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絶境の台詞庫

第一砦の戦いは、惨勝だった。

魔王軍の先鋒は撤退したが、砦の防衛陣は壊滅に近い状態だった。門は半壊し、城壁には無数の傷が刻まれ、兵士たちの三分の一が戦死または重傷を負っていた。負傷者のうめき声と、死体を片付ける兵士たちの無言の作業が、月明かりに照らされた砦の中に重苦しい静寂をもたらしていた。

涼は、砦の一角にある、応急手当てを受けるための区画にいた。彼自身に目立った傷はなかったが、精神的な消耗が激しく、毛布にくるまったまま、ぼんやりと炎の揺らめく暖炉を見つめている。手にはスマホ。バッテリーは、66% のまま動かない。が、心の中で、あの戦闘中に一気に減った数字がちらつく。

(68%から66%…あの三つの台詞で、2%も減った…)

彼は、無意識にスマホを握りしめる。この先、何回あんなことができる? しかも、あの効果…あれは、一体何だった?

「賢者様、お身体の方は?」

リナの声が、傍らで響く。彼女は、軽い鎧の上から外套を羽織り、顔や手には血と埃が付いているが、その目は疲労の中にも鋭い観察眼を失っていない。手には、相変わらずメモ帳。

「…大丈夫、です」

涼は、かすれた声で答えた。

「本日は、本当にありがとうございました。あなたの『力』がなければ、この砦は落ち、我々はここで全滅していたでしょう」

リナの感謝の言葉は、本心からだろう。が、その直後、彼女の口調が少し変わる。

「そして、三つの新たな『呪文』…いえ、『言葉』を記録することができました」

彼女はメモ帳を開く。そこには、涼の発言、その効果、そしてリナの分析が、細かく書き込まれている。

「第一、『その瞳、星空のようだ』。効果:対象一点への強力な精神干渉。戦意喪失、行動停止。対象の内面の『哀惜』や『孤独』に訴えかける比喩的表現が鍵。コード名『星空囚籠スターライト・プリズン』と仮称」

「第二、『一緒に帰らない? うちのカップ麺、まぁまぁうまいよ』。効果:広範囲(主に下級知性体)への郷愁誘発・戦意剥奪。『帰宅』と『食事』という根源的欲求に作用。コード名『死霊支配・温かな家の呪い(ネクロマンシー・ホームシック・カース)』」

「第三、『なんでこんなことになっちゃったんだろう…』。効果:広域感情感染。主に『諦念』『哀傷』の感情を増幅させ、士気を低下させる。自軍への影響も若干確認。コード名『広域嘆息・運命弄びの哀傷(ワイドエリア・シグヘ・フェイトフル・サッドネス)』」

リナが読み上げるコード名のあまりの厨二病全開ぶりに、涼は思わず目をぱちぱちさせた。本人はただ、パニックでゲームの台詞を叫んだだけなのに、なぜこんなかっこいい(?)名前がつけられるのか。

「…コード名、必要?」

「研究を進める上で、識別と記録のために必要です」

リナは涼の戸惑いを無視し、真剣な面持ちで続ける。

「そして、これらの『言葉』には、いくつかの共通点と相違点があります。共通点:いずれも、あなたの深い感情—恐怖、切迫感、哀れみ—が強く反映されていること。相違点:効果範囲、対象、持続時間がそれぞれ異なること」

彼女のペン先が、メモ帳の図表を指す。

「私はこう仮説を立てます。あなたの『力』は、あなたの感情の強度と、発せられる『言葉』の『文脈的イメージ』が、翻訳魔法を通じて増幅・変質し、現実に干渉する。そして、その干渉の『形』は、『言葉』の内容に強く依存する」

リナの目が涼を見つめる。

「つまり、あなたが今、どのような『感情』で、どのような『イメージ』を込めた『言葉』を発するかで、その効果は大きく変わる可能性がある—と」

(…は?)

