003<夜ウグイスとメクラトカゲ> ― Ⅱ
「え…………? 左目が……無い?」
言われて恐る恐る左目のあたりを探った。血の気が引いてすっかり凍えた指先が、目があるはずの場所にゆっくりと近づいてゆく。震える指が触ったもの。それは、ぽっかりと開いた小さな穴。あるはずの物がないと理解した時、桐子はすっかり恐怖に捕えられた。
「あ、」っと自然に声が漏れ、桐子の背筋をゾゾゾっと嫌な鳥肌が駆け上がる。
「うっ……うわあああああああ!め、めめめ目が無い!!めっ、目ぇ!! 私の左目があっ!」
「うるさい! クソがっ! 黙ってろ!!」
悲鳴をあげてガタガタ震え崩れる桐子の姿に、男は「うひゃひゃ!」とまた不気味な声を上げて笑った。
「お前<童話>使いじゃねーのか。はんっ! そりゃそうか、<童話>使いでもそんな<童話>臭だだ漏れにしねーわな」
男は楽しそうにナイフをチラつかせて桐子を脅かす。それを見た桐子も丁寧に「ひいっ!!」と反応するものだがら、男はより一層嬉しそうに「うひゃひゃ」と笑った。
どうしようどうしようどうしよう、何も思いつかない。
桐子の思考はパニックに陥り、良い案を瞬時に出すことができなくなっていた。ウィルヘルムに助けを求めようとも、彼がいる場所がわからない。彼も桐子を探してまだ学校の敷地内にいるだろうか。いや、居ることを願うしかない。そしてうまい具合にこの場に現れて彼女を救い出してくれるという、そんな甘い希望にかけるしかない。
桐子史最大の絶体絶命の大ピンチ。そうしている間も男はもてあそぶようにして、クラウンをナイフで攻め続けていた。
「まずはお前からだ。あっちは素人だし、後でゆっくりたっぷりいたぶってやる」
またもや男はクラウンから見て右手方向ばかりを攻めてきた。クラウンも桐子同様、右目を失っておりうまく立ち回れない様子。嵐のようにふってくるナイフさばきを剣で防ぐことに目一杯のようだ。クラウンは右手に走る激痛に苦しい表情を浮かべるも、集中して男の動きについていく。しかし、ついにクラウンの防衛は突破されてしまった。
一瞬、ガクンっと膝の力が抜けてしまい、盾にしていた剣の陰からクラウンの体が出てきてしまう。男はその瞬間を見逃さなかった。即座に重い足蹴りを、クラウンの脇腹に力強く叩きこむ。
「ガハッ!!」
肺に詰まった空気が一気に押されて声とともに溢れ出る。そのままクラウンの身体は軽く弾んで、崩れ座っていた桐子の元へと飛んでいった。桐子は不意に飛んできた彼の体を受け止められずに、二人は折り重なって倒れてしまう。
「だ……大丈夫?」
「なように見えるか?」
もちろん大丈夫なようには見えない。右腕どころか彼の右半身はいくつもの切り傷によって血だらけになっているし、左側だって何度も攻撃を避けた痕が付いている。
しかし、彼は剣を両腕で杖のように持つと、ふらふら危なっかしく立ち上がる。だが腕の傷はあまりにも酷く、力がうまく入らないのかバランスを崩してまた桐子の上へと倒れこんでしまった。
桐子は倒れこむクラウンを受け止めようと、咄嗟に彼の肩を掴んだ。そのお陰で倒れた時の衝撃は多少和らいだのだが、彼女の手がクラウンの傷に触れてしまい、酷い激痛が彼の体を走りまわる。
あまりにも軽く華奢な青年の体。彼の小さな肩には震えなどはなかった。しっかりと、己よりも大きく強い敵に対して、怖気付かずに立ち向かおうと堂々としていた。その姿は敵ながらも恐ろしく美しい。と、桐子は思わず唾を飲み込んだ。
なんと強い人か。彼が自分を狙う敵でなければ。彼もまた、ウィルヘルムと同じく自分に取り憑く<童話>を祓ってくれる味方であればとても心強いのに。と、桐子は思い悩み、クラウンの肩を震える手で優しく抱きかかえた。
今は少しでも彼の役に立ちたい。しかしどうすれば役に立つ。無力な自分に腹立たしさを覚えて、桐子は悔しさで小さくうつむいた。
「……?」
