1章-5 ベルテヌ(夏の花祭り)
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今日は夏の花祭りである。
暦の上では重要な日であり、略式だが式典も行われた。
アリウスもメティスの民衆に対して、天候の予知を知らせただけだ。
「秋の収穫祭は、豊作を祝うことになる」
短く断言すると、すぐに姿を消した。
予知を聞くためにはるばるやってきた人々は呆然としていた。
華やかさも、厳粛さもない公表であった。
それでも、吉事は吉事である。
気持ちを切り替えた人々は祭りの中へと去って行った。
大陸中の王侯貴族は、ベルテヌを庶民の祭りと位置づけている。
宝石や貴金属ではなく、ありふれた花がこの祭りの主役だからだ。
大国の王ほど無関心を装い、庶民が騒ぐのを放っておく。
そして、この日に浮かれ騒ぐ魔術師は三流である。
星回りの事情から、この日にしか作れない魔術師の品もあるからだ。
魔術師たちは、それぞれの研究室に引きこもっている。
夜通しで星の観測をするために、昼から仮眠をとっているものも多い。
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式典からの帰り道、サフィリアは沈黙の回廊を歩いていた。
魔術師は静謐のような沈黙を尊ぶ。
ゆえに、この回廊を行くものは物音ひとつ立てないのだ。
伝説に残るような魔術師は、浮遊の魔術を使うことで足音さえも封じたという。
沈黙の回廊より先は魔術の聖域だ。
高位の魔術師しか立ち入ることを許されない。
グラウファーレの聖域、アクリアエ・スリス。
フェルナンディの聖域、記憶の塔。
ディスペリアの聖域、夢の館。
御三家とも呼ばれ、世界で最も偉大な魔術師の一族が神聖視する聖域。
ここへの無断の立ち入りは、即座に死罪を言い渡されても反論はできない。
「だーれだ!」
いきなり目元を隠されて、サフィリアは喉元まで出てきた悲鳴をかみ殺した。
ここが沈黙の回廊でなければ、大声を上げていただろう。
「さて、問題です。私はだーれ……」
「リーザ!」
サフィリアは目隠しをはずし、後ろを振り向く。
なるべく小声で注意した。
「正解。さすがはフィーちゃん!」
リーザは音程のはずれた調子で、パチンパチンと拍手をする。
大きな瞳に平和そうな笑顔、腰まで伸びる黒髪が印象的な少女である。
「どうやってここまで来たの?」
「歩いてだよ。やだなー、私が空を飛べるわけないでしょ」
「そうじゃなくて、ここは立ち入り禁止なのよ」
リーザはワンテンポ遅れて、驚きの表情を浮かべる。
まず、左をむいた。何かあるのかと、サフィリアも視線を追いかける。
唐突に、今度は右を向いた。
やはり、目を引くものは何もない。
最後にサフィリアをマジマジと見つめた。
「あららー、大変、大変」
驚いているのだろうが、全く大変そうに見えない。
「……とにかく、ここから離れましょう」
リーザの手を引っ張って、沈黙の回廊を引き返す。
今日が夏の花祭り(ベルテヌ)でよかった。いや、だからこそ見張りが不在で、侵入できてしまったのか。
誰かに見られれば、処罰されていただろう。
部外者が聖域へ侵入した。
沈黙の回廊で大声を出した。
処罰の理由には事欠かない。
暦と照らし合わせれば、いくらでも罪状を追加できるだろう。
なにしろ、今日は夏の花祭りなのだ。
沈黙の回廊から出て、隠れる場所を探す。
勝手に外に出歩いていると知れればサフィリアが、メティスの中枢に侵入しているとなればリーザが処罰されかねない。
今は使われていない部屋を見つけ、リーザと一緒に中に入った。
一切物が置かれておらず、閉じることのできない窓がついている。
生活感のない部屋だが、それも当然だ。
魔術的要因として、風が通る空間を作っているだけである。
「ここまでくれば、大丈夫よ」
「えへへ、ありがとう」
黒髪という外見のために、リーザを問題視している魔術師は多い。
赤い髪と黒い瞳をもつシーグが、命取りの座と断定されたのも、外見の特徴が理由の一つだ。
赤は血、黒は破滅を意味することから、不吉の象徴とされている。
外見を理由に、たいした罪状もなくメティスから追放処分になったものは数知れない。
誰にも見られなかったか。
外を入念に確認してから、サフィリアは扉を閉めた。
安心してため息が漏れる。すると、背中から心地よい感触に包まれた。
リーザが後ろから抱きしめてきたのだ。
塔の中で欲しいと思っていた暖かさ、毛布の中に残っていたリーザの香りが思い出される。
リーザがいなければ、塔の中で心の底まで凍てついていたに違いない。
人間の暖かさと優しさを教えてくれたのはリーザだ。
記憶の塔にどんな書物にも書かれいない事を教えてくれた。
どうか、これからもずっとそばにいてほしい。
万感の思いを込めて振り返ると、たるみきった表情が目に入った。
「はぁぁぁー、フィーちゃぁーん」
本能的な恐怖を感じる変な声、口の端からはヨダレが垂れていた。
絵画のように美しい思い出に、ヒビが入った気がした。
まさか、いつもこんな表情をしていたのか?
見てはいけないものを見た気がして、サフィリアは正面を向く。
こんなものが思い出されたら、来年の冬を越すときに悪夢を見そうだ。
サフィリアは記憶から追い出そうと、頭を強くふった。
「え、えーと。リーザ?」
返事の代わりに、リーザはさらに強く抱きしめてくる。
先ほどまでの暖かさはどこへやら、寒気が体の芯からのぼってきた。
「ふわぁぁーー」
すでに奇声と化した叫び声とともに、リーザの腕に力がこもった。
首と胸元が締め付けられ、サフィリアは息が詰まった。
「は、な、し、て……」
うめいたところで、リーザはさらに激しく頬ずりしてくるだけだ。
「黄昏の使者、氷の吐息、北の抱擁……」
サフィリアは呪文を唱えつつ、奥の手とばかりに魔術の印を結んだ。
「来たれ、一陣の風。ヴォルド・ヴェイ・アルグラッド!」
突如として巻き起こった風が、サフィリアとリーザを包み込んだ。
「ぴえぇぇーー」
リーザは悲鳴と共に飛び上がった。
全身に冷水を浴びたような寒さに、やりすぎたと後悔する。
手加減したつもりだったが、精神の集中が乱れていたせいで、吹雪級の風を呼んでしまった。
「さ、寒い。寒いよぉー」
リーザはがたがと震えながら、さらに強く抱きついてくる。
まるで逆効果だった。
「リーザ、痛い、離して……」
「寒い寒い寒い寒い寒い――」
リーザは締め付けるように力を込めてくる。
彼女のお気に入りのぬいぐるみが、やけに汚れて痛んでいた理由がよく分かった。
綿が頭と腹にかたよって、酷く不恰好クマだった。説明されるまで、茶色の野菜と思っていたのだ。
その理由は、今のように首と胸に思い切り抱きついていたせいだろう。
石室から出たばかりのシーグも同じように、抱きしめられた。
彼もまた、同じように死線をさ迷ったのではあるまいか…………
「キャー、フィーちゃんが動かなくなったー」
意識が遠くに行きかけたとき、ようやくリーザは叫び声と共に開放してくれた。