涼の頭が、ぐちゃぐちゃになる。感情? イメージ? 彼はただ、怖くて、ゲームの台詞を思い出して、叫んだだけだ。深い感情もクソもない。少なくとも、あの「カップ麺」の台詞に、深い感情なんて…。

「…そんな、難しいこと、考えてません」

涼は、正直にそう言った。

リナは一瞬、目を見開いたが、すぐに納得したようにうなずく。

「なるほど…無意識的、直感的な発動ですか。それも一つの可能性です。むしろ、意識的にコントロールできないからこそ、その力は純粋で、強力なのかもしれません」

彼女の目が、涼のスマホへと移る。

「そして、その力の源泉、または触媒が、この『道具』にあることも、ほぼ間違いないでしょう。発動時、明らかにこの『道具』から魔力—とは違う、未知のエネルギーが放出されていました」

涼は、黙ってうなだれた。もう、何も言えない。彼女の分析は、どんどん核心に近づいている。しかも、間違ってすらいない。

その時、一人の伝令兵が、息を切らして駆け込んできた。

「報、報告します! 東の第二、第三砦より、急使!」

「どうした!」

「第、第二砦は、魔王軍の別動隊に包囲され、危機的状況! 第三砦も、敵の大軍に押され、撤退を余儀なくされそうです!」

広間に、凍りつくような空気が流れる。

「何だと…!」

「先鋒を退けたと思ったら、それらは囮か!」

「本体は、他の砦を…!」

将軍たちの顔が青ざめる。リナの表情も一瞬で険しくなる。彼女は地図に駆け寄り、目を走らせる。

「…我々の戦力では、両方の砦を救援するのは不可能。第二砦に全力を向ければ、第三砦は落ち、国境の防衛線に穴が開く。逆もまた然り」

彼女の指が、地図上の二つの砦を往復する。

「しかも、第一砦の損害も大きい。ここから戦力を割く余裕はほとんどない」

絶望的な状況だ。王でさえ、言葉を失っている。

涼は、その会話を聞きながら、胸の奥が冷たくなるのを感じた。彼の預言が、この状況を招いた。彼の言葉が、王国を戦争へと駆り立てた。そして今、その戦争で、さらに多くの人が死のうとしている。

(どうすれば…)

彼はスマホの画面を見つめた。バッテリーは、66% だ。

(あと、少しだけ力がある。でも、どう使えば…?)

彼には、戦術も戦略もわからない。ただ、人を傷つけず、死なせずに済む方法が、もしあるなら…。

「…撤退だ」

リナの声が、低く、しかし明確に響く。

「第二、第三砦の兵士と住民を、可能な限り撤退させ、防衛線を中央の『竜の背』山脈まで後退させる。そこで時間を稼ぎ、本隊の再編と、さらなる援軍を待つ」

「しかし、それでは東部の村々全てを敵に明け渡すことになる!」

「住民の避難が間に合わぬ!」

「だが、リナ殿の言う通りだ! 全滅するよりまし!」

将軍たちの議論が再び沸騰する。が、リナの提案が現実的な最善策であることは、誰の目にも明らかだった。

「避難命令を出せ。我々は、ここで可能な限り時間を稼ぎ、撤退の盾となろう」

王が、重い口調で決断を下す。

砦は、撤退準備の慌ただしさに包まれた。負傷者の移送、物資の運び出し、住民の誘導…。リナはその指揮を執りながら、時折、涼を気遣うように視線を送る。彼女も、涼の「力」に頼りたい気持ちと、彼を危険に晒すことへのためらいの間で揺れているようだった。

涼は、兵士たちに促され、撤退用の馬車が並ぶ中庭へと連れて行かれた。周りでは、家族の荷物を抱えた住民たちが、泣き叫ぶ子どもをなだめながら、慌てて馬車に乗り込んでいる。戦いの余韻と、避難の悲鳴が入り混じり、地獄のような喧騒だ。

