兵臨城下
月が、ゆっくりと丸くなっていった。
アークシス王国の東部国境は、この一ヶ月で見違えるように変貌していた。漆黒の密林に面する三つの砦は、急ぎ増築され、防壁は高く厚くなっている。谷間の要所には新たな見張り塔が建ち、川の渡河点には魔法の罠が仕掛けられた。「賢者様の御示唆」として伝えられた、防衛施設の配置は、確かに地形を最大限に活用した、理にかなったものだった。
城下では、人々の間で、緊張と希望が奇妙に混ざり合った空気が流れていた。
「聞いたか? 賢者様の預言通り、今夜が満月だ」
「魔王軍、本当に来るのか…?」
「来るに決まってる! 賢者様の預言が外れたためしがない!」
「でも、砦も強化されたし、賢者様がいてくださる。大丈夫だ!」
「ああ、きっと大丈夫だ!」
そんな人々の会話をよそに、城の一室で、佐藤涼は窓の外の満月をぼんやりと眺めていた。彼の手には、スマホが握られている。画面は暗い。バッテリーは、71% と表示されていた。
(一ヶ月で、5%も減った…)
涼は、数字を見つめながら、胸の奥に重い塊が転がっているのを感じた。この一ヶ月、彼は「恋愛呪文戦術研究所」の名ばかりの「特別顧問」として、リナ王女の執拗な「研究」に付き合わされ続けた。
「賢者様、この『愛と魔法の学園』という記録媒体、さらに詳しく調べさせてください」
「この『ガチャ』という儀式について、詳しく教えてください。強力な『縁』を呼び寄せる術ですか?」
「『イベントクエスト』とは、定期的に訪れる試練のことですか? その報酬という概念…」
リナの質問は、全て翻訳魔法を通じて、深遠で難解なものに変えられ、涼はほとんどうなずくか、曖昧にごまかすしかなかった。彼の適当な返答は、ことごとく「深遠なる教え」として記録され、リナの帳面を分厚くしていくだけだった。
そして、今夜。
預言の日。
(来るわけないよな…あれはただのゲームの設定だ。たまたま、猪の時と言葉が通じただけだ。きっと、今夜は何も起きず、みんながっかりするだけだ。そうすれば、俺の信用もなくなる。そうなれば、もう預言なんてさせられない。そしたら、少しは楽になる…)
彼は、そう自分に言い聞かせようとした。しかし、心のどこかで、冷たいものがうごめいていた。偶然が一度ならず、二度、三度と重なった現実。翻訳魔法の不可解な働き。減り続けるバッテリー。
(もし…もしも、本当に来たら?)
彼は、目を閉じた。考えるだけで、胃が締め付けられる。
ドアがノックされた。
「賢者様、お時間です」
リナの声だ。冷静で、いつもと変わらない。
涼は、深く息を吸い、スマホをポケットにしまい、ドアを開けた。
廊下には、鎧に身を包んだリナが立っていた。普段の実用的な服ではなく、軽やかで動きやすそうな銀の胸当てと鎖かたびらをまとっている。腰には短剣。彼女の目は、濃い隈の下で、研ぎ澄まされたように澄んでいた。緊張の色はあるが、動揺は微塵もない。
「王と将軍たちは、東の第一砦の指揮所におられます。我々も、すぐに向かいましょう」
「…行くの? 前線に?」
涼の声は、思わず裏返った。
「もちろんです。賢者様の預言が現実となろうとするこの瞬間、最も優れた知恵を持つあなたを、安全な城に留めておくわけにはいきません。また、あなたの力が必要になる…かもしれませんから」
リナの言葉には、わずかなためらいがあった。彼女は涼の力を「研究」し、ある程度の「法則」を見出したつもりでいた。だが、それはあくまで観察と推論の域を出ない。実際の戦場で、その力がどれほど有効か、あるいはどれほど危険か、彼女自身も確信が持てていない。
涼は、抗議の言葉を飲み込んだ。もう、彼に選択肢はない。彼は、リナの後について、冷たい石の廊下を歩き出した。
