの友達。<守護童話>は一家に一体だけだから、フェルベルトの<守護童話>はウィルのものだよ」

当たり前の事のように返ってきた彼女の言葉。その言葉に桐子はぎょっと青ざめた。

「た、確かに貴女が<童話>さんと仲が良いのはよーく知ってるよ。ハンスさんの<小人の童話>とか、ウィルの<カラスの童話>と一緒で……。でもさ、仲が良くったって、<悪霊>なのは変わりないんでしょ?」

恐る恐る聞く桐子に、マリアはやれやれこれで何度目か。といった感じで呆れたように桐子を見つめた。

「桐子ちゃんはさ、よーく<童話>さんたちの事を<悪霊>だなんて言うけれど、<お化け>だけじゃ無いって事を忘れがちなんじゃない?

<クマ>さんや<ライオン>さんといった<動物>さんたちだっている。<グリフォン>さんとか<ドラゴン>さんだっているんだよ。そういえば、ハンスちゃんは<真っ黒なお馬>さんともお友達だったわね……。

それにね、他にも神話の<カミサマ>や<精霊>さんたちだっている。村の<農民>もね。それらみんな、みーんな<童話>なんだよ?それなのに桐子ちゃんはみんなを一つにまとめすぎ! ぜーんぶ<悪いお化け>だって言っている!

言っておくけど、ハンスちゃんの<小人の童話>も、ウィルの<カラスの童話>も彼らの<守護童話>じゃないからね! マリアの<ネズの木>と同じで私たちのお友達なの!

ねえ桐子ちゃん、貴女が言っている言葉の意味わかる?

もっともっと<童話>さんたちの事を一人一人丁寧に、ちゃーーんと隅々まで見て頂戴!」

マリアの<童話>好きがたっぷりと受け止められるその言葉。その言葉が桐子の胸に深く強く突き刺さった。


確かにそうだった。口先で分かったと言っててもまだまだ<童話>への偏見を拭いきれていなかった。そして、それを小さな子供にこれだけ散々言ってもらってようやく桐子は気付いたのだ。彼女は恥ずかしい気持ちで一杯になった。

自分はなんてことを言い続けていたのだろう。彼女の友達を見下し、彼女に不快な思いをさせていた。しかもこれは<童話>に限った話ではない。今現在、ウィルヘルムやクラウンとの間で思い悩んでいる事柄にも通ずる問題だ。そう思って桐子は改めて自分の間違えに向き合った。


ウィルヘルムの事を信じていると言っておきながら、クラウンから「腰抜けフェルベルト」と聞いて一瞬。いいや、先まで心のどこかで彼の事を疑っていた。

ウィルヘルムが強くて頼もしい人だと知っているはずなのに、噂話の方を強く信じてしまった。

クラウンだって、危ない奴だと思っていたが彼女の本心とも捉えられる言葉を聞いて桐子は彼女と友達になろうと思った。それなのに今更彼女のことを疑うのか? 周りの噂話に流されて、彼らを疑い恐怖するのは大きな間違えだ。

クラウンのことを一番知っているのは誰だ。それはウィルヘルムではないことは確かだ。そして、彼よりも桐子の方がクラウンの事を知っている。その事実は変わらぬ事だと桐子は信じている。

ウィルヘルムだってそうだ。クラウンは彼と桐子以上に一緒に過ごしたことはない。きっと「腰抜け」と呼ばれるのにはちゃんとした理由があるんだ。

しかしそれを知るのは噂でもハンスの口からでもない。ウィルヘルム本人から知らなくてはならないのだ。直接的に聞けないにしろ、彼と共に過ごしていくうちにきっとその理由も知れるはず。だが、たとえその噂の真相が知れずとも桐子はウィルヘルムの事を強くて頼もしい人だと信じ続けなくてはいけないのだ。マリアが<ネズの木>を信じているように、桐子も、桐子が知ってるウィルヘルムの事を信じているのなら。


曇りが晴れた桐子の心は救われるような気持ちで満たされた。そして彼女はマリアの両手を掴み上げると、力一杯バンザイする。

「マリア! ありがとー! そうか、やっと分かったよ!」

「もー、桐子ちゃんは心配性なんだから〜。もっとグリムアルムと<童話>との絆を信じてよね!」

「そうだよねー、周りの声だけが全てじゃないのにねー。その子にはその子なりの良いところも悪いとこもあるのにねー。それを他人から聞いただけで評価するだなんてバカみたい」

