第五章~怠け者と鬼軍曹~
「気まずい…」
五郎は相手に気づかれぬようそっと溜息をついた。
何の因果かわからないが、常に不機嫌なオーラと見えない壁を携えた人物と部屋に二人なのだ。
だが五郎にとって何が一番辛いかと言われると、その人物が義妹とどこか似ている事である。
見ているこちらが凍えそうな目、端正な顔立ち、背丈は150程であろうか。
特にその眼力に五郎は押しつぶされそうな重圧を身体で感じるのであった。
五郎の義妹である好乃も普段の性格とは一変して、不機嫌になるとよく五郎に凍える視線をビシバシ飛ばしてきたのをよく覚えている。
「好乃も時折こんな感じになるんだよな…」
決して相手には聞こえないように呟きながら作業を続ける五郎だったが。
(もしかしなくても、今日は一日この子と付き合うのかなぁ)
そう思いながら今朝の一幕を思い出していた。
事の発端は朝、長秀から伝えられた今日の予定であった。
今日も家人達と雑務や家事に追われながら鍛錬をしなきゃいけないのかぁ、やだなーと思っていた五郎だったのだが。
それも仕方がないかと寝ぼけた顔を洗いに向かっていると。
「おっと、丁度良かった染井殿」
呼び止めた声は長秀であった。
長秀は五郎をにこやかな顔で見ると、口を開いた。
「申し訳ないのですが、今日は一日家を開ける事になりました」
「あ、はい」
「なので、今日の鍛錬だけは休みにしようと思ったのですが」
鍛錬は休み、その単語をまだ寝ぼけた頭に入れた五郎はテンションが少しあがった。
(や、やった!今日は少しゆっくり出来そうだ!)
雑務や家事なら兎に角、毎日毎日ハードな鍛錬をやらされて五郎の身体はロボットのようにガッチガチになっていた。
偶にはのんびりしたい、怠けたいと常々思っていた所だった。
しかし、五郎にそんな些細な幸せも許さないのが運命というなの不運である。
「娘が私の代わりに鍛錬を見ると言って聞きませんので、任せることにしました」
「えぇ~!」
「ははは、まぁ娘もしっかりしております。安心して下さい」
「そ、そうですか」
「五郎殿さえよければ、仲良くしてあげて下さい」
「はい、それは勿論」
よかったよかったと頷く長秀を横目に、五郎は先刻まで見ていた夢がOBになったショックで泣きそうだった。
(でも、長秀さんの娘さんか。きっと娘さんものんびりした人に違いない!)
長秀に良く似た娘さんだとしたら、鍛錬も男性である長秀より優しくなるのでは?と考える五郎であった。
しかし、五郎は気づくべきだった。
自分が以下に運が悪いのか、そして何より女難であるかを。
時は戻る。
そう、この場にいる五郎ではない人物。
その人物こそが、丹羽長秀の娘・揚羽であった。
五郎と揚羽が最初に対面したのは丹羽家にお世話になる事が決定した日である。
初めは五郎の風貌に驚きながらも、挨拶や会話も普通に交わせていたのだが。
五郎が垣間見せる怠け癖や、鍛錬での不甲斐無さを目の当たりにし。
武士の娘である揚羽は五郎を情けない男性としてしか見れなくなっていた。
その積み重ねが、五郎の前で揚羽の暗黒面を呼び覚ましているのであった。
そして当然のように、昼に予定していた学問でも問題が起きるのである。
「あの、揚羽さん?そろそろ雑務をしたいので戦術書はここまでに…」
「いけません、まだ大して読み解けてないでしょう?」
「は、はぃ」
「雑務をしたいなら早く終わらせれば良いのです」
「いいですか?そもそもこの書は簡単な物です」
「それをだらだらと、眺めているだけではありませんか」
「はぁ…」
五郎が簡単な戦術書に手こずるその理由、それは実に単純だった。
要するに、字が読めないのである。
想像すれば容易だろう、元々の世界で普段使っている文字と違うのだ。
そんな五郎に戦国の崩し字を読み解けというのは困難だったのである。
「今日まで父上に何を教わったのです?」
「その、読み書きをずっと教わっておりました」
「それだけですか?」
「えぇ、この通り全く覚えがなかったので」
「仕方ありませんね、はぁ」
まさか読み書きも出来ないと思っていなかった揚羽は、これ以上は無理だと察したのか戦術書を片付けると。
「何故、読み書きもできず。腕に覚えもないあなたが仕官など出来たのです?」
「いやぁ~、自分もわかりません。全部信長様の気紛れじゃないでしょうか」