東部国境、第一砦。
石と木材で急造された砦の城壁の上は、異様な熱気に包まれていた。松明の炎が、兵士たちの緊張した顔を揺らめく光と影で照らし出す。鎧の軋む音、武器を握りしめる手の革のきしむ音、そして、遠くから聞こえる、不気味な野獣の唸り声のようなものが、夜風に乗って流れてくる。
城壁の一角、指揮所とされる見張り塔の中で、王ロードヴィック四世と数人の将軍が、地形図を囲んでいた。彼らは、涼とリナが到着すると、一斉に顔を上げた。
「来たか、賢者よ、我が娘よ」
王の顔は、疲労と緊張でこわばっているが、目はしっかりと輝いている。
「予定通り、漆黒の密林から、不気味な気配が立ち込め始めた。間もなく、彼らは動き出すだろう」
「兵力の確認は?」リナが、地図に目を走らせながら尋ねる。
「まだ詳細は不明だ。が、密林の縁から這い出る影の数は…予想以上だ。先鋒は、下級魔物の群れのようだが…」
老将軍の声が硬い。
涼は、窓の外、漆黒の闇に覆われた密林の方を見た。月明かりが、不気味にゆらめく木々の梢を照らしている。その闇の深部から、確かに、何かが蠢いている気配を、肌で感じた。寒気が、背筋を伝う。
(来る…本当に来る…)
彼の膝が、わずかに震えた。スマホを握りしめる手に、汗がにじむ。
「賢者よ」
王が、涼の肩に手を置く。その手は、冷たく、わずかに震えていた。
「そなたの預言は、間違いではなかった。我々は、そのおかげで、この程度の準備を整えることができた。感謝する」
王の目には、深い信頼があった。それは、涼にとって、重すぎる荷物だった。
(違う…預言なんかじゃない…ただの、ゲームの設定文…)
彼は、声にならない声で、心の中で叫ぶ。が、誰にも聞こえない。
外で、警戒のラッパが鋭く響いた。
「来た!」
兵士の叫び声。
城壁の上にいた全員が、一斉に密林の縁を見つめた。
闇が、うごめいた。
緑色や紫色の、不気味な生体発光をともなった無数の点が、密林の闇から、ゆっくりと、しかし確実に這い出てくる。ゴブリンだ。小柄で醜い、緑色の肌の人型の魔物。粗末な棍棒や石斧を振り回し、けたたましい金切り声を上げながら、砦に向かって押し寄せてくる。その数、数百。いや、千を超えるかもしれない。
その背後から現れたのは、より大きな影だ。オークだ。ゴブリンより大きく、筋肉質で、猪のような顔に牙をむき出している。重そうな戦斧や棍棒を担ぎ、低くうなるような咆哮を上げる。
そして、それらを統率するように、数体の、より人間に近いが、肌が青白く、目が虚ろに光る騎士のような影——恐らく、下級魔族の指揮官たちが、ゆっくりと馬に乗って現れた。
「あれが…魔王軍…」
涼は、息をのんだ。ゲームや映画で見るのとは、まったく次元が違う。生々しい悪意と暴力のオーラが、距離を置いても、皮膚を刺すように伝わってくる。腐敗と鉄錆の混じったような、嫌な臭いが、風に乗って流れてきた。
「配置は、予想通りだ。第一、第二防衛線、準備!」
リナの声が、鋭く、冷たく響く。彼女は、指揮所の窓辺に立ち、一切の動揺を見せずに状況を把握し、指示を飛ばす。
「弓兵隊、射程距離に入るまで待て! 魔法兵団、第一陣のゴブリン群に、範囲制圧魔法を準備!」
彼女の指示に従い、砦は動き出す。兵士たちの緊張が、一瞬、目的ある行動へと変わる。
ゴブリンの波が、砦の前の開けた土地を埋め尽くし、怒涛のように押し寄せてくる。地面が震える。けたたましい叫び声が、夜空を引き裂く。
「放て!」
リナの号令。
城壁の上から、無数の矢が雨のように降り注ぐ。同時に、魔術師たちの詠唱が響き、空中に炎の玉や氷の槍が生まれ、ゴブリンの群れに炸裂する。
パシッ! ドカン! ギャアアア!
