『100回目に死ぬ君を救うための、最初の嘘』
四月十七日という日付を見て胸がざわつくようになったのは、いつからだったのだろう。初めはただの悪夢だと思っていた。目を覚ますたびに同じ朝が始まり、同じ空が窓の外に広がり、同じニュースキャスターが同じ調子で天気予報を読み上げる。それでも夢なら、いつかは覚めるものだと信じていた。しかし現実は、私が目を閉じるたびに容赦なく同じ朝を差し出し続けた。六時三十分、母が階下から「早く起きなさい」と呼ぶ声、焼きたての食パンの匂い、制服のポケットに入れっぱなしの定期券まで、昨日と一分一秒違わない。何度数え直しても、カレンダーは四月十七日のままだった。
学校へ向かう途中、商店街の花屋では店先のチューリップに水がかけられ、角のパン屋からは焼き上がったばかりのクロワッサンの香りが流れてくる。そのすべてが昨日と同じであることに気づいてから、私は風景を眺めることをやめた。知っている景色を何度見ても、新しいものは何一つ見つからない。未来を知るというのは便利な能力ではなく、世界から驚きを奪われることなのだと、その頃にはもう思い知らされていた。
「おはよう。」
教室へ入ると、窓際の席から透が手を振る。眠そうな私の顔を見るなり、「また夜更かしか」と笑って缶コーヒーを机へ滑らせてくるところまで、何一つ変わらない。その笑顔を見るたび、私は返事をする前に胸の奥が痛んだ。あと数時間もすれば、この笑顔は二度と見られなくなることを知っているからだった。
最初の一回は何もできなかった。ただ突然の事故を前に立ち尽くし、目の前で親友を失っただけだった。二回目には交差点へ近づかないよう説得した。三回目には無理やりゲームセンターへ連れていき、時間を潰そうとした。四回目には学校を休ませようと仮病まで考え、五回目には警察へ通報した。それでも午後五時十二分を過ぎる頃には、透は必ず誰かを助けようとして命を落としていた。事故を避ければ駅で倒れた老人を支えようとして線路へ転落し、駅へ近づかなければ火事の家へ飛び込み、火事を防げば川へ落ちた子どもを助けようとして帰ってこない。世界はまるで、「透は今日死ぬ」という結論だけを決め、その過程だけを書き換えているようだった。
十回目を過ぎる頃には、自分がおかしくなってしまったのではないかと思った。精神科を受診したこともある。「同じ一日を繰り返しています」と真剣に話した私に、医師は疲労とストレスを心配して睡眠薬を処方した。しかし翌朝になると、その薬は机の引き出しから消えていた。世界は私の記憶だけを残して、あらゆるものを四月十七日の朝へ戻してしまう。証拠も、傷も、涙さえも翌朝には消え、昨日を知っている人間は私しかいなかった。
二十三回目の朝、机の上に一通の白い封筒が置かれていた。差出人も宛名もなく、中には一枚の紙だけが入っている。そこには整った文字で、たった一文だけ記されていた。
『誰にも気づかれず、一日のあいだ、一つだけ嘘をつき通せ。成功すれば、運命は変わる。』
意味が分からなかった。透を助けることと、嘘をつくことに何の関係があるのだろう。それでも、もう試していないことは残っていなかった。私は半ばやけになりながら、その日初めて嘘をついた。
昼休み、透が「昨日貸したゲーム、どうだった」と笑いながら聞いてくる。もちろん、そんなものは借りていない。本来なら「何の話だ」と返すはずだった私は、一瞬だけ迷い、それから「面白かったよ」と答えた。胸の奥が嫌な音を立てる。嘘をつくことには慣れていなかったし、親友に向かって平然と事実を曲げることへの後ろめたさが、喉の奥に小骨のように引っかかった。
ところが透は少しも疑わず、「じゃあ今度は続編も貸すよ」と笑った。その嘘は誰にも見抜かれなかった。そして午後五時十二分になっても、あの交差点で事故は起きなかった。
