018 <森の中のおばあさん> ― Ⅲ
それと同時に<童話>の気配もどこかへと消えた。
正確には移動したのだが、それを追えるほどクラウンたちの<童話>を感知する能力は研ぎ澄まされていない。
ハンスは金庫の中に入っていた一枚の絵葉書を拾い上げると、葉書の裏面に書かれた文を読んだ。
「我は誰ぞ。赤いマントを身にまとい、黒い帽子をかぶった一本足」
謎々だろうか。表には食事をする小人の絵が書かれており、右隅には鍵と鳩の印が押されている。
「オペラで有名になったドイツ民謡ね。
“森の中に小人が独り 黙って静かに立っている”」
「正解は小人か!」
「“さてさて君は誰なんでしょう? 赤いマント着た小人” ……。
この小人の正体は誰かって歌よ。続きの歌詞には
“黒い帽子、一本足”と続いて答えを述べている歌詞には……野イバラの実と書いてある。確か庭に野イバラがあったはず」
そう言うとハンスはすぐに立ち上がり、一階に下りて庭に出た。クラウンも意気込んでハンスよりも前に駆け出すと、庭先の茂みに飛び込んでいく。しかしそこには野イバラは無く、風化してボロボロな井戸だけがポツリとあった。井戸の底には深い闇が丸く収まり、水はすでに枯れている。
「そっちじゃないわよ」
背後からクラウンを止めるハンスの声。そして続けて
「井戸の底は死後の世界に繋がっていると言われているから、落っこちたら帰ってこれないわよ」
と冗談混じりに注意する。
その言葉を間に受けたクラウンはバッと勢いよく井戸から手を退け、慌てて一歩後ずさった。
「野イバラはこっち。枯れていなければ離れの小屋に群生していたはず」
そしてハンスは慣れた足取りで小川の橋を渡ると、離れの小屋の裏手に周る。そこにはすでに野生に帰った野イバラが小屋を覆い尽くすように伸びきっていた。
ハンスは野イバラの根元に並ぶオーナメントを注意深く見て回ると、立派な台座に乗った鴨の石像に目をつけた。石像はすっかり苔むしっているが台座には鍵と鳩の印、そして文が刻まれている。
[我は孤独の漁師。ローレライの歌声に耳を貸さず川を下れ]
クラウンは小屋の前に流れる小川に目をやりその流れの先を見た。川は長く村の外へと続いている。
「わざわざ村の外にまでお宝を隠しているようには思えないわね」
「ハンスはハウストのことを知らないと言ってたけど、この屋敷のことはよく知っているんだな」
「昔、この家にお世話になっていた時期があったのよ。と言っても、自分の世話は自分でしなさいって言われて、炊事洗濯なんでもさせられたわ。そして夜はこの物置小屋で眠っていたの」
懐かしがるそぶりもなく、ハンスは川の流れを見つめながら呆れたような口調で言う。そんな彼の態度にこれ以上話を聞くのも悪いかもしれないと、彼女なりに悟ったクラウンは「ふーん」と興味なさそうな相槌を打った。
「ところで、ローレライって何だ?」
ドイツの至る土地を先生と共に旅したクラウンだが、ローレライの事は知らないようだ。
「ライン川の間にある大きな岩山のことよ。昔、川を下るときに岩山の上から女性の美しい歌声が聞こえてきたんですって。
船の舵を取っている船頭がその歌に聞き惚れていると船が川の渦に捕らわれて沈没したって言う伝説があるの。確かレコードにもなっているはず……」
そう閃いたハンスはもう一度、屋敷の書斎室に戻ってレコードの棚に手をつけた。しかし彼の推測は外れたようでローレライという名のレコードも本もどこにも無い。
すっかり当てが外れてしまい眉間にしわを寄せるハンスはどこか見落としていないかと再度、棚の中を見回した。
その背後でクラウンは壁に貼られたドイツの地図を眺めていた。その地図の前には書台が置かれており、本が山のように積まれている。
「ローレライ岩山って何処だ? どこにも書いてないぞ?」
「そんな大きな地図には書いてないわよ。ライン川がここだから、ここら辺……かしら……」
ハンスは迷いながらも指で地図をなぞった。何せその地図は随分と古い物で今のドイツとは少し形が違う。彼はライン川を下るように指を下し、ローレライを通り過ぎると書台に置かれた木箱に彼の指が小さく触れた。その刹那、彼の全身を這い上がる嫌な感覚にハンスは力いっぱいに腕を引く。