その時、遠くから、不気味な轟音が聞こえた。

地面が震える。ゆっくりと、しかし確実に強くなる震動。

「な、なんだ!?」

「地震か!?」

「ちがう…あれは…!」

砦の見張り台から、兵士の絶叫が響く。

「敵襲だあああっ!! 巨大な…何かが、密林から出てきた!!」

全員の視線が、東の空へと向けられる。

漆黒の密林の縁で、木々が、無理やり押しのけられるように、ばきばきと音を立てて倒れていく。そして、その隙間から現れたのは、これまで見たどの魔物よりも巨大な、一つの影だった。

全長、十メートルはあろうか。人間の形をしているが、それはあまりに歪んでいる。岩のような灰色の肌はごつごつと盛り上がり、所々から不気味な黒い毛が生えている。顔はほぼ猿に近く、大きな口からは牙がのぞき、黄色い涎を垂らしている。手には、引き抜いたばかりの大木を、棍棒のようにぶら下げている。

「あ、あれは…『山の狂戦士』…オーガだ!」

「そんなものが、こんな近くに!?」

「やべえ…あれに砦の門は、一撃も持たん…!」

兵士たちの間に、新たな恐怖が走る。ゴブリンやオークとは、次元の違う脅威だ。

オーガは、ゆっくりと、だが確実に砦へと歩みを進める。その一歩一歩で地面が揺れ、小石が跳ねる。倒れかけた門など、彼にとっては障害にもならない。

「全員、撤退を急げ! 弓兵、魔術兵、あの巨漢を足止めせよ!」

リナの命令が飛ぶ。が、誰の目にも明らかだった。あの巨体を、今の戦力で足止めすることなど、不可能に近い。

オーガは、砦の前まで来ると、棍棒にした大木を振りかぶった。風圧で、近くの兵士たちが吹き飛ばされる。

ゴォオオオオオオーン!!!

大木が、砦の半壊した門—というより、その残骸に直撃する。

ドッカァァァン!!!

木材と石材が粉々に飛び散る。門は完全に消え、砦への入口が、大きく広がった。オーガは、満足そうにうなり声を上げ、砦の中へ、一歩を踏み入れる。

その目が、涼とリナの立つ中庭—そして、その背後に並ぶ避難民の馬車群を、捉える。

空腹と破壊衝動に満ちた、黄色く濁った目。

(まずい…こっちを見てる…)

涼の背筋が凍りつく。オーガが、避難民の群れに突っ込んだら、ひとたまりもない。子どもや老人、負傷者が、踏み潰される。

オーガは、ゆっくりと、しかし確実に、中庭へと歩き始める。護衛の兵士たちが矢を放ち、魔法を撃ち込むが、その分厚い岩肌には、ほとんど効果がない。逆に、オーガが棍棒を軽く振るうだけで、兵士たちは紙くずのように吹き飛ばされる。

リナが、涼の前に立ちはだかる。彼女の手には、短剣が握られている。が、その剣で、オーガにどう傷をつけられるというのか。彼女の顔は蒼白だが、一歩も引かない。

「賢者様、どうか後ろに下がって…」

「で、でも…」

「ここは私が…」

オーガが、もう一歩近づく。その巨体の影が、二人を覆う。腐敗と獣臭の混じった吐息が、顔に届く。

涼の頭が真っ白になる。考えるより先に、体が動く。彼はリナをかばうように、少し前に出る。そして、ポケットからスマホを取り出し、必死に画面を点ける。

(何か…何か言わなきゃ…! でも、何を…?)