私は思わず息を止めた。初めて未来が変わった。百回近く繰り返した絶望に、ようやく小さな亀裂が入った気がした。しかし喜びは長く続かなかった。午後五時三十二分、駅前で倒れた小学生を助けようとした透は、トラックにはねられて帰らなかった。
未来は変わった。だが、結末だけは変わらなかった。
翌朝、私はまた四月十七日の朝を迎え、机の上には昨日と同じ封筒が置かれていた。前日にはなかった一文だけが、静かに書き足されている。
『その嘘では足りない。もっと、本当に失いたくないものを懸けた嘘を。』
それから私の一日は、透を救うためではなく、嘘を完成させるためのものになった。そんなことを認めるのは悔しかったが、現実は残酷なくらい単純だった。どれほど未来を知っていても運命は変えられないのに、たった一つの嘘だけが世界の歯車をわずかに狂わせる。私はその法則にすがるしかなかった。
最初のうちは些細な嘘だった。「朝ご飯は食べてきた」「昨日の宿題は終わっている」「その映画は見たことがある」。誰にも疑われずに済むような嘘を選んでは一日を終えたが、透は毎回違う場所で命を落とした。そして翌朝、封筒には決まって新しい言葉が書き加えられていた。
『まだ軽い。』
『その程度では運命は動かない。』
『嘘は言葉ではなく、心でつくものだ。』
まるで誰かが私を試しているようだった。
五十回目を迎える頃には、私は嘘をつくことに慣れてしまっていた。むしろ、本当のことを口にするほうが難しく思えるほどだった。「部活を辞めようと思っている」と先生に告げた。本当は県大会を目指して毎日練習していた。「母とは仲がいい」と友人に笑った。本当はここ数年、ろくに会話もしていなかった。「将来の夢なんてない」と透に言った。本当は教師になって、誰かの人生を少しだけ明るくできる大人になりたかった。
不思議なことに、大きな嘘ほど世界は大きく揺れた。透の死ぬ時間は少しずつ遅れ、事故ではなく病気になり、病気ではなく転落事故になり、そのたびに私はあと少しだと思わされた。しかし結局、午後十一時五十九分になるまでに透は必ず死んだ。日付が変わる前に世界は帳尻を合わせるように彼を奪っていく。
ある日、私はふと気づいた。
透は一度も、自分が助かろうとしたことがない。
事故の瞬間も、火事の中でも、川へ飛び込んだときも、彼は迷わず他人を選んでいた。それは勇気というより癖に近かった。考えるより先に身体が動いてしまうような、そんな自然さだった。
「なんで、そんなに人を助けるんだ。」
六十三回目の四月十七日、私は思わず尋ねた。
透は缶コーヒーを開けながら少し考え、「分からない」と笑った。
「でもさ、目の前で困ってる人がいたら放っておけないだろ。」
「自分が死ぬかもしれないのに?」
「そのとき考えるよ。」
あまりにも軽く言うものだから、私は腹が立った。
「君は命を何だと思ってるんだ。」
思わず声を荒らげると、透は少し驚いた顔をしたあと、小さく笑った。
「今日のお前、変だな。」
その一言で世界が止まった。
変なのは私だ。
同じ日を六十回以上生きた人間が普通であるはずがない。
私は何も言い返せなかった。
その日の透は、帰宅途中に橋から落ちた子どもを助けて溺れた。
七十回目を過ぎる頃には、私は別の違和感を覚え始めていた。透は毎回違う死に方をするのに、最後に見せる表情だけはいつも同じなのだ。苦しそうでも、恐ろしそうでもない。ただ、どこか安心したように笑っている。その笑顔を見ていると、彼だけは最初から結末を知っているのではないかという考えが、どうしても頭から離れなかった。
私は彼の過去を調べ始めた。学校の卒業アルバムを開き、古い新聞を図書館で読み漁り、市役所の資料室へも通った。しかし調べれば調べるほど奇妙なことばかりだった。小学校低学年までの記録がほとんど残っていない。写真も不自然なくらい少ない。施設から引き取られたという話は聞けても、それ以前を知る人間が誰一人いない。
