019 <忠臣ヨハネス> ― Ⅲ
何故彼がそのことを。
硬直する桐子をよそにリヒャルトは、旧友に会った喜びか両手を広げながら流暢に喋り始める。
「ローズの事は残念だ。私が不甲斐ないばかりに。その後の彼女のことも……しかしもう大丈夫だ! 二度とあの悲劇を繰り返さない。再び私と手を組んで、<童話>集めをしようではないか!」
「あの、ちょっと待ってください!! <いばら姫>って……<童話>ってなんですか?」
敢えてしらを切る桐子だが、今更無理があるようだ。青年は演劇でもするように、広げた右腕を桐子に差し伸べると凛々しい顔をしたまま自信たっぷりに言い放つ。
「昨日、私の事をオクタビウスと言ってくれたじゃないか。その名を知っているのは数少ないグリムアルムの友人たちだけだ」
迂闊であった。あの時不意打ちで彼が現れたものだから、無意識に名前を言ってしまった。ここで嘘をつき続けても仕方がない。それに、彼は<いばら姫>と共に<童話>集めをしようと言ってくれている。話が通じる相手かもしれない。
まだ信じ切るのも危ないかと思いつつ、桐子は慎重に自分と<いばら姫>の話をしようと姿勢を正した。
「あの……、残念ですが、私はちゃんと自分の自我を持っています。<いばら姫>は眠ったままで、多分貴方の声も聞こえていません」
オクタビウスは目をぱちくりとさせながら桐子の顔を凝視した。そして驚きの声を大袈裟に上げてみせる。
「おお、君もか!」
「君も?」
「失敬、私の古い友人にも似たような者がいるのだよ。<童話>に取り憑かれても自我を保ったままの人間が」
「やっぱり貴方は<童話>だったんですね」
「ああ。昨日は人間たちがいる手前、名乗ることができなかった。代わりに君に恥をかかせてしまい、すまない事をした。
改めて自己紹介させてもらおう。私はヨハネス・オクタビウス。かつて“兵士のグリムアルム”の<守護童話>として仕えていた者」
やはり彼は<忠臣ヨハネス>、その登場人物であった。それは<いばら姫>のかつての主人であるローズの師、“兵士のグリムアルム”の<守護童話>。彼の性格や人物像は<いばら姫>が見せたローズの記憶の中でしか知らないが、その純真さや忠誠心は信頼しても良いだろう。しかし、桐子は彼の身なりがどうしても気になっていた。
<童話>はいわゆる霊感というものを持った人でない限り姿を確認することができない。だが彼は、周りの学生たちにも認識されている。つまりは肉体を持っている。
「あの……、貴方が取り憑いている人間の体は……誰ですか?」
「私が人間に取り憑いて悪さをしていると警戒しているのかね? 安心したまえ。彼は既に自分の意思でこの体を脱ぎ捨てた。そしてリヒャルトという名前も、元々は彼の名前だ。人というものは本当にか弱いな」
それはつまるところの……と、それ以上は考えまい。嫌な気分になるだけだ。そう勘づいた桐子は思い止まって口を噤んだ。
「ところで君は何処で私の名前を?」
「いばらっ…………、<いばら姫>とローズさんの話をハンスさんから聞いた時に知りました」
「そうか、ハンスか……」
急にオクタビウスの顔が曇る。彼がグリムアルムであるというのなら、<いばら姫>を相手にした時のようにお喋りになっても良いはずだ。しかし彼は目元に影を落とすと、低い声で桐子に忠告した。
「フロイライン 桐子。悪い事は言わない。今のグリムアルム、もといハンスから離れるのだ」
思いもしなかったその言葉に桐子は驚き、口を小さく開く。
オクタビウスは変わらず<童話>を封印しようと<いばら姫>を誘っているのに、<童話>の封印の要であろうハンスからは離れろと言うのだ。
「どう言う……事ですか……?」
思わず溢れる疑問にオクタビウスは哀れむように、しかし苛立ちも持った物言いで語り始めた。
「ハンスは今、ある<童話>に騙されている。彼の目を覚まさせるためにも、我々は<いばら姫>や他の信頼できる<童話>達を集めて共に今のグリムアルムを打倒しようとしているのだよ」
