第十九章~夢か現実か~
「おい、兄ちゃん!兄ちゃんってば!」
自分を呼ぶ声に五郎はハッとする、それから呼びかける声に顔を向けると五郎は驚愕する。
五郎が見たのは亡くなったはずの喜助だったからだ、喜助はいつものように無邪気な顔で五郎を呼んでいる。
「喜助……本当に喜助なのか?」
五郎が震える声で問いかけると、喜助は眉を顰めて答える。
「本当にって……、俺は俺だよ?どうしたのさ」
「いや…」
「変な兄ちゃん、早くしないと飯無くなっちまうよ!」
「あ、あぁ…」
あまりにいつも通りの喜助の姿に、五郎は目を潤ませると喜ぶ。
(喜助は生きてた、生きていたんだ!)
流れそうな涙を手で拭うと、五郎は喜助を追いかけて見慣れた襖に手を掛ける。
襖の先には庄吉と食事の支度をする雪の姿があった、二人とも和やかな表情をしていた。
雪が喜助と五郎に気づくと、にこりと笑って声を掛けてきた。
「五郎さん、喜助。そろそろ食事が出来ますから、座って待ってて下さいね」
「もう腹がぺこぺこだよ!」
「ふふっ、喜助ったら、五郎さんも座ってて下さい」
雪に勧められ腰を下ろすと、五郎は部屋を見渡す。
部屋を見渡すといつもと変わらない、この優しい親子が住む家だとわかる。
俺は、やはり悪い夢を見ていたのだろうか。あの生々しい血の臭い、体温を失っていく喜助の身体を支えた感触は…。
五郎は頭を振る、これ以上考えても嫌な気持ちになるだけだ。喜助も雪も庄吉も、自分の目の前で笑っているではないか。それでいいじゃないか。
五郎は雪が用意してくれた自分の食事に箸を伸ばすと、一口一口噛み締める。
「兄ちゃん、そんなにゆっくり食べてないで沢山食べなよ?」
「ん?いや、こんなに美味しいご飯はしっかり味あわないと駄目だろ?」
「そうかなぁ?」
喜助と五郎が些細なやりとりをしていると、雪がくすくす笑う、良く見てみると庄吉も五郎と喜助を見て皺を深くして微笑んでいる。
五郎は軽く頭を掻くと、まいったなぁと呟いて食事を再開させた。
喜助は五郎がゆっくりと食べるのを見て、がっつくのを止めると。
しっかり噛みながらご飯を食べ始めた、それを見て雪や庄吉は笑みを深くするのであった。
「それにしても、嫌な夢だったな」
美味しい食事を堪能した後、皆でお茶を啜りながらゆっくりしていると五郎は話す。
すっかり穏やかな食卓を堪能した五郎は、身体の力が抜くと、困った顔を浮かべ続ける。
皆は五郎の言葉にキョトンと顔を見合わせた、それから喜助が興味を惹かれたのか尋ねてくる。
「嫌な夢?どんな夢だったんだよ兄ちゃん、迷子にでもなる夢?」
「俺はどこまで信用がないんだ?これでも一応大人だぞ」
五郎は喜助の言葉に苦笑すると、嫌な夢がどんなに恐ろしいものだったか語り始める。
自分の頭にこびりついた記憶を引き出しながら皆に語っていたのだが。
どれ程経っただろう、ふと喜助を見た五郎は喜助が俯いているのに気づく。
「おい、喜助?どうしたんだ、お腹でも壊したのか?」
「…いや、だいジョウブだよ。兄チャン」
「??」
ならいいんだがと五郎は話を再開する、皆に自分が見た夢を全て吐き出す事が出来た五郎は大きく息を吐く。
皆に聞いてもらう事で少し胸の痞えが取れた気がした五郎は喜助に声を掛ける。
「あんな背筋が凍る夢なんて初めてみたよ、喜助」
「……」
「喜助?」
すっかり静かになった喜助を不審に思った五郎は、おーいと声を掛けながら喜助の顔を覗き込む。
「ひっ!」
思わず声を上げる、五郎が覗き込んだ喜助の顔は血で染まっていた。