妙に嚙み合わぬ会話。しかし二人は繁華街の中心で楽しそうにくるくると踊りまわった。

「ねえ、桐子ちゃん。この調子で犯人の<童話>さんとも仲良くしましょう!」

「いやぁ?! それはちょっと……。だって、実害出てますし……」

「きっと何か訳があるんだよ。ちゃんと話を聞いたらクラウンくんみたいに良い子かもしれないよ?」

クラウンを引き合いに出されると、確かにそうかもしれない。と思えてしまう。それに、今の桐子の頭の中身は悩みが晴れて気が大きくなっていた。

「そうね……そうかもね。でも、私たちから迎えに行くのはナシよ。もしも、たまたま出会ったらの話ね。その時は…………ちょっとだけ、<童話>の話も聞いてみようか」

その答えにマリアの笑顔がパッと咲いた。


お目当のパンを買った後も二人は町中を歩き回った。不安が晴れて警戒心が和らいだせいか、マリアがショーウィンドウに捕まっても彼女を急がす事もなく、二人はより一層買い物を楽しんでいた。

しかし、時間というものはあっという間に流れるもので、良い加減図書館に行かなくては、生徒指導を終えたウィルヘルムの方が先に図書館に着いてしまう。というほどに時間は過ぎていた。

「うわぁ、もうこんな時間。マリア、もう帰ろうよ。私がウィルに怒られる」

「えー、大丈夫よ! ウィルは優しいから。もう一軒! もう一軒だけ!!」

そうは言われても……。さすがに生徒指導も何時間もやってはいないだろう。ハメを外しすぎたと桐子は反省するが、「それじゃあ、図書館に行く方角にお菓子屋さんがあったと思うから、そこでお菓子を買おうよ。それが最後の一軒で良い?」とマリアを甘やかした。

マリアは「お菓子……!」と顔を赤めて喜んでいる。

「私、シュトゥルーデルが良い! あ、でもアプフェルシュトゥルーデル《りんごのパイ》は嫌よ」

「わかった。その代わり、ウィルが図書館に居たら一緒に謝ってくれる?」

「ウィルより先に図書館に帰っていなかったって事を? 分かったわ。約束するよ」

こうして二人の約束は交わされた。

そうと決まればそら急げ。桐子は駆け足でマリアの手を引きながらお菓子屋さんへと向かっていく。「ちょ、桐子ちゃんあれ可愛いよ」とマリアに言われても横目で見ながら「本当だ!」と過ぎてくだけ。「また今度見に行こう」と口約束しながら大通りの角を曲がっていった。

ここまでくればあと少し。マリアの手を引っ張って先を行こうとしたのだが、彼女の手は石のように動かなくなってしまった。それだけではない。

「マリア?」

彼女はピタリと立ち止まり、来た道の方を向いている。

「……臭いがする」

「? 匂い? 何もしないよ」

鼻をすんすんと鳴らしても何も香らない。せいぜい感じられるのは三月の乾いた風の香りだけ。

しかし彼女は急に走り出した。しかも元の道を戻り、坂を急いでかけて行く。その姿はまるで桐子が最初の頃、不思議な声に呼ばれて走り出した時のようにマリアも懸命に何かを探して駆け出した。

「まって、マリア! 何も香らないよ!」

しかし彼女は小道を通り、別の大通りへと入っていく。桐子は両手に持ったパンやチーズなどの荷物が重くって追いかけることで精一杯。マリアとの距離が離れるほどに焦る気持ちで心が苦しくなっていった。

「あとちょっとだよ、桐子ちゃん! この先!」

マリアは振り返ることなく坂を下り路地に迷いなく入るのだが、彼女の言う先に一体何が待っているのだろうか。血の味がし出した唾を強く飲み込み、桐子も路地の通りを抜けだした。今、最もこの場にいてほしい人物の姿を思い浮かべながら。



道の出口は川に沿った大通りで、目の先には釣り場に降りるための石階段が下に向かって伸びていた。しかしその手前、階段の手すりに掴まって川を眺める少年の姿が目に入る。

少年の姿を確認したマリアが「ウィル!」と叫ぶように名を呼ぶと、少年はこちらに振り向いた。

彼が誰かなんてもうすでにマリアが言っている。彼女の兄ウィルヘルムが、こちらを見るなり驚き、嬉しそうな顔をして二人の方へと近づいた。

ウィルヘルムだ。その事に桐子は大層驚いた。なぜなら彼がいた場所は、彼女たちが歩いていた場所から500メートル近くも離れた場所にいたからだ。そんな場所からマリアは匂いを嗅ぎ取り、迷うことなくぴったりと兄の居る場所へと走ってきた。

