第十二章~今川の暗躍~
「雪斎!雪斎はいないの!」
「はい、ここに」
苛立ちを隠せないまま座る人物に呼ばれ、何処に居たのか呼ばれた人物は暗闇から姿を見せる。
「雪斎、尾張はどうなってるのさ!」
「はぁ」
「父上は父上で未だ侵攻する気配はないし」
「義元様も慎重に織田の動きを見ておられるのでしょう」
「慎重に?あんな小さな国、すぐ攻めてしまおうよ!」
「まぁまぁ、氏真様落ち着いて。あの織田信長という男は中々の人物、油断すれば寝首をかかれますぞ」
氏真と呼ばれたまだ若々しい人物は、不服そうな表情を変えることなく問いかける。
「油断も何もないじゃないか、いつまで侵攻を待てばいいのさ」
「もう暫しの我慢でございます、尾張を手に入れる策を静かに実行しておりますので」
「策?どんな策なのさ」
「それは秘密でございます。氏真様は安心して侵攻の準備をされて下されますよう」
氏真の問いを軽くいなすと、雪斎と呼ばれた帽子を被った人物はスッと闇に消えた。
雪斎が居なくなった部屋で一人、氏真は暫く不満そうな顔で座り込んでいた。
今川家当主、今川氏真。
今川家の最盛期を築いた今川義元の後を継いだ現当主である。
氏真が当主を継いで、既に三年は経つであろうか。
前当主義元が築いた今川家も氏真を当主としてからというもの問題が絶えなくなっていた。
簡潔に言えば氏真は当主としてまだ未熟だったのである。
「しかし、そこが誘導しやすくてよい所よ」
暗い部屋で一人忍び笑いをする自分は今の所順調に進む自分の計画に満悦していた。
注意すべきは、織田の動き。それと前当主義元の動きである。
織田は未だ沈黙を続けているからよいが…。
問題は前当主義元であろう。
今川義元は今川の最盛期をこの[雪斎]と築き上げた人物。
迂闊に尾張に侵攻を始めはしないと思うのだが。
「後少し、後少しで織田に付け入れる隙が作れる」
「……」
「ただ、最近囁かれている噂。尾張に現われたという妙な男。大層、信長が気に入っているようだ。」
雪斎は帽子から垂らした布で覆った顔を襖の奥へ向けると。
「信長が入れ込む男ならば、何かに使えるかもしれん」
「もし可能なら捕まえよ」
雪斎が声を掛けると、襖の奥に微かに存在していた気配が消えたのを確認する。
折角の計画には出来る限り不確定要素は排除し、使えそうな物は使わなければ。
雪斎は再度忍び笑いを洩らすと、その笑いと共にその気配は闇夜に消えていった。
「何?今川に怪しい動き?」
「はい、今川義元殿が尾張へ侵攻する動きがあると」
長秀からその報告を受けた信長はどかっと座りなおすと扇子で床をコツコツ叩く。
「痺れを切らしたとい事か」
「いえ、それが怪しいのです。動きがあるのは今川義元殿のみで、当主である氏真殿や他の家臣は動く気配がないようで」
「ほう、それは義元殿が先走っておるという事か」
「恐らくは」
義元殿が先走る、ねぇ?そいつは確かに怪しいな。
そもそも今までの小競り合いも義元が引き際を心得てるから合戦へと発展しなかったもの。
その義元が単独で侵攻する事が有り得るのだろうか。
「しかし、そうなるともっと怪しいのは氏真等か」
「えぇ、此方でも噂程度に広まる話を当主である氏真殿が知らないはずはないと思うのですが…」
二人は沈黙して考え込む、すると新しい報告を持ってきた人物が居た。
その人物は静かに長秀の後ろから現われると、礼儀正しく頭を垂れて報告を伝たえた。
「次から次へと、面倒だな全く!」
「信長様」
「分かっている、長秀」
「ご苦労だったな、一益。下がっていいぞ」
「はい」
一益が報告を終えて下がると、信長は長秀に向き直る。
「怪しい動きと、怪しい男ね。まるで五郎だな」
「そうですねぇ~」
「しかしこうも五郎が居た場所を嗅ぎ回られてるようだと、五郎を狙っているのか?」