桐子は、俯くことによってある違和感を感じた。彼女に寄り掛かり、傷の痛みに苦しむクラウンは、同い年ぐらいの男の子にしては余りにも小柄過ぎる。ただ成長が遅い子なのかもしれないし、同じ学校の制服を着ているからといって年が近い訳ではないのかもしれない。しかし、それにしても彼の肩は丸みかかっていてとても柔らかい。何よりも、クラウンの体をまじかで見ることで確認できた、彼の胸元の妙な違和感。桐子はその疑問を晴らすべく、クラウンに包み隠さず、緊張した面持ちで聞いてみた。
「クラウン…………ちゃん? 貴女、女の子ぉ?」
「ちっ……ちがっ!! オッ、オイラは女じゃねー!!」
何ということか。数多の戦地を戦い抜いた戦士のように雄々しく、恐怖の象徴であったあのクラウンが、今はか弱い少女のように顔を真っ赤に染めて自分の胸元を抑えているではないか。
桐子の勘は当たったようだ。青年だと思っていたクラウンの背中を受け止めることによって初めて気付く彼女の真実。自分のサイズに合っていないブカブカな制服を着ているせいもあって、普段は胸のシルエットなんて分からなかった。しかし、仰向けに倒れたことにより邪魔な上着がはだけ、白いシャツの胸元に薄っすらと落ちた小さな影が、紛れもなくクラウンが女性であることを証拠していた。
「うひゃひゃ! 女の<童話>使いだってー?! 通りで張り合ねーと思ったぜ」
「え? え? どういうこと? どうして今まで隠してたの?」
緊張した場の空気が一瞬にして抜けて、驚きの渦が巻き起こる。
「ばっ! 勝手にお前らが男だって勘違いしてただけじゃねーか! 別にいいだろそんなの」
桐子はクラウンの顔をよく見ようと、ずいっと彼女との顔の距離を縮めた。クラウンは懸命に桐子から逃げようと体をずらすが、肩はしっかりと桐子に掴まれているため、うまく逃がしてはくれなかった。
「確かに、男の子にしちゃシルエットが丸だな~っとは思ってたし……、まつ毛長いし、可愛いし……」
「かっ!……かわっいぃぃ??!!」
耳まで赤くなるクラウンの顔。普段言われ慣れていないのか、異常なまでに真っ赤になった彼女の顔色に桐子は安心感を覚えていた。
人を襲う恐ろしいだけの存在でしかなかったクラウンが今は違い、普通の人と同じように顔を赤めて恥ずかしがっている。クラウンだってただの一人の女の子に過ぎないのだ。
「でも、どうして男だって勘違いされるような恰好とか態度とかしているの?」
「うひゃひゃ! それはだなぁ……女の<童話>使いには悲惨な運命しか待ってないからだよ。グリムアルムだってそうだ。<童話>に取り憑かれた女はもれなく、どんな悪党であれ善人であれ惨い死に方しかできねぇからなぁ。つまり……、お前らのことだっ!」
男は素早く近づくと、容赦なく彼女らに向かってナイフを振り下ろした。クラウンは無理矢理立ち上がり、大剣で男の攻撃を迎え撃つ。なんとかナイフを受け止めることはできたのだが、そう長くは受け止め続けられないだろう。クラウンの手足はもうすでに限界を迎えていた。
「おいお前! <野良童話>に手を借りるなんて癪にさわるが今だけは許してやる。何か使える能力はないのか!!」
「だーかーらー、私は<童話>じゃないって! 何べんも言ってるでしょ!」
この後に及んでまだ桐子を<童話>と思い込み続けていたのか。思い込みの激しいやつだと、桐子はクラウンに向かって怒鳴ってやった。
この裏庭で桐子と対話した時、クラウンは桐子が<童話>ではないと理解して驚いたわけではなかったのだ。彼女がこの時驚いていたのは<童話>使いであるあの男が、クラウンの近くにまで迫っていたのに、それに気づかなかったことに対しての驚きだった。
「お前……本当に<童話>じゃねーのか?」
怒ったように頬を膨らませる桐子を、ぽかーんと呆気にとられたクラウンが見つめる。
「……確かに<童話>に取り憑かれてはいるけれど、<童話>本体は私の中で眠っているみたい……。だから私にはちゃんと自分の自我があって、自分の意思で動いていられるの」
桐子は間抜けなジェスチャーをしながらその事をクラウンに伝えた。言葉と違い、ジェスチャーなら伝わりやすいと思ったから。
