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王国の悩みと「神託」

夜明け前の冷たい空気が、城の石廊下を這っていた。

涼は、分厚い羽毛布団の中でぐっすり眠っていた。夢の中では、いつものコンビニのレジ。客が少ない時間帯、スマホで『アイマホ』のイベントクエストを回している。画面の女の子が「先輩、今日も一緒に頑張りましょう!」と笑顔で言う。その声がだんだん大きく、現実に響いてくる…

「…先輩? 先輩? 賢者様?」

「ん…もうちょっと…5分だけ…」

涼は寝ぼけ眼で布団を引き寄せた。しかし、呼びかける声は諦めない。

「賢者様、おはようございます。本日は、予定がございます」

その声は、若い女性のものだが、どこか事務的で、感情の起伏が少ない。涼は、ゆっくりと目を開けた。

ベッドの傍らに立っていたのは、黒髪をきっちりと後ろで束ね、実用的な詰め襟の服を着た女性だった。年齢は二十歳前後か。顔立ちは整っているが、その目には濃い隈ができており、何日も十分な睡眠を取っていないことがうかがえる。背筋はぴんと伸び、手には革製のフォルダーと、何冊か分厚い帳面を抱えている。

「…えっと、あなたは?」

涼が寝ぼけ声で尋ねると、女性は軽く一礼した。

「リナ・アークシスと申します。この国の第一王女であり、現在は父王の代理として、国内の諸問題を担当しております」

(…え? 王女?)

涼は慌ててベッドから起き上がった。が、足が絡まり、よろめきそうになる。

「本日は、私が賢者様をご案内し、我がアークシス王国の現状をご覧いただきます。それにより、今後の…『協力』の方向性を模索できればと考えております」

リナの口調は丁寧だが、どこか距離を置いている。彼女の目は、涼を観察するように、細部までしっかりと見つめている。商品の価値を査定する商人のような、あるいは、実験対象を観察する学者のような視線だ。

「あ、ああ…よろしくお願いします」

涼は、どう返事していいかわからず、とりあえず頭を下げた。王女が自分を案内する? しかも、現状を見せる? ますます、この状況が現実味を帯びてきて、居心地が悪い。

リナは涼の反応を一瞥し、フォルダーを開いた。

「まず、午前中は城下町の市場と税関の視察。午後は東部の国境に近い村を訪れ、農地と防衛施設を確認する予定です。移動は馬車を用います。何かご不明な点は?」

(全部不明です)

涼は心の中で叫んだ。しかし、それを口に出すことはできなかった。代わりに、彼はスマホを取り出し、画面を点けた。バッテリーは80%だ。

「その…道具は?」

リナが興味深そうにスマホを見つめる。

「あ、これは…えっと、故郷の…魔法道具みたいなものです。記録とか、計算に使います」

涼は適当にごまかした。翻訳魔法がどう働くかわからないが、とりあえず「魔法道具」と言っておけば問題ないだろう。

「ふむ。非常に洗練された形状です。魔力の波動は…ほとんど感知できませんが」

リナは一瞬、鋭い目つきになったが、すぐに表情を元に戻した。

「では、準備がよろしければ、出発いたしましょう。朝食は馬車の中でお取りいただけます」

そう言うと、リナはくるりと背を向け、廊下へ歩き出した。涼は慌てて、コンビニのポロシャツの上に、城が用意してくれた質素な上着を羽織り、彼女の後を追った。


城下町は、涼が想像していたよりずっと殺風景だった。

石畳の道は所々でひび割れ、修理の跡が雑に継ぎはぎされている。両側に並ぶ家々も、木材が腐っていたり、壁にひびが入っていたりするものばかりだ。人々の服装も色あせており、表情には疲労の色が濃い。市場はにぎわっているように見えるが、よく見ると売られているのは傷んだ野菜や、痩せた鳥の肉、そしてどこから調達したのかわからない怪しげな薬草ばかりだ。

馬車の中からその景色を眺めながら、涼は思わず呟いた。

「…結構、大変なんですね」

隣に座るリナが、涼の言葉に反応した。彼女の目は、帳面に走るペンの先から一瞬離れ、窓の外の風景を見つめる。

「はい。ご覧の通りです」

彼女の声は、平静だが、その中に微かな諦めのような響きがあった。

「アークシス王国は、百年以上前から、周辺諸国からの交易路から外れています。鉱山も枯渇し、肥沃な土地も少ない。唯一の特産品であった『星銀草』も、十年前に発生した魔獣の大発生によって、ほぼ全滅しました」

