018 <森の中のおばあさん> ― Ⅴ
ハンスを殺せ。確かに彼はそう言った。先生は口を滑らせすぎたとでも言うように少しだけ口を開けた後、開き直るかのように口角を小さく上げた。
クラウンはより一層、先生が何を考えているのか分からなくなった。彼が<童話>を集めているのは、平和のためではなかったのか。ならばどうしてハンスを殺せと言う。そもそも何故彼は自分にまた人殺しをさせようとする。
クラウンは混み上がる怒りを抑えながら、声を震わせて先生に聞く。
「どう言う事だ? <童話>を集めて、封印したらそれで終わりだろ? 何でハンスを殺せって言うんだ? そんな事したら……、今まで封印してきた<童話>はどうなる?」
「大丈夫だ。ハンスが死んでも集められた<童話>はそのまま本の中に閉じ込められる。それはグリム兄弟が最初にした封印と変わらない」
「だとしてもオイラはハンスが死ぬ……、ましてや殺すなんて嫌だ!!」
「お前もグリムアルムの教えを聞いたのだろう? <童話>を集めて新たな封印をすれば、この世に<童話>がいたと言う記憶や歴史自体が消えてしまう。僕は彼らの消滅を許さない。一生、この世に留まり苦しみ続ければいい」
ようやく聞いた彼の野望に、クラウンは大きく目を見開いた。彼はずっとクラウンに人々の平和の為に<童話>を集めろと教え続けていたが、本当は彼の自分勝手な復讐の為にクラウンを振り回していたのだった。
その身勝手な欲望にクラウンは、ようやく彼の澄ました顔が今まで見てきたどの憎悪よりもドス黒く、気色が悪いものであるかと気がついた。
「わからない……。そんな事のためにハンスを殺せって言うのか? オイラ嫌だよ!」
「しかし彼の死を持って、新たな封印は施される。それは<童話>との戦いの歴史が消えない封印。お前もシャトンや<童話>を通して得た友人達との思い出を失くしたくはないだろう?」
その言葉にクラウンは一瞬驚く。クラウンは今までシャトンとの別ればかりを考えていたが、<童話>の記憶がなくなれば桐子との出会いも消えて無くなってしまう。考えもしていなかった穴を突かれて動揺するクラウンを、先生は決して見逃さなかった。先生はもう一歩、クラウンに近づくと優しく彼女を抱き寄せる。
「いつもお前にばかり辛い役割を任せてすまない。しかしこれで最後なんだ。これが終われば今まで聞いてやれなかったお前の悲しみを聞くことも、お前に掛かる罪の十字架も共に背負う覚悟も出来ている。だからクラウン、もう一度僕について来てくれないか」
「何を言う」と吐き捨てる様にシャトンの瞳が先生を睨み続けている。しかし彼らにその眼光は届いていない。
長く続く沈黙の中、動揺し言葉を失ったクラウンのか細い呼吸の音だけが響いている。クラウンは目を閉じてずっと先生の話を聞いていた。父のように慕い、儚げに存在するその男の危なっかしさに彼女は彼を支えようと心惹かれていた。
クラウンは一つ大きく深呼吸をすると、落ち着いた声で彼に語りかけた。
「……昔からの夢だった。先生にこうして抱きしめてもらって、慰めてもらうこと」
だらりと垂れていた彼女の両腕がゆっくりと先生の腰に添えられる。
「でも今は全然嬉しくない。先生、アンタ、嘘ついてるだろう?」
鋭く発せられるクラウンの声と、見上げてくる彼女の瞳に先生は冷たく睨み返した。
クラウンは彼の腰に添えた両手をグッと押し出して先生との距離を取る。
「言葉が薄っぺらい。本当は何を望んでいる? 戻ってきて欲しいのはオイラじゃないんだろ? 誰だ、ローズか? それとも“私の作った最強の兵士”か?」
先生は無言でクラウンを見下ろし続けた。
「図星か? 昔のオイラだったら泣いて着いて行っただろうよ。でも今は違う。桐子やウィルヘルムやハンスたちがいる。こんなオイラを受け入れてくれる場所がある! いつか<童話>を封印して皆んなとの記憶が無くなってしまうかもしれないけれど、それでもオイラは彼らの望む結末に付き添いたい。アンタみたいに、自分の事ばかりしか言わないヤツの所に誰が戻るものか!!」
啖呵を切ってさらにクラウンは先生を強く押しのけた。今まで従順に従っていた駒が、主人の意志を背いたのだ。力強く突き放されてふらつく先生は、ショックでも受けたかのようにしばらく沈黙したまま俯いた。そして油断したところを突くように素早くあの言葉を言う。
「おねがっ……」 「誰が聞くものかっ!!」
咄嗟に先生の言葉を遮るクラウンの声。それは彼に<童話>の力を使わせない為にではなく、純粋に彼の言葉を聞きたくなかったからだ。これ以上先生の声を聞けばまたあの時のように全てに従ってしまいそうな弱さがまだ自分の中にあると、そうクラウンは感じていた。
だが先生はそんな彼女の気持ちもつゆ知らず、より一層冷めた表情をしてクラウンを見下す。
