14.どうしてここまでなった
視界は寝室。ベッドが見える。
きっと楓の家なのだろうが、今度はキッチンではない。ここはリビング以上に荒れ果てている。
ダブルベッドには血が滲んでおり、枕の綿は全て抜かれて飛び散っていた。点滅はしないしっかりと光る赤いライト。右手にクローゼットがあり、左角にはこの部屋の扉。ベッドの足先に洋服箪笥があるが、引き出しは乱暴に開けられている。服や下着が溢れ出て、床に散乱していた。
精神的に疲れてしまった。少し休む為に、壁に背中を預ける。
ここから出る算段はないのだろうか。一体ここはどこなのか。紫苑ならなんと助言してくれるだろうか。今の頭で思いつく対策など、なにも生まれてこなかった。鬱蒼とした感情に追い打ちをかけるように、殺された過去が頭をよぎる。こうしてじっとしていても殺されるだけだ。そんなのは嫌だ。
涙があふれそうなところを、誤魔化すようにして辺りに意識を回した。すると、洋服箪笥から吹き飛ばされたであろう額縁が床に転がっており、ガラスの破片と中の写真が落ちているのに気がつく。
残った四肢を上手く使って、そこに近づく。黒く雑に塗りつぶされた写真で、顔だけが重点的に攻められていた。黒く塗りつぶした残り香があるものの、その上から穴で開けられていた。
断片的な情報を頼りにすると、海でのデートの一面を撮影したものだろう。背後の青い空や、下面から覗く砂で察せられる。
リビングと夢の光景を照らし合わせると、楓夫婦と見て間違いない。宗司はどこまで卑劣な術を使ったのだろうか。
そもそも何故楓の家が、こうした異常な状態になっているのだろう。この空間は、現実にある楓家とはまるで違うかもしれないが、だとしたらその家を模倣した別の空間ということになる。そう考えてしまったら、さらに雲行きが怪しくなってきた。出られるのかどうか、本気で分からなくなってきた。
外から階段を上がる足音が聞こえるので、咄嗟にベッドの下に隠れる。クローゼットでもよかったと少し後悔したが、だからと言って今から出て移動することは危険すぎる。
そんな最中、例の悪霊が中に入ってきた。薄くなっている薄汚れた足元が見える。
その足はベッドに突き進み、頭上が軽くバウンドしたように感じた。
最悪な事態。心臓が口から飛び出そう。同調してく呼吸に勘づかれそうと考えるだけで、さらに不安が加速していく。落ち着け、不安になっては駄目だ。ここから出るためにも、虚栄でいいから自分に暗示をかけられる強さが欲しい。なんとか紛らわせようと、別の事を考えた。
宗司の事を思い出すと、だんだんと怒りがわいてくる。それと同時に凛子の事が再生されていくと、ふとあることに気づいた。
決まってあの霊たちは、存在が強い黒になっていった。凛子の事件の時に、天井から姿を現したときは灰色になっていたが、その変化もない。
当然、最初に冷蔵庫を開けて漁っていた時も、黒くなっていたので確信がある。それなのにこの空間にいるあの霊は、足元でさえ黒くなっていた外見が色を取り戻してきている。これはなにかしらの変化があったとみていいだろう。
元の悪霊である、封印されたあの存在と同居しているわけではない。であるならば、今ベッドで横になっている存在は誰かという話だ。あの夢が夢でなくて、あの霊と同調していたのだと仮定すると、やはり楓を恨んで宗司に呪い代行をしてもらった結果と言えよう。
だとすると、本人であるのは間違いない。ともかく、傷をつけたことによってなにかしらの変化が現れたとするなら、以前より力が弱くなっているはずだ。
だからと言って恐怖が下がったわけでもなく、足がない以上返り討ちにするということが難しい現実は変わらない。
ベッドの上から寝息が聞こえる。寝たのだろうか。出ることはとてもじゃないが、足が竦んでしまってろくに動けもしない。寝息を演じておびき寄せている、ここから出たとしても殺される、出ようとしたところを覗かれて殺される、そんなあらゆる妄想が恐怖を掻き立て、体の力を奪っている。
このままここにいたらなんとかやり過ごせないだろうか、そんな甘い誘惑がよぎった。
実際に経験した、嘉成家にいたときの次期当主の特訓を思い出す。毎日毎晩修行を強制され、自由がない環境で断食もあった。毎日のように”私はこれを乗り越えた””必要だからやってる”と言われ、出来なければ真っ暗な部屋に閉じ込められる。
どんなに泣き叫んでも許されず、あの嫌な押入れと湿気の匂いを思い出すだけで、食事が喉を通らなかった。それを克服して、今ここに立っている。花蓮もいる、一茂もいる、明るく幸せな生活がある。本来手に入れられるはずもなかった環境だが、助けられた以上は生きていくしかなかった。
だからこそ、これも乗り越えなければならない。
そう気合を入れたら、体がなんとか動き出した。ガラスの破片が飛び散っていない床を、寝室の扉側に移動できるようベッドの下から這い出て、恐る恐るベッドの上を覗いた。こちらに顔が向いていて、思わず頭を下げてしまったが、アクションすらない。再び視界に入れると、目が閉じていることははっきりと理解できる。不思議だ。肌は荒れて、何日も風呂に入っていないような髪だが、確実に人間の霊だということが今はわかる。