ペンが、帳面の数字の列を軽く叩く。

「税収はこの十年で四割減少。それに対し、国境を脅かす魔物の被害は増加の一途。防衛費は膨らむばかりです」

涼は、リナの説明を半分も理解できなかった。だが、彼女の帳面にびっしりと書き込まれた数字、そして窓の外の貧しい風景から、この国が相当に逼迫していることは感じ取れた。

「…大変だ」

彼は、ただそれだけを口にした。

その一言が、リナの耳に入る。彼女はペンを止め、涼をじっと見つめた。その目には、先程までの事務的な冷たさに混じって、かすかな期待のようなものがちらりと浮かんだが、すぐに消えた。

「はい。非常に大変です」

彼女はそう言うと、再び帳面に向かい、何かを計算し始めた。

馬車は税関の前で止まった。小さな建物の前で、痩せた役人たちが、まばらな荷車を検査している。リナは涼を連れて建物に入り、書類の山と向き合う年老いた税関長と短い会話を交わした。会話の内容は涼にはわからないが、税関長の苦渋に満ちた表情と、リナのますます険しくなる表情から、良い報告ではないようだ。

「先月の関税収入、前年同期比でさらに二割減…」

馬車に戻り、リナが低く呟く。彼女は目を閉じ、こめかみを軽く押さえた。疲労の色が、目の下の隈をさらに濃くしている。

涼は、何も言えなかった。自分に何ができる? コンビニのバイト経験と、当たらないガチャの知識で、この国の財政を救えるわけがない。

午後、馬車は城から東へ向かった。道は次第に荒れ、周囲の景色も豊かな森林から、不健康な紫色の苔に覆われた岩場や、枯れかけた木々が立ち並ぶ地域へと変わる。

「この一帯は、『腐獣の森』と呼ばれる魔物の棲家に近いのです」

リナが説明する。彼女の手には、短剣が握られている。護衛の騎士たちも、警戒を強め、周囲を見回す。

やがて、小さな村が見えてきた。しかし、その村は、涼が想像する「平和な農村」のイメージとは程遠かった。

柵の多くが倒れ、家々の壁には巨大な爪痕のようなものが残っている。田畑は広範囲にわたって荒らされ、せっかく育っていたであろう作物は、根こそぎ引き抜かれるか、踏みつぶされていた。村人たちの顔には、恐怖と疲労が刻み込まれている。

村長らしき老人が、リナの前にひざまずいた。

「王女様…また、昨夜もやって参りました…」

老人の声は震えている。

「今度は、西側の畑を…今年の収穫の三割を、一晩でめちゃくちゃにされました…このままでは、冬を越せるだけの食糧が…」

リナの表情が硬くなる。彼女は老人を起こし、優しく肩を叩いた。

「詳細を教えてください。魔物の種類、数、襲われた時刻は?」

「はい…あれは、『岩皮の大猪』でございます。通常は森の奥深くに棲むのですが…ここ数ヶ月、なぜか頻繁に村を襲うようになり…体長は三メートルはあろうかという巨体で、皮は岩のように硬く、槍もなかなか通しませぬ…」

村人たちが集まってくる。彼らはリナに訴える。

「王女様、どうかお助けを!」

「このままでは、村ごと食べられてしまいます!」

「騎士団の方々にも何度か討伐をお願いしましたが、数が多すぎて…」

不安と絶望の声が、村中に響く。

リナは唇を噛みしめた。彼女の手に握られた帳面には、既にこの村への支援予算が限界に近いことが記されている。騎士団も、広大な国境を守るのに手いっぱいだ。この一つ一つの村に、十分な兵力を割く余裕はない。

涼は、その様子をただ見守るしかなかった。現実の、生々しい苦難。ゲームや漫画の中の「魔王軍の侵略」とは違う、小さく、しかし確実に人々の生活を蝕んでいく恐怖。彼は、自分がここにいることの無力感を、強く感じた。

(何もできねえ…俺なんかが、ここにいても…)

その時、遠くから地響きのような音が聞こえた。

村人たちの顔が一瞬で恐怖に歪む。

「来た…! また、来た!」

「大猪だ!」

村の外れ、枯れ木の間から、巨大な影が現れた。毛皮は文字通り灰色の岩のようにごつごつとしており、口からは牙がのぞく。その目は赤く、飢えと狂気に輝いている。体長は村長の言う通り、三メートルは優に超えている。

