第三十一章~決着、桶狭間の激戦~
「やらせんっ!」
鈍い音が響いて五郎は恐る恐る目を開けた、五郎の顔面寸前まで迫った刃先が耳障りな音を立てて止められている。
『あわわ!』と五郎が身体を仰け反らせると、誰かの声が聞こえてくる。
「五郎!よく生きていたな!」
「信長様!」
「利家も、無茶しおって……だが良くやった!」
「へへ……ちょっとヘマしちまいました」
「生きていれば上出来よ、それに今川義元を見つけたのだ、後は任せるがいい!」
信長はそう言って義元の刀を弾くと馬から降り立つ、信長の後から次々に駆けて来る馬廻衆が親衛隊と次々に打ち合いを始める。
「時間を掛け過ぎたか」
「ここで討ち取らせてもらうぞ!義元!」
「ぬぅ……」
信長が刀を構えると、義元もそれに呼応するように構えなおす。
二人は睨みあうと、じっとその場に立ったまま動かなくなる。
周囲は両軍入り乱れて乱戦になっている、五郎は利家を支えて少し離れた場所にへとへとになりながら辿り着く。
「利家殿、信長様も相手の大将も全く動かないですよ」
「恐らく必殺の間合いを探っているんだろう、信長様は敢えて義元から攻められるのを待っているのかもしれないぜ」
「わざわざ待つんですか……?」
「義元も大分消耗しているはず、何度も打ち合う余裕はないはずだ」
五郎は義元を見る、確かにあれ程利家と打ち合った後なのだ、相当疲れが見える。
「でも、今なら簡単に倒せるんじゃ?」
「危機的状況に陥った手練の武将ほど、油断出来ないもんだぜ」
「だから待つ……ですか?」
「信長様は義元の攻撃に合わせて反撃するつもりじゃないかな、勝負は一瞬でつくと思うぜ」
利家はそこまで言うと、五郎に視線を戻させる。
その視線の先には微動だにしない信長と義元が映る。
それからどれ程の時間が経ったのだろうか、五郎には数十分にも感じる程の時間だったが、それはあっけなく終わりを迎える。
「くらえ!」
「ふんっ!」
義元が気合と共に繰り出した斬撃は信長が刀で受け流すと空を斬る、そのまま体勢を崩した義元を振り向き様に一閃すると、血飛沫を上げながら地面に倒れた。
「今川義元、討ち取ったぞ!」
信長の叫びに友軍は歓声を上げるとその勢いを増した、逆に自分達の総大将を討ち取られた親衛隊は一目散に逃げ出した。
その残党を深追いさせないよう指示を出すと、義元の遺体を運ばせる。
それから近くに居た馬廻衆の一人を捕まえると、勝家への伝令を頼んだ。
「利家、傷はどんな感じだ?」
信長はゆっくり利家に近寄ると問いかける。
「いや、見た目以上に軽い傷です。それより、五郎が居なかったら首が飛んでたかもしれません」
その利家の言葉に驚いた表情を浮かべると、信長は五郎に視線を向ける。
五郎は返り血を浴びて更に怖くなった信長に内心怯えていると、信長はにやりと笑って五郎の肩を叩いた。
「五郎、やるじゃないか!くっくっく!」
「痛い!痛いです!そこは傷が……あああああ!」
「あ、すまん」
「……!……!?!」
五郎は悶絶しながら訴えてみるが、信長は痛みに苦しむ五郎を見ながら嬉しそうに笑っている。
「本陣に戻るぞ!敵の総大将は討った、敵の戦意も失せるだろう!」
「はっ!」「はい!」
信長は傷を負った利家を馬廻衆の一人に頼むと、五郎を自分の馬に乗せる。
「あ、あの信長様……」
「どうした?」
「どうして俺は、信長様の馬に乗せられたのでしょう?」
「初陣でよくやった褒美だ、俺の後ろに乗せてやろう!光栄だろう?」
「え……」
「何、心配するな、この程度の坂くらい駆け上ればすぐ本陣に着く」
「や、やめ」
「しっかり掴まっておけよ!」
「結局こうなるのおおおおおおおおお!」
機嫌が良い信長が馬を勢い良く走らせると、五郎は痛む肩を庇いながら必死に信長に掴まる事になった。