先程まで笑っていた顔は苦しげな表情を浮かべ、いつの間にか喜助の身体中から血が滴り落ちている。
五郎が思わず喜助から離れようとすると、喜助は五郎の手を捕まえると呻き声を上げた。
「兄チャン、イタイヨ、タスケテ」
「うわぁ!」
「ドコニ……イクノ?オレ…ヲ……オイテイクノ?」
腰を抜かして動けない五郎に喜助は身体を引き摺りながら近づく。
生気を感じられない顔から血を滴らせると、五郎の顔から全身に血が流れ落ちる。
五郎はあまりの恐怖に声も出せず震える事しか出来なかった。
そんな五郎の手を掴んで顔を寄せた喜助は、ぞっとするような声を出した。
―――ユルサナイ
「うわあああああ!!」
許して!許してくれ!違うんだ……俺はお前を助けたくて!すまないすまないすまない……
五郎は身体を丸めて膝を抱え込むと俯いて許しを請う。
「どうした!五郎!何かあったの…か」
離れから聞こえた叫び声に駆けつけた男、利家は五郎に声を掛けたのだが、ぶつぶつと呟きながら震える五郎を見ると表情を険しくする。
五郎だけが生き残って数日、五郎は突然暴れては塞ぎ込む状態を繰り返していた。
利家がこの丹羽家に居るのもその為である。
本来はまだ許されない事だが、長秀の死と勝家の取り成しを受けて人手が足りない状況、仕方なく信長は五郎を見張るよう利家に命じると織田へ戻る事を許したのだ。
「五郎!おい!聞こえてないのか?」
利家の声に全く反応せず、許してを繰り返す五郎を見て利家は手の尽くしようがなかった。
五郎が人の死、そして自分が死ぬかもしれない状況を経験したことが無いのはなんとなく察していた。それもそうだろう、初めて会った時の五郎の身体、そしてその性格はとても人と殺し合いが出来そうに見えない弱弱しいものだったのだ。
「長秀さん、どうして死んじまったんだ。助かった五郎がこんなんじゃ、長秀さんが必死に守った意味があるのか、俺にはわからないよ」
利家は答えが返ってくるはずのない人物に問いかける。
生きていたら笑って答えを導いてくれる人物はもう居ない。
利家は深く溜息をはいてその場を後にする、五郎は疲れて意識を失うまでずっと蹲っていた。
「五郎の様子はどうだ、一益」
信長は静かに問いかけると、一益は利家から預かった書状を差し出すと、答えた。
「利家からの報告です、その……大分弱っているようです」
「そうか、わかった。一益、今回の件が誰の手引きか、引き続き探れ」
「はっ」
信長は一益を下がらせると、拳を握り締める。
血が滲むほど強く握った拳を床に叩きつけようと振り上げた時、襖の奥から声が掛かる。
「そんな事をして怪我したら、刀を無駄にするぞ」
「可成か、何用だ」
「何用と言われても、そろそろ戦になる頃だろうと勘が騒いだだけの事」
可成と呼ばれた男は、信長を前にして臆する事無く腰をおろすと。
信長の前に何かを差し出した。
「何だ、これは」
「酒に決まっているだろう」
「……」
「あんまり酒が好きじゃないのは知っている、だが戦の前に怪我をするよりいいだろう?」
「違いない」
可成の心遣いに苦笑すると、信長は酒をぐぃっと呷る。
その様子を見てにやりと可成は相好を崩すと、小姓人を呼んで追加の酒とつまみを持ってくるよう頼んだ。
信長はふと夜空を見上げる、しかし今夜は朧げな月が暗雲の隙間から寂しげに顔を覗かせていた。
「長秀、五郎はどうしてしまったんだ」
信長はもう会う事が出来ない重臣に問いかけた。答えなど返ってこないと知りながら。