「護衛! 村人を避難させろ!」

リナが鋭い声で命令する。騎士たちが村人たちを導き、避難小屋へと向かわせる。

大猪は、ゆっくりと、しかし確実に村へと近づいてくる。その巨体が通るたび、地面が震え、枯れ枝がばきばきと音を立てて折れる。

リナは短剣を構え、涼の前に立った。

「賢者様、どうかこちらへ。危険です」

彼女の声は冷静だが、額に浮かぶ一筋の汗が、彼女の緊張を物語っていた。

涼は足がすくんだ。あの巨体。テレビの特撮番組で見るような、明らかに普通の生物ではない怪物。こんなものと、どう戦えというのか? 自分は、体育の授業のマラソンですらギリギリ合格点だったのに。

大猪は、荒らされた畑の脇を通り過ぎようとした。その先には、まだ無傷の貯蔵小屋がある。

(ああ、まずい…あの小屋もやられる…)

涼の脳裏に、ある光景がよぎった。

それは、『アイマホ』の中の一シーンだった。学園が謎の巨大魔獣に襲われるイベント。主人公プレイヤーが、ヒロインの一人をかばい、立ちはだかる。そして、彼女が言うセリフ…

『逃げちゃダメだ…逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ…!』

繰り返す、必死の呟き。それは、恐怖に立ち向かうための、自分自身への鼓舞の言葉だった。

今、そのセリフが、涼の口をついて出ようとしている。

目の前の現実と、ゲームの中のフィクションが、一瞬、重なって見えた。

大猪が、貯蔵小屋に狙いを定め、突進の姿勢に入る。

リナが叫ぶ。「だめっ!」

涼は、目を閉じた。どうしようもない恐怖。逃げ出したい衝動。しかし、足は地面に釘付けだ。

(…逃げちゃ、ダメだ…)

彼は、声にならない声で、心の中で繰り返した。

(逃げちゃダメだ…)

そして、無意識に、そのゲームのセリフを、現実の声に変えてしまった。

「…逃げちゃダメだ…逃げちゃダメだ…」

かすかな、震える呟き。

その声は、風にも消えそうな小さなものだった。

が、その言葉が涼の口を離れた瞬間、周囲の空気が変わった。

翻訳魔法が働く。

微かな魔力の光が、涼の言葉を包み込み、増幅し、そして「意味」を変換する。

それは、この世界の言葉として、空中に響き渡った。

「…退くことを許さぬ…退くことを許さぬ…これ、汝が定められし運命さだめなり…!」

誰に語りかけているのか? それは、涼自身にもわからなかった。

しかし、その「声」を聞いた巨大な猪は、突然、狂奔を止めた。

その赤い目が、涼の方向を――いや、涼の背後にある何か虚空の一点を、見つめている。目に映っているのは、涼そのものではなく、彼の背後に立ち現れた、巨大な「運命」そのものの幻影かもしれない。

「グオオオオ…!?」

大猪は、苦悶の咆哮を上げた。まるで、目に見えない鎖に縛られたかのように、首を激しく振る。そして、突進の方向を変えた。

村でもなく、貯蔵小屋でもなく。

むしろ、村から遠ざかる方向へ――そばにあった、風化した巨大な岩壁へ、全力で突っ込んでいった。

ドッガーン!

鈍い衝撃音。岩壁が揺らぎ、小石がばらばらと落ちる。

大猪は、その巨体を岩壁にぶつけたまま、ぐったりと動かなくなった。目は回っているのか、よだれを垂らし、小さな寝息のような音を立てている。

一瞬、静寂が訪れた。

風の音だけが、荒れた畑を渡っていく。

最初に動いたのは、リナだった。彼女は、構えていた短剣をゆっくりと下ろし、大猪から涼へ、そして再び大猪へと視線を移した。彼女の目は、見開かれている。その中には、驚愕と、深い疑念と、そして…熱い興奮が混ざり合っていた。

「倒れた…? いや、気絶…?」

彼女が呟く。

村人たちが、恐る恐る避難小屋から顔を出す。

「あの…大猪が…」

「岩にぶつかって…?」

「な、何が起こったんだ…?」

彼らの視線は、気絶した大猪から、涼へと集まる。

涼は、まだ目を閉じたままだった。自分が何をしたのか、何が起こったのか、理解できていなかった。ただ、耳に残る「ドッガーン」という音だけが、現実を告げていた。

(…え?)

彼が、ゆっくりと目を開けた。

目の前には、岩壁に頭を打ちつけて気絶している大猪。そして、そのそばで、涼を食い入るように見つめるリナの姿。

「…賢者様」

リナの声が響く。その声には、今までの事務的な丁寧さはなく、鋭く、探るような響きがあった。

「今、あなたは…何をなさったのですか?」

涼は、口を開けた。が、言葉が出ない。何と説明すればいい? 「ゲームのセリフを真似したら、猪が自爆した」?