八十九回目の四月十七日、図書館の書庫で埃をかぶった地方新聞をめくっていた私は、一つの記事に目を奪われた。
『小学二年生 交通事故で死亡』
記事そのものは小さく、どこにでもある事故報道だった。けれど、その下に印刷された名前を見た瞬間、心臓が音を立てて縮み上がった。
――透。
私は震える手で記事を読み返した。
日付は十五年前の四月十七日。
場所は、毎日透が命を落とす、あの交差点だった。
「そんな……。」
思わず声が漏れる。
今ここにいる透は十七歳だ。
十五年前に死んでいるはずがない。
混乱したまま写真へ目を向けると、そこにはぼやけた少年の姿が写っていた。その輪郭ははっきり見えない。それでも私は、なぜかその笑顔だけは知っている気がした。
その瞬間だった。
頭の奥で、忘れていたはずの記憶が軋む音を立てた。
赤いボール。
鳴り響くクラクション。
誰かが私の名前を叫ぶ声。
そして、小さな手が私を強く突き飛ばした感触。
思い出せそうで思い出せない。
あと一歩のところで霧がかかったように視界が閉ざされる。
その日の夕方、透は交差点へ向かう途中で足を止めた。そして私を見て、不思議そうに笑った。
「なあ、お前さ。」
「……何。」
「もしかして、ずっと同じ今日を生きてる?」
私は息をすることさえ忘れた。
心臓が跳ねた。言葉が喉の奥で固まり、返事をしようにも声にならない。透はそんな私を見つめたまま困ったように笑い、「図星か」と小さく呟いた。その笑い方はいつもの軽さとは違い、どこか長い夢から覚めた人間のような静けさを帯びていた。私はようやく「どうして」と声を絞り出したが、透は首を横に振るだけだった。
「理由は分からない。でも、お前は毎日同じ景色を見てる顔をしてた。昨日初めて会った人間は、そんな目をしない。」
私はその場に立ち尽くした。何十回も繰り返した四月十七日の中で、初めて透が私の異変に触れた瞬間だった。世界は何も変わっていないはずなのに、胸の奥だけが音を立てて崩れていく。
その夜、私は眠ることができなかった。記事のこと、透の言葉、封筒に書かれた「もっと、本当に失いたくないものを懸けた嘘を」という一文、それらが頭の中で絡まり合い、やがて一つの記憶を引きずり出した。
幼い私は、赤いボールを追いかけて車道へ飛び出した。母の悲鳴が聞こえた気がする。迫るトラックの音、目の前を覆う大きな影、そして誰かに思い切り突き飛ばされた衝撃。倒れた私の前で、一人の少年が道路に取り残されていた。少年は泣いている私を見て笑い、「よかった」と小さく言った。その顔は、透だった。
目を覚ました瞬間、私はすべてを思い出した。
十五年前、死ぬはずだったのは私だった。透は私を助け、その代わりに命を落とした。けれど、幼い私の「助けて」という願いが、世界のどこかを歪めてしまったのだろう。本来終わるはずだった命は四月十七日に閉じ込められ、私だけがその歪みを覚えたまま、何度も同じ日を生き続けていた。
百回目の朝、机の上には最後の封筒が置かれていた。
『最初の嘘を終わらせなさい。』
その一文を見た瞬間、私はようやく理解した。
最初の嘘とは、この百回の間についた嘘ではない。
十五年前、救急車の中で大人たちに「大丈夫?」と聞かれた私が、「平気」と答えた、あの一言だった。
本当は平気ではなかった。
怖かった。
苦しかった。
自分のせいで誰かが死んだという事実を受け止められなかった。
それでも私は泣くのをやめたくて、大人を安心させたくて、「平気」と嘘をついた。その嘘だけが、十五年間ずっと私の中に残り続けていた。
放課後、透はいつものように缶コーヒーを差し出した。私は受け取らず、ただ彼の顔を見つめる。百回見た笑顔なのに、その日は初めて見るような気がした。
「透。」
「ん?」
「ごめん。」
それだけで十分だった。
透は何も聞かなかった。
私は続けた。