鈍い音と、炸裂音と、悲鳴が入り混じる。前線のゴブリンたちが、矢や魔法に倒れ、転がる。が、後続はそれを蹴り飛ばし、屍の山を乗り越えて、さらに前進してくる。全く恐怖を知らないかのように。
(うっ…)
涼は、思わず目を背けた。生身が、矢に刺さり、炎に焼かれ、氷に貫かれる。ゲームではただのエフェクトと数字の減算でしかなかった光景が、ここでは、あまりにも生々しい苦痛と死の匂いを伴って展開していた。胃がひっくり返りそうになる。
「賢者様、しっかりしてください」
リナの声が、涼の耳元で響く。彼女は、涼の顔色の変化に気づいていた。
「これは、現実です。あなたの預言がもたらした、避けられない現実です。目を背けていては、何も変えられません」
その言葉は、冷たくもあり、励ましでもあった。涼は、歯を食いしばり、再び城外を見つめた。
ゴブリンの波は、犠牲を払いながらも、確実に砦に迫っていた。堀に架かった粗末な橋を渡り、城壁の根元に殺到する。オークたちが、巨大な丸太や破城槌を持ち出し、門や城壁をゴンゴンと打ち据え始める。その度に、砦全体が微かに揺らぐ。
「門、補強せよ! 油を準備!」
将軍の怒声。兵士たちが、大鍋に入った滾る油を、城壁の上から押し寄せる敵の頭上に浴びせかける。熱油と肉が焼ける音、そして地獄のような悲鳴。
しかし、魔王軍はひるまない。むしろ、狂暴さを増す。オークの一撃で、門の一部がひび割れ、木材が剥がれ落ちる。
「まずい…数の差が大きすぎる…」
老将軍が、歯軋りする。
「下級とはいえ、魔族の指揮官がいる。あいつらがいる限り、奴らの士気は崩せん」
リナは、唇を噛みしめた。彼女の頭の中では、数字が渦巻いている。敵の兵力、こちらの消耗、予備兵力、弾薬と魔力の残量…全てが、絶望的な方向に傾いている。
その時、魔族の指揮官の一人が、ゆっくりと前に出た。青白い肌の騎士は、長い槍を掲げ、何か叫ぶ。翻訳魔法が働き、その言葉の意味が涼に届く。
「愚かな人間どもよ…この砦も、お前たちの命も、全て我が魔王陛下に捧げよ! 抵抗は無駄だ!」
その声は、不気味に美しい響きで、兵士たちの間に一瞬の動揺を走らせた。
(ああ、ダメだ…こいつら、強い…本物だ…)
涼の足が、震えが止まらない。頭の中が真っ白になる。逃げたい。どこかへ、この場から、この現実から逃げ出したい。
彼の手が、ポケットの中のスマホに必死にしがみつく。ひび割れたガラス。唯一の現実逃避の手段。バッテリーは、70% を切ろうとしていた。
「父王、ここは、私が指揮を執ります」
リナの声が、静かに、しかし強く響く。彼女は王を見据え、うなずく。
「砦を守り切ることは、もはや困難です。次の一手は、敵の指揮官を狙い、指揮系統を混乱させるしかありません。その間に、住民と主力を第二砦へ退却させます」
「…だが、それではお前が…!」
「私は、騎士です。そして、この国の王女です」
リナの目に、一途な決意が燃えている。彼女は涼を一瞥した。その目には、複雑な感情が交錯していた。未解明の力を持つ、不可解な「賢者」。彼に、最後の望みをかけるべきか? それとも、危険因子として、退却に巻き込むべきか?
