戦略的婚約
宴は、深夜まで続いた。
婚約発表は、すでに最高潮に達していた熱気に、さらに油を注いだ。貴族たちはこぞって祝福の言葉を述べ、将軍たちは「これで国の未来は安泰」と喜び、魔術師たちは「愛の力と知性の結合こそ最強」と論じ合った。
涼は、その喧騒の中心にありながら、まるで観客のようにすべてを遠く感じていた。祝福の杯を次々と勧められ、無理に口をつける。甘い蜂蜜酒が胃にたまる。頭がぼんやりする。
隣では、婚約者となったリナ・アークシスが、涼の代わりに貴族たちの祝辞に応対している。彼女の微笑みは完璧に作られ、言葉は礼儀正しく、しかしどこか機械的だ。まるで、外交儀礼の一環をこなしているようだった。
(婚約…マジで、婚約…?)
涼の頭の中は、まだ現実を受け入れられていなかった。コンビニのバイトもままならぬ自分が、異世界の王女と婚約? そんな漫画みたいな話が、現実に起こるわけない。きっと、これも何かの冗談か、悪夢だ。
が、王の真剣な眼差し、周りの熱狂、そしてリナの「公の顔」—どれも、悪夢としてはあまりに生々しかった。
ようやく宴が終わりに近づき、人々が帰り始めたのは、真夜中をかなり回った頃だった。涼は、侍女に部屋まで案内されると、そのままベッドに倒れ込んだ。豪華な天蓋が見える。が、目を閉じれば、宴の喧騒と、王の「婚約宣言」の声が、耳朶にこびりついて離れない。
(どうしよう…逃げ出したい…)
彼はポケットからスマホを取り出し、点けた。薄暗い画面に、58% の数字が浮かぶ。この世界との、唯一の接点。そして、この苦境の原因。
(あの翻訳魔法がなけりゃ…あの時、黙ってりゃ…)
後悔は、もう遅い。彼はスマホを握りしめ、目を閉じた。眠りたい。すべてを忘れて、深く、深く眠りたい。
眠れなかった。
数時間、天井を見つめて悶々としていた頃、ドアが軽くノックされた。
「…涼閣下。お休みですか?」
リナの声だ。静かで、宴の時のあの「公の微笑み」とは違う、事務的な響きがある。
涼は、ベッドから起き上がり、戸惑いながら答えた。
「…まだ、起きてます」
ドアが開き、リナが入ってきた。彼女はもう宴の服ではなく、いつもの詰め襟の服に着替え、手にはあの分厚いフォルダーとメモ帳を持っている。髪は少し緩め、目の下の隈がくっきりと見える。
「深夜の訪問、失礼します。しかし、今話しておかなければならないことがあります」
彼女は、涼の部屋の机の前に置かれた椅子に、すっと座った。フォルダーを開く。その動作は、研究打ち合わせのそれだ。
「まず、本日の『婚約発表』について、釈明と今後の方針を協議します」
涼は、ベッドの端に座り、緊張してリナを見つめた。釈明?
「この婚約は、父王の独断です。私に事前の相談はありませんでした」
リナの口調は淡々としている。感情の起伏がない。
「が、私は反対しませんでした。むしろ、この状況を積極的に利用する価値があると判断しました」
「…利用?」
涼の声は、かすれていた。
「はい。『賢者と王女の婚約』という事実は、対外的には、あなたの我が国への帰属意識と、王国の正統性を強くアピールすることになります。国内では、人々の団結と士気を高める強力なシンボルとなる。そして、何より」
リナの目が、涼をまっすぐ見る。
「この関係性は、あなたの『力』の研究と、その戦術的応用を、公的かつ組織的に推進するための、最適な『枠組み』を提供します」
彼女は、フォルダーから一枚の書類を取り出し、涼の前に滑り込ませた。それは、「恋愛呪文戦術研究所(仮称)設立計画書」と題された、びっしりと文字の詰まった文書だった。
「あなたと私が『婚約者』であるならば、頻繁に時間を共にし、あなたの『力』に関する研究を行っても、不自然ではありません。むしろ、『愛の力を高め合う婚約者』として、世間の好奇の目もかわすことができる」
涼は、文書をぼんやりと見つめた。そこには、研究所の組織図、研究テーマ、予算案、人員構成などが、細かく記されている。「所長:リナ・アークシス」「特別顧問:佐藤涼」の文字もあった。
(マジか…これ、全部、計算済み?)
