序章
宮中に不穏な空気が漂う。その空気を変えようと蘇太后は思案をめぐらした。蘇太后は机に肘をつき、額をおさえながら耳をすませた。どこからともなく足音が聞こえてくる。宮女たちの足音なのか、それとも兵たちの足音なのか。蘇太后は頭をあげて側仕えの宮女を手招いた。
「お前、足音が聞こえぬか?それとも風の音か?」
「恐れながら、わたくしめには何も聞こえません」
「そうか…そうか」
蘇太后はため息をした。この不穏な空気に飲まれて敏感になっているのだと思うことにした。しかし、女の勘が不安感を助長させてしまう。再び、蘇太后は口を開いた。
「皇帝、皇帝は無事か!」
思わず口走った。口に出したことは確認しないと気が済まない蘇太后は身支度も程々に皇帝の寝殿、乾極宮へと急いだ。
その道中は長いものに感じられた。薄暗い大理石の回廊に月明かりが映り込んでいる。しかし、それは不気味な白い光であった。側仕えの宮女を1人だけ伴い歩く太后の姿はあまりにも不気味であったし、無防備であった。
息を荒らげながら乾極宮に着いた蘇太后は下仕えたちの挨拶を無視して中へ入って行った。寝殿の中に控えていた宮女は太后の歩行を妨げないように帳を捲りあげていく。ふわりと帳が風にたゆたうたびに燭台の灯りが左右に揺れた。
最奥に太后が向かうと皇帝の変わりに乳母が出迎えた。もう一人の乳母は皇帝を揺り起こす。皇帝は眠さで駄々をこねた。皇帝は齢6歳の幼帝だった。蘇太后は幼帝を起こしている乳母の手をせいした。
「皇帝、皇帝、起きなさい」
「皇祖母、眠たいです。なぜ、起きなければならないのです?」
「不穏な空気が漂っています。きっと、諸侯にけしからん者がいます。すぐに宰相を呼び出しておくれ」
幼帝は体を起こして重い瞼を擦る。乳母が見計らったかのように上衣を手際良くかけた。蘇太后は幼帝の手を引くと正殿に向かった。太后の胸のうちは不安感で支配され、先程の足音が徐々に大きくなっていくような気がした。正殿に向かう最中だ。武装した皇叔、鄭王が立っていた。いくら幼くとも皇帝は皇帝である。鄭王は幼帝のために道をあけなくてはならない。
太后は幼帝に道を譲るように叫んだ。
「皇帝に無礼であろう!」
「何が無礼でしょうか?権力を乱用し、我が宗廟を汚したあなたの方がよっぽど無礼でしょう」
「な、何を言うか!」
太后は口を魚のようにぱくぱくさせながら鄭王を指さした。その間に太后を屈強な兵士たちが囲む。片手には煌煌と光る剣が握られていた。
「太后の時代も終わりだ!」
鄭王が叫んだ。夜空には女の甲高い叫び声が響いた。