選択を迫られる時間はない。
オークの破城槌の一撃で、門の一部が大きく崩れ落ちた。木片と埃が舞う中、ゴブリンのうじゃうじゃとした影が、砦の内部へなだれ込もうとしている。
「門、突破されそうだ!」
「押しとどめろ!」
兵士たちの必死の叫び。金属と金属、金属と肉のぶつかる音。そして、次々と消えていく命の悲鳴。
リナは、短剣を抜き、涼の腕をしっかりと掴んだ。
「賢者様、私についてきてください。もう、ここは安全ではありません」
「で、でも…」
涼は、動けない。恐怖で、足が地面に根を下ろしたようになっている。
「動いてください! あなたが死ねば、この国の希望まで失います!」
リナの声には、初めて、強い感情の揺れがあった。焦りだ。
その時、一人の魔族指揮官が、崩れかけた門の上に躍り出た。彼は、砦の中になだれ込もうとするゴブリンたちを尻目に、涼とリナの立つ見張り塔を、じっと見下ろしている。虚ろな目が、涼を捉える。
「あれが…預言者か…面白い。捕らえ、魔王陛下へ捧げよう…」
指揮官が、長い槍を涼に向けて構える。槍先に、不気味な紫黒い光が渦巻く。
「っ!」
リナが、涼をかばうように前に出る。が、距離がある。魔法の槍撃を、彼女の短剣で防げるはずがない。
(まずい…死ぬ…!)
涼の頭の中で、思考が停止する。目に入るのは、紫黒い光の槍先だけだ。耳には、兵士たちの怒号や悲鳴、そして、自分自身の鼓動の音が、大きく、速く響く。
(どうしようどうしようどうしよう…)
彼の手が、ポケットの中のスマホを、必死に握りしめる。画面を点けようとする。指が震えて、うまくいかない。
(助けて…誰か…何か…!)
スマホの画面が、かすかに光る。ひび割れたガラスの向こうに、『愛と魔法の学園』のホーム画面。イベントクエストのポップアップが表示されている。そこには、主人公(涼)と、ヒロインの一人が、巨大な魔獣に立ち向かうイラスト。ヒロインが、主人公をかばい、前に立ちはだかる構図だ。
そのヒロインの、決意に満ちた瞳の特写。
そして、涼の脳裏に、あるセリフが浮かぶ。それは、イベントのクライマックスで、ヒロインが魔獣に向かって叫ぶ、あまりに陳腐で、中二病全開の台詞だった。
現実と虚構の境界が、その瞬間、溶けていく。
紫黒い光の槍が、指揮官の手から放たれる。遅い。目に見えるほど遅い。涼には、そう感じられた。
彼は、口を開く。何を言うのか、自分でもわからない。ただ、あのゲームの、あの恥ずかしいセリフを、叫ぶしかない。
「…その瞳…」
声が出ない。恐怖で、声帯が震え、かすれる。
リナが、涼の前に完全に立ちはだかろうとする。
槍が、さらに近づく。
涼は、目を閉じ、全ての力を声に込めて、あのセリフの続きを、泣きそうになりながら絞り出した。
「…星空のようだ…」
『…その瞳…星空のようだ…』
かすかで、震えた、ほとんど呟きのような日本語。
しかし、その言葉が涼の唇を離れた瞬間、彼の周りの空間が歪んだ。
翻訳魔法が、これまでにない激しさで活性化する。涼のスマホの画面が、一瞬、強く輝く。バッテリー表示が、70% から、68% へと、一気に減る。
涼の言葉が、金色の、複雑に絡み合った光の文字へと変わり、空中に浮かび上がる。そして、それは、この世界の、誰の耳にも深く響き渡る、荘厳で、どこか哀愁を帯びた言葉へと再構成された。
「…汝が瞳…星空の如く輝けど、其の輝き、孤独の闇に囚われたり…」
その「声」が響き渡ると、全てが一瞬、止まったように見えた。
紫黒い光の槍は、涼とリナの目前、数十センチのところで、突然、速度を落とし、そして、無数のきらめく光の粒へと崩れ散った。まるで、夜空に消える流星のように。
槍を放った魔族指揮官は、その虚ろな目を、ぱちりと見開いた。彼は、涼を見つめた。いや、涼の背後に、翻訳魔法が描き出した「星空」の幻影を見つめた。
その「星空」は、ただ美しいだけではなかった。深遠で、計り知れない、圧倒的な「孤独」と「哀しみ」が込められた、重たい光の織物だった。それは、長い戦いと殺戮で魂をすり減らした指揮官の、心の奥底に眠る、かすかな「感傷」や「郷愁」に、直接、触れるものだった。
「…あ…ああ…?」
指揮官の口から、意味のわからない呻き声が漏れる。彼の手から、槍が床に転がり落ちる。彼は、ゆっくりとひざまずき、手で顔を覆った。その肩が、わずかに震えている。
城壁の上でも、砦の中でも、戦いの手が一瞬止む。兵士たちも、魔物たちも、その不可思議な光景と、心に直接響いてくる「言葉」の重みに、ただ茫然とするしかなかった。
リナだけが、涼の横で、息を詰めてその様子を見つめていた。彼女の目は、驚愕に大きく見開かれ、同時に、ペンを取り出したい衝動を必死にこらえているようだった。メモ帳は、鎧の下に仕込んである。
(効いた…? あの、ゲームの、超恥ずかしい台詞が…?)
