004<狼と七匹の子山羊> ― Ⅳ
こうして桐子とウィルヘルムの<童話>に襲われた時の仮想訓練は始まった。
ウィルヘルムは<七羽のカラス>を使って彼らに桐子を襲い掛からせる。襲い掛かる〈カラス〉達から桐子は逃げたり反撃したりする。のだが、いかんせん二人とも手探り作業なので、桐子の方は生傷が絶えることはなかった。
ある日の事
「動物型、あるいは突進してくる<童話>への対策方法を一つ考えてみました!」
と言ってきたので
「ほーう、じゃあやってみろ」
と言ってウィルヘルムは黒いマントをひるがえし、文字通り<七羽のカラス>を身にまとった。
七つに分離したカラス達はいつものように桐子目掛けて突っ込んできた。しかし、彼女は逃げる事無く冷汗をかきながらもその場にじっと留まっている。
一体何をするつもりか。カラスと桐子の間合いがだんだんと近づいてゆき、あともう少しで襲われる! と思うほどにカラスとの距離が縮まった。次の瞬間、桐子はタイミングを見計らってバッと勢いよくある物を広げてみせた。
一瞬にして視界全体に広げられた大きな物にカラス達は驚いて、急いで空へと舞い上がった。
「こ……これは!」
驚くウィルヘルムを見た桐子は得意げにニヤリと笑う。
「自動折り畳み傘」
目が痛くなるほどにドきついピンク色の折りたたみ傘。作戦が成功して嬉しいのか桐子は楽しそうにその傘をくるくると回しだした。
「メイドインジャパーンだぜ! かっこいいだろう?
お母さんがね、お父さん用にって買ったんだけど、デザインを間違えて注文したもんで……代わりに私がもらっちゃった!」
確かに成人男性が持つにしては随分と派手なデザインである。ハートマークが大量に散りばめられており、色も選ばれし者にしか似合わないほどに酷かった。正直言うと桐子は選ばれし者ではなかった。
しかしその効果は絶大的でカラス達を追い払うことには成功した。初めての勝利だ。そう思った桐子はウキウキと上機嫌になる。のだが、その後何も起きないことを確認し終えたカラス達は、何事も無かったかのように桐子目掛けて襲いかかってくるのであった。
* * *
そんな特訓を繰り返し、あっという間に一週間も過ぎていった。
カレンダーもめくれてもう三月。気温も上がって過ごしやすくなった登校時間の朝のこと、桐子を訪ねて久方ぶりの人物がひょっこりと姿を現した。
「や……やあ!」
「クラウン! 久しぶり……だね」
<夜ウグイスとメクラトカゲ>以来の再会。ウィルヘルムは桐子よりも早い時間から授業が始まるという事で今日はお迎えには来ていなかった。今は桐子ただ一人だ。
ウィルヘルムとも話し合ったせいか桐子は三度彼女の事を警戒していた。が、クラウンの方は照れ臭そうに顔をそらしつつチラチラと目線を配っている。意味が違えど互いの間には緊張の糸が張っていた。
「……元気にしてた?」
「う、うん!オイラ元気にしてた!!桐子も元気にしてたか?」
桐子の心配をよそに、初対面の時からは想像できないほどクラウンは人が変わっていた。「うん、元気にしてた」と簡単に返事を返すと、クラウンは嬉しそうに目をキラキラと輝かせて頷いてくる。まるで子供のような人だ。
「一週間もごめんな。この前の戦いで服がズタボロで……もうこの一着しか持ってないんだ。だからこうやってなんとか穴を塞いだんだけど、<童話>退治に別の町に出張したりして忙しかったんだ」
「そうだったんだ。だから学校でも合わなかったんだね」
「? がっこう……? オイラ、学校には通っていないぞ?」
クラウンは不思議そうに言うが、彼女の着ている服はドイツでは珍しい学校指定の学生服。桐子もその制服を見てクラウンは同じ学校の生徒だと思っていたのだがどうやら勘違いのようだ。
「あぁ、この服はだいぶ前に古着屋で先生が買ってきてくれたんだ。此の手の服は丈夫だって。ほら、ほつれた所も直せば元通り。立派だろ?」
自慢げに袖を引っ張るクラウン。確かに上質な生地ではあるが、それがカッコいいわけでも可愛いわけでもない。クラウンが服に求めているものはオシャレよりも機能性なのだ。
クラウンのペースのままに会話が続く。嬉しそうに話す彼女は突然「あ、そうだった」と手持ちの紙袋を桐子に手渡した。
「はい、お土産」
手渡された茶色い紙袋を素直に受け取ると、クラウンはソワソワと何か待ち構えた。
きっと中身を見てもらいたいのだろう。そう察した桐子は促されるままに袋を開ける。するとそこには透明なフィルムに包まれた半月型の小さなチーズが入っていた。
「美味しい美味しいヤギのチーズ!
