成功 ‐この世界で生きていく‐
「―……―…――…」
遠くから声が聞こえた気がした。
「――マ……マダゴ――」
やはり、誰かが何かを言っているようだ。段々と意識がはっきりとしてくる。
「マダゴンゼ! ブキオリツム!」
「え!?」
意識が戻ると同時に、鮮明な声が耳に入ってきたので、俺は驚き飛び起きた。
咄嗟に理解できたことは、木でできたベッドに寝かされていることと隣に髭の立派なお爺さんが座っていることだけである。
「オーオー。マダピザムカレダホクレ」
お爺さんは俺が起き上がったのを見て、嬉しそうに笑った。
(成功……したのか?)
もう一度周りを見回す。木造の家で、建築はしっかりとしてようだ。
暖炉と思われるものもあり、階段があることから少なくとも2階建ての建物であることが分かる。ベット先の大きな空間にはテーブルはあり、その下には絨毯がしかれている。台所らしき水場もあった。
(16世紀頃のヨーロッパの農家……が1番適切な表現……だな)
お爺さんが来ている服からもそれくらいの文化レベルだと推測できる。
この予想が正しければ、俺がいた世界より、400年程前の生活水準ということになる。最も、実際のことは外に出てみないことには分からない。
「ビィージー! オカウパキモラブラポパゼ! ミネルバ!」
お爺さんが階段に向かって声を上げる。
すると上からゆっくりとお婆さんが降りてきた。
「オーオー。マダピザムザリトチテヌロ」
細身の割には声が大きく元気のいいお爺さんに比べて、お婆さんは大柄だがおっとりしていて目が細い。対照的だが、なんとなく相性のいい夫婦に思えた。
(さて。どうするかな)
状況から察するに転移は成功したようだ。
お爺さんとお婆さんの外見は地球人と全く変わりはない。瓜二つだ。家の建築様式にしても、400年前のヨーロッパと目立った差は感じられない。一瞬、次空転移ではなく、タイムスリップをしたような気持にすらなる。
しかし、これはタイムスリップなどではない。俺は、間違いなく次空を超えたのだ。
その証拠に――
(言葉が全く違う)
完璧、とまではいかないが俺は地球の言語の殆どに精通していた。流石に未開の土地の民族の言語などは範囲外だが、少なくとも16世紀のヨーロッパにこの人達が話している言語が存在していないことは確実である。
「ペリオア、ニチダ、ベリトロスケムノフ」
「マムシブロセ。ロンダズニポーロー。カムトキフリノア」
お爺さんとお婆さんは、ベッドから少し離れたテーブルの先で、何やら話し合っているようだ。時々俺の方をちらちら見ていることから、俺のことについて話していることは間違いなかった。
(ここからが本番だな)
話し合っているお爺さんとお婆さんの顔は真剣だが、険しさは感じられない。
たぶん、俺の身の上を本気で案じてくれているのだろう。
俺は久々に人の温もりを感じ、涙が出そうになった。しかし、堪える。
先ほど思ったように、本番はここからなのである。
異世界生活の最大の問題は、異世界への次空転移なんかではない。しかもあれは理論上可能だったことだ。
俺はまだ自分の理論が正しかったことを証明しただけ。異世界生活の最難関は『どうやって異世界の世界に溶け込むか』なのである。
(お爺さん達がしゃべっている、今がチャンスだ)
今後、どうやってこの世界に馴染んでいくか。今のうちに考える必要がある。
そして、まず何よりも優先すべきは、状況確認と言語習得の2つである。
俺はまず、自分の体を確認することにした。
(…………最悪だぁぁぁぁ!)
天才と呼ばれた俺にも欠点ぐらいはある。その1つは服に対して無頓着ということだ。だから気付かくのが遅れてしまった。
(不覚。よくよく確かめると、服の繊維や質感が全然違うじゃないか)
俺は今お爺さんが着ている服と同じような服を着ていた。
つまり、俺は裸の状態で転移された可能性が高いということだ。
(くそっ! そういえば転移装置の設計時に、服のことを全然考えなかった!)
