004<狼と七匹の子山羊> ― Ⅰ
ワオーンッ――――……
青い満月が浮かんだ夜。夕食で賑わうレストラン街の裏通りにて、長く尾を引く犬の遠吠えが暗闇の中に響き渡った。しかしその遠吠えはイヌ科のそれとは違い人間の男性が声真似したかのような鳴き声で、聞いた者には妙な違和感を覚えさせた。
声に誘われた数名の通行人がその裏通りに目を向ける。するとそこには二つの人間の影があった。一人は急いでその場を立ち去り、もう一人は地面に倒れている。倒れていた男性は片手に飲みかけのワインボトルを持ち、頭から血を流して意識を失っていた。
月明かりだけの暗い通りの中、意識を失っている男性は逃げた影に襲われたのか。遠吠えの主は誰なのか。謎を解明しようと人々は逃げた影を追うのだが、もう彼を負かした影の姿も声の主も何処にも居なくなっていた。
* * *
真っ赤に染まった空の下、<童話・夜ウグイスとメクラトカゲ>という<悪霊>との死闘を生き抜いた桐子はあの後、毛羽立ったご自慢の三つ編みを直すことなく学校の正門へと向かっていた。
とぼとぼと歩く桐子に気がついた一人の少年が、正門の前から苛立った声を彼女に向かって発する。
「おい、今までどこに行ってた。捜しくたびれたぞ!」
そこに立っていた少年。それはまさしく桐子も捜していたウィルヘルム少年本人で、彼もまた桐子が来るのを随分と待っていたのか腕を組みながらムスッとへの口を大きく曲げていた。
――腰抜けフェルベルト。
クラウンが別れ際に言った言葉。あの言葉は彼、ウィルヘルム・フェルベルトの事を言っていたのだろうか。桐子の頭の中に小さく疑問が湧いた。しかし彼はどんな形であれ彼女の命を救った恩人だ。そんな言葉、たとえクラウンが言ったことでもすぐには信じられない。
それに、襲いかかるクラウンに腰を抜かしていたのは桐子の方だ。ウィルヘルムは今だって、面倒くさそうな顔をしてても憎たらしいほどに堂々とした佇まいでいる。
そんな無愛想な態度でも彼が目の前にいるだけで、桐子はどっと溢れる安心感に年上でありながらも情けなく彼に泣きついた。
「うゎあーーウィルゥー!! こあかったよぉーう!!」
「?! おい、何だよ急に。どうしたんだよ? まさか、またクラウンが?!」
「うん……でも、クラウンは助けてくれたよ」
「助けた?!」
以外過ぎると驚くウィルヘルムに桐子は先ほど起きた<童話>使いとの戦いをかいつまんで話した。
「お前……よく自分を殺そうとした奴と友達になろうだなんて言えたもんだなぁ」
「一杯一杯だったの! 他の方法が思いつかなくって……てか、ウィルヘルムくん!
私、ずっと来るのを待ってたんだよ!」
一瞬、ウィルヘルムの眉がピクリと動いたような気がした。が、彼はすぐに「本当かよ?」と疑いの眼差しを向けてくる。
「本当、本当。いつまでたっても来ないから探し回ったりもしたんだよ!」
「バッカだなぁお前。歩き回ったら会えないだろうが」
その言葉に桐子は確かにと納得してしまった。彼は呆れたようにため息をつくと、より一層への口を曲げてみせる。
「まあいいや、ほら行くぞ。”童話図書館”でその<童話>使いとの戦いをもっと詳しく話せよ。マリアたちも待ってるだろうし……」
<童話>により詳しいであろうハンスやマリアにも先ほどの戦いを聞いて欲しいと思っていた桐子は彼の言葉に賛同した。そして二人は寄り道することなく急いで童話図書館へと向かうのであった。
通行人もまばらとなった通学路。旧市街地に入り組む細い道をなぞるように歩いて行けば、あの不気味な”童話図書館”が静かにお客を待っていた。
未だに慣れぬ雰囲気にしり込みする桐子。しかし彼女をよそにウィルヘルムが元気よく「ただいまー」と言って玄関扉を開けた。その声に二階の手すりからマリアがピョコっと顔をのぞかせる。
「おかえりなさい! あ、桐子ちゃんも昨日ぶり!」
「お、お邪魔しまーす……」