一昨日だったかな、ケルンでの仕事を終えた後に広場を通ったらなんかお祭りしてたんだ。
沢山の人たちが一頭のヤギを引っ張って来てさ、それ見てたらオイラ、腹減ってきちゃって……。本当は肉が食べたかったんだけど、入った店にはヤギ肉置いてないもんで代わりにチーズを食ったんだ。そうしたらすんげー美味くって! 桐子にも食べさせたくなったから、お土産に一つだけ買って来たんだ!」
これから学校の桐子には臭いが気になるお土産だが、クラウンは「きっと気に入るぞ!」と興奮気味にそのチーズの素晴らしさを熱く語ってくれていた。
「あ……ありがとう! わーい、嬉しいなー。今年は誕生日なかったから……」
突如、誕生日という言葉にクラウンはピクリと反応した。それはあからさますぎて「プレゼントがもらえたみたいで倍嬉しい」と続けようと思っていた桐子は、彼女の気分を害してしまったのではと酷く焦った。
「桐子の誕生日は……うるう年ってやつなのか?」
「いや、3月3日。今年は土曜日だったから誕生日会を開くのが面倒くさくって、学校も無いし。でも私、そんなに誕生日とか大切にしていないから……」
「そんな事っ!」
クラウンは急に怒鳴るようにして声を大きく張り上げた。その声からして怒ってしまったのかと思ったのだが、彼女の表情を見るとそうでもないようだ。とても寂しそうにしている。
「そんなこと言うなよ……。誕生日は、大切なんだぞ」
そこで桐子はあっ! と思い出した。ドイツでは誕生日というイベントはクリスマスに匹敵するほどに大事な行事だという事を。そんな一大イベントを「大切にしていない」などと言ってしまった。
謝らなくてはと、桐子は急いで口を開いたが、クラウンは彼女に謝らせる暇も与えずに「また明日!」と寂しそうな顔をしながら疾風のごとく去って行ってしまった。
一体何だったのだろうか。嵐のように現れて、楽しそうに話していたかと思うと怒鳴って、しょんぼりして、慌てて帰って行ってしまった。
幼い子と遊んだ後のようにどっと疲れが溢れ出る。しかし、桐子はそんな時間をなぜだか嫌だとは感じられずにいた。むしろ懐かしさを何処かに感じ持っていたのだった。
「またクラウンが現れただと?!」
時間は過ぎて昼休み。食堂のいつもの席にて桐子は今朝のクラウンの事をウィルヘルムに話していた。
「でもね、ほら。私のためにお土産も買って来てくれたんだよ〜。はい、チーズ」
とぼけた掛け声で通学カバンからヤギのチーズを取り出した。本当は自慢するほどに嬉しかったのだろう。
しかしウィルヘルムは桐子を無視してそのチーズを睨んでいる。
「あいつとは関わるなと言ったはずだ」