「五郎殿は目立ちますから、信長様の目に留まった者として噂になっているようですし」
「だから探っている、と」
「そう思います」
「長秀、五郎を頼んだぞ。何かあったら、犬でもなんでもいい。手を借りろ」
「お気づきでしたか」
信長はふんっ!と鼻を鳴らすと。
「あの犬小僧、堂々で俺の領内で歩きすぎだ」
「あはは、そこが利家君の良い所ではありませんか」
「ただの阿呆だろう」
渋い顔をしながら利家の事を話す信長の話の間、その部屋から聞こえる笑い声は耐えることがなかった。
両軍の緊張が高まりつつある中、この日義元は駿河に居た。
「氏真、何用だ」
「これは父上、よく戻ってこられました」
「挨拶は良い、それよりあまり三河を離れる訳にはいかんのだ」
「大分三河も落ち着いたのでしょう?大丈夫ではありませんか?」
「織田と睨み合っているのだ、長々と離れる理由はない」
「ははっ、わかっていますよ。それよりも父上に話があります」
「話だと?」
「はい、雪斎が詳しく説明しますので。雪斎、頼んだぞ」
氏真がそう言うと、雪斎は姿を現すと恭しく頭を下げる。
「義元様、お久しぶりでございます」
義元は雪斎を見ると、顔を険しくして目を閉じた。
時間にすれば僅かであったが、ゆっくりと目を開けた義元は雪斎へ目を向けると。
「挨拶は良い、用件を言え」
義元の許しを得た雪斎は頭を上げると用件を伝え始めた。
「実は義元様が近々尾張へ侵攻を開始するのではとのお話が耳に入っております」
「……」
「それは真でしょうか?」
「そうだ」
「話というのはその事についてです。その侵攻を待っていただきたい」
「なんだと?」
「ですから、尾張侵攻を待っていただきたいのです」
雪斎の話に義元は立ち上がると部屋を出て行こうとする。
「父上!お待ち下さい!」
氏真の声に足を止めると、背中越しに義元は言う。
「何の話かと思えば侵攻を待てと。既に準備は整い始めているのだ、待てる訳がないだろう」
「そこを待って頂きたいのです!」
「……」
「雪斎が織田をバラバラにする策を実行してるんだってさ!」
「何?策だと?」
「そう、上手くいけば尾張所じゃない。伊勢まで労せず侵攻できるかもしれないんだってさ」
氏真が少し興奮気味に捲くし立てると、義元は氏真を見て尋ねる。
「氏真、お前はその雪斎の策を聞いておるのか?」
「い、いえ」
「どんな策かもわからず、お前はその話を信じているのというのか」
「そ、それは…!でも父上も雪斎と一緒にこの今川を大きくしてきて知ってるでしょ!雪斎の策は信頼出来る、今までもそうだったじゃないか!」
氏真の態度を見て義元はゆっくりと雪斎に顔を向けると。
「……雪斎、その策どのような策なのだ」
「お答え出来ません」
「答えれないだと…?」
「はい、幾ら義元様と言えど人の口に戸は立てられぬものです」
「雪斎、いつの間に貴様はその様な男になったのだ?」
「何をおっしゃいますか、私めは私。今までもこれからも太原雪斎、今川家の忠実な家臣でございます」
そののらりくらりとした雪斎の態度に、これ以上の追求を早々に切り上げた義元は氏真に口を開く。
「詳細のわからぬ策など便りにはならん…、が」
「氏真、当主のお前が命令するのならばもう少し様子を見る事にしよう」
その言葉に氏真は喜色を顔に滲ませるが…。
「ただし!最近妙な動きをしているようだが、事前に連絡が無ければ儂は独断で動く。よいな?」
義元の言葉に氏真が頷くのを確認した義元は足早に部屋を去った。
「ふぅ~肝が冷えたじゃないか雪斎~」
「流石は氏真様、あの義元様をしっかり止められました」
「そう?そうかな!…それで策は順調なの?」
「万事抜かりなく」
「そっか!楽しみだよ~、尾張を攻める時がさ!」
そう笑みを零す氏真を見ながら、怪しい笑みを雪斎は浮かべているのであった。
御指摘の箇所(数刻)を訂正、ありがとうございます。