起こさないように注意を払い、這って扉まで移動した。見事に成功する。
正面は手すり。右は行き止まりで、左には道が続いている。手すりを掴んでそっと立ち上がり、寝室を覗いた。布団の盛り上がりを感じるので、起きてないと言えるだろう。
手すりに介護してもらって進んでいき、右折した道を進む。一室を無視して、壁に沿った階段を下りた。正面に玄関が見える。
その扉まで壁を伝って行き、ドアノブに手を掛ける。そっと押してみると、やはりびくともしない。のぞき穴から向こう側を見ても、暗闇で一切の風景がない。扉は完全に飾りと言えよう。絶望しそうになったが、必死な気持ちであらがう。常軌を逸した空間なのだから、玄関ではない場所から出る方法があるのではないか。
振り返って、リビングに向かう。カーテンを探さなくてもすぐに見つかる。テレビの背後だ。壁を伝ってソファーまで向かう。背を支えにした後、床を這ってカーテンまで向かった。開かずにめくって体を潜り込ませ、窓のクレセント錠を開ける。
動かそうとしてみたが、動く気配がない。ここでもないようだ。鍵を閉めてカーテンから出る。あの霊はいない。張り詰めた緊張は収まることがないが、未だ行動できている。リビングを出て、階段の付け根にある扉に向かう。その部屋に入ると、洗面所になっていた。左に風呂、突き当たりにトイレがある。
洗面台の扉も開けっ放し。洗濯洗剤や柔軟剤などが倒れ、鏡は割られていた。魂だけになっている早優は、そこに写ることはない。排水溝は女性物と思われる髪で入り口が詰まっており、歯ブラシや歯磨き粉などが散乱している。トイレなど見たくもない。窓もないからいいだろう。
風呂を開くと、ここはそこまで汚いわけでもない。水を使えば流れる、という形式だけは通っているようだ。ただ、物は散らかっている。音を立てないように足場を探すのは、神経が張り裂けそう。慎重に隙間を縫って足をかける。窓があったので、そこのクレセント錠を降ろして開けようとする。これも失敗に終わった。
めげないという気力も、恐怖と失敗が混ざり合ってダメージが尋常ではない。風呂から出るか、と段差に足をかけた刹那、爪先から着くあの足音。ギィという音が鳴らないものの、擦り足は鮮明。風呂の扉を慎重かつ大胆に閉め、カラカラな浴槽の中に閉じこもった。風呂に入られれば死は免れない。
息をひそめ、浴槽の蓋の内側を仰いだ。最悪なことに、洗面所の扉を開かれる。そのまま風呂に入らずに通り過ぎてほしい。そう心の底から願った。
その祈りが通じたのか、通り抜けてトイレに入っていく。これ以上にホッとしたことはない。ただ、まだ油断はできない。今の状態で出たとしても確実に音で気付かれる上、トイレからすぐ出てくる可能性は大いにある。トイレに出た後、数分くらい待ってから洗面所を出るのが妥当だろう。
背中側から水が流れる。トイレの扉が開かれ、水道の蛇口が動かされた。勢いよく水が流れ出し、その勢いを不定期に遮っている。そのまま洗面所から出ていった。
声にならない安堵の息。
しかし、この霊は到底狂っているように思えない。恨んでいる人間の家とは言え、日常生活を普通に過ごしている。如何せん心がわからないという状況が深刻ではあるものの、少しばかり意外だった。部屋の状況をみる限り、その異常性が垣間見えていた。そして、音を駆けつけて真っ先に襲ってきたところからも把握ができる。それなのに関わらず、である。
間違いなくそこら中にある血は、あの生霊が垂らして歩き回ったせいだろう。腕を切られた二人の亡霊が隠れるために荒らしたか、争った時に荒らされたかで出来たことだと推測は出来るが、問題はそこまで苦しむほど生霊から逃げ回っていたということだ。
今もその気持ちがよくわかるほどで、その時と大した差がないはずだ。元から異常性はあるものの、日常生活を普通に送っていたとでも言うのだろうか。つまり、早優が見るあの生霊と、楓の旦那と息子が見ていた化け物は全く同じものなのか、ということだ。
人形の中だとあの女性の姿になるのか、化け物の姿なのままだったのか。もし後者である場合、化け物に傷をつけたことで、なにかしらの変化があったからこそ女性の姿でいるということと言える。早優の感覚では後者だと信じているが、今となっては確認するすべはない。
”そういえば”と頭に一筋の光明がよぎった。
あの二人の亡霊は、この空間からどうやって抜け出したのだろうか。麗乃や早優があの空間から出したわけではなく、自ら率先して逃げてきた。即ち、ここから出る方法があるということだ。
玄関でもリビングの窓でも、はたまた風呂の窓でもない。二階に隠されていると考えるのが自然だ。なにかヒントはなかったか、懸命に頭を巡らせた。麗乃が人形を持って悪霊と対面した事がパッと思い出される。あの時、人形の中に入って寝息がはっきりと聞こえたということは、出入り口が寝床に近いところにあるかもしれない。
寝室の窓だ。それに賭けよう。あの霊はトイレを済ませてからしばらくが経っているはずなので、ここから出ても問題ないはずだ。
浴槽から出て、ゆっくりと蓋を閉める。同じ調子で洗面所から出て、壁伝いに階段を目指した。