これも何か二人の間にある<童話>の力によるものか。それとも可笑しな考察、兄妹の見えない絆によるものなのか。感心している桐子をよそに「ウィル―!」とマリアはウィルヘルムの腕の中へと飛び込んだ。

「どうした。そんなに慌てて」

「えへへ。ウィルってば来るのが遅いよ。私、桐子ちゃんと一秒でも早く遊びたくって学校まで迎えに来ちゃった!」

「つったく、仕方ねぇなあ」

そうつっけんどんに言う彼の手をマリアは嬉しそうに取ろうとする。しかし、ウィルヘルムはその手を急いで引っ込めてしまった。

「桐子ちゃんと遊びたいってんなら、ソイツと手を繋げよ」

ふて腐れたように唇を尖らせるウィルヘルムにマリアは不思議そうにキョトンとしたが「んーん! 私はあなたとお手々を繋ぎたいの!」と両手で抱きしめるようにして彼の腕を捕まえた。

楽しそうに笑うマリアと頬を赤く染めるウィルヘルム。仲良し兄妹の二人の世界。その世界の中で桐子はすっかり疎外感を感じていた。まあいつもの事なのだから、彼女は特に気にしているわけではない。しかし、人の目など気にせずにイチャイチャする二人を眺めてはすっかり呆れ返ってしまっていた。


「そうだ。これからねお菓子屋さんに行くの。それでね、桐子ちゃんがシュトゥルーデル買ってくれるの!」

「ウィルも食べたいお菓子があったら言って。約束守れなかったお詫びに何か好きなお菓子をご馳走させてよ」

「俺は良いよ別に」

ウィルヘルムはずんぶんと遠慮がちにそう言うが、マリアはグイグイと彼の腕を引っ張り急いでお菓子屋さんへと向かおうとしている。

「そんなに急がなくたって、お菓子屋は逃げないだろ?」

「早くシュトゥルーデル食べたいの!」

ワガママを言うマリアに付き合うようにウィルヘルムの足も速くなる。 三人は元きた道へと戻ろうと、もう一度小道の方へ歩いて行った。

マリアとウィルヘルムが先を行き、桐子がその後をついて行く。しかし手荷物が多くってバランスを崩しそうになった桐子はその場に一度立ち止まり、荷物の持ち方を変えようともたついた。

その間も兄妹たちはスタスタと先を歩いて行く。桐子は「待って」とも言わずに改めて荷物を持ち直すと、急いで彼らの後をついて行った。しかし何故だが二人との距離は縮まるどころか開いていく。明らかにマリアとウィルヘルムの足取りが初めよりも速くなっていた。

これには流石に桐子も焦って「待って」と言おうとしたのだが、彼女の鼻を急に不快な臭いが刺激した。

「ぐっ! 何?!この臭い?!」

とっさに鼻をつまんでしまうほどの激臭。しかし彼ら兄妹はそれに気付いていない様子。二人は変わらず先を歩いていた。

彼らはこれほど酷い臭いをなんとも思っていないのだろうか。何も反応を示さない兄妹たちに桐子は疑問を持っていた。なにせマリアは<童話>の臭いを嗅ぎ分けることに関しては誰にも負けないと自負していた。それなのに<童話>の臭いなんてものを嗅いだことのない桐子の方が顔を覆いたくなるほどの激臭に参っている。だとすると、これは<童話>の臭いではないのか……?

ついに桐子は荷物を落とし、気持ちが悪そうに両手で顔を覆った。

「どうしたの桐子ちゃん?」

ようやく桐子の異変に気が付いたマリアが路地を出る一歩手前で立ち止まり、不思議そうにこちらへと振り向いた。やはり彼女たちは気付いていない様子。

「マリア、ウィル……なんか、この辺、臭わない? 何ていうか……野生の……獣のにお……いが……」

桐子は目の前の光景を見て絶句した。マリアの手を掴んでいるウィルヘルムの顔がだんだんと不気味な形へと変形していくからであった。

目は吊りあがり、口は耳まで裂けてしまいそうなほどに大きく開く。そしてそこから覗く鋭い牙は、目の前のか弱い少女に向けてギラリと鈍く光っていた。

普段のウィルヘルムが使う変形能力とはあまりにも掛け離れたその醜さに桐子は彼がウィルヘルムではないことを即座に勘付いた。

「マリア!!」

桐子はマリアの名を叫び、彼女を助けようと手を伸ばす。しかしその手が届くはずもなく、キョトンとしたマリアの顔はそのまま兄の方へと見上げていった。

「何をしてるの? マリア」

ウィルヘルムの冷たくも優しい声。その声が、偽物の背後から聞こえてきた。

本物のウィルヘルムが偽物の後頭部を鷲掴みにすると、掴まれた部分がピシッと音を立てて凍りつく。しかもそれだけではない。辺りも真冬のように寒くなっていき、桐子の吐く息も白く冷たく凍っていた。