「<童話>?!」
ハンスは<童話>に弱く、触れただけでも嫌悪感に襲われる。その時の感覚にそっくりで思わず声を上げたのだ。
ハンスの代わりにクラウンが小さな木箱を取り出して乱暴に開けると、箱の中身は木彫りでできた老婆の置物が収まっていた。裏返すと防水加工か底が蝋でコーティングされており、例の鍵と鳥の刻印もスタンプされている。
「我は制裁の魔女。悪しき娘を暖にくべるもの」
箱の中に一緒に収まっていた古びた紙にはそれだけが書かれていた。
「そういえば貴女ってどのぐらい<童話>を嗅ぎ分けることができるの?」
右腕を抑えながらハンスが聞く。クラウンは木彫りの置物をいろんな角度から見回しながら
「鼻は効く方だと思うけど、この屋敷全体が<童話>臭くってイマイチ分からない。でもこの木彫りの人形の中に<童話>がいるのは分かるぞ」
と自信を持って言い切った。
「中からカチャカチャ音がする。また何かの歌のヒントが入っているのかもしれない」
クラウンは気付いたことを報告し、今度はハンスにも聞こえるように置物を振った。確かに物がぶつかる音がする。それらの情報を得たハンスは瞳を曇らせ、
「歌じゃないわ……」
と低く冷たい声で言い放つ。そして震える右手をクラウンに差し出した。
クラウンもハンスの異様な雰囲気に無言でその木彫りを手渡すと、ハンスは己の腕を虫が這い上がるような気持ち悪さに耐えながら、「ホークスポースク」と御呪いを囁いた。するとボッと彼の右手から真っ赤な炎が燃え上がる。
突然のことに驚くクラウン。そしてハンスは咄嗟に近くにあった暖炉に燃え盛る老婆の木彫りを投げ捨てると、手についた炎を払って消す。
「ハンス、大丈夫か!! 今のは?!」
「ハウストが……、私に取り憑かせた<守護童話>の力。他所の<童話>が私に危害を成そうとすると力を使うの。それよりも見て、蝋が蓋になっていたみたい。木彫りの裏に穴が空いてるわ」
木彫りについた火はすでに弱まっており、焦げて脆くなった所に火かき棒を突き刺して暖炉から取り出す。置物の裏に塗ってあった蝋を取り除くと、中から鍵が現れた。
「次の謎々は何かしら?」
クラウンはまだ熱をおびた鍵を摘み上げると、ハンスにも見えるように鍵の飾りを見せた。鍵には鳥の刻印と〈KHM123〉と数字が刻まれている。
「グリム童話123番? <森の中のおばあさん>ね」
今まで嫌みたらしい顔をしていたハンスが急に不思議そうな顔をする。
「今までの謎解きは私に取り憑いている<童話>の話を元にして作っているのかと思ったのだけど、違うのかしら」
首を傾げるハンスは先ほどのひらめきも出てこないようで、
「もう一度外に出てみましょう。またどこかの石像にヒントがあるのかも」
と少し自信がなさそうな声で言う。
部屋を出ようとするハンスに続いて、クラウンも立ち上がり彼の後ろに着こうとした。しかし彼女は立ち上がる前、部屋の壁を見上げてある事に気が付いた。
「外に出なくてもここでいいんじゃないか?」
「え?」
そう言って彼女が目にする先を見ると、緑深い森の絵が描かれた壁紙が目に入る。そして、
「<童話>の気配はまだこの中にある」
と力強く言う彼女の言葉にハンスも体を翻し部屋の中へと戻って行った。
ハンスは先ほど途中まで調べていた書斎机にカギがかかっている引き出しがある事を思い出した。手にした鍵を鍵穴に差し込むと、思った通り鍵は回った。中には刻印の押された手紙と無地の指輪が二つ入っている。
「我は聖なる光を拒む死神。夕べの子羊を眠らせる」
夕べの子羊。この屋敷に十字架らしきものや宗教的なものはなかった。本棚に収められているグリム童話と一緒に記された”子供達の聖者伝”のページにもそれらしきものは挿まれていない。書斎室にも診察室の本棚にもバイブルはない。と、そこでハンスは何か閃いたのか慌てて部屋を出て食堂へと向かった。
「まさかとは思うけど……」
そう言いながらハンスは金庫の側に下ろした絵画を拾い上げ、再度その絵を確認した。
彼はやっぱりとでも言う様に小さく息をついて、急いで彼の後を着いてきたクラウンにも見せるようにその絵を掲げた。