「うん。でも、クラウンはそこまで悪い子じゃないと、私は思うよ」
「お前……。一度どころか二度もそいつに殺されかけたんだぞ?」
「でも二度目のはちゃんと和解したし、友達になろうって言ったら嬉しそうに笑ってたし……」
「と、も、だ、ち、だぁ?! 大体何だってんだ、その友達っていうのは。お前は本当に、お前を殺そうとしていた相手とも友達同士になれると思っているのか。 馬鹿なのか? アホなのか?!大体その、嬉しそうだったっていうのもお前が勝手にそう思っているだけだろ?!」
「そんなことないもん! ウィルは知らないからそんな風に言えるんだよ。クラウンの笑顔ってすっごく可愛いんだよ」
「ほうほう、今度は可愛いからか。可愛いからって信じるのか。これだから女、子供は!」
「何よ! 可愛い子を可愛いって言って何が悪い! それに私の方がウィルよりも年上なんですけどもー? あんたみたいなツンツンしたクソガキ、全然可愛くなんかないんだからねー!」
「って言うかお前! いつから俺の事ウィルって馴れ馴れしく……」
「おやおや、夫婦喧嘩ですかにゃ?」
ヒートアップしていく二人の会話に突如、智菊の声が湧いて出てきた。
「夫婦じゃねーやい!」と息ぴったりに二人は怒鳴ったが智菊は終始ニマニマしている。
「桐子なんかより智菊の方が全然物分りがいいし、可愛げがある」
「ウィルヘルムくん……気持ちはとっても嬉しいわ! でも、私には祖国に残したあの人がっ!!」
「智菊に彼氏っていたっけ?」
「いねーよ、チクショーメ」
唾を吐き捨てるかのように愚痴をこぼし智菊はドサッと桐子の隣に座った。
その座り方には可愛げなど何処にも無く、片足は大きくあぐらをかいている。
「でもいいね! 命短し恋せよ乙女。いつか現れる王子様とのトゥルーラブキッス! たまんねぇーなチクショーメ!」
まるで酔っ払いのように楽しく笑い転げる智菊にウィルヘルムは明らさまに引いていた。
「智菊ってこんなヤツなのか?」
「平常運転よ。智菊は恋に恋する乙女だから。気にしない~、気にしない~」
慣れたように桐子は言うが、その言葉通りには到底見えない。女子力の女の字も感じ取れない智菊にウィルヘルムはただただ冷ややかな目線を送るのであった。
「そうだ桐子、これから俺は用があるから先に図書館に行っててくれ」
「用って?」
「生徒指導室に呼ばれている。今日しか教室が空いてなかったんだ」
生徒指導室と聞いて桐子はギョッと驚いた。彼は口こそ悪いとはいえ身なりや立ち振る舞いは紳士的と言えるほどにしゃんとしている。教師たちや同級生たちの評価もすこぶる良い。そんな彼がなぜ生徒指導室に?