普段の研究では、服の考慮することなんてなかった。もともと無頓着だったことも合わさり、こういった結果になったのだろう。もし、今後空間転移などを考えている人がいたら、忠告してあげたいところだ。
そんな俺に追い打ちをかけるように、俺の体から更に衝撃的な事実が発見される。
なんと、俺の手や頬といった様々な部分に僅かながら土が付着しているのだ。一方で俺の来ている服には、土などは全く付いていない。
(これらの事から、導き出される結論は1つ)
俺は、外で素っ裸の状態で倒れていたということだ。そして誰かに発見され、ここに運び込まれ、服を着せられた。
俺を発見したのは誰だろうか? お婆さんはお爺さんと比べると大柄だが、男1人を運べる程ではない。地球の常識で考えるならば、俺をここまで運んできたのは別の人だろう。
素早く、台所に並べられている食器を確認する。
(コップは2人分……この家に住んでいるのは老夫婦2人だけみたいだな)
窓が遠く、外の様子は確認できないが、この家は『村』に属している可能性が高い。
16世紀ヨーロッパの生活水準で、老夫婦2人だけで生きていくのは困難だからだ。
……となると、俺は不特定多数、最悪村の人全員に裸を見られたことになる。
(突然裸で現れた謎の男……怪しくないはずがない)
いきなりハードモードである。
一刻も早く彼らの誤解を解き、この世界に馴染まなくてはならない。
お爺さん達の話が終わったようだ。
お婆さんは台所に向かい、料理を作り始め、お爺さんはこちらに向かってきた。
「アブラポネムゼ。ナーシード」
お爺さんは、心配そうに俺の額に手を当てる。
ごつごつして、温かい手だ。
おかしい。彼らから見れば、絶対に俺は怪しい男のはずだ。
「オーオー。アブラポンージニ。ジケド」
熱がないと分かったのか、お爺さんはほっとした顔になった。
その瞳に疑いの色はなく、純粋な優しさしか感じられない。
「あ……あり……が……」
思わずお礼の言葉が口から出ようとしていた。
慌てて、喉を押さえ、寸前のところで思いとどまる。
言ったところで、彼らには伝わらないし、更に怪しまれてしまうだろう。
外国人……だと思われるかもしれないが、もし彼らの住むこの村、国が戦争中だった場合は、状況はもっと悪くなる。最悪捕まって殺される危険もあるのだ。
しかし、それでは彼らの好意に報いることができない。
それはひどく残念かつ辛いものであり、自然と顔が歪んでしまった。
「オーオー。ムスシレラレボ、ダグタラニータ」
急にお爺さんが、俺を抱きしめた。
何がなんだか分からず、ぽかんとしていると、お爺さんは台所にいるお婆さんの方を向いた。
「ビィージィ。アニア、ムスシレラレボ、ターニャ」
そう言ってお爺さんは自分の口に大きなバツを作る。
俺ははっとして、先ほどの自分の行動を振り返る。俺は声を出そうとして喉を押さえ、辛そうな顔をしたのだ。
お爺さんから見れば、俺が声を出せないように映ったのだろう。
「オーオー。ダグタラニータ。フェルアドムポローダ」
お婆さんも俺の所にきて、優しく抱きしめてくれる。
何を言っているかは分からないが、彼らが俺を思ってくれていることは痛いほど伝わってくる。数滴、俺の目から涙が流れる。
誰かに心配されることのなかった俺は、その暖かさをただただ、受け入れたのだ。
その後、俺はお婆さんの作った温かいスープをご馳走になった。
地球で見たような食材もあれば、よく分からない謎の食材もあった。
しかし、彼らの優しさ知る俺は、臆することなく全部食べ切った。残すという選択肢は俺にはなかったのである。謎の食材も、すごく美味しかった。
そして、俺は先ほどのベッドで横になっている。
この家には風呂がなかった。お爺さんとお婆さんが風呂桶のようなものや、タオルを用意していたところを見ると、公衆浴場らしきものがあるようだ。
風呂桶を持ったお爺さんが笑顔で俺を誘ったが、手でバツを作り、お断りした。
お爺さんには悪いが、いきなり多くの人に会うのは危険が多い。
考える時間も欲しいので、俺は家に残ることにしたのだ。
お爺さん達が出て行ったあと、俺は軽く家を見て回った。
特別なものは何もない。たて掛けてあった鍬の重さからも、彼らに特別な怪力があるわけでなく、地球人と同程度であることが判明した。
彼らの家の状態から、彼らは俺と同じタイプの生命体でほぼ間違いないだろう。
(魔法……の世界ではなかったか……)
もちろん、俺はまだこの家の中のことしか知らないから決めつけることはできない。
外に出れば、はっきりするのだろうが、今の俺にはそんなことは関係なかった。
(でも、いい……世界だ)
今だからこそ分かる。
俺は高確率で、外に素っ裸で倒れていた。俺はこの状況を想像し、絶対に怪しまれたと思った。誰だって怪しむに決まっている。そう思っていた。
しかし、彼らは違った。『外に裸で人が倒れていたから心配した』のだ。きっと何の迷いもなく俺を助けたのだろう。そして俺が目を覚ましたのを共に喜び、俺がしゃべれなくて辛そうにしているのを共に悲しんでくれたのだ。
親切――俺の親は12歳の時に死んでいる。たぶん前の世界に未練が全くない原因の1つだろう。俺からの周りには、俺を妬む者か、俺を利用しようとする者しかいなかった。疑うことは俺が身につけた処世術の1つなのだ。
(ここにきて本当に良かった)
人間として、大切な感情をなくすところだった。
言葉が通じないなど、まだまだ問題はたくさんあるが、この転移は大成功である。
俺は天井に向けて手を伸ばし、その手を強く握る。
心には強い決意がある。
(俺は、この世界で生きていく)
ドアの開く音がする。どうやらお爺さん達が風呂から帰ってきたようだ。