涼は、自分でも信じられなかった。が、目の前で、敵の指揮官が戦意を喪失し、ひざまずいている。あの危険な魔法の槍は、消えた。
(でも…なんで? 「星空のようだ」って、褒めてるだけじゃ…?)
翻訳魔法が、彼の言葉を、「星空のように美しいが、孤独に囚われた哀しみの瞳」という、深読みされすぎた解釈へと変えてしまった。そして、それが、敵の指揮官の心の琴線に触れてしまった。
しかし、戦場の均衡は、長くは続かなかった。
他の魔族指揮官が、我に返り、唸るように叫んだ。
「ふん…たかが精神干渉か! 我らが魔王陛下への忠誠に、曇りなし! 全軍、進撃を続けよ! 預言者を生け捕りにせよ!」
その号令で、一時止まっていた魔物の大群が、再びうごめき始める。ひざまずいていた指揮官も、ゆっくりと、しかし確実に立ち上がり、虚ろな目に再び冷たい光を灯す。一時の感傷は、魔王への忠誠心の前には、かき消されるほど脆弱だった。
「ダメか…」
リナが歯ぎしりする。が、彼女の目は、涼を見つめ、鋭く光っている。
「あの『言葉』…確かに効いた。一時的にせよ、敵の指揮官一人を行動不能にした。時間を稼いだ」
彼女の頭脳が、フル回転する。あの「言葉」の特性。対象への「賞賛」と「哀れみ」の混在。精神への直接干渉。範囲は一点集中型か。詠唱時間は短い。効果時間は短いが、その間、対象は完全に無防備。
「賢者様、もう一度! 今度は、あのオークの隊長に! 同じ『言葉』でいいから!」
リナが涼の腕を握り、指さす。門の前で、ゴブリンたちを叱咤しながら、巨大な戦斧を振り回す、大きく狂暴なオークの隊長だ。
「え? でも…あれ、たまたまだと思う…」
「いいから、お願いです! 今、それしかない!」
リナの目には、必死の懇願の色があった。普段の冷静さが、危機的な状況で少し崩れ、年相応の若さと切迫感がのぞく。
涼は、彼女の目を見て、うなずかずにはいられなかった。彼も、もう、後戻りできない。彼の嘘が引き起こしたこの戦い。彼の言葉が、少しでも戦局を変えられるなら…
彼は、震える手でスマホを取り出し、画面を見る。バッテリーは、68% だ。
(もう一回…あの恥ずかしいセリフ…)
オークの隊長が、門の破片を蹴散らし、砦内部に一歩、足を踏み入れようとしている。
涼は、目を閉じ、先程のセリフを、今度は少しだけ強く、意識的に口にした。
「その瞳…星空のようだ!」
翻訳魔法が働く。スマホの画面が一瞬輝く。バッテリーが、67% へ。
「汝が瞳、星々の如く猛り狂えど、其の猛り、空虚なる破滅への道標に過ぎず!」
言葉が、オークの隊長に届く。
隊長の動きが、一瞬止まる。その狂暴な目が、虚ろに見開かれる。彼は、自分が振り回そうとしていた戦斧を、ゆっくりと下ろした。そして、空を見上げる。満天の星空を。
「…ぐ…ぐお…?」