桐子は疑いの眼差しを無意識のうちにウィルヘルムへと送ってしまっていたのだが、彼自身は何も気にせずにスタスタとその場を去って行った。
「ねぇ智菊。ウィル、何をしでかしたのかな?」
ひそひそと心配した声で智菊に聞くと、彼女は未だにニヤリとイヤラシイ笑顔のまま。しゃんと足を揃えて座り直したかと思うと、今度は桐子の顔を覗くようにして頬杖をついた。
「やっぱり本命はこっち?」
「本命? ちょっとふざけないでよ。真面目な話……」
「とぼけなくったっていいじゃんか! 私たちの仲よー。この間、食堂で一緒にいた彼もかっこよかったけれど中性的な顔過ぎて私は好みじゃないのよねー」
うんうんと頷く智菊の頭上にはクラウンの顔が思い描かれているのだろう。
しかし「クラウン? クラウンは女の子だよ」と残酷な真実を告げられて智菊はわざとらしく驚いた。
「え?! うそぉ! あーでも、そうなのかぁ〜……」
未練が残っているかような言い回し。
「好みじゃないんじゃなかったのかよ」と鋭くツッコミを入れると、しばらくの間、二人の間に間が空いた。のだがすぐに揃ってガハハと笑った。
「そんでそうねー、ウィルヘルムくんねー……」
ヒィヒィと呼吸を整えずに笑ったままの智菊がある人物を軽く指差した。その先には食堂で働くビン底眼鏡の金髪少女がせっせと忙しそうに動いていた。
「先週の終わりにさぁ、彼女、初等部の男子生徒たちに虐められていたのよ」
それは桐子にとっては初耳だった。とんでもない一大事。しかしそれが一体ウィルヘルムと何の繋がりがあるのだろうか。彼女はそのまま話を進めた。
その日、初期学生の校舎に用があったという智菊は仕事を終えた後、道に迷いながらも自分のクラスへと戻っていた。その途中、中庭の方から何やら言い争い会う声が聞こえたので、その声の方へと顔を覗かせたと言う。
そこには見るからにガキ大将といった風貌の男子生徒とその取り巻きが二人。そしてその前には、かのビン底眼鏡の金髪少女が、顔を真っ赤に腫らしながら倒れていた。
智菊のリスニング能力によると「貧乏人」だとか「可愛くない」だとかと言った単語が聞き取れたので、可哀想な智菊の脳みそは「あぁこれは、好きな子ほど虐めたいってヤツですな」と可哀想な勘違いを起こしていたのだ。
しかしこのまま放っておいては傷ついた彼女のトラウマになってしまう。教師を呼んで仲裁に入ってもらおうと、そう思いたったその時だ。
「止めろよみっともない」と、よく聞き慣れた少年の声が中庭の方へと近づいた。
その声に振り向き見てみると、ウィルヘルムが堂々とした姿勢で彼らの間に割って入っていく。
「あの時の姿は本当にかっこよかったわよ~」
と思い出しながら語っている智菊の顔はニヤニヤとにやけて溶けていた。
それからその後、ガキ大将とウィルヘルムは一対一で何か話し合っていたのだが、ウィルヘルムが呆れたように「見ていて不愉快だ」と呟くと、その言葉を合図にガキ大将が大きく拳を振るった。その拳はウィルヘルムの顔面めがけて飛びかかる。
その頃には智菊以外にも野次馬が数人集まってきており、女の子たちのキャっと言う悲鳴も聞こえてきていた。しかし、事は一瞬のうちに片付いてしまった。
振るわれた拳をウィルヘルムは可憐に受け流し、逆にその力を利用してガキ大将の方をねじ伏せてしまったのだ。
10センチほどの体格差。しかし流れるようにして技が決まると、その場の野次馬たちは一斉に大きな歓声を上げていた。
「うわ! ヤベェやりすぎた!!」
と慌てたウィルヘルムの声もかき消させるほどの大歓声。
事のすべてを見ていた者にとって、彼は立派な英雄に見えただろう。だが、騒ぎの声を聞きつけて来た教師たちにとっては、そのようには到底見えていなかったようだった。
「まさか、そんな事があっただなんて……」
「最近の桐子、だいぶ忙しそうだったもんね。学校ではずっと教室で課題とにらめっこだったし、放課後も図書館で勉強ばっかりだし……
