3.境界扉という能力
そのまま家を出て、坂を下っていく。昨日の自販機の近くまで来た。あの幽霊はまだいる。こちらの存在に気が付いて、顔だけを向けている気がした。太陽は出ていて、傍では風を切った車が通っている。
昼間だろうが夜だろうが幽霊はいる。
丑三つ時などという言葉があるが、あれはほぼデマに近い。おそらく、太陽が出ているときは人々の活動時刻であるから、霊障など起きたところで誰かのせいと済まされやすいだけだろう。深夜の二時三時など、一番人が活動していない時刻ではないかと考えたら、その通りなように感じていた。
蹲る男の目の前に立ち、男と目が合わせる。その場所から移動したり、立ち上がることはしないのだろう。出来ないのかどうかはわからない。もし後者である場合、もう既に幽霊になってから随分と時間が経っている可能性があり、場合によっては喋る内容も単調になる。受け答えをすることができず、死んだ時の思いだけを呟く存在になる。
「話せる?」
「やっぱり見えてたのか」
昨日ははっきりと喋っていたため、後者の可能性は低いだろうとは思っていたが、あれから半日は経っている。そこである程度の変化があったとなると、少しばかり面倒が増える。
「聞かせてよ。なにがあったの?」
座ったまま右手を伸ばして、ガードレールの先を指さした。
「そこで轢かれたんだ。猫が飛び出したところに車が来て、ドンッと」
「猫?」
「ああ。黒猫だよ。ここは丁度カーブだろ? だからな」
「成仏したい?」
「それよりも、その猫が無事かどうかが知りたい。突き飛ばしてしまったからな」
「それを調べれば満足する?」
「ああ」
「ちょっと失礼するよ」
蹲る透けた男の足に靴のつま先を同化させ、右目だけを閉じる。男の持っている記憶を見た。
真っ暗な夜。左手に自販機が見えるところから察すると、早優が住んでいる寺に向かう方向で歩いていたようだ。後ろから道路を突き抜けるライト。
丁度自販機の前を通ろうとしたときに、その前を黒猫が横切り、ガードレールの下を潜り抜けた。黒猫に思わず目が行ってしまっている。道路を踏みしめるタイヤの音が右耳には入ってきており、車のライトを視界に感じる。このままでは確実に車に衝突してしまう。
男は反射的にガードレールを乗り越え、黒猫を押し出そうとしたその時、車の下敷きになった。視界がぐちゃぐちゃになって体の上を通り過ぎ、道路の上で体が転がされる。狭い視界に映し出された光景は、車の後部座席だった。白いスカートにサマーカーディガンを羽織った女と、肌色のチノパンツに黒の半袖Tシャツを着た男が飛び出してきて、男の顔を覗いている。
女は後ろで突っ立っていた。
「おい、大丈夫か!」
「どうすんのよ!」
遠ざかる声。意識。ここで絶命しているようだ。
「相当痛かったね」
痛みは伝わってこないが、男の目を借りて見た映像で十分察せられた。
「聞くな」
「ごめん」
「で、どうだ。できそうか?」
「やってみる。時間かかるかもしれないけど」
「いいよ。ただ、早めにな」
うなづいて、その場から立ち去ろうとする。
「あ、それと」
振り返ると、男は立っていた。
「家族に伝えてくれないか。幸せにできなくてごめんなって」
「愛してるじゃなくていいの?」
男は黙ってしまっている。
「頑張ってはみるよ」
その足で、自宅へと戻った。
・ ・ ・
自分の部屋のベッドに腰をかけた。
深い溜息が出る。ここからが問題だ。どうやってその轢き逃げ犯を探すか。宛などない。当然、花蓮には相談もできない。絶対に反対するからだ。
そんな時に、早優の部屋に黒猫が入ってくる。隣に座ると、黒い霧を纏ってあの妖狐が姿を現す。狐の尻尾や耳をしまってはいるものの、妖狐であるのには間違いない。少しばかり距離を取った。
「酷いなぁ。えらく嫌われとるようやけど、そこまでのことしたか?」
早優は黙ってしまう。
「協力してもええよ?」
「遊んでるのに?」
「そうやで。それが頼りなるかはわからへんけど」
「ほら」
くすくすと笑う。
「お前さん面白いなぁ、やっぱり」
こちらに顔を向けて、悪戯な笑みを浮かべる。すっと視線をそらした。
「一人で頑張るのもええけど、本当に出来るん? 退魔刀が無くなってもええ言うんやったら、あんな霊ごとき無視したらええのに」
「あんな霊ねぇ」
「おやおや、なにか口を滑らせたか? 別に隠してるわけやないんやけどな。お前さんが聞かないだけやし」
「あんた、それわかってて」
「はて、なんのことやろか。ちゃんと聞かんとわからへんで?」
「まぁ一応聞くけどさ、あの男の人が轢かれた時、助けられた猫はあんた?」
「どう思う?」
「あんたならもうこれで話は終わり」
またくすくすと笑う。
「それやったら面白みがあらへんなぁ。自分の力で証明してみぃ。力を貸してやってもええよ? なんでも言うてみ?」
「バックぐらい出来るでしょ。本物の猫じゃないし。わざわざ飛び出したの?」
「はて。また人を不幸にしてしもうたんか、うちは。罪な女やなぁ。そうは思わへんか?」
我慢できずに早優は掴みかかる。当然、相手は霊体ではあるので、掴みはしない。
「答えろ!」
黒い霧に変化して、すぅっと早優の体をすり抜けていく。後ろ側に逃げたので振り返った。正面で悠々と座っている。
「荒々しいなぁ。せっかくの美人が台無しやで」
「それおっさんが言う台詞でしょ」
感情の隅にこびりつく、くすくすと厭らしい笑いをこぼした。
「あんたに構ってるだけ意味ないな」
顔をそむけ、膝に肘を乗せて地面を仰いだ。
「悲しいなぁ、そんな落ち込まれると。うちまで悲しくなるわぁ。力貸す言うとるのに、なぜこんなに嫌われてしもたんか。お節介やかんと信じひんか?」
ごちゃごちゃうるさいな、と心の中で思う。
「自己紹介がまだやったな。うちは紫苑。よろしゅう」
俯いたまま答える。
「それ本