彼の口から、混乱した唸り声が漏れる。星空? 道標? 彼の単純で粗暴な頭脳には、その言葉の意味は理解できない。が、翻訳魔法が直接心に響かせる「感情」——「猛りは空虚な破滅に通じる」という、深い諦念と哀しみのニュアンスが、彼の戦意を、不思議とそぎ落としていく。
隊長は、その場に立ち尽くし、周りのゴブリンたちが戦い続けているのを、ただぼんやりと見つめるだけだった。
「効いた! また効いた!」
リナが叫ぶ。彼女の目が、興奮で輝いている。
「兵士たち! 今だ! 門を閉じろ! 隙を見て、あのオークを倒せ!」
指揮官と隊長、二つの要が機能停止した隙に、兵士たちが反撃に出る。必死の働きで、崩れかけた門の穴を木材で応急的に塞ぎ、内部に侵入しかけていたゴブリンたちを一掃する。
戦局が、ほんの少し、だが確かにこちらの方向に傾いた。
涼は、その様子を見て、ほっと胸を撫で下ろした。が、すぐに、また危機感が襲う。敵の大群は、まだそこにいる。指揮官も隊長も、完全には倒れていない。彼らは、いつ我に返るかわからない。
そして、何より、スマホのバッテリーが、67% だ。あと何回、こんなことができる?
リナが涼の傍らに寄り、声を潜めて言う。
「賢者様…あの『言葉』…『その瞳、星空のようだ』…それ、何かの『決まり文句』、あるいは『呪文の詠唱』のようなものですか?」
彼女の目は、研究者のそれだ。危機的状況ですら、分析をやめない。
「…え? あ、うん…多分…」
涼は、曖昧にうなずく。説明できない。
「効果は、対象の精神に直接干渉し、戦意を削ぐ…あるいは、対象の内面にある『矛盾』や『哀しみ』を増幅させる…『星空』という比喩が鍵か…?」
リナが独り言のように呟く。そして、涼を見つめる。
「他に、そんな『言葉』はありますか? 今の状況を打破できる、もっと強力な…あるいは、範囲の広い…」
涼は、絶句した。他に? 『愛と魔法の学園』の台詞なら、腐るほどある。が、どれがどんな効果をもたらすか、全くわからない。次は、もっとひどいことになるかもしれない。
が、彼が逡巡している間にも、戦場は動いていた。
最初にひざまずいた魔族指揮官が、ゆっくりと立ち上がり、冷たい目で涼を見据えている。彼の目には、先程の感傷は跡形もなく、むしろ、屈辱による怒りが渦巻いている。
「預言者…お前の言葉、確かに我が心を揺さぶった。だが、それで終わりだ。次は、もはや効かん…!」
指揮官が、再び槍を構える。今度は、より強力な魔力を込めている。
リナの顔が引き締まる。
「賢者様、今です! 何か、他の『言葉』を!」
プレッシャー。焦り。恐怖。
涼の頭の中を、ゲームの台詞がぐるぐると巡る。ヒロインたちの、いろんなシチュエーションでのセリフ。告白シーン。別れのシーン。励ましのシーン。鼓舞のシーン。
(どれだ…どれを言えば…!)