ドタバタと元気よく階段を駆け下りてきたマリアは、その勢いに任せてぴょんっと桐子に抱きついた。
「ねえねえ桐子ちゃん、一緒に遊ぼう! そうしましょ!」
無邪気に桐子の体を右へ左へと揺さぶり回すマリア。それを阻止しようとウィルヘルムがマリアの手を掴もうとするのだが、彼女は桐子を盾にして楽しそうに兄の手から逃げ回る。
「あっ! こらマリア! まだコイツの<童話>は安全かどうか分からないんだ! 無闇に触るな!」
「えー大丈夫よ。あのね、桐子ちゃん。さっき面白そうな絵本を見つけたの! 一緒に読んでくれる?」
「え、あ、うん」
「だーかーら、ダメだって!! はーなーれーろー、マーリーアッ!」
フェルベルト兄妹に挟まれた桐子は忙しそうに目ん玉を回してみせる。
天使のように可愛く微笑むマリアに懐かれる事は満更でもないのだが、それを妬ましく睨みつける兄の目線が突き刺さる。
どうにかしてこの二人の間から脱出したいと悩む桐子に助け舟が「あらあら」とあきれ返った様子で奥の部屋から現れた。
「こんばんは、桐子。丁度、<小人>たちに配るクッキーが焼きあがったところなのよ。
どう? 少し食べていく?」
そういうハンスは昨日と同じ様なシックな黒いロングドレスを身にまとい、妖艶的だが胡散臭い微笑みを口元に浮かべるのであった。
「そう……。<いばら姫>は追い出せなかったの……」
温かいコーヒーを淹れてもらって、ちょっとしたおやつの時間。
クッキーと共にハンスは戸棚からケーキを取り出した。レーズンとナッツのパウンドケーキ。それを四等分にして桐子たちに振舞う。しっとりと甘く柔らかいケーキの味は桐子の疲れを一時的ではあるがスッと心の奥底から吹き飛ばしてしまった。
「しっかし<童話>が願いを叶えるなんて聞いたことないぞ」
「知らないね」
フェルベルト兄妹も美味しそうにケーキをかき込みながら、桐子を襲った<童話>使いの言う[願いを叶える]という言葉の意味に疑問を持っていた。
「たとえ<童話>に魔法の力があったとしても、どんな願いも叶えてしまう。なんて話は存在しないわ。本当にそんなことを言っていたの?」
「はい。たしか、ハ……ハフ? はふくすと? …………とかいう人に言われたとか何とかで……」
ハンスがピンッとひらめいたように「ハウスト!」と言うと「そうそれ、そんな感じ!」と桐子は突っかかりが取れてスッキリしたかのような声を出した。だがハンスはその名を口に出した後、深刻そうな面立ちになり沈んだ声でぼそりと呟いた。
「医者のグリムアルム、ハウスト家」
「え! グリムアルム?!」
驚きフォークを置く桐子。彼女は目を丸く見開きハンスを見るが、彼はコーヒーを一口飲み込むと小さくため息をついた。まるで自分の心の中を一度リセットするかのように。
そして、顔を上げた彼はいつもと変わらぬ微笑みを浮かべているのである。
「昨日話した良くないグリムアルムの事を覚えているかしら?」
「えっと……<童話>を悪いように利用してお金稼いでいるっていう?」
「そう、それがハウスト家。
”グリムアルム”の前についてる肩書きなんてね、初代のグリムアルムたちや<守護童話>にちなんで付けられたものなのだけれども…………あの家も<守護童話>が医者だからって、昔も今も自分は医者だって名乗り続けているのよ。
お医者様を求めて尋ねに来た患者に、彼らは<童話>を憑けたり祓ったり……一部の人間にはヤブ医者だってバレているけれども、今でも彼の元には尋ねに来る人が後を絶たないみたいね。やめなさいって何度も言っているのに……ホント、グリムアルムの面汚しだわ。
だけども驚いた。まさか<童話>使いを桐子に送り込むだなんて。しかも、ありもしないホラ話を吹き込んで……一体何を考えているのかしら」
呆れ笑うハンスに桐子は険しい顔をして彼の話を聞いていた。なぜそんな人を未だにグリムアルムとして雇っているのだろうか。どうしてハンスは笑っていられるのだろうか。それには何かしらの理由があるのだろうか。桐子は意地悪くハンスに聞く。