「ずっと、自分が悪くないって思おうとしてた。君を助けようとしたのも、本当は君のためじゃなかった。君を救えたら、自分を許せる気がしただけだった。」
風が吹いた。
桜の花びらが一枚、二人の間を通り過ぎる。
透は少しだけ目を伏せ、それから穏やかに笑った。
「やっと本当のことを言えたな。」
その言葉と同時に、世界が静まり返った。車の音も、人の話し声も、風さえ止まり、交差点には私たちだけが残される。信号は赤のまま動かない。時間そのものが息を潜めているようだった。
「お前は百回、俺を救おうとした。でも、本当に救わなきゃいけなかったのは、お前自身だったんだ。」
透の声はどこか遠くから聞こえてくるようだった。
「俺はあの日、お前に生きてほしくて飛び出した。それなのに、お前が自分を責め続けるなら、助けた意味がなくなる。」
私は何も言えなかった。ただ涙だけが止まらなかった。
そのとき、赤だった信号が青へ変わる。
トラックはゆっくりと交差点の手前で停止し、少女は母親と手をつないだまま安全に横断歩道を渡っていく。誰も走り出さない。誰も叫ばない。
透も、その場から動かなかった。
私は隣を見る。
彼は照れくさそうに笑い、「やっと明日だな」と呟いた。
次に目を覚ますと、窓を打つ雨音が聞こえた。時計は午前六時三十分を少し過ぎている。机の上に封筒はない。震える手でカレンダーを見ると、そこには四月十八日の文字があった。
学校へ向かう道で、私は何度も空を見上げた。雲に覆われたありふれた朝だった。それでも昨日までの空とは違って見えた。時間は前へ進み、景色は少しずつ変わり、人は同じ一日を二度と生きることはない。その当たり前が、胸の奥に痛いほど染み込んでくる。
教室の扉を開けると、窓際の席で透が大きく手を振った。
「おはよう!」
私は笑って答えた。
「おはよう。」
それは百回目にして初めて、何一つ嘘の混じらない言葉だった。
他のクラスメイトが透に反応する事はなかった。 四月十七日という日付を見て胸がざわつくようになったのは、いつからだったのだろう。初めはただの悪夢だと思っていた。目を覚ますたびに同じ朝が始まり、同じ空が窓の外に広がり、同じニュースキャスターが同じ調子で天気予報を読み上げる。それでも夢なら、いつかは覚めるものだと信じていた。しかし現実は、私が目を閉じるたびに容赦なく同じ朝を差し出し続けた。六時三十分、母が階下から「早く起きなさい」と呼ぶ声、焼きたての食パンの匂い、制服のポケットに入れっぱなしの定期券まで、昨日と一分一秒違わない。何度数え直しても、カレンダーは四月十七日のままだった。
学校へ向かう途中、商店街の花屋では店先のチューリップに水がかけられ、角のパン屋からは焼き上がったばかりのクロワッサンの香りが流れてくる。そのすべてが昨日と同じであることに気づいてから、私は風景を眺めることをやめた。知っている景色を何度見ても、新しいものは何一つ見つからない。未来を知るというのは便利な能力ではなく、世界から驚きを奪われることなのだと、その頃にはもう思い知らされていた。
「おはよう。」
教室へ入ると、窓際の席から透が手を振る。眠そうな私の顔を見るなり、「また夜更かしか」と笑って缶コーヒーを机へ滑らせてくるところまで、何一つ変わらない。その笑顔を見るたび、私は返事をする前に胸の奥が痛んだ。あと数時間もすれば、この笑顔は二度と見られなくなることを知っているからだった。
最初の一回は何もできなかった。ただ突然の事故を前に立ち尽くし、目の前で親友を失っただけだった。二回目には交差点へ近づかないよう説得した。三回目には無理やりゲームセンターへ連れていき、時間を潰そうとした。四回目には学校を休ませようと仮病まで考え、五回目には警察へ通報した。それでも午後五時十二分を過ぎる頃には、透は必ず誰かを助けようとして命を落としていた。事故を避ければ駅で倒れた老人を支えようとして線路へ転落し、駅へ近づかなければ火事の家へ飛び込み、火事を防げば川へ落ちた子どもを助けようとして帰ってこない。世界はまるで、「透は今日死ぬ」という結論だけを決め、その過程だけを書き換えているようだった。