スマホの画面には、『アイマホ』のホーム画面。さっきの戦闘で中断した、イベントクエストの続きが表示されている。そこには、主人公(涼)と、ヒロインの一人—クールで強気な委員長タイプのキャラ、『雪代 深月』が、学園の屋上で、夕日に照らされながら対峙しているイラスト。

そのイベント、確か…委員長が、何か重大な秘密を抱えていて、主人公がそれに迫るシーンだった。そして、委員長が、意を決して秘密を打ち明ける直前に言う、印象的な台詞があったはずだ。

オーガが、棍棒を高く掲げる。次の一撃で、涼もリナも、ここにいる多くの人々も、確実に潰される。

時間がない。

涼は、目を閉じ、スマホの画面に表示された、委員長のセリフを、走馬灯のように思い出す。そして、その中で、一番「強気」で「威圧的」に聞こえた台詞を、オーガに向かって、精一杯の声で叫んだ。

「…お前のその目、誰を見てるんだ?」

それは、ゲームの中で、委員長が主人公に、自分の本心から目を逸らすな、と迫る時の台詞だった。少し攻撃的で、突き放すような、しかしどこか必死な響きを持つ言葉。

翻訳魔法が、涼の必死の叫びを捉える。スマホの画面が、強く輝く。バッテリーが、65% へ。

「…なんじためる!?」

金色の、剣のように鋭い光の文字が、オーガの巨大な顔の前で炸裂する。

オーガの動きが、ぴたりと止まる。

掲げた棍棒が、そのままの高さで固まる。黄色く濁った目が、見開かれる。その中に、一瞬、深い困惑と、ある種の「自問」の色が浮かぶ。

(…誰が為に視る?)

オーガの単純で粗暴な頭に、その問いが直接突き刺さる。彼は、生まれてこのかた、ただ飢え、破壊し、殺すために生きてきた。誰かのため? そんなものはない。己の欲望のためだ。

が、翻訳魔法が伝えるのは、単なる言葉の意味以上だ。その問いの裏にある、「自己の存在意義への根源的懐疑」という、重く暗い感情の響きが、オーガの本能的な意識に、小さな亀裂を入れる。

オーガは、ゆっくりと、掲げた棍棒を下ろす。彼は、自分の巨大な手の平を、ぼんやりと見つめる。その手で、どれほどの命を奪い、物を壊してきたか。全ては、空腹と破壊衝動のため。それ以外に、理由などなかった。

(…誰のため?)

彼の口から、小さな、混乱した唸り声が漏れる。

効果は一時的だろう。オーガのような魔物の自我は、そんな問いで簡単に崩れはしない。が、少なくとも今、彼の攻撃は止まった。破壊の手が、わずかに躊躇している。

「効いた…! 今だ、兵士たち、総攻撃! 目、急所を狙え!」

リナの鋭い声が、兵士たちを現実に引き戻す。弓兵と魔術師が一斉に攻撃を開始する。オーガは、ぼんやりとしたまま、矢や魔法を体に浴びせる。岩肌は硬いが、目などの弱点を集中的に狙われると、さすがにダメージを受ける。

オーガは、痛みと混乱で咆哮し、再び棍棒を振り回し始める。が、先程までの一方的な破壊力はない。彼は、自分がなぜここにいるのか、何のために戦っているのか、という根本的な疑問に囚われ、攻撃に集中できていない。

「賢者様、もう一度! あの『言葉』を!」

リナが叫ぶ。が、涼はわかっていた。同じ台詞を繰り返しても、効果は薄れる。オーガは、もうあの問いの衝撃から、少しずつ回復しようとしている。

(違う台詞…もっと強い、はっきりと止められるような…!)

涼は、スマホの画面を必死にスクロールする。イベントシーンのテキストを読み進める。委員長と主人公のやり取り。険悪な雰囲気。そして、委員長が、ついに決心し、秘密を打ち明ける直前…。

オーガが、頭を激しく振り、咆哮する。混乱から、怒りへと変わりつつある。

(早く…!)