「なんでそんな悪い人を野放しみたいにしてるんですか? 私だったら縁を切りますよ?」
散々酷い目には遭いたくないと嘆いていても、ズバッと聞きこむ桐子の図々しさにハンスも隠し事を諦めたのか、彼はすんなりと彼女の質問に答えてくれた。
「ヤーコプ・グリムが死の間際に呼んだ友人の子供たち……。ハウストはその友人の家の子孫なのよ。更に最悪なことに血が繋がっていなくともグリム兄弟とは親戚同士でね、グリムアルムの中でも一番封印の力が強いのよ。それで良い気になって、私たちの話を聞かないのかしら? ……うふふ」
そして彼はまた笑う。どうもハウストの話になってからハンスの笑い声が増えた気がした。
何が可笑しいのだろう。桐子はじっとハンスの瞳を見つめたが、彼は喜びとも悲しみとも見分けのつかない感情を、その真っ赤な瞳にやどして優しく目を細めるだけであった。
「でも……あの一族ももう終わりよ。今残っているのは今年で八四歳のおじいちゃん。ただ一人だけ。子供も跡取りもいないから、最後の悪あがきかしらね」
そう言ってハンスはもう一口コーヒーを静かに飲んだ。そして自分の言った言葉に彼はクスリと笑う。もうポーカーフェイスの類と思われる彼の笑顔っからは、桐子は冷たさしか感じられなくなっていた。
「それはそうとウィルヘルム?」
急に呼ばれたウィルヘルムはビクリと体を震わせて微笑むハンスに振り向いた。ウィルヘルムは丁寧にハンカチで口を拭きながら「なんだよ」と嫌そうな声を出す。
「アナタ、私が昨日頼んだ事を忘れているのかしら?」
学校ではなるべく桐子と一緒に行動すること。それがハンスがウィルヘルムに頼んだ事だ。しかし彼はその約束を破ったどころか、桐子が<童話>に襲われていることに気付かずに、ぼーっと彼女が来るのを待っていた。これはウィルヘルムどころかハンスたちグリムアルムと桐子の間に交わされた約束を破ることに繋がる。
見つけた<童話>は逃がさないと言い切っていたハンスは桐子に憑りついている<いばら姫>も逃がすつもりはないのだろう。だからこうまでして桐子が自分たちから離れないように、彼女の安全を保障する事に一生懸命なのだ。それなのにウィルヘルムはハンスの頼みをぞんざいに扱い、彼の期待を裏切った。
「忘れてねーよ。つったく…………今日は俺が悪かった。お詫びに何をすればいい?」
素直でないにしろちゃんと謝れるウィルヘルムにハンスはにっこりと良い笑顔を浮かべ「これをちょっと見て頂戴。桐子も」と言ってドイツの地図を机の上に大きく広げた。地図には所々赤いバツマークがついており、それがどういう意味なのか桐子はさっぱりわからなかった。
「去年の暮れ辺りからね、急激に通り魔事件が増えているのよね……」
そう言ってハンスは一枚の紙と赤いペンを持って一つの大きなバツマークをトンっと指さした。
「まずはこの、ヴュルツブルクで起きた事件。レストラン街の裏通りで二十代前半の男が襲われたわ。彼は鈍器で後ろから殴られていたようで他に外傷はなかった。片手には飲みかけのフランケンワインを持っていたから、酔っ払い同士の喧嘩だとこの事件は片づけられたみたいね。
次の事件はフランクフルトのスポーツバー。ケルンのサッカーチームを応援していた大学生が一緒に来ていた友人を探しに店の外に出たところ……」
「ただの酔っ払い同士の騒ぎじゃねーか」
真剣に聞いていたのが阿保らしくなったのか、ウィルヘルムは勢いよく立ち上がるとハンスが読んでいた紙を奪い取った。桐子も彼の言う通り、通り魔事件というよりかは酔っ払いの喧嘩という印象しか持てない事件を聞かされて不満そうな顔をする。
「まーた<小人>とか使って、現場調査したとか言ってんじゃねーのか?」
馬鹿にしたような目つきで奇ッ怪な文章を流し読むウィルヘルム。紙の裏にも似たような事件がびっしりと書かれており、どれも自分たちとは関係なさそうな事件ばかりであった。しかし彼はある人物の名前を見つけると、ピタリと全ての動きを止めてしまった。そしてキュッと強く唇を噛みしめる。