しっかし、本当にカッコよかったわよ〜ウィルヘルムくん。ショタには興味ないけれど」
惚れ惚れといった面持ちで騒ぎ立てるのだが、桐子は当にその姿を知っている。彼は強くて優しいのだ。しかしここは友として、智菊に厳しい真実を告げる。
「ウィルは引くほどのシスコンだよ」
それはもうベッタベタの。その事実に「え?! うそぉ!」と本気でショックを受けたように見えたのだが「でもまぁ、言い方を変えれば妹思いなのか―……」と持ち前のポジティブでケロッとウィルヘルムへの偏見を無かった事にした。そんな彼女に「興味ないんじゃないのかよ」と、またもやツッコミを入れるのだが、今度のツッコミはどこか安心したような、嬉しそうな笑い声も混じっていた。
二人が楽しくウィルヘルムの噂をしていると「あの……」と控えめな声が智菊の背後からかけられた。
振り向くとそこにはビン底眼鏡の金髪少女ちゃんが、恥ずかしそうにモジモジとしながら立っている。
「こ……この間は、どうもありがとうございました」
話し始めと最後とで段々と声が小さくなっていくのだが深々とお辞儀をしている辺り、本当に感謝しているのであろうという事は伺えられる。
智菊が「いやいや、いいって」と照れ笑うのだが彼女が感謝される意味がさっぱりわからない。不思議そうな顔をしている桐子に智菊は急いで説明する。
「あぁ。あの後ね、ウィルヘルムくんとガキ大将が先生に連れて行かれた後、取り残されたこの子を私が手当したのよ。ほら、この絆創膏」
そう言うと眼鏡ちゃんの腕にはられた絆創膏をピッと強く指差した。とっても可愛らしい絵柄がプリントされているその絆創膏。それを見た桐子は、あーっ! と声を上げて驚いた。
「これ、私が智菊にあげたヤツ!」
「え! この絆創膏、貴女のでしたか?」
眼鏡ちゃんは嬉しそうな声を出して桐子に食いついた。
「そうそう、日本を発つ前に智菊に自慢して一枚持ってかれたんだ。でも良かった。ちゃんと役に立ったみたいで」
桐子は本当に嬉しそうに笑って眼鏡ちゃんを優しく見つめると、彼女も頬を赤めながらにっこりと微笑み返す。
「この絆創膏、とってもお気に入りなんです。ただ傷口を守るだけの絆創膏がこんなにも可愛らしいなんて……」
彼女は大層この絆創膏を気に入っている様子で、元持ち主である桐子もそれはそれはもう誇らしい気持ちでいっぱいだった。
「気に入ったのなら他にもいっぱいあるよ!」
急いで小さな救急ポーチを取り出すと、そこから沢山の絆創膏を広げて見せた。
「桐子が女子っぽいもの持ってる〜」
「最近怪我する事が多くてね〜……ねえ、どれがいい?」
カラフルに並べられた絆創膏。よく見るとシンデレラやいばら姫、 雪白姫といった童話たちの絵柄になっている。眼鏡ちゃんの絆創膏も可愛いネズミと小鳥とソーセージとが笑いあっている。
「七匹の子ヤギにラプンツェル……すごい!こんなに沢山! まぁ、これは赤ずきん?」
どうやら欲しいものが見つかったようだ。
キュッと赤ずきんの絆創膏を握りしめ「これ、もらっても良いですか?」と控えめに聞いてきた。「全然いいよ! 何枚でもあげちゃう!」と気前よく言うが、彼女は赤ずきんだけを握りしめ、もう一度丁寧にお辞儀をすると嬉しそうに自分の持ち場へと去っていった。
「ねえ、可愛いね。あの子」
去っている眼鏡少女の後ろ姿を愛おしそうに見送る桐子に「そうね」と智菊も見送っていた。
「でもさ、ウィルの話を聞いてさ、私ちょーっとばかし分かんなくなっちゃった」
「ほうほう、どうした?」
智菊は変わらず楽しそうな顔をして桐子の話を聞いている。
おせっかい焼きで情報好きな彼女なのだが、こんな時は本当にいい相談相手になってくれるのだ。桐子はそれだけ智菊の事を信頼している。
「ウィルがね、いい子なのは知ってるし、強いのも。それと口が悪くって、意地悪で、私の事を見下している事も……」
「だはは〜」