「それは…えっと…」

彼がもごもごと言葉を探していると、村人たちの間から歓声が上がった。

「わ、わかった! 賢者様だ!」

「賢者様が、あの大猪を退治してくださった!」

「言葉一つで…あの怪物を、岩にぶつからせた!」

興奮が村中に広がる。人々は、涼の周りに集まり、ひざまずき、感謝の言葉を次々と捧げ始める。

「ありがとうございます! 賢者様!」

「これで、畑も守られます!」

「あなたこそ、真の救世主です!」

涼は、村人たちに取り囲まれ、ただオロオロするばかりだった。彼らの熱狂は、彼をさらに混乱に陥れた。

(違う…違うんだ…俺は…)

彼の視線が、リナと合う。

リナは、まだ涼を見つめている。しかし、彼女の手には、いつの間にか小さなメモ帳とペンが握られており、何かを走り書きしている。彼女の目は、観察と分析の色に、ますます深く染まっていった。

(あの目…なんだ?)

涼は、リナの視線に、なぜかそっとした怖さを感じた。他の人々の盲目的な崇拝より、この王女の冷徹な「観察」の方が、よほど不気味に思えた。

「…皆、静まれ」

リナが、静かだが響く声で村人たちを制した。

「賢者様は、お疲れのようです。まずは、この大猪を拘束し、村の復旧に力を貸しましょう。賢者様への感謝は、後ほど改めて捧げればよろしい」

彼女の指示で、騎士たちが動き出す。村人たちも、リナの言葉に従い、大猪の拘束作業や、壊れた柵の修理に取りかかった。

リナは涼に近づき、声を潜めて言った。

「賢者様、少しお時間をいただけませんか? 先ほどのお力について…いくつかお尋ねしたいことがございます」

その目は、紛れもない「研究者」の目だった。

涼は、嫌な予感で背筋が寒くなった。

(まずい…この王女さん、なんか、鋭すぎる…)

彼は、思わずポケットの中のスマホに手を伸ばした。握りしめる。そのひび割れた画面が、唯一の現実との接点のように感じられた。

リナの視線が、その動作を一瞬捉える。彼女のペンが、メモ帳の上をさらに速く走る。

『対象、発動後は「道具」に接触を求める。精神的安定装置か、あるいは触媒か?』

『発言内容:「逃げちゃダメだ」(直訳:逃げてはならない)。効果:対象魔獣の行動強制(自傷行為へ)。強制力の源泉は?』

『仮説:言語そのものに魔力はない。対象の「強い意思」または「願い」が、翻訳魔法により、現実干渉力へと昇華される?』

文字が、次々と記されていく。

一方、涼は心の中で叫んでいた。

(あのさ…あれは、ただのパニックだったんだけど…)

(なんで、みんなそんなに大げさに考えるんだろう…)

(そして、この王女さん、何を考えてるんだ…?)

夕日が、荒れた村を赤く染め始めていた。

気絶した大猪は、がっしりとした鎖で縛られ、運び去られていく。

村人たちは、希望に満ちた表情で働いている。

そして、中心には、訳のわからない力を発揮してしまった少年と、その力を分析し、利用しようと目を光らせる王女がいた。

馬車に戻る道すがら、リナは涼に静かに語りかけた。

「賢者様。本日は、大変ありがとうございました。あなたのお力が、いかに我が王国にとって重要か、痛感いたしました」

彼女は、一歩立ち止まり、涼を真っ直ぐに見つめた。

「どうか、これからも…我々と共に、この国を救う道を探していきませんか?」

その言葉は、丁寧な依頼のように聞こえた。

しかし、涼にはわかった。それは「依頼」などではなく、もはや「通告」に近いものだと。

彼は、うつむき、小さくうなずくしかなかった。

スマホの画面をそっと見る。バッテリーは、79%を示している。

(減ってる…)

些細な変化。しかし、涼には、それが何かを意味しているような気がしてならなかった。

王女は、その様子をそっと目に収め、またメモ帳を開いた。

『新たな観察:対象は、自身の「道具」の状態を頻繁に確認する。魔力の消費に関連か? または、残量のような概念が存在するのか?』

ペンの先が、さらさらと音を立てる。

夕闇が、二人の影を長く引き伸ばしていく。

どこからか、狼の遠吠えのような声が聞こえる。

王国の危機は、まだまだ終わっていない。

むしろ、それは、ようやく幕を開けたばかりだった。

誤解と期待と、たった一つの偶然が紡ぐ物語は、これから、さらに加速していく。

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