「ウィルってば、来るのが遅いよ」

マリアはこの事を予測していたのだろうか。彼女が見上げた先にはしっかりと本物のウィルヘルムの顔があり、彼に向けて嬉しそうに微笑んでいた。

『! クソッ、なんだこれは?!』

偽物は跳ねるようにして前の方へと逃げだした。しかし、路地の入り口をウィルヘルムと桐子に塞がれて自ら逃口を失った。

彼の顔はウィルヘルムの面影を残しながらもなお、醜く狼の顔の形へと歪んでゆく。

「あんまりその顔で変形能力使うなよ……。気持ち悪い」

『キサマは何者だ! 一体何なんだその力は!!』

偽物の方はとうに余裕を失ったといった感じ。彼の名を聞こうにも教えてはくれなさそうだ。

気だるそうにため息を吐きながらウィルヘルムはちゃんと偽物に向かって名乗り出た。

「我が名はウィルヘルム・フェルベルト。グリムアルムの一人……だっ!」

ウィルヘルムの右足が強く地面を叩き踏む。すると、そこを中心として波紋のように鋭い氷が生えてきた。氷は波のように偽物に向かって伸びてゆき、彼の動きを捕らえようとする。

『キャンッ!』

と吠えた偽物が、急いで頭上にある窓の手すりにつかまった。

『グ! グググ、グリムアルムだと?! 嫌だぃ! オラはまだ捕まりたくないやぃ!!』

<童話>は懸命に壁を蹴り、なんとか屋根の上へと逃げようとする。

しかしウィルヘルムがそれを許すわけがない。彼はカバンから三枚の黒い羽を取り出すと<童話>に向かって投げ飛ばした。羽は彼の手から離れると三羽の<カラス>に変形し、目の前にいる<童話>の背中や手先をついばんだ。

そのくちばしの痛さ。桐子は己の身をもってよく知っている。もちろん<童話>の方もその痛さに耐えられなくなってきて、飛び降りたい気持ちで一杯だった。

今、下に落ちればウィルヘルムの氷がすぐに偽物を捕らえるだろう。だとすると……。

<童話>はある所に目をつけて、勢いよくそのポイントに飛び降りた。そこはなんと、桐子がたたずむ一歩手前の空間。ウィルヘルムの氷もそこまでは伸びてはいなかった。

突然目の前に現れた<恐ろしい童話>に桐子の心は一気に恐怖に支配された。しかもそれがマズかった。彼女の恐怖心がより一層<童話>の力を高めてしまい、その姿を大きく変貌させる。<童話>の姿はもうすでに人ならざるものとなっており、まさしく映画の世界の狼男そのものであった。

『邪魔だあぁぁぁぁ! どけええええ!!』

「うわああああ!」

<童話>は桐子に襲いかかり、より強い恐怖心を彼女から搾り出そうとした。そして急いでこの場から逃げ去ろうとしたのだが、<童話>は彼女のことを見誤っていた。

なんと桐子は瞬時に<童話>から視界を奪い取ってみせたのだ。そう、あのどキツイピンクの自動折りたたみ傘を至近距離で開いたのだ。

何が起きたのか分からない<童話>は驚き後ろへと素っ転んだ。

その時にはもうウィルヘルムの氷も地面いっぱいに引かれており<童話>の体はペッタリと氷にくくりつけられてしまった。


ウィルヘルムは残りの三羽を呼び出して地面に転がる<童話>の背中に彼ら、六羽のカラスを群がらせた。

『やった! やった! 悪い狼が死んだ! 悪い狼が死んだ!』

カラスたちは倒れている<童話>をついばみながら楽しそうに歌を歌う。

そのついばみ方は今までの桐子にやっていたじゃれ合いとは違い、本気で中身から物を取り出すように引っ張っていた。体からズルズルと小汚い獣の皮が引っ張り出され、その度に人とは思えないような悲鳴が辺りにこだまする。