「…あなたは、最初から、こんなこと考えてたの?」
涼は、思わず日本語で尋ねた。翻訳魔法は働かない。が、リナは彼の驚きと疑念を理解したようだ。
「正確には、父王があなたを『賢者』と断定した時点で、いくつかのシナリオを想定していました。その中でも、『婚姻による政治的・軍事的結びつき』は、高い確率で検討される項目でした」
彼女の分析は、冷徹そのものだ。
「私個人としては、婚姻はあくまで『手段』です。目的は、王国の防衛と、あなたの『力』の解明、そしてその持続可能な活用にあります」
彼女は、少し間を置き、涼を見つめる。
「涼閣下。あなたは、私との『婚約』に、個人的な感情はおありですか?」
「! そ、そんな、あるわけ…」
涼は慌てて否定した。リナは、うなずく。
「私も同様です。現時点では、あなたを『婚約者』として愛しているわけでも、そういう感情を抱く気配もありません。これは、あくまで『戦略的協力関係』であり、『共同研究プロジェクト』です。その点、誤解のないようにお願いします」
そのはっきりとした言い切りに、涼は、逆に少しほっとした。少なくとも、彼女が本気で恋愛感情を持っているわけではないなら、気まずさは幾分か軽減する。
「でも…人前では、婚約者のふりをしなきゃいけないの?」
「必要最小限で結構です。公の場では、適度な礼節と思いやりを示せば十分。私も同様に振る舞います。私生活において、あなたの自由を制限する意図はありません」
リナの対応は、合理的で、隙がない。まるで、難題の多いプロジェクトの段取りを話し合っているようだ。
涼は、深く息を吸った。そして、この機会に、どうしても聞いておきたいことがあった。
「…リナさん」
彼は、この世界の言葉で、ゆっくりと話し始めた。翻訳魔法に頼らず、自分の覚えた単語を並べる。
「あなた…私の『力』…ほんとう…信じる?」
それは、涼がこの世界に来てから、最も重要な質問だった。リナは、彼の「予言」や「言葉」を分析し、記録し、活用しようとしている。が、彼女は本当に、涼を「預言の賢者」だと信じているのか?
リナは、一瞬、涼を見つめた。その目は、深く、涼の心の奥まで見透かすようだった。
そして、彼女は、静かに、しかしはっきりと言った。
「いいえ。信じていません」
涼の胸が、つんと痛んだ。予想はしていた。が、直接言われると、やはり衝撃だった。
「あなたの『予言』—『魔王軍は満月の夜、漆黒の密林より襲来する』—は、あまりに具体的で、『予言』というより、『確かな情報』に基づくものです。しかし、あなた自身は、その情報の出所を説明できず、その力の原理も理解していないように見える。むしろ、混乱し、恐れている」
リナの指が、メモ帳のページを軽く叩く。
「そして、あなたの『言葉』の力。確かに強大で、不可思議です。が、その発動は、あなたの意図や制御を超えている。むしろ、『偶然』や『誤解』が、大きな役割を果たしているように観察されます」
彼女の分析は、鋭すぎる。すべて、事実だ。
「では、なぜあなたを『賢者』として扱い、このような計画を進めるのか」
リナの口調が、わずかに、しかし確実に変わる。公の場での丁寧さから、研究者としての熱意を帯びたものへ。
「それは、その『力』が、たとえ偶然や誤解から発現したものであっても、『現実』として存在し、人々を救い、戦局を変える『事実』だからです」
彼女の目が、涼のスマホ—ポケットからわずかにのぞくひび割れた画面—を見つめる。
「あなたの『道具』。そこから発せられる、我々の知らない言語。そして、翻訳魔法との相互作用。そこに、何らかの『法則』が存在します。私は、その法則を解明したい。そして、たとえあなたが『賢者』でなくとも、その法則を、この国を守る『力』として活用したい」
彼女は、涼をまっすぐ見つめる。
「あなたが誰であろうと、どこから来ようと、それは今は重要ではありません。重要なのは、あなたがここにいること、そして、あなたとあなたの『道具』が、この世界に干渉する『力』を持っていることです」
その言葉は、涼を「道具」として見ているようで、どこか「共犯者」として認めているようでもあった。複雑な響きを持つ。
「…あなたに、協力してほしい」
リナの声は、静かだが、強い意思に満ちていた。
「この『力』の謎を、共に解き明かし、それを、無駄に消耗させず、最大限に活用する方法を探してほしい。その過程で、この国を守る手助けをしてほしい」
彼女は、わずかにうつむく。
「…そして、あなた自身を守る方法も、見つけなければなりません。あなたの『道具』の『バッテリー』は有限です。それが尽きれば、おそらく、あなたの『力』は失われ、あなたは…この世界で、ただの『異邦人』になります。その時のために、あなたがこの世界で生きていくための『力』—言葉、技術、立場—を、身につけさせることも、この『協力関係』の目的の一つです」
涼は、息をのんだ。彼女は、そこまで考えていた。バッテリーが尽きた後のことまで。
(この人…本当に、すごいな…)