その絵は深い森の中、輝く砂の粉を撒く女性と木の下で眠る男の子と女の子が描かれている。額縁の下枠に彫られた絵画のタイトルは“夕べの祈り”。
「これが終点よ」
キャンバスの裏板を取り外すと薄い便箋が滑り落ちる。額縁の溝に挟まる封筒の開封口には鍵と鳥の文様が入った蝋が押されていた。
「散々歩き回って、ゴールが元の場所?!」
思わず驚きの声を上げるクラウン。
「やっぱり私に取り憑かせた<童話>をヒントとしていたわね」
と、ハンスはクラウンの驚きを気にせず無感情を装って封筒の封をぶっきらぼうに切った。中には手紙が一枚入っている。
「なんて書いてあるんだ?」
「えっと……暇なヘンゼルちゃん、ご苦労様」
二人はその言葉にイラッとした。
ハンスは続けて苛立った声でカールの手紙を読み始める。
= = =
君が何代目のハンスでも構わないが、この手紙を見つけてくれたことに感謝する。君がこの手紙を読んでいるということは、私はすでに亡くなっていることだろう。この屋敷の物は全て君の物だ。好きにするといい。
今回こうも改まって遺書を認めるにあたり、君達に大切な話をしなくてはならない。一部のグリムアルムが隠してきた大切な規則だ。
君たちは<青髭>事件を知っているであろうか。私もあの日、青髭退治に来てくれるよう頼まれたが行かなかった。あの頃の私はまだ若造で、手慣れた大人達で何とかするであろうと頼みを断ったのだ。
結果は知っての通り、領主のプフルークと兵士のズィゲート。そして狩人のリッツが亡くなった。
残った牧師のフェルベルトと私、医師のハウスト。そして、<童話>を取り締まる君たちアルニムの家は<童話>という混沌からこの世を守ろうと誓いあい、余計な感情をかけまいと原書の効果の一つを子孫たちから隠してしまった。
その効果とは、逃げた<童話>をすべて集めた時<童話>の世界は永遠に消える。それはグリム童話がない世界に歴史が変わるとも言われている。
我々の先祖が今まで戦ってきた意味、護ってきた歴史が全て無くなると言うことだ。それでもその時の我々は仲間たちとの思い出よりも<童話>を罰する事に重きを置いた。
しかし時間という物は残酷なもので、その時の感情も継続する意思がなければ薄らいでいく。その時の怒りも、次の代には消えるであろう。それならば我々の歴史も共に消えるという言い伝えそのものを無くし、<童話>を集めるという目的だけを伝え続ければ良い。
だが私は臆病であった。私にとって<童話>は恐れるものであり、友であり悪しき心であり光である。<童話>無くして我々の人生はない。平和があるからこそ完璧が有ると言うのは私は間違いだと思っている。
今まで隠していて悪かった。お前の父やフェルベルトの子供たちも知らないことだろう。とても大切なことだ。今一度考えてほしい。<童話>を集めるという意味を。この国の歴史を変えるかもしれない重大さを。
1989年11月10日
カール・ディートマー・ハウスト
= = =
封筒の中にはもう一枚、黒い栞が入っていた。
「黒い栞……悪魔に持って行かれていたと思っていたけれど、こんな所にあったのね」
「ハウストの<守護童話>は死神だって言うからよ、てっきり死神の名前がつく<童話>かと思ってたよ」
栞にはケープを被った骸骨とその手には赤子が抱えられた絵が描かれており、下には<名付け親>と<童話>のタイトルが書かれていた。
「<死神の名付け親>と話が似てるからね。同じものともとらえられるわね」
そう言いながらハンスは大切そうにその栞をさすった。
気が付けば部屋にいた<童話>の気配もどこかへと消えている。それどころか屋敷全体を覆っていた<童話>の気配もようやく役目を終えたとでも言うようにすっかりと消え去っていた。
「おそらくカールの遺書が読まれるのを見守っていたのね」
「追わなくっていいのか?」
「そのうちまた会えるわよ」
そう言って、ハンスは必要なものだけを車に積めると、今度こそ車をベルリンへと走らせる。その去り行く車の背後を、ハウストの屋敷の上で灰色かかったカラスが満月の色をした瞳で慈しむように見送っていた。