転移 ‐異世界で凡人を目指す‐
「はぁぁぁぁぁぁ」
深いため息が出る。
引きこもり生活を始めてから約2年。
今日もアニメやゲームをして、1日が過ぎた。
しばらく日本を離れているうちに、日本の文化は結構変わっていた。
初めは色々な文化に触れていた俺だが、程なくアニメやゲームといったサブカルチャーにのめり込むことになる。
現実世界に嫌気がさした俺には、アニメやゲームが彩る幻想的な世界はとても魅力的なものだったのだ。
生活に不満はない。特許料が入ってくるので金銭的にも困っていない。
アニメやゲームは面白く、10年でも20年でも楽しく過ごすことができるだろう。
しかし時々、心の中に変な感情が生まれ、ため息が漏れるのだ。
この感情はなんだ? 天才と言われた俺だが、自分の感情を上手く表現できない。
これが非常にもどかしい。今の俺が抱える2つの問題内の1つである。
俺は今の生き方に全く不満はない。
過去の栄光や研究にも少しも未練もない。寧ろ俺は世界から嫌われているし、俺自身も嫌っている。それに比べ、アニメやゲームの世界のなんと魅力的なことか!
では、この時々胸で渦巻く妙な感情はなんなんだ?
「よし。忘れるためにアニメを見よう」
アニメを見終わる頃には、胸のもやもやは消え去り、神アニメを見た満足感で俺は気持ちよく眠りについた。
そして、あれからまた1日が経とうとしている。
俺は冷蔵庫を開けて、がっくりと肩を落とす。
「食料がもうなくなってる……」
最初は出前とかを頼んでいた俺だが、ある料理漫画にはまり最近は自炊をしていた。
健康的でいい趣味ができたが、買い出しに行かなくてはいけない。
これが今の俺が抱えるもう1つの問題である。
「仕方ない。買いに行くか」
ネット等で買うことも考えたが、やはり美味しい料理を作るには自分でしっかりと食材を見極める必要があるのだ。
俺は付け髭をつけ、深い帽子を被る。化粧をする程の徹底ぶりだ。俺が筋蒔正也だとばれてはいけない。
「よし。完璧」
変装を終えた俺は、なるべく人通りの少ない道を選んでスーパーに向かった。
近所のスーパーに向かう途中、俺と同い年ぐらいの高校生の男女が手をつないで俺の前を歩いていた。
「あー。この前のテスト、最悪だったぁ。55点だよ? どーしよー」
「次頑張ればいいさ! それより、明日から春休みだぜ! 旅行行こう! 旅行!」
「えー。お母さん、許してくれるかなー」
たったこれだけ。たったこれだけのことだが、会話を聞いている内に俺の頬から涙が流れ始めた。
彼らのその姿は、とても楽しそうだった。とても幸せそうだったのだ。
そして、俺は自分の中に渦巻いていた感情を初めて理解した。
――あの気持ちは、願望。
俺が本当に経験したかったもの。青春に対する願望である。
天才だと褒められ、もてはやされたかったわけではない。
人類のためになる研究をして、歴史に名を刻みたかったわけじゃない。
例え凡人でも、何も取り柄がなくても、俺は周りにいる人達と笑っていたかったのだ。
思い返せば、俺の人生はちっとも楽しくなかった。
俺が何かをする度に、周りは絶望し、悪魔を見るような目で見てきた。
結果を出せば認めてもらえるとがむしゃらに進んできたが、周りの人間はどんどん不幸になっていった。結果があの事件である。
俺も、あの二人のように幸せな人生を送りたい。
誰も不幸にしない。手を繋いだ人を幸せにする、そんな人になりたい。
周りを絶望させる天才より、隣を幸福にする凡人のなんと素晴らしきことか。
「俺は、人生をやり直したい。青春を謳歌したい」
転機は突然訪れる。アイディアは急に降りてくる。願望とは力なのだ。
頭の中を激しく血液が巡り、1つ1つ道筋が定まっていく。
「いける……かもしれない」
もうこの世界で理想の青春を謳歌するのは不可能だろう。名前が知られすぎているし、何より『天才という足枷』が邪魔をする。俺の周りで笑顔になるのは、いつも金目当ての女か利益を狙う企業の社長だ。俺はそんな世界はもうウンザリなのだ。
「過去……いや、異世界だ。異世界に行こう」
今頭の中に浮かんだ理論では、過去へ行くより異世界に行く方が簡単そうだ。
それに、人の世界より異世界の方が、俺が凡人になりやすい。
特に魔法が中心の世界なら最高だ。魔法が使える世界では俺の才能など無に等しいし、物理法則もあってないようなもの。
そんな世界なら俺は、誰も不幸にすることなく、誰からも疎まれることなくのびのびと生きていけるはずだ。
目指すべき場所が見つかった。
そう。俺のいるべき場所はこの世界ではない。
俺が凡人として輝ける異世界に行くのだ!
目標が定まり、体中に熱い血液が巡る。
俺は異世界で人生を凡人としてやり直す!
踵を返して、研究所に駆け戻る。
自炊どころではない。今日からしばらくは出前だ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
半年後。結果はすぐに出た。
俺は今、巨大な装置の真ん中にいる。
転移装置の起動はすでに済んでいて、転送開始まで後3分。
「まさか。こんなに早く完成するとはな」
思わずそう呟いていた。
正直自分でも驚いている。これが願望、欲望の力なのだろうか。
異世界の存在の証明は意外と簡単にできた。そして、地球から現在の技術で転移可能な異世界は3つほど存在することが分かった。
宇宙史から始まる地球史、さらに様々な観点から分析した結果、人類が高確率で存在する世界が1つに定まった。加えて何度も測定を繰り返し、地球人に類似する生命体がいるデータも手に入れのだ。
その世界の次空間座標を特定、次元移動装置の開発には少し手間取ったが、大きな問題はなく、半年で完成することができた。
「学会に発表したら、すごいことになるだろうな」
流石にここまでくると、信じて貰えないか。
でも、同時に多くの人の努力を踏みにじることは間違いない。
この研究データは俺の転移と同時に、自動的に消滅する。それでいい。
「さて、どんな世界が俺を待っているのやら!」
冒険心。子供の頃、どこかに置いてきたもの。それが再び、俺の中に蘇える。
理論上、地球と同じ空気構成。人類とほぼ同形の生命体がいることは分かっている。
しかし、天才と呼ばれていても、所詮俺は地球というちっぽけな星のいち人間。
この理論が正しいかどうかは飛んでみなければ分からない。
この転移装置も、失敗確率は極めて低い。
しかし、これも所詮は地球の理論。この理論が向こう側でも通じるかは未知なのだ。
「人生をやり直すんだ。これぐらいの冒険、しないでどうする」
もう装置は動いている。
正直言うと、少しだけ怖い。でもそれ以上に俺はわくわくしているのだ。
がたがたと装置が大きく揺れる。転移まであと僅かだ。
「――恋とか、してみたいな」
半年前に見た、高校生の男女を思い出す。
俺の隣で、あんな風に笑っている人ができるなら、俺はこの瞬間に命を懸ける価値がある。
いや、懸けなければならない!
装置が青色に発光する。少しの不安と大きな希望を抱えて俺は飛ぶ。
凡人として人生をやり直す。もう周りを不幸にするのは嫌なんだ。
「まったく! 天才なんて! くそくらえだ!」
俺は世界に中指を立てる。
直後、光が俺の体を包み込み、俺の意識はゆっくりと遠ざかっていった――