涼の目に、あるセリフが飛び込む。委員長が、全てを打ち明けた後、覚悟を決めて言う、短く、しかし強い言葉。

「…これで、終わりにしよう。」

涼は、迷わずその台詞を、オーガに向かって、力強く宣言するように叫んだ。

「これで、終わりにしよう!」

翻訳魔法。スマホの輝き。バッテリー 64%。

「…れをもって、終局しゅうきょくさん!」

その言葉は、宣言であった。涼自身の、この苦しい状況からの「終わり」を求める願いが、翻訳魔法を通じて、対象であるオーガへの「絶対的な終結宣告」へと昇華された。

オーガの体に、金色の光の枷が現れる。目には見えないが、確かに存在する「終わりの運命」が、その巨体に重くのしかかる。

オーガは、突然、力が抜けたように、ひざまずく。棍棒を地面に落とす。彼の体から、戦意と破壊衝動が、霧のように消えていく。代わりに、深い、圧倒的な「終わり」の感覚—自分という存在の、ここでの役割が完了したという、不可解な納得感に襲われる。

彼は、もう戦わない。動かない。ただ、ひざまずき、ぼんやりと地面を見つめるだけだ。

「…信じられない…あのオーガが…」

「跪いた…?」

「さ、さっきの言葉で…?」

兵士たちも、住民たちも、ただ呆然と見つめるしかない。

リナだけが、メモ帳にペンを走らせている。彼女の目は、興奮に輝いている。

「『これで、終わりにしよう』…対象への『決定的終結』の宣告。強制力は極めて高いが、効果範囲は一点集中…対象の『存在意義』自体に干渉する、より危険で深遠な『言葉』…!」

涼は、息を切らしながらスマホを見る。64%。二つの台詞で、2%減った。

(まだ…まだ、戦いは終わってない…)

オーガは無力化した。が、砦の外には、まだ魔王軍の残存兵力がうごめいている。オーガの突進で開かれた門の穴から、ゴブリンの小集団が、再び侵入し始めていた。そして、それらの中に、新たな脅威が見える。

骸骨だ。骨だけの兵士たちが、がちゃがちゃと不気味な音を立てながら、中庭へと歩み入ってくる。その数、数十。手には錆びた剣や盾。目窩には、ぼんやりとした青白い魂火が灯っている。

「ス、スケルトン!?」

「死霊術だ! 魔族の指揮官が、まだいる!」

「奴らは、物理攻撃が効きにくい! 魔術師を呼べ!」

兵士たちが慌てる。が、魔術師たちは、オーガへの攻撃で魔力を消耗しきっている。

スケルトンたちが、無言のまま、ゆっくりと包囲網を狭めてくる。その骨の軋む音が、不気味に響く。

リナが、涼を見る。彼女の目に、問いかけがある。もう一度、あの「力」を、と。

涼は、スマホの画面を見つめる。バッテリー 64%。スクロールする。委員長とのイベントは終わった。次に表示されているのは、別のヒロイン—明るく世話焼きな幼馴染タイプ、『小日向 ひなた』のイベントシーンだ。

ひなたは、主人公(涼)の家に遊びに来て、一緒に勉強(という名目の雑談)をするシチュエーション。そこで、ひなたが、夜も更けてきたので帰ろうとする主人公に、ふと口にする台詞。

「あのさ…もう、遅いし。今夜、ウチに泊まっていかない?」

それは、ごく自然な、友達同士の誘いの言葉だった。特に深い意味はない。が、この状況で、スケルトンに向かって叫ぶには、あまりにもふざけている。

(でも…もう、他に思い浮かばない…!)

