7.怖がらせるためにやったんだ 後編
パチッ!
玄関近くから異様な音が聞こえた。金属になにかが弾くような音。畳み掛けるようにして頭上からそれを感じたので、見上げたもののなにもない。骨に響き渡るような、そんな深部から周りに伝う音が鳴っていた。
生霊はまだ、凛子の上で項垂れている。邪魔で凛子の様子が良く見えないが、大丈夫なのだろうか。
凛子は立ち上がって、早優の向かいにあるキッチンに入り、突き当たりにある冷蔵庫の上の戸を開いた。生霊の姿が薄くなり、その後をつけるようにして凛子の背後へと姿を現した。
凛子には見えない姿なきストーカー。このままでは原因不明の体調を崩して、最悪の場合は死ぬかもしれない。この恨んでいる人間は、その恨みがやがて自分に返ってくることを考えているのだろうか。
「なんか飲む?」
「いいの?」
「いいよ。お茶と炭酸しかないけど」
「じゃあ、炭酸がいいな」
冷蔵庫の戸を開き、中から炭酸ジュースを取り出した。キッチンの内側の出入り口そばにある食器棚、上から三段目にあるコップを取り出し、そこに注いでいた。
ピロロロロ、ピロロロロ。
音に反応して、早優は振り返る。正面の窓の右角、電話台の上に置かれた固定電話が鳴る。表示を見ると、非通知になっていた。凛子を見ると、恐怖で顔が歪んでいる。冷や汗が出ているようにも見えた。
生霊は、凛子の背後にまだ立っている。
早優は電話を取って、耳に当てた。ホワイトノイズが続く。その奥に意識を傾け、じっくりと耳を澄ませ見ても、僅かなノイズが鳴り響くのみ。今一瞬、早優の耳元に音が届いた。
生活音のようだ。なにかがバタンと閉まる音だ
「誰?」
両耳から聞こえる声に、ビクッと体が跳ねてしまう。振り返ると、そこには生霊が不気味な笑みを浮かべて早優の真後ろに立っていた。
「どうしたの?」
心配した凛子が、生霊と重なる位置に近づいてきた。本人がなにかしら感じたのかわからないが、生霊の左隣に移動して、早優の顔を覗いてくる。
「大丈夫、気にしないで」
恐怖から一転して、眉間にしわを寄せた凛子。早優の受話器を奪い取った。
「いい加減にして!」
しばらくの沈黙の後、受話器が手から滑り落ち、腰を抜かした。
「いや、なにっ」
早優は、受話器を耳に近づけた。
なにかが聞こえる。さっきの″誰″という言葉とは全く別のもの。今にして思えばそうだが、誰という声は明らかに凛子だった。電話をかけた何者かは、この部屋にいる。
この部屋の音は左耳が音を拾っている。その左耳は、誰かの話し声などを一切拾っていない。ただ、早優の真後ろに立っていた生霊は口を動かしていた。
死んで、死んで、死んで。
その声は受話器から聞こえる。この生霊が言っていた。受話器を通して発している。
早優の体からまた出現した紫苑は、生霊の隣に立った。
「お前さん、単なる霊やないなぁ。そこら辺の幽霊に出来る芸当やない。一体、なにしはったん?」
早優は紫苑の横顔を見る。
「誰かいるの?」
凛子から、そう声を発せられた。目を遣ると、怪訝な顔をしてこちらを見ていた。
「隠してたわけじゃないんだ」
「見えるの? あなた」
「うん」
顔の表情は一切のネガティブを孕んでいなかった。神妙な顔をして俯いた後に、顔を上げた。
「それでさっき」
「茶化してないって言ったでしょ?」
「うん」
「軽蔑されるかと思ったけど」
「思わないよ。霊が見える人は、うちの友達にもいたし」
そうか、と思った。凛子には、単に霊感が強いとだけしか見られていないようだった。細かいことを言えば単なる霊感だけではないのだが、わざわざ話さなくてもいい。
なにかいるということを知られただけなのなら、もう気を遣わなくてもいい。
「普通の幽霊じゃないって?」
紫苑はこちらを向いたが、すぐに生霊に戻す。
「うちにもわからん。お前さんはなんやと思うてる?」
「生霊」
「生霊でこんな力まである思うとるん?」
「そういう霊もいるんじゃないの?」
「妖怪が使う妖術のレベルや。確かに、この世には物を動かしたり、他人に憑依したりすることも出来る幽霊はおる。しかしなぁ、こやつはその電話を使うて自分の言葉で話しはっとる。並の霊がここまで出来るかぁ?」
「それほど恨みが強いとか」
「恨みで出来るんやったら、人でも出来る。それを呪術言うとるんやったな?」
その言葉で、頭に電流が走った。
テレビで見るような映像は、大半がフェイクである。そこに幽霊が映っていたり、霊の声が聞こえて上で薄い人間が襲ってきたり、痩せこけたおかしい肌の色の霊が隣に映り込んでいたり。
大袈裟に見せた演出。インパクト重視の映像だが、それに匹敵することがここまで起きている。普通ではない。
「そうだね。でも、生霊っていう考え方には変わらないな」
「なら、確かめなはれ。うちはこやつを見張っとる」
生霊の大半は、目的がしっかりとしている。愛を持って思っているのであれば、その対象を守っている。誰かを睨みけるなどの行動を取り、影響を受けた人間はなんとなくその人が嫌いになるように仕向け、近づけないようにする。
呪いをかけている場合は、その人になんらかの体調不良や思考回路の歪みを生じさせ、恨まれていることを気づかせて追い込んでいく。
人間本来の魂がまだ体とともに存在しているため、五感など作用が一切効かない。それがもし可能なのであれば、生霊としてと飛んでいった半身が見た光景を見たことになる。
なので、喋ることも出来ないのが大半だ。
電話を通して話すことが出来ている時点で、生霊ではないとも言えるのかも知れないが、出来ないことが出来ている。正体不明である以上、その過程で進めていく。
「なんて言ってるの?」
凛子に突然、話しかけられた。
「聞きたい?」
膝を立てて自身の身体を腕で温めた。
「やっぱり良い。聞きたくもない」
「なにも喋ってないよ」
「嘘。電話から死んでって言ってたし」
「今まで喋ってたの、私に憑いてる霊だから」
表情に明るさはないものの、瞳の奥には輝きがあった。
「自分の?」
「そう」
「なんて?」
「うーん、まぁ生霊だと思うって」
急に暗い顔をして、そのまま俯いてしまった。
「心当たりあるの?」
「別に」
「話せないこと?」
凛子は黙ったまま、ソファーに座ってテレビを見始めた。