「<童話>に騙されているって?!」
思いもよらない事態に桐子は思わず声をあげていた。
彼は何の勘違いをしているのだろうか。そもそも童話図書館にいる<童話>でハンスや桐子達を裏切るような者が居るとは思えない。そんな強い自信を持つ桐子だが、次に続くオクタビウスの言葉でさらに目を見開くことになる。
「今、ハンスの元には<青髭>がいる」
<青髭>と、オクタビウスは確かに言った。再びその名を聞くとは夢にも思っていなかった桐子は、無意識に薄ら笑いを浮かべると、冗談を聞き直すようにオクタビウスに問いかけた。
「……? <青髭>? <青髭>はクラウン……、<長靴をはいた牡猫>と共にいる<童話>使いが倒しましたよ?」
「通りで。ハンスはともかく貴女も知らされていないのだね。それも仕方がない。貴女が言う、クラウンと言う化け物だが、あれは<青髭>が変装した姿だ」
突然の告白に桐子の心はざわついた。
クラウンが<青髭>? そんなはずがない。なぜなら彼女は<青髭>に襲われた。しかし結果はご存知の通り、<青髭>はクラウンの手によって倒された。知らないのはオクタビウスの方である。
「さっきから何を言ってるんですか? クラウンが<青髭>の変装? そんなわけ」
「今、<青髭>はクラウンという少女の姿になってハンスや他のグリムアルムを騙している。だからグリムアルムに近づいてはダメだ」
「っ! 違う!! クラウンは<青髭>に取り憑かれていて苦しんでいた。だけども、彼女は自分の意志で<青髭>を祓い、ようやく自分のために前を向けるようになったんです! そんな彼女をまた、悪役みたいに言わないで!!」
「なるほど、貴女はだいぶ<青髭>に毒されているようだ。貴女が人間の意思を持っていると分かった今、私は貴女を見捨てることができなくなった。フロイライン 桐子、私のところに来なさい」
言い争っても桐子の意思が変わらないと分かるや否や、オクタビウスは一歩二歩と桐子に向かって歩いて来た。
これ以上、話を振るのは無理そうだ。桐子もそう思うと、左袖に隠し持っていたカラスの羽を窓の外に向かって投げ飛ばした。投げ飛ばす力はひ弱だが、羽は一羽のカラスに姿を変えると、鋭く空に舞い上がる。
彼女が持っていたのはウィルヘルムに仕えているカラスの<童話>。もしも<童話>に襲われた時にと、伝書カラスとして渡されていたモノだった。
カラスは童話図書館の方角へと顔を向けると、ウィルヘルムの元に飛んでいこうとしたその時だ。カラスに向かって一筋の金の糸が弾丸のように飛んでくる。金の糸は迷いなくウィルヘルムのカラスの胸を撃ち抜くと、そのまま空へと飛んで行った。
発砲の音はしなかった。不思議に思いながらウィルヘルムのカラスは体勢を崩して呆気なく地面へと落ちてくる。ドサリと叩きつけられる音が響き、身動き一つもしないカラスを心配した桐子が慌てて駆け寄ろうとしたのだが、そんな彼女の腕をオクタビウスは強く掴んだ。
「離して!!」
しかしオクタビウスの力はとても強く、抵抗してもびくともしない。
叫ぶ桐子を見下ろすように、カラスを撃ち抜いた金色の糸、と思われていた物がスルリと止まり木に降り立った。それは金の糸ではなく、金細工の小さなカラスである。
『<いばら姫>は夢の中。彼女はただの人。ただそれだけが弱点』
金のカラスが囀る様に人の言葉を操り出した。
それを聞いたオクタビウスは桐子を掴む腕に小さく力を入れ直すと、申し訳なさそうに桐子を見た。
「私も事を荒げたくはない。一緒に来てはくれないか」
絶体絶命の桐子。一方その頃、図書館で留守番をしているシャトンはひっそりと、音を立てぬようにと子供部屋から出てきて一階へと下りていた。ハンスはレストランのバイトに出ているのか人の気配は何処にもない。
シャトンは台所に入ると椅子を踏み台にして甘い香りの漂う戸棚を静かに開いた。その戸棚は作り置きの焼き菓子がいつでも常備されている幸せな棚で、今日は智菊とリヒャルトを歓迎するためのフルーツケーキを抱えている。