スケルトンたちが、さらに近づく。兵士たちが、必死に剣で応戦するが、骨の体は硬く、なかなか倒せない。

涼は、目を閉じ、恥ずかしさと必死さをこめて、あの台詞を、スケルトンの群れに向かって叫んだ。

「もう、遅いし…今夜、ウチに泊まっていかない?」

翻訳魔法。スマホの光。バッテリー 63%。

「…よるすでけぬ。今宵こよい宿やどとどまりかずや?」

その言葉は、優しく、どこか寂しげな誘いの声として、スケルトンたちの、かすかに残る生前の記憶—「家」「宿」「温もり」への感覚に、直接触れた。

数十体のスケルトンが、一斉に動きを止める。

がちゃがちゃと音を立てていた骨の動きが、ぴたりと止まる。青白い魂火が、ゆらゆらと揺らめく。

一體、また一體と、スケルトンがその場にうずくまる。剣や盾を置く。骨の手で、存在しない頭を抱えるような仕草をするものもいる。

「…ウ…ウチ…?」

「…サムイ…」

「…カアサン…ウチ、カエリタイ…」

かすかな、魂のささやきのような声が、スケルトンたちの間から漏れる。彼らは、死してなお戦い続けることを運命づけられた哀れな亡者たちだ。翻訳魔法の言葉が、彼らに、ほんの一瞬でも、安らかな「宿」と「温もり」への郷愁を思い出させた。

スケルトンたちは、もう戦わない。ただ、そこにうずくまり、あるいはぼんやりと立ち尽くすだけだ。攻撃的な意思は、霧散した。

「こ、今度はスケルトンが…!」

「また、あの言葉で…!」

兵士たちの驚愕の声。リナの、興奮に震えるペン先。

「『家に泊まれ』…帰宅誘発の上位互換か。『宿泊』という概念が、より強い『安息』への誘いとなる。不死者にすら効果あり…対象の、生前の記憶に残る『安心』の概念に作用するのか…!」

涼は、もう、分析を聞く気力もない。彼は、スマホの画面を見つめる。63%。

(減る…確実に減ってる…)

オーガはひざまずいたまま。スケルトンは戦意を喪失した。が、戦場全体は、まだ混乱の極みにある。撤退する味方、追撃する敵、逃げ惑う住民…全てが入り乱れ、悲鳴と怒号が渦巻いている。

そして、遠くの城壁の上で、一人の魔族指揮官が、冷たい目でこの光景を見下ろしている。先程、涼の「星空」の言葉で一時ひるんだ、あの青白い騎士だ。彼の手には、新たな槍。彼の目には、屈辱と確執の炎が燃えている。

「預言者…お前の言葉の力、確かに恐るべきものだ。だが、無尽蔵ではあるまい。さっきから、お前の顔色がどんどん悪くなっている。あの奇妙な道具も、輝きが弱まっているようだな…」

指揮官が、ゆっくりと槍を構える。今度は、涼だけを、一点に狙いを定めている。

「次で、終わりだ。貴様の舌を奪い、その力を我が魔王陛下へ捧げよう…!」

魔力が、槍先に集中する。周囲の空気が歪む。今度の一撃は、確実に涼を仕留めに来る。

リナが、涼の前に完全に立ちはだかろうとする。が、指揮官は距離がある。リナの短剣が届くはずがない。

(ダメだ…また、狙われた…)

涼の頭が、真っ白になる。疲労と恐怖で、思考が停止する。スマホの画面も、ぼんやりとして見える。バッテリー 63%。

(どうしよう…もう、台詞も思い浮かばない…)

彼は、スマホの画面をぼんやりと見つめる。ひなたのイベントシーンが、まだ開いている。その会話の最後のほう。主人公が、結局泊まらずに帰ることを告げると、ひなたが少し寂しそうに、そしてからかうように言うセリフ。

「えー、帰っちゃうの? もっと話したいなあ…」

それだけだ。特に意味のない、日常的な言葉。

が、今の涼の心に、その言葉が、深く刺さる。

(帰りたい…俺も、帰りたい…この戦場から、この異世界から、元の世界に…)

彼は、もう、戦う気力も、考える力も失っていた。ただ、全てが終わってほしい。この苦しみから、解放されたい。

オーガに叫んだ「終わりにしよう」という言葉は、相手に対する宣告だった。が、今、彼の心にある「終わり」は、自分自身の、この状況からの解放だ。

魔族指揮官の槍が、紫黒い閃光を放つ。一瞬で距離を詰め、涼の胸元へと迫る。

涼は、目を閉じた。最後の力を振り絞って、スマホの画面に表示された、あの何気ない台詞を、自分自身への嘆息のように、あるいはこの世界全体への願いのように、かすかな声で呟いた。