「でもね、私はこれでもウィルの事を信じている方なんだよ? 迷子になった日に助けてくれた恩人だし、放課後のお勉強会に付き合ってくれるし……。
だけどね、そのウィルに信用するなって言われているの。その……私がドイツで作った初めての友達を」
真剣に悩む桐子の姿に、智菊はしっかりと背筋を伸ばして桐子を見つめた。
「確かにクラウンは危ない事ばかりする子で、私も巻き込まれたりもしたけれど、彼女は本当は話せば分かる子だって、私は彼女と話してそう思ったの。だって、ほら。わざわざ私にお土産を買ってきてくれたんだよ。
確かにまだまだウィルほど信用しているわけじゃないけれども、そんな事ばっかり考えてちゃ、クラウンの気持ちに応えられないんじゃないかなーっと思うのだが……だが、 だけど、けど……ウィルの言い分も、わかる……。うん。そして、クラウンがウィルの悪口を言った時、私はウィルのことを一瞬でも……」
いや、今でも無意識にそう思っているのかもしれない。
「疑った……。気がする……の。信じてるって言っておきながら……。だから、から、から、の…………
んなぁーー!! もう! 何が何だかわかんない!」
悩み苦しむ桐子に智菊は嬉しそうに、ニマニマ笑って見つめていた。そして安心したかのようにカバンから英独辞書や学習帳を取り出すと、自分の勉強の準備をし始める。
「へへーん。いいじゃん、いいじゃん。相変わらず人の話に流されてるみたいじゃん。そんな貴女が好きだけど、もう少ーし自分の事を信じたら?」
「? それってどういう意味?」
答え欲しさにすがりよる。しかし智菊はそんな事で答えをくれるような子ではない。ハンスとは違う、カラッと乾いた不敵な笑みで「もっと私を見習いなさいって事」と意地悪く笑った。
「……いやー、それはないかな?」
素直にポロリと出た言葉。その言葉ばかりは智菊もつい「だはは〜。一本取られた!」とおどけてみせた。
なんだかんだと言って、一通り悩みごとを聞いてもらえるとスッキリする。この数日間で一番安心した気持ちになった桐子は智菊が広げた学習帳に手をつけた。
「な〜に、智菊。これからお勉強会?」
「あぁ! まだ調べてる途中だから順番変えないで!」
そう言われながら手に取ったのは付箋まみれの旅行ガイドブックだった。昼食の時間を割いてまで勉強するとは感心できる。と思っていたのにすぐこれだ。冷ややかな目線を送るも彼女は堂々とした面立ちで「ガイドブックだって立派な教材よー!」と言い張ってきた。
確かにそれに関しては桐子も反対というわけではない。自分だって日本にいた時には旅行ガイドブックを読み込んで、分からない単語をしらみ潰しに調べたもんだ。
「んもう、いいでしょ! 返して!」
そう奪い返されると少々寂しい気持ちがする。ここのところ忙しすぎて智菊との一緒の時間は久々なのだ。悩み疲れた桐子はぐったりと、今度は彼女の方から智菊のノートを覗き込んでいた。
「B……ボイテル。小袋っと。タバコのケースに、財布にも使うのかー……」
智菊の集中力は途絶える事なく言葉の一つ一つを飲み込んでいく。
確かにこの部分は見習うべきか。そんな先の事を思い出しながら桐子は智菊の呟きを聞き続けていた。
「ふむふむ。へー、ボックスボイテル……。ボックス、ボイテルってなんだ?」
ボックスボイテル……。それは桐子もどこかで見覚えがあった。それはまだ日本にいた頃。それこそまさに旅行ガイドブックで見つけたものだった。のだが、なぜだか桐子の心がざわついた。何かが気付こうとしている。
「ちょっと貸して……」
静かに智菊から旅行ガイドブックを奪い取り、ドイツのとある名産物を探り出した。
「ボックスボイテル。確か特別なワインにしか許されていないボトルのはず。ワイン、ワイン。貴腐ワイン? いや、違う。赤ワイン……ううん……もっと最近聞いたはず……」
ペラペラと数ページにわたる観光地の説明が続いた後、桐子はドイツワインを紹介する特集ページを見つけ出す。