シャトンは一日中なにも食べていないクラウンの為にと、言い訳を付きながらフルーツケーキに手をかけた。感謝の心も忘れずに「ありがたや」と呟きながら戸棚を閉めると、扉の影に隠れていたウィルヘルムが軽蔑するようなジット目でシャトンを見下げている顔が目に入る。
「おい、泥棒猫」
「にゃにゃ?!!」
驚き跳び上がるシャトン。両手でしっかりと持たれたケーキも跳ね上がるが、なんとか落ちずに元の位置に戻ってきた。
「がががっ、学校はあ?!」
「午前授業だからもう終わった。それよりもシャトン、クラウンが今どうしてるか教えてくれないか? 心配しているのはお前だけじゃないんだ」
ジト目から真剣な眼差しに変わるウィルヘルムの目は、真っ直ぐにシャトンの両目を捉えていた。
彼はクラウンとの間にあった溝はとうに埋められたと思っていたのに、拒絶されている今の事態に不安を感じているのだった。一体何が彼女を閉じ込める。自分にも相談できない事かと。
眉間に皺を寄せながら、懇願するウィルヘルムの眼差しにシャトンは耳を折って目線を逸らした。
「そ……、それは」
どうしても言葉を詰まらせるシャトン。例え心配していると言っても、本当の事を話した所で主人であるクラウンの身が安全のままでいる保証はない。
彼女の正体が<青髭>であると言えば、真っ先に退治されてしまうだろう。ましてやクラウンはウィルヘルムの妹の首を刎ねた人。次はクラウンの首がすぐにでも刎ねられてしまうだろう。
だが、いつかはバレてしまう事実でもある。それが未来か今すぐか。先延ばしにする事がクラウンの為になるものなのか。
シャトンは考えに考え、苦しそうな顔をしてウィルヘルムを見上げた。しかし彼は直ぐに耳を立て、
「おや?」
と不思議そうな声を出す。
「フェルベルトの坊ちゃん、鼻血が出ておりますぞ」
「あ?」
予測もしていなかった言葉にウィルヘルムはキョトンと目を見開いた。言われた意味がわからないが、とりあえず確認をするように右手を自分の鼻元に持っていく。
触れるとぬるりとした感覚があり、それと同時か体に走る小さな痛みにウィルヘルムは思わず頭を抱えた。
「これは……、桐子に何かあった!」
「何かとは?!」
「俺の預けたカラスが襲われた。<童話>だ! しかも強いっ」
それだけを言い終わるとウィルヘルムはコートかけの外套を荒々しく掴んで、急いで図書館の外へと駆け出した。
走り去るウィルヘルムの後ろ姿を見て不安が込み上がってくるシャトンも、慌てて二階に駆け上がり子供部屋に飛び込んだ。
「クラウン様!! クラウン様、起きてください!! 桐子様が一大事です!! <童話>がー!!」
「桐子が?」
あんなにも固く閉ざしていた布団が軽々と跳ね上がる。中から勢いよく出てきたクラウンの顔は涙でぐちゃぐちゃになっており、とても外に見せられるものではない。
クラウンは布団から出て第一にシャトンの心配そうな顔を目にした。だがその瞳には不安や恐れといった色も伺えられる。そんな彼の二つの眼を見たクラウンは再び息を飲み込み立ち止まった。
<青髭>である自分が桐子の元へ赴いて良いのだろうか。また突然に、ハウストの家で起きた暴走が起こるのではないか。そんな不安な気持ちがクラウンの心目一杯に溢れ出す。先日もそれが怖くって桐子の来訪を拒んでしまった。
だが、今はそんな自分の保身よりも桐子を救いたいという気持ちの方が勝っていた。垂れる冷や汗を拭う暇もなく、
「シャトン、桐子がどうした?」
と勇ましい声をあげてシャトンに聞いた。
「私にも分かりませぬ。ただ、フェルベルトが<童話>の場所を捕らえておりますので、奴を追えばその先に桐子様が居るはずです」
兎に角、桐子が<童話>と遭遇している事は確定のようだ。その情報だけを手に、クラウンとシャトンはウィルヘルムの<夏の庭と冬の庭>の匂いを頼りに、童話図書館の外に出た。