十回目を過ぎる頃には、自分がおかしくなってしまったのではないかと思った。精神科を受診したこともある。「同じ一日を繰り返しています」と真剣に話した私に、医師は疲労とストレスを心配して睡眠薬を処方した。しかし翌朝になると、その薬は机の引き出しから消えていた。世界は私の記憶だけを残して、あらゆるものを四月十七日の朝へ戻してしまう。証拠も、傷も、涙さえも翌朝には消え、昨日を知っている人間は私しかいなかった。
二十三回目の朝、机の上に一通の白い封筒が置かれていた。差出人も宛名もなく、中には一枚の紙だけが入っている。そこには整った文字で、たった一文だけ記されていた。
『誰にも気づかれず、一日のあいだ、一つだけ嘘をつき通せ。成功すれば、運命は変わる。』
意味が分からなかった。透を助けることと、嘘をつくことに何の関係があるのだろう。それでも、もう試していないことは残っていなかった。私は半ばやけになりながら、その日初めて嘘をついた。
昼休み、透が「昨日貸したゲーム、どうだった」と笑いながら聞いてくる。もちろん、そんなものは借りていない。本来なら「何の話だ」と返すはずだった私は、一瞬だけ迷い、それから「面白かったよ」と答えた。胸の奥が嫌な音を立てる。嘘をつくことには慣れていなかったし、親友に向かって平然と事実を曲げることへの後ろめたさが、喉の奥に小骨のように引っかかった。
ところが透は少しも疑わず、「じゃあ今度は続編も貸すよ」と笑った。その嘘は誰にも見抜かれなかった。そして午後五時十二分になっても、あの交差点で事故は起きなかった。
私は思わず息を止めた。初めて未来が変わった。百回近く繰り返した絶望に、ようやく小さな亀裂が入った気がした。しかし喜びは長く続かなかった。午後五時三十二分、駅前で倒れた小学生を助けようとした透は、トラックにはねられて帰らなかった。
未来は変わった。だが、結末だけは変わらなかった。
翌朝、私はまた四月十七日の朝を迎え、机の上には昨日と同じ封筒が置かれていた。前日にはなかった一文だけが、静かに書き足されている。
『その嘘では足りない。もっと、本当に失いたくないものを懸けた嘘を。』
それから私の一日は、透を救うためではなく、嘘を完成させるためのものになった。そんなことを認めるのは悔しかったが、現実は残酷なくらい単純だった。どれほど未来を知っていても運命は変えられないのに、たった一つの嘘だけが世界の歯車をわずかに狂わせる。私はその法則にすがるしかなかった。
最初のうちは些細な嘘だった。「朝ご飯は食べてきた」「昨日の宿題は終わっている」「その映画は見たことがある」。誰にも疑われずに済むような嘘を選んでは一日を終えたが、透は毎回違う場所で命を落とした。そして翌朝、封筒には決まって新しい言葉が書き加えられていた。
『まだ軽い。』
『その程度では運命は動かない。』
『嘘は言葉ではなく、心でつくものだ。』
まるで誰かが私を試しているようだった。
五十回目を迎える頃には、私は嘘をつくことに慣れてしまっていた。むしろ、本当のことを口にするほうが難しく思えるほどだった。「部活を辞めようと思っている」と先生に告げた。本当は県大会を目指して毎日練習していた。「母とは仲がいい」と友人に笑った。本当はここ数年、ろくに会話もしていなかった。「将来の夢なんてない」と透に言った。本当は教師になって、誰かの人生を少しだけ明るくできる大人になりたかった。
不思議なことに、大きな嘘ほど世界は大きく揺れた。透の死ぬ時間は少しずつ遅れ、事故ではなく病気になり、病気ではなく転落事故になり、そのたびに私はあと少しだと思わされた。しかし結局、午後十一時五十九分になるまでに透は必ず死んだ。日付が変わる前に世界は帳尻を合わせるように彼を奪っていく。