五郎の返答に初めて複雑な表情を浮かべた揚羽は溜息をつくのであった。
揚羽はきっとこう思ったのだろう、またか…と。
結局、昼に起きた読み書き騒動後。五郎は慌しく雑務をこなしに出て行ってしまった。
部屋の主が居なくなった部屋に残された揚羽は改めて大きな溜息を吐いた。
「父上も何故あのような男を預かったのでしょう」
揚羽がそう思うのも、この数日間ずっと様子を窺ってみていた結果が。
風に吹かれて舞いそうな身体、常に覇気のない態度、そして今日新たに判明した読み書きも出来ない程の教養の無さ。
幾ら信長様が興味を引かれた何かを持っていたとしても、何故父上に預けられたのやら。
「信長様は、私には想像も出来ぬ御仁」
「何か考えがあられるのでしょうか?」
誰にともなく問いかけてみるが、その問いに答えてくれる者など居るはずのなかった。
「兎も角、あのような体たらくでは父上に恥をかかせる事になるかもしれませんね」
「父上は、優しすぎますから私がきつく躾けないと!」
五郎がどうなろうと構わないが、父上が五郎のせいで恥をかく最悪の状態は避けたい。
それでなくとも戦の気配が近づいているのだ、このまま五郎に構ってもいられないだろう。
その時は自分が厳しく躾けよう、揚羽は心に誓いながら鍛錬の時間まで自分のするべき用事を済ませるのであった。
「はぁ、はぁ、はぁ~」
「もう、終わりですか?」
「ちょ、ちょっと休憩させてください」
(だ、誰か助けて!長秀さん!早く帰ってきてくれ!)
息を整えながら座り込むと、五郎は天を仰いだ。
空は青く広がっていて、雲が穏やかに流れていた。
(こんな気持ちのいい日は今頃昼寝でもしていたのになぁ)
それがまさかの地獄の鍛錬中である、戦術書の一件が効いたのか。
揚羽は鍛錬の前に五郎に質問してきたのである。
「染井殿、武芸は何が出来るのです?」
勿論、武芸なんて学んでいない五郎は出来ないと答えたのだ。
その答えをある程度予想していたのだろう、揚羽は五郎の身体作りを鍛錬としたのだった。
ただ五郎にとって不幸だったのは、揚羽が課す鍛錬は遠慮の無いハードな鍛錬だという現実であった。
「も、もう動けません!」
「本当に情けない人ですね、貴方は」
「いやぁ…それほどでも」
「くわっ!」
「すみませんでした!」
「全く、染井殿は変な人です」
「ははは、よく言われます」
(この世界に来てからだけど!泣きそう)
五郎の心中を知ってか知らずか、揚羽は五郎の答えに仕方の無い人と言わんばかりの表情を浮かべた。
とは言え、今日の一件は五郎にとって地獄ばかりでもないだろう。
揚羽は態度こそ変わらないものの、五郎と直に接したことで僅かではあるが小さな反応を返してくれるようになったのだ。
未だ大部分は五郎の情けない面が印象が強いものの、揚羽の課した鍛錬を弱音を吐きながらもやりきった根性は素直に感心させたのである。
「染井殿、本日はこれまでにしましょう」
「本当ですか!ありがとうございます!」
「あら?まだ元気があるのみたいですね?」
「これ以上は死にます…!許して!」
五郎が必死に嘆願する姿を見た揚羽は本当に一瞬だけ表情を崩したが、五郎がその表情に気づくことはなかった。
「染井殿、父上に迷惑をかけないようこれからも精進してください」
「え、えぇそれは勿論」
「では、お先に失礼します」
「はい、どうもありがとうございました」
揚羽が背を向けて去っていく姿を見送りながら五郎は再び地面に寝そべる。
今日一日長かったなと思いながら、空を眺める。
「明日、俺の身体動くんだろうか」
若干の不安を抱えながら、明日になったら体力が回復してくれる事を祈るしかない。
「収穫はあったかな」
「これが切っ掛けになって、揚羽さんとも仲良く出来ればいいなぁ」
これまで殆ど接する事が出来なかったのだ、人の良い長秀にこれだけの面倒を見てもらっている。
出来ればその娘である揚羽との友好関係を築いて、いつか親子両方に恩返しをしたいと思う。
丹羽家で世話になってから生活に不自由なく過ごしている事実は五郎にとってとても有り難い事であった。
「これから、信頼関係を築いていかないとなぁ」
今後の生活の為にも悩みの種は解決していこうと誓いながら。
五郎は夜になる前に悲鳴をあげる身体を引き摺りながら残した仕事をこなす為に起き上がる事にした。