どうやらクラウンは、本当に桐子から<童話>が動く気配も感じ取れなかったのだろう。
疑うような眼差しを送っていたクラウンが、覚悟を決めたように唾を飲み込み「……コイツから一旦、距離を置こう」と桐子に小さく囁いた。
渾身の力で男の攻撃を振り払う。男がよろめき、技かな隙が生まれると、クラウンは桐子の腰を掴んで持ち上げた。「え?!」と驚く桐子に構わずクラウンは軽々と彼女を抱えて、ふらつく足からは考えられないような速度で背後の低い茂みへと逃げ隠れる。
「おいおい、それで隠れたつもりか?そんな使えねぇヤツ連れて作戦会議とは悲しいねぇ」
男は煽るように語りかけるが彼女らを追いかけることはしなかった。完璧に彼女たちを舐めきっているようだ。ナイフについた血を拭い、呑気に彼女らが茂みから出てくるのをぼんやり待っているようだ。
なんとか茂みに隠れたクラウンは大きな木に寄りかかり、乱れた呼吸を整えることなくポツリと「夜ウグイスとメクラトカゲ……」と言った。一瞬何のことかと分からなかったが、桐子は思い出したようにハッと顔をしかめた。
<夜ウグイスとメクラトカゲ>
むかし、目を一つずつしか持たない夜ウグイスとメクラトカゲがおりました。
ある日ウグイスは結婚式に招かれたのですが、自分が一つしか目を持っていないことを気にしておりました。
そこで、メクラトカゲに一日だけ片目を貸してほしいとお願いした。
仲の良かったメクラトカゲは、彼の願いを承諾して一つしかない目玉を貸したのですが、ウグイスは両目で見る世界の美しさに感動し、そのままトカゲに目玉を返すことなく空へと飛んで逃げていきました。
「アイツに取り憑いている童話は<消された童話>だ」
「消された童話?」
ハンスが少しだけ話していた。子供達に読み聞かせるのに相応しくないとか、後世に残すのに必要ないとか、世間が身勝手に切り捨てた36本の<童話>たち。
「<消された童話>は赤い本のグリム童話集の中じゃあ最も強い力を持ってるし、気配を消す事も出来る厄介者だ。なにせ、他の<童話>たちよりもグリム兄弟に対しての恨みの格が違うからなぁ……。
消されたって言うよりかは、童話集の最下層に埋め隠されたっていうのが合ってるかもしれねぇ。
その恨みの力はあまりにも強いため、取り憑いた先の人間によっては大きな副作用が現れる。さっきの攻撃でちょいちょい反撃をしていたのだが……反撃に対する反応が遅く、受け身も下手くそだった。物事に反応するには、目からの情報がほとんどだと聞いたことがあるんだが、アイツ……<童話>との戦闘経験が浅いうえに、副作用のせいで目が相当悪いぞ」
なんと、クラウンはあの猛攻の中で反撃していたのかと圧倒される。確かに男の方を見直すと所々服がほつれていたり、小さな引っ掻き傷のようなものがついていた。
「一人で何とかできなくもないが、やむおえん。アイツの<童話>を封印するのを優先しよう。……いいか、お前を助けるんじゃない。オイラが助かるためにお前を利用するんだ。いいな」
傷だらけであろうとクラウンのプレッシャーは未だに健全。押されるがままに桐子は思わず、うんっと大きくうなずいた。するとクラウンは自分の武器を桐子に無理やり押し渡す。
「え?! 私、人を斬るなんてできないよ??!!」
「わかってるよ」
そう言うとクラウンは震える右手で自分の左まぶたを不器用に持ち上げた。そして今度は左手を、左眼球に何の迷いなく持ってゆく。
「え? え?! ちょっと、まさか!!」
「もうオイラの右腕は使い物になんねぇ……。先からほとんど感覚がないんだ」
ふんっと気合を入れてクラウンは左手指先に力を徐々に込めていった。親指と人差し指に摘ままれて、眼球が次第に押し上げられてゆく。段々と飛び出すクラウンの目玉に、声にならない悲鳴をあげる桐子。剣を抱えたまま自分の顔を覆ったり、顔をそらしたりと忙しそう。
そしてついに、鈍く生々しいグチャッという気持ち悪い響きと共に、ぽたり……ぽたりと滴る水の音が、二人の耳の奥にこびりついた。