『嫌だーー!! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 死にたくねぇよぉー……死にたくねぇよぉ……』

それでもカラスたちは容赦無く『やった、やった』と嬉しそうに<童話>の体をついばんだ。

<童話>の正体、それはベッカー少年に取り憑いたあの老犬ハラスであった。

取り憑いた人間からすっかり引き出された<ハラス>の姿は、クタクタに使い古された毛むくじゃらの縫いぐるみのよう。手足が骨のようにやせ細り、随分と歳の食った<狼>であった。

「取り憑く力が弱い<童話>でよかった。俺の<カラス>でもどうにかひっぺ剝がせたよ」

『七匹目だ……あと一匹見つかれば…………オイは……、オイはっ……!』

「いいや。お前は一生、七匹目を見つけることなんかできないよ」

マントの内ポケットから白い栞を取り出して、ウィルヘルムはそれを<童話>に掲げる。

すると地面から氷柱が生えてきて<童話>を一瞬で氷漬けにしてしまった。氷にヒビが入り、音を立てて割れたかと思うと、それらは大量の紙の束へと変わる。そしてその場にバッと高く舞い上がるのだ。宙を舞う紙吹雪の中、ウィルヘルムが一枚の黒い紙を手に取ると、他の紙は霞のように消えていく。

この時桐子は初めてグリムアルムが<童話>を封印する瞬間を見たのだが、彼女にはその光景がとても美しく神秘的に写って見えていた。


「ウィル!」

マリアがウィルヘルムの方へと駆けていく。彼は少女の方に振り向くと、ひしりと彼女の体を抱きしめた。

「マリア…………怪我は?」

「ううん。大丈夫」

「そうか……」

長く続く抱擁は少女のか細い体をきつく締め上げる。それにはマリアもつい「ウィル、痛い!」と文句を垂れるのであった。

「…………ごめんなさい。私、またウィルに心配かけちゃった」

ほどいた彼の手は小刻みに震えており、マリアはなだめるようにしてウィルヘルムの手をそっと撫でた。その手は何よりも温かく彼の不安を溶かしてく。

「本当だよ……。マリアがまた、<童話>に襲われたら俺は……」

「私なら大丈夫」

「大丈夫じゃないっ!! …………頼むよマリア……これ以上俺を心配させないでくれ。もうマリアが<童話>のせいで傷つくなんてことを、させたくないんだ」


ーー腰抜けフェルベルト。


ウィルヘルムの声を聞いて桐子はこの言葉の意味をついに知った。

この言葉は決して臆病などという意味ではなく、彼なりの妹を守るための愛だったのだ。

グリムアルムの一族として産まれた彼らにとって、任された使命はとてつもなく重く険しいもの。おそらくマリアはそのせいで過去に<恐ろしい童話>に襲われたのだ。そしてそれはきっと、ウィルヘルムにとっての大きなトラウマ。だから彼はマリアに<童話>を近づけさせないようにと、自らも<童話>との関わりを避けてきたのだ。

その証拠が<童話>に取り憑かれている桐子とマリアとを近づけさせないようにと過敏に警戒したり、<童話>に関する話への興味の無さである。

そのせいで周りに"腰抜け"などと揶揄されても、愛する妹を守れるのであれば彼にはそんな言葉通用しないのだ。

何とも身勝手で可愛らしい抵抗ではないか。

確かにそんな子供に自分の安全を任せるなんてことは到底できない。が、桐子はウィルヘルムにこれまで以上に親近感を覚えていた。

彼の事をただのクソガキだと思っていると言ってても、やはりどこかで別次元の人なのではないかとも思っていた。

今の戦いを見て、誰が彼を"腰抜け"などと言えようか。彼は立派な戦士だった。しかし彼だって人の子なのだ。ハンスが言っていたように、グリムアルムだって一人の人間。彼には彼の弱さがある。しかも彼は好きで桐子のことを守っているわけではない。彼は本当は戦いたくはないはずなのだ。


ここまでの考えが桐子の勝手な妄想だとしても、今の彼女が彼らのためにすることはなんなのか。それはハンスに頼まれた通り、ウィルヘルムとの絆を深めていく。それもとっても大切なことなのだが、きっとそれだけではないはずだ。

手と手をつなぐ幼い兄妹を見つめながら桐子は考えた。この二人の平和のためにも自分はもっと強くなろう。おそらく、これ以上彼らに迷惑をかけぬようにと自分自身の心と体を強く鍛えることが彼らへの恩返しなのだ。




<つづく>

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