いちごアイス
「あついなあ」
初音は扇風機の風に吹かれて目にかかる前髪を払いよけた。
長い長い大学の夏休みが始まった二日目に、もう20年近く使っていたエアコンが壊れてしまった。実家住まいの初音は古い日本家屋の畳に大の字で寝そべって、たった一つの扇風機の風にあたって涼むしかない。
新しいエアコンが届くのは明日だから、今日一日は扇風機で凌ぐしかないか。
うんざりしながらため息をついて、天井の板の模様を眺めながら考える。
8月の初めの午後。気温は30度を越える。まだ夏は本番を迎えたばかりで、セミ達は意気揚々と盛大に歌っている。毎年夏を思わせるその声は初音の心を楽しませるものだったが、今はただただ暑さを助長するのみ。
うーん……こんな暑い日についてないなあ。
背中にこもる熱を逃がすために寝返りをうったとき、縁側のほうから「おーい」と聞きなれた声が聴こえた。
「はつー」
初音のことを「はつ」と呼ぶのは、数多くいる友達の中でも隣に住む幼馴染のみ。目を遣ると、網戸にしていた縁側の窓を自分で開けて勝手に家に上がりこんできた。
「不法侵入だ」
「勝手知ったる他人の家、ってな」
暑さに負けそうな初音の声に幼馴染の翔は構わない。
「お前んち、クーラー壊れたんだって?」
「うん。もう最悪」
翔は、寝転がったままの初音の横にしゃがみ込むと初音の頬になにやら冷たいものを当てた。
「うわっ、なに」
「アイス」
受け取るとそれはアイスバー。ストロベリーフレーバーがふんだんに使われた初音の好物だ。
「わ、ありがと」
初音は起き上がってアイスを口に含んだ。
ああ、涼しい。
嬉しそうにアイスを食べる初音を見ながら、翔も座り込んで自分の分のアイスを口に入れた。
縁側にかけた風鈴がりんと涼やかな音を立てる。
初音はアイスを黙ったまま食べる翔を見た。
珍しい。翔がこんなに静かなんて。
「ねえ、なにかあった?」
初音の問いに翔は苦笑いを返す。
「なんで分かった?」
「だっていつもうるさいのが大人しいんだもん」
翔はアイスを一気に全部食べ切ると、足を伸ばし後ろに手を付いて縁側で揺れる風鈴を眺めた。
「……俺さ、振られた」
「え?あの髪が綺麗だった子に?」
一度翔の家に遊びに来ていた彼女を初音は見ている。
「そう」
初音は頷いた翔の隣に並んで座ると同じように風鈴を眺めた。
家の前の緑の林がさわさわと風に揺れている。視覚だけで涼しさが伝わる。
「俺の態度が気に入らないんだと」
「どんな態度をとったのよ?」
「……はつと比べた」
「はあ?」
私と何を比べるというのか。
初音が顔をしかめると、翔は初音の肩にかかる髪を掬って指先に絡めた。昔から翔はよく私の髪をこうして弄る。
初音も特に怒ったりはしない。慣れている。
「はつの髪よりさらさらだなって言ったんだ」
そう言った翔の手を初音は払いよけた。
「悪かったわね」
「いや」
「彼女は喜んでいた?」
「……怒られた」
そこで翔は黙り込んだ。顔を上に向けて考え込んでいる。
そんな翔をしばらく放っておいて、初音はアイスを食べていた。話に夢中になっていたらもう溶けかけている。
溶けたアイスが手首を伝ってしまって、初音は慌ててそこに唇をつける。
そこで翔がまた口を開いた。
「俺は褒めたつもりだったんだけど」
「でも怒られた?」
「ああ」
「まあ、そんなこと言われれば私も怒るだろうね」
「なんで」
「当たり前じゃない」
初音はまたアイスを舐める。翔は初音の言葉を待っている。
「だって彼女の髪を褒めてるとき、翔が考えてるのは彼女のことじゃなくて私のことなんだから。自分と一緒にいながら彼氏が他の女のことを思い浮かべるなんていい気持ちはしないよ」
「ああ、そういうことだったのか」
「彼女に聞かなかったの?」
「聞いたけど答えてくれなかった」
初音はアイスを全部口に含んだ。
「……彼女と私を比べたのは、それが初めて?」
「……いや」
翔は思い出すように首をかしげる。
「はつより頭良いなって言ったりしたこともある」
「なんで私はいつも悪いほうなのよ」
「だってあいつの方が、はつよりいろいろ出来るもん」
「うっせ」
翔はため息をついた。
「あーそっか。だから怒られたのかー」
「まあ、そうだろうね」
「でもさー」
翔は畳の上に仰向けに寝転がった。
「俺、振られたときにワケ分かんなかったんだけど、追いかけようって気にもならなかったんだよなー」
「なんで」
初音も翔の横に横たわった。
「なんでだろな。でもなんかもういいやーって思った」
「ふーん」
そう言った初音のほうに体を向けると、翔は畳の上に広がった初音の髪を指先でなぞった。
しばらくそうした後、翔は口を開いた。
「はつの髪は触り心地がいいな」
「あんたの元カノよりもさらさらじゃないよ」
「いや、さらさらなのと触り心地がいいのとは違う」
「……あっそ」
「なんでだろなー。付き合った彼女の良いところを褒めるときには、絶対はつと比べちまう」
「私があんたの中で一番底辺の存在なのよ」
悪かったな。
「今まで誰とも長続きしなかったのは、はつのせいかもな」
「何いってんのよ。一番悪いのは翔よ。私は何も悪くないし」
「なあ、俺思ったんだけど」
翔は弄っていた私の髪を伝って、私の頭を引き寄せた。
「はつと俺が付き合ったらどうなるかな。もう比べる相手がいないし」
「ばっか。変なことばっかり言って」
初音は翔の手を振り払うと起き上がって胡坐をかいた。その隣に翔も起き上がる。
「なあ、どうよ」
初音はため息をついた。
「もし私と翔が付き合ったとしても、今と全く変わらないと思うよ。隣に住んでるんだからいつでも会えるし」
「でも、キスとかえっちとかは付き合わないと出来ないだろ」
「す る か !」
意地悪そうな顔をして迫ってくる翔を押しのけて、初音は立ち上がると縁側に腰掛けた。
「怒るなよー。うちからもう一個いちごアイス持ってきてやるから」
「うるさい」
強い日差しで、出した足が火傷しそうだ。
でも、なぜか、振り返って翔の顔を見ることができなかった。
END