「そうか……残念だよ、クラウン。本来ならば君の成長を喜ぶべきだろうけど、今はただただ悲しく……憎らしい」
「はっ、それは残念だな! これからオイラはアンタの敵だ! お陰様でここまで強くなれましたー。ありがとうございますー!」
「本当だよ。誰のおかげでこうして生きてきたか考えたことはあるのか?」
「だから、その事なら感謝してるって……」
「違う」
今までとは違う、まるで氷柱で突き刺されたように凍てつくその声に、虚勢を張って彼の言葉を塞ごうとしていたクラウンの心も一瞬にして彼の声に耳を傾ける。
「前に自分は何者かと聞いてきたよね。いいよ、今教えてあげよう。それを聞けばお前の言う感謝の意味も変わるだろう。クラウン、君の正体は、僕の描いた“絵”だ」
「……はぁ?」
クラウンは言葉を無くして目を丸くした。そしてシャトンは彼の話を聞いてようやくその男が誰なのかを思い出した。
ずっとイケ好かない小僧だと思っていたが、その正体はマテスであった。しかしローズの元にいた時とは顔つきも人としての匂いも違う。だがそれよりも気になるのは彼の言葉。
「言っている意味がわからないだろう? 正しくは私が描いたローズの肖像画だ。その中に<青髭>が封印されて産まれたのがお前だ。お前は人間じゃない。生き物でもない。お前の命は母とも言えるモデルを殺した<童話>で出来ている。お前の肉体は、流れる血液は、キャンバスと油絵の具でできている。
だからお前はローズに似ていて当たり前なんだ。正直、お前の姿を見ているとイライラする。何でよりによってローズの肖像画に取り憑いた」
「オイラは……人じゃない? それじゃあ、オイラは……一体なんなんだ?」
「またそれか。何者かなんかどうでもいい。お前は私の願望を満たすただの道具に過ぎなかった。それが意思なんか持ってしまえば用無しだ。反抗する道具なんてもういらない」
ついに正体を現したかのように先生、もといマテスはベラベラと言葉を連ねるがその声も言い回しも、かつてローズの元にいたマテスとは別人のように変わっていた。
「なあ<青髭>、私に取り憑いた<童話>の力で願いが叶うと言うのなら、ローズを返してくれ。お願いだ」
投げやりと似たマテスの声にクラウンの胸が苦しくなる。これは人で言うところの心の臓の部分だろう。しかしそれ以上のことは何も起きない。えも言えぬ不安に駆られて先の威勢も何処へやら。クラウンは泣き出しそうな顔をしてマテスを見ていた。
「オイラは……<青髭>なの?」
恐怖するクラウンにマテスはまた軽蔑した目つきで彼女を見下ろした。
「あぁそうだよ<青髭>。クラウンという名前も“醜くて滑稽な怪物”って意味で付けた。お前にお似合いだろ?」
「嘘だぁ!!」
クラウンの悲鳴にも似つかわしい叫びにマテスは歪んだ笑みを浮かべていた。先ほどマテスが言っていた野望が本物ならば、その<童話>が苦しむ姿にご満悦とでも言ったところなのだろう。クラウンの姿形はローズだが、それは上っ面だけで中身は憎き<青髭>である。ローズの命はここにはない。
先程からが鳴るクラウンの声にようやく扉の向こうから駆けつける音が聞こえて来た。
「クラウン! どうした?!」
ウィルヘルムの張り上げた声が扉の向こうから聞こえてくる。そしてクラウンの返事を待たずに扉は勢いよく開かれた。
部屋に入ったウィルヘルムとハンスは初めに床に突っ伏すシャトンに気が付き、次に部屋を背にしてベランダに立つクラウンの後ろ姿を目にした。そして彼女が見る先には人が立っているようだが、カーテン越しでよく見えない。しかし、ふわりと寂しく吹いた風によりカーテンが揺れて隙間から黒い来訪者の姿が伺えた。
月明りの逆光で顔や身なりをはっきりと見る事はできなかったが、憎悪を持った黒い瞳が鈍く光りハンスと目が合うと、ハンスは悪寒に襲われてその場から動けなくなってしまった。
「さようなら、クラウン。君を生かしたのは間違いだった」
最後の言葉を囁くと、マテスは背後へ倒れるようにベランダから飛び降りた。急いで駆けつけるウェルヘルム。しかし手すりの下にはもうすでに人影はどこにもない。
マテスが去ると同時にシャトンを締め付けていた見えない縄も消え失せて、彼の体は自由になる。しかしシャトンは起き上がることもなく、床に突っ伏したまま拳を震わせていた。
「おい! 何があったクラウン?!」
身体を翻してクラウンを見るウィルヘルムだが、彼女はこの世の終わりとでもいった表情をして先ほどよりも大きく震えて泣いていた。感情の堰が決壊し、崩れ落ちる彼女の肩をウィルヘルムは慌てて支えると一緒にその場に座り込む。
クラウンは自分の胸底から響いてくる、太鼓のような激しい鼓動を握りつぶすかのように胸の上にこぶしを作った。そしてウィルヘルムの質問に答えることなく、すべての苦しみから逃げるように体を縮こませる。
「痛い……痛いよ……こんなに、痛いのに……」
<つづく>