ある日、私はふと気づいた。
透は一度も、自分が助かろうとしたことがない。
事故の瞬間も、火事の中でも、川へ飛び込んだときも、彼は迷わず他人を選んでいた。それは勇気というより癖に近かった。考えるより先に身体が動いてしまうような、そんな自然さだった。
「なんで、そんなに人を助けるんだ。」
六十三回目の四月十七日、私は思わず尋ねた。
透は缶コーヒーを開けながら少し考え、「分からない」と笑った。
「でもさ、目の前で困ってる人がいたら放っておけないだろ。」
「自分が死ぬかもしれないのに?」
「そのとき考えるよ。」
あまりにも軽く言うものだから、私は腹が立った。
「君は命を何だと思ってるんだ。」
思わず声を荒らげると、透は少し驚いた顔をしたあと、小さく笑った。
「今日のお前、変だな。」
その一言で世界が止まった。
変なのは私だ。
同じ日を六十回以上生きた人間が普通であるはずがない。
私は何も言い返せなかった。
その日の透は、帰宅途中に橋から落ちた子どもを助けて溺れた。
七十回目を過ぎる頃には、私は別の違和感を覚え始めていた。透は毎回違う死に方をするのに、最後に見せる表情だけはいつも同じなのだ。苦しそうでも、恐ろしそうでもない。ただ、どこか安心したように笑っている。その笑顔を見ていると、彼だけは最初から結末を知っているのではないかという考えが、どうしても頭から離れなかった。
私は彼の過去を調べ始めた。学校の卒業アルバムを開き、古い新聞を図書館で読み漁り、市役所の資料室へも通った。しかし調べれば調べるほど奇妙なことばかりだった。小学校低学年までの記録がほとんど残っていない。写真も不自然なくらい少ない。施設から引き取られたという話は聞けても、それ以前を知る人間が誰一人いない。
八十九回目の四月十七日、図書館の書庫で埃をかぶった地方新聞をめくっていた私は、一つの記事に目を奪われた。
『小学二年生 交通事故で死亡』
記事そのものは小さく、どこにでもある事故報道だった。けれど、その下に印刷された名前を見た瞬間、心臓が音を立てて縮み上がった。
――透。
私は震える手で記事を読み返した。
日付は十五年前の四月十七日。
場所は、毎日透が命を落とす、あの交差点だった。
「そんな……。」
思わず声が漏れる。
今ここにいる透は十七歳だ。
十五年前に死んでいるはずがない。
混乱したまま写真へ目を向けると、そこにはぼやけた少年の姿が写っていた。その輪郭ははっきり見えない。それでも私は、なぜかその笑顔だけは知っている気がした。
その瞬間だった。
頭の奥で、忘れていたはずの記憶が軋む音を立てた。
赤いボール。
鳴り響くクラクション。
誰かが私の名前を叫ぶ声。
そして、小さな手が私を強く突き飛ばした感触。
思い出せそうで思い出せない。
あと一歩のところで霧がかかったように視界が閉ざされる。
その日の夕方、透は交差点へ向かう途中で足を止めた。そして私を見て、不思議そうに笑った。
「なあ、お前さ。」
「……何。」
「もしかして、ずっと同じ今日を生きてる?」
私は息をすることさえ忘れた。
心臓が跳ねた。言葉が喉の奥で固まり、返事をしようにも声にならない。透はそんな私を見つめたまま困ったように笑い、「図星か」と小さく呟いた。その笑い方はいつもの軽さとは違い、どこか長い夢から覚めた人間のような静けさを帯びていた。私はようやく「どうして」と声を絞り出したが、透は首を横に振るだけだった。
「理由は分からない。でも、お前は毎日同じ景色を見てる顔をしてた。昨日初めて会った人間は、そんな目をしない。」
私はその場に立ち尽くした。何十回も繰り返した四月十七日の中で、初めて透が私の異変に触れた瞬間だった。世界は何も変わっていないはずなのに、胸の奥だけが音を立てて崩れていく。