「…なんで、こんなことになっちゃったんだろう…」

翻訳魔法が、その絶望的な呟きを受け止める。スマホの画面が、最後の輝きを放つ。バッテリーが、62% へと、かすかに震える。

「…なんゆえ、かくのごとことてしや…」

その言葉は、宣言でも、誘いでも、問いかけでもなかった。ただの、深い、深いため息。絶望と諦念と、全てに対する哀しみに満ちた、一声だった。

が、その「ため息」が、翻訳魔法を通じて広がった時、戦場の空気そのものが変わった。

紫黒い閃光の槍は、涼の目前で、ぱっと霧散した。魔力そのものが、哀しみに濡れて、重くなり、形を保てなくなったのか。

魔族指揮官の手から、槍が落ちる。彼は、涼を見つめている。が、その虚ろな目に、今、映っているのは、涼の背後に広がる、計り知れない「運命の哀しみ」の幻影だ。彼は、長い戦いの中で忘れていた、ある感情—「なぜ、我々は戦わねばならぬのか」という根源的な疑問を、思い出したようだった。

彼は、ゆっくりと後退する。そして、撤退の合図を告げる角笛を吹いた。

その音を合図に、魔王軍の残存兵力は、戦闘をやめ、密林の方へと撤退していく。オーガも、うずくまるスケルトンたちも、彼らと共に、あるいは置き去りにされ、戦場から姿を消した。

砦には、突然の静寂が訪れた。

兵士たちは、疲れ果て、その場に倒れ込む。住民たちは、安堵の泣き声を上げる。生き残った喜びと、失ったものの悲しみが、入り混じる。

涼は、その場に立ち尽くしたまま、動けない。スマホの画面は、もう暗い。62% の数字だけが、かすかに光っている。

リナが、ゆっくりと彼に近づく。彼女の目には、今までの分析的冷静さはなく、純粋な驚異と、ある種の畏敬の念さえ浮かんでいる。

「…賢者様」

彼女の声は、震えていた。

「あなたは…今、何をなさったのですか? あの最後の言葉…『なんで、こんなことになっちゃったんだろう』…それは…」

彼女は言葉に詰まる。分析できない。あの言葉には、特定の対象への干渉も、明確な効果もなかった。ただ、広い範囲に、深い「哀しみ」と「諦念」を撒き散らしただけだ。が、その「哀しみ」が、なぜか敵の指揮官の戦意を奪い、戦闘そのものを終結へと導いた。

涼は、ゆっくりとリナを見た。彼の目は、疲れ果て、虚ろだった。

「…わからない。もう、何もわからない」

それは、この世界の言葉で、はっきりと発せられた、初めての、翻訳魔法を介さない涼自身の意思だった。

リナは、一瞬、目を見開いた。そして、深くうなずいた。

「…そうですか」

彼女は、涼の肩にそっと手を置いた。その手は、冷たく、わずかに震えている。

「とにかく、今は休んでください。あなたは、十分すぎるほど、戦いました」

涼は、その言葉に、ようやく力が抜けるのを感じた。彼は、その場に崩れ落ちそうになるのを、リナに支えられながら、かろうじて踏みとどまった。

遠くの空が、薄明るくなり始めていた。

夜明けだ。

長く、苦しい戦いの夜が、ようやく明けた。

しかし、涼は知っていた。この戦いは、まだ終わっていない。いや、終わらせなければならないのは、彼自身の、この国への関わり方なのだと。

スマホの画面を、そっとポケットにしまいながら、彼はぼんやりと考えた。

(あと、62%か…)

その先に、何が待っているのか。彼には、見当もつかなかった。


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