恐怖と同時に、ある種の尊敬に近い感情が、わずかにわいた。彼女は、涼を単なる「奇跡の装置」としてではなく、危険に晒され、消耗していく「人間」としても見ている。あるいは、「貴重な研究対象」として、保護する必要があると判断しているのかもしれない。
「…どうして、そこまでするの?」
涼は、小さな声で聞いた。
「王国のため? 研究のため?」
リナは、一瞬、言葉に詰まった。彼女はメモ帳を見つめ、自分の手のひらを見つめた。小さな、しかし確かなマメや古傷がいくつもある。
「…全てです」
彼女は、静かに言った。
「私は、この国の王女です。父王は善良ですが、現実的な統治者ではありません。国は傾いています。人々は苦しんでいます。私にできることは、限られています。が、あなたの『力』は、その限界を打ち破る可能性を秘めています」
彼女の目が、涼に戻る。
「そして、私は…研究者です。解けない謎、未知の法則。それを解明したい。あなたとあなたの『力』は、私にとって、この上なく興味深い『謎』です。その謎を解く過程で、国を守り、人を救えるなら、これほど意味のある研究はありません」
彼女の言葉には、迷いがなかった。それは、確固たる「覚悟」だった。
涼は、長い間、黙っていた。部屋には、松明の炎がぱちぱちとはぜる音だけが響く。
彼は、自分の状況を考えた。逃げ場のない異世界。減り続けるスマホのバッテリー。誤解に基づく過大な期待。そして、戦争。
一人では、何もできない。言葉も通じず、力もない。このままでは、スマホのバッテリーが尽きるか、どこかでミスをして正体がバレ、処刑されるか、戦争に巻き込まれて死ぬかだ。
一方、リナの提案は、ある意味で「生き残る道」を示している。彼女の庇護の下、時間を稼ぎながら、この世界での生き方を学ぶ。その代わり、彼女の「研究」に協力し、王国の「象徴」として振る舞う。
(…やってみるしか、ないのかな)
彼は、ゆっくりとうなずいた。
「…わかった。協力する」
リナの目が、かすかに、しかし確かに輝いた。それは、彼女の「公の微笑み」とは違う、心からの、わずかな安堵の色だったかもしれない。
「ありがとうございます」
「でも、一つ、条件がある」
涼は、思い切って言った。
「スマホ…私の『道具』は、絶対に、誰にも渡さない。触らせない。研究は、私が画面を見せながら、する」
それは、彼の最後のこだわりだった。スマホは、彼と元の世界をつなぐ、唯一のものだ。どんなに信用できるように見えても、手放すことはできない。
リナは、少し考え込むような様子を見せ、すぐにうなずいた。
「了解しました。あなたの同意なしに、『道具』に触れることはありません。研究は、非侵襲的な観察と、あなたからの情報提供を基本とします」
彼女は、メモ帳にその条件をさっと書き留めた。
「では、これで『戦略的協力関係』—通称『戦略的婚約』—が成立です」
リナは、フォルダーを閉じ、立ち上がった。
「明日から、本格的に始めましょう。まずは、あなたの『ゲーム』—『恋愛戦術言語研修プログラム』の基本的な構造と、そこで用いられる『言霊』のデータベース構築からです」
彼女は、ドアの方へ一歩進み、振り返った。
「お休みなさい、涼閣下。良い夢を」
そう言うと、彼女は静かに部屋を出ていった。
涼は、一人残され、ベッドにもたれかかった。胸の内は、複雑だった。恐怖、不安、わずかな安堵、そして途方もない疲労。
彼はスマホを取り出し、点けた。58%。変わらない。
(戦略的婚約、か…)
漫画やライトノベルなら、もっとドキドキする展開だろう。が、現実は、冷静な利益計算と生存戦略の話だ。ある意味、清々しいほどに割り切られている。
彼は、窓の外を見た。城下町の灯りが、いくつかぼんやりと光っている。あの家々に、自分を「救世主」と信じ、婚約を祝福している人々がいる。
(…ごめんな)
彼は、心の中で呟いた。
彼らをだましている。リナでさえ、完全には信用していない。この婚約も、嘘の上に成り立つ協定だ。
が、もう後戻りはできない。彼は、この「戦略的婚約」という役割を、演じ続けなければならない。スマホのバッテリーが尽きるその日まで、あるいは、この嘘がばれるその日まで。
彼は、目を閉じた。ようやく、睡魔が訪れつつあった。
その直前、ある考えが頭をよぎった。
(リナさん…あの人、本当は、もっと他にやりたいことが、あるんじゃないかな…)
疲れた顔。濃い隈。しかし、研究の話をする時の、一瞬の熱のこもった目。
彼女もまた、この「婚約」や「王女」という立場に、縛られている一人なのかもしれない。
次の瞬間、涼は、深い眠りに落ちていった。
夢の中では、いつものコンビニのレジ。が、客はゴブリンや騎士で、レジ横のディスプレーには『アイマホ』のヒロインたちが、戦術解説をしている。そして、リナが店長として立ち、涼に「レジ打ちの際は、愛を込めて『いらっしゃいませ』と言いなさい。戦意剥奪効果が確認されています」と指示を出す。
荒唐無稽な夢だった。
が、それが、彼の新しい「現実」の、ほんの始まりに過ぎないとは、まだ知る由もなかった。