その夜、私は眠ることができなかった。記事のこと、透の言葉、封筒に書かれた「もっと、本当に失いたくないものを懸けた嘘を」という一文、それらが頭の中で絡まり合い、やがて一つの記憶を引きずり出した。
幼い私は、赤いボールを追いかけて車道へ飛び出した。母の悲鳴が聞こえた気がする。迫るトラックの音、目の前を覆う大きな影、そして誰かに思い切り突き飛ばされた衝撃。倒れた私の前で、一人の少年が道路に取り残されていた。少年は泣いている私を見て笑い、「よかった」と小さく言った。その顔は、透だった。
目を覚ました瞬間、私はすべてを思い出した。
十五年前、死ぬはずだったのは私だった。透は私を助け、その代わりに命を落とした。けれど、幼い私の「助けて」という願いが、世界のどこかを歪めてしまったのだろう。本来終わるはずだった命は四月十七日に閉じ込められ、私だけがその歪みを覚えたまま、何度も同じ日を生き続けていた。
百回目の朝、机の上には最後の封筒が置かれていた。
『最初の嘘を終わらせなさい。』
その一文を見た瞬間、私はようやく理解した。
最初の嘘とは、この百回の間についた嘘ではない。
十五年前、救急車の中で大人たちに「大丈夫?」と聞かれた私が、「平気」と答えた、あの一言だった。
本当は平気ではなかった。
怖かった。
苦しかった。
自分のせいで誰かが死んだという事実を受け止められなかった。
それでも私は泣くのをやめたくて、大人を安心させたくて、「平気」と嘘をついた。その嘘だけが、十五年間ずっと私の中に残り続けていた。
放課後、透はいつものように缶コーヒーを差し出した。私は受け取らず、ただ彼の顔を見つめる。百回見た笑顔なのに、その日は初めて見るような気がした。
「透。」
「ん?」
「ごめん。」
それだけで十分だった。
透は何も聞かなかった。
私は続けた。
「ずっと、自分が悪くないって思おうとしてた。君を助けようとしたのも、本当は君のためじゃなかった。君を救えたら、自分を許せる気がしただけだった。」
風が吹いた。
桜の花びらが一枚、二人の間を通り過ぎる。
透は少しだけ目を伏せ、それから穏やかに笑った。
「やっと本当のことを言えたな。」
その言葉と同時に、世界が静まり返った。車の音も、人の話し声も、風さえ止まり、交差点には私たちだけが残される。信号は赤のまま動かない。時間そのものが息を潜めているようだった。
「お前は百回、俺を救おうとした。でも、本当に救わなきゃいけなかったのは、お前自身だったんだ。」
透の声はどこか遠くから聞こえてくるようだった。
「俺はあの日、お前に生きてほしくて飛び出した。それなのに、お前が自分を責め続けるなら、助けた意味がなくなる。」
私は何も言えなかった。ただ涙だけが止まらなかった。
そのとき、赤だった信号が青へ変わる。
トラックはゆっくりと交差点の手前で停止し、少女は母親と手をつないだまま安全に横断歩道を渡っていく。誰も走り出さない。誰も叫ばない。
透も、その場から動かなかった。
私は隣を見る。
彼は照れくさそうに笑い、「やっと明日だな」と呟いた。
次に目を覚ますと、窓を打つ雨音が聞こえた。時計は午前六時三十分を少し過ぎている。机の上に封筒はない。震える手でカレンダーを見ると、そこには四月十八日の文字があった。
学校へ向かう道で、私は何度も空を見上げた。雲に覆われたありふれた朝だった。それでも昨日までの空とは違って見えた。時間は前へ進み、景色は少しずつ変わり、人は同じ一日を二度と生きることはない。その当たり前が、胸の奥に痛いほど染み込んでくる。
教室の扉を開けると、窓際の席で透が大きく手を振った。
「おはよう!」
私は笑って答えた。
「おはよう。」
それは百回目にして初めて、何一つ嘘の混じらない言葉だった。
他のクラスメイトが透に反応する事はなかった。