その光景を見送った利家は『すげー腰が引けて、滑稽だった』と後々笑い話にされるほどの醜態を晒す事になってしまうのであった。
本陣で戦況を見ながら指示を出していた勝家は早馬から今川義元を討ち取った事を聞くと、皆に勝どきをあげさせる。
今川軍は織田軍から聞こえる勝どきと総大将の討ち死の報せにどよめきが走った。
それまで拮抗していた戦力は戦意を失った事で崩れ、今川軍は敗走を始めた。
「勝てた……か」
その様子を見ながらホッと息を吐くと、勝家は友軍に深追いせぬよう指示を出す。
この合戦で今川軍の戦意だけでなく、相当の有力武将を討ち取れた事は大きいだろう。
これで今川軍の勢いが衰えれば、反撃に転じる事も可能になるだろう。
「さて、どう動く?」
「勝家、いいから撤収する準備をしろ」
「可成殿」
「この後の事は城に戻ってから考えればいい、何時までもここに居ても仕方がない」
「わかってます」
血だらけで戻ってきた可成と軽く言葉を交わすと、勝家は主君の帰りを待つ事にした。
本陣に信長が戻ったのは、義元を討ち取って暫くしてからだった。
笑いながら帰ってきた信長とは対照的に、五郎は今にも死にそうな顔で信長にしがみ付いており、小さな呻き声を上げていた。
信長は敵の総大将である今川義元の首級を掲げ、皆を鼓舞するとすぐに引き上げを命令した。
桶狭間の合戦で総大将を含め有力武将を次々と失った今川軍は戦える状態ではなく、残った部隊は全て駿河に逃げ帰る事になる。
その報告を受けた松平軍も大高城を放棄して早々に戦場を離れた。
勢いが付いた織田軍はすぐに抵抗を続ける勢力から次々と拠点を奪還すると、あっという間に尾張から今川の勢力を一掃することが出来た。
「皆、よくやった!」
信長は大広間に集まった家臣一同を褒めると、宴を開く事を告げて解散させる。
皆は歓声を上げて宴を楽しみに大広間を後にしていくと、後に残ったのは五郎と利家だけになる。
「五郎、利家!」
「はっ!」「は、はい!」
「二人ともよくやった!」
「「ありがとうございます」」
信長は二人の返事に満足そうに頷くと、続けて尋ねる。
「……それで、怪我の具合はどうだ?」
信長の問いに利家が五郎の代わりに報告する。
「軽い傷です、早くて数週間程で治るでしょう。五郎は――数日程だと聞いています」
利家の返答に表情を弛めると、信長は姿勢を崩す。
「軽い怪我だけで済んだか」
「はい」
五郎は二人の会話をのんびり聞きながら、静かに溜息をつく。
桶狭間から生きて帰ったのはいいが、戦が終わってから暫くの間、どこかふわふわとした感覚が抜け切れなかった。
しかし、肩の傷から響いてくる痛みが自分が戦場から帰ってきた事を実感させてくれる。
(死なずにすんだけど、ある意味生き地獄を味わってしまった……)
思い出すだけでヒヤッとする感覚が甦る、五郎は二度とあの二人の後ろには乗りたくないと思った。
「五郎!おい、五郎!」
「あ、はい!」
「何だ、まだぼーっとしてんのか?」
「大丈夫です、どうかしました?」
「何、利家とも話していたが、よく今川義元を相手に耐えたな」
「運が良かったんですよ……」
「運もお前の実力よ」
信長は愉快そうに笑うと、真面目な表情を浮かべて五郎を見る。
「五郎、利家が予想外に動き回ったとはいえ、初陣でよく生き残ってくれた」
「信長様……」
「予想外の手柄も挙げた、良くやってくれた。これなら丹羽長秀の名を受け継ぐ事に異を唱える者も減るだろう」
「……」
「五郎、これから名乗りを上げるときは自信を持って言うといい、丹羽長秀とな」
「はい!」
五郎が頭を垂れると、信長は頷く。
織田軍の今後を担う桶狭間の合戦は織田に決着がついた、今川義元を失い、今頃今川家当主である氏真は大慌てだろう。
暫くは落ち着く事が出来るだろうと信長は大きく息を吐いた。