指揮官の槍先が、涼を狙う。
涼の目が、偶然、砦の下、門の前にたたずむ、うずくまっている一団の影に留まる。それは、戦闘に巻き込まれ、逃げ遅れたのか、負傷した兵士たちだった。その中に、若い兵士が、年配の戦友の体を抱き、泣いているのが見える。
その光景が、涼の脳裏に、あるシーンを呼び起こす。
ゲームの中の、悲しいイベントシーン。ヒロインが、傷ついた仲間を抱きしめ、泣きながら呟く台詞。
「一緒に…帰ろう…うちのカップ麺…まぁまぁうまいよ…」
それは、ゲームの中で、涼が一番「リアルで切ない」と感じた、くだらないけど、なぜか心に残る台詞だった。
今、この状況で、それを口にすることの意味も、効果も、彼にはわからない。
が、彼は、もう考えることをやめた。考えると、声が出なくなる。
彼は、目を閉じ、泣きそうな声で、あの台詞を、砦の下の兵士たちに向けて、あるいは、自分自身に向けて、呟いた。
「一緒に…帰らない? うちのカップ麺…まぁまぁうまいよ…」
声は、風に消えそうな、小さなものだった。
翻訳魔法が、その言葉を受け止める。スマホの画面が、強く輝く。バッテリーが、66% へと、一気に減る。
金色の光の文字が、砦全体を優しく包み込む。そして、それは、この戦場にいる全ての者——味方も敵も——の心に、静かに、深く染み渡っていく言葉へと変わった。
「…共に…還らんや…我が巣にて待つ杯の麺…其れは、まあまあ、旨し…」
その言葉が響き渡った時、戦場の空気が、一変した。
魔族指揮官が構えていた槍の魔力が、ふっと消える。彼は、きょとんとした顔で、涼を見つめる。
門の前で立ち尽くしていたオークの隊長が、おなかをぐーっと鳴らす。
何より、砦の下、負傷兵を抱く若い兵士が、涙で曇った目を上げ、遠くの城壁の上に立つ涼を、ぽかんと見つめる。
そして、魔王軍の雑兵であるゴブリンたちの間から、奇妙な声が上がり始めた。
「…ウホ? カップ…メン?」
「メン…ウマイ?」
「…オレ…オカアサン…メン、作ッテクレタ…」
「…ウゥ…サムイ…アッチイ、メン、タベタイ…」
不気味な光景が広がる。無数のゴブリンが、武器を下ろし、あるいは地面に置き、空を見上げ、あるいは地面を見つめ、一様に「何か温かいものを食べたい」という、原始的で切実な欲求に取りつかれたように、うずくまり始めるのだ。彼らの目に、狂気や戦意の代わりに、ぼんやりとした郷愁と飢えの色が浮かぶ。
「な、何だこれは…!?」
リナが、息をのむ。彼女の分析脳が、フル回転する。今回の「言葉」の効果…『帰宅』と『食事』への誘い。対象は広範囲。効果は、強力な『戦意剥奪』と『郷愁誘発』。下級魔物の、本能に近い部分に作用している…!
「チャンスです! 全軍、一斉反撃! 敵は混乱している!」
リナの号令が、砦に響き渡る。
兵士たちが、我に返り、怒涛の如く反撃に転じる。戦意を失い、空腹と郷愁にうずくまるゴブリンたちは、なす術もなく蹴散らされ、倒されていく。オークの隊長は、まだぼんやりと空を見上げたまま、簡単に捕縛された。魔族指揮官は、混乱の中、撤退を開始する。
戦局は、一気に王国軍有利に傾いた。
涼は、その様子を、信じられない思いで見つめていた。彼の、あのふざけた台詞が、またしても、戦場を変えてしまった。
彼は、ポケットの中のスマホを見た。バッテリーは、66% だ。
そして、リナが、彼の前に立つ。彼女の目は、興奮と驚異と、深い探究心に輝いている。
「賢者様…『一緒に帰らない? うちのカップ麺、まぁまぁうまいよ』…」
彼女は、一言一句を確かめるように繰り返す。
「これも…『呪文』ですか? それとも…」
彼女の目が、涼のスマホへと移る。
「あなたの世界の…『帰還と癒し』を誘う、真言のようなもの?」
涼は、何も答えられなかった。彼は、ただ、疲れ果てて、城壁にもたれかかるしかなかった。
遠くで、撤退のラッパが鳴る。魔王軍の先鋒は、混乱したまま、漆黒の密林へと消えていった。
満月が、血と煙の匂いのする戦場を、冷たく照らしていた。
第一砦は、何とか守り切った。
しかし、涼は知っていた。これは、ほんの始まりに過ぎないということ。
彼の嘘は、もはや、とてつもない現実を生み出し始めていた。
そして、彼のスマホのバッテリーは、確実に減り続けている。