そこにはもちろんドイツ名産の白ワインを何種類も並べて進めるコラムが書かれてある他、ゲーテが愛したという赤ワインやクリスマスの温かいグリューワインの説明も書かれてあった。しかし桐子の探し物はそれではない。しかし同じページの中に探していたものは載っていた。
丸っこくて平べったい、馴染みのない人にこれがワインボトルだと言ってもそうだとは納得してくれないだろうそのフォルム。
説明文にはこう書かれていた
[フランケンワインにしか使ってはいけないこのボトル。ボックスボイテルと呼ばれており、直訳すると「ヤギの袋」と言う。]
あ、これだ。と見つけた瞬間、桐子の頭の中でハンスが推理していたあの<童話>の事件が思い起こされる。
「初めの事件、フランケンワインを持った男が倒れてた」
単なる偶然だろう。こんな些細な偶然はいくらでもある。そう言い聞かせても何かが心に引っかかる。と、その時「あ、智菊ー。そこの席空いてる?」と、どこからともなく気の抜けた声が聞こえてきた。
声の持ち主である彼女らも桐子と同じでこのギムナジウムへは交換留学生としてやってきた。しかし日本では桐子たちとは違う学校からの参加である。それでも智菊に声をかけるのだ。彼女たちは随分と仲がいいのだろう。
「おー、空いてるよー」
智菊は元気よく返事を返し、手先は荒々しくも桐子からガイドブックを取り戻していた。そして桐子が見ていたワインのページをふむふむと読み解いで行く。
彼女たちも桐子たちの事は御構い無しといった感じで先から続けているであろう会話を止めることなく語り合っていた。
よく聞くとサッカーの話をしているようだった。サッカー好きの女の子たちとは珍しいと思った桐子は少し彼女らの会話に耳を傾けていた。
「でも、一昨日のあのゴールは奇跡だったね」
「チームケルンの? あぁ、あれは町中お祭り騒ぎだったみたいだねー。オスカー君まで引っ張り出されていたみたいだけど、あの試合が世界大会だったらよかったのにねー」
ケルンでのお祭りの話を彼女たちはしている。きっとそのお祭りはクラウンが言っていたお祭りと同じものだ。だって彼女はお祭りのヤギを見たから、ヤギのチーズを買ってきた。
「ねえ、変な質問してもいい? その、ケルンのサッカーの試合の後。お祭りにヤギがいたりした?」
「うん。オスカー君でしょ。 ケルンに拠点を置いてるサッカーチームのマスコットヤギなんだよー。しかもね、着ぐるみじゃなくって本物のヤギなの。可愛いでしょー」
そう言って彼女たちはスマートフォンからスポーツニュースを取り出した。
そこには堂々としたヤギの姿が映っており、サッカーユニホームを着た選手であろう男に無理やりキスされそうになっている。
「なになに、菅さんもサッカーに興味があるの?」
と嬉しそうに彼女たちは聞いてくるのだが、もうすでにその声は桐子の耳には届いていなかった。
頭の中に巡るは<童話>の正体。
二軒目の事件はスポーツバーでの出来事。彼らもまたサッカー観賞をしていて賑わっていた。そして被害者の応援していたサッカーチームもケルンに所属しているチームであった。
はっと何かに気付いた時、その時見えるもの全てが一つにつながるような感覚に襲われる。それは桐子もまた同じ。彼女は広げたままの絆創膏に目を落としていた。目の前にあるのは七匹の子ヤギの絆創膏。
事件のときは毎度、犬の遠吠えが聞こえていた。それは本当に犬なのか。犬ではない別の生き物だったのではないか。
ヤギと、狼……
桐子はガバリと立ち上がった。 こんなのすべて偶然だろう。狼だってたまたま目の前にあった情報からのこじつけだ。しかし、これらの二つの事件に新たな共通点を見つけ出してしまった桐子には、これはもう真実になってしまったのだ。
何事かと不思議がる同級生たちを尻目に桐子は固唾を飲んで囁いた。
「分かっちゃったかもしれない……」