「確かに<小人>に頼んだ部分もあるけれど、その報告書をまとめたのはルドルフよ」
ルドルフ、聞きなれぬ名だ。桐子はつい「ルドルフ?」とハンスに聞き直した。
「えぇ、彼もグリムアルムの一人よ。そして本職は警察官だから、こうしてドイツのあちらこちらで起きている事件をまとめてきてもらっているの。そのうち桐子にも紹介するわね」
先のハウストとは違い、優しく笑うハンスを見てルドルフという人物が本当に信頼できる人間なのだと、桐子は彼の表情から読み取った。
ハンスは固まったままのウィルヘルムの手から報告書を奪い返すと事件の続きを読み始める。
「次の事件は同じくフランクフルト。今度は女子高生が襲われたわ。彼女は酔っ払いでもなければ成人もしていない。お友達と学校帰りに寄り道をして、その途中で事件に巻き込まれたみたいね」
自分と同じぐらいの年の子が襲われた。桐子の体は小さく震え、無意識に唾を飲み込んだ。
それからもハンスは淡々と事件を読み上げる。それらはテレビのニュースに取り上げられるような大きな事件から新聞の隅にすら書かれないような小さな事件まで。幸いなことに死者までは出ていないが被害者はどれも若い人ばかり。
「ちなみに犯人と思われる容疑者はすでに警察にお世話になったみたいよ」
「それじゃあもう安心だな。襲ってくる危ない奴はもう居ないってことだろ?」
ウィルヘルムは無駄な時間を過ごしたと大きくため息をついてふんぞり返った。そしてケーキにフォークを突き刺し残りを食べようとしたところ、ハンスが「それが……」と言葉を挟んできた。また無駄な情報が出るのかと思われるのだが、彼の曇った声にウィルヘルムはゆっくりとフォークを置いた。
「容疑者たちは事件当時のアリバイがちゃんとあったのよ」
「シラを切っているんだろ」
「ええ。最初はそう思われていたわ。目撃者の証言と捕まえた容疑者の特徴は一致しているし、他人の空似にしては数が多すぎる。それともう一つ気がかりなことがあって、捕まえた容疑者と被害者の関係はどれも知り合いで、とても仲の良い者同士だったのよ」
そう言ってハンスはもう一枚の報告書を取り出した。そちらには容疑者の事件当時の行動が事細かく書かれているようだった。
「最初に話した事件で捕まったのは被害者の幼馴染。彼はこの日、両親と一緒に映画を見に行っていたのよ。事件発生時と上映時間が重なっている。
次の事件の容疑者はまさしく被害者が探しに行った友人なのだけれども、そもそもこの友人は店に入ってから一度も外に出ていなかったし、彼が居たのはカウンター席のテレビの真ん前だったのよ。沢山の人が彼の事を見ているわ。他の事件も同じようにアリバイがあったし、それを照明する物もある。おかしいと思わない」
身を乗り出し力説するハンスにウィルヘルムは渋い顔をした。彼は事件の内容よりもハンスが何を言いたいのか分からずにずっとイライラしているのである。
「なあハンス。お前、俺に探偵ゴッコをしろとでも言っているのか? そんなの警察の仕事だろ? 俺たちには関係ない」
最もらしい言葉を強く突きつけ話を終わらせようとするのだが、ハンスはまだまだ引き下がらない。彼はまたニタリと引きつった笑みを浮かべ、ウィルヘルムの"関係ない"を否定する。
「これらの事件の共通点、どの事件現場でも犬の鳴きまねをした声が聞こえたんですって。人の声で鳴いた犬の遠吠え。そして現場には生臭い獣の臭いが漂っていた。普通の人には気付けないその臭い、ルドルフや<小人>たちにはすぐ分かったんですって。ソレはまだ捕まっていないって」
桐子の表情が暗くなる。それがもし本当ならば嫌な予感しかしない。勘違いであってほしいと願うように桐子は「ソレって、一体……」と申し訳なさそうに聞くのだが、それは逆に確信を得る事となってしまう。ハンスは嫌そうに「<童話>」と答えてくれた。