雨音
耳をすましてやっと聞こえる程度の雨音が僕達を包んでいた。時刻は正午を過ぎたばかりにもかかわらず、辺りはまるで夕暮れのように暗い。そのせいか、お互いの姿を薄い膜越しに見ているような錯覚に陥っていた。
「オレとコイツが付き合ってんの、知ってるよな?」
知らないはずがない。彼女を紹介したのは他ならぬ僕だったのだから。わざわざ確かめなくとも、その場にいる三人全員が分かっていることだった。
彼女は僕の幼馴染で、物心付く前から傍にいた。家族のように育ってきたと言っていい。彼が現れるまでは僕が支えてきたという自負もある。彼は三年前の冬から親友といえる存在になった。その頃から三人で過ごすようになり、そして今、僕は一人になろうとしていた。
「なんとか言えよ」
僕は俯いて何も応えられなかった。顔を上げる事もできず、口を開くことも躊躇われ、逃げ出すことも叶わない。八方塞がりだった。自分で蒔いた種とはいえ、締め付けられる胸の痛みに変わりはなかった。
一瞬、目の前が真っ暗になる。彼に殴られていた。深く考え込んでいた僕は思い切り吹き飛ばされる。生温い水溜まりに倒れ込み、濁った水面を叩く雨音が耳元に届くようになった。今の自分には似合いの恰好だと自虐的な笑みが洩れる。
「何がおかしいんだ? 殴り返して来いよ」
熱くなった左の頬は、しかし大して痛くはなかった。彼が本気で力を込めれば、こんなものじゃないはずだった。
立ち上がることなく、見上げる格好で二人の様子を伺う。二人ともが今にも泣き出しそうな顔をしていた。自分を責め、許しを請い、でも自らの想いが叶うことを願っていた。そして、その願いはどうしようもないことも知っていた。
きっと僕だけは涙してはいけない。どんなに辛くても、自分で始めて自分で終わらせたのだから。彼女は泣いていい。板挟みになって辛いはずだった。彼女自身を責めて欲しくなかった。彼も悔し涙を我慢しているだろう。それで少しでも心が軽くなるのなら、頬を濡らして僕を殴りつければいい。その権利が彼にはあった。
うずくまったままの僕を彼が蹴り飛ばす。
「もう……やめて」
ずっと黙って見ていた彼女が我慢しきれずに口を挟む。
「お前は黙ってろ」
振り向きもせず、彼が応えた。
「コイツが何を考えているのか知りてぇんだ」
仰向けに倒れた僕の胸を踏み付ける。声にならない呻き声がこぼれた。それでも痛みは大きくない。怒りの形相だが、完全に手加減をしていた。
「何も言うことはないのか? それがオマエの答えなんだな?」
いつも強くて自慢の親友だった彼は、最後には声を震わせていた。僕が何も応えないことを悟ると、身を翻してその場を去っていった。
「大丈夫?」
彼女が心配顔で駆け寄ってくる。僕は何と言っていいのか解らないまま、首を横に振った。
「おい、行くぞ」
もう遠く離れた所で、やはり振り返らずに彼は怒鳴った。
彼女は行くべきか残るべきか迷っていた。僕はいつものように笑顔で頷いて背中を押す。長い間続いた僕の役割だった。
「ごめんね」
彼女は泣き笑いの顔で立ち上がり、小走りに彼を追いかけていった。
一人になって、水溜まりに寝転んだまま空を見上げる。いつの間にか雨雲は流れ去り、午後の明るい太陽が顔を出していた。それでもまだ耳の奥には雨音が燻っている気がした。
二人が去って行った方へ視線を向けると、鮮やかな虹が目に映った。
(了)
良いところ・悪いところ、好きなところ・嫌いなところ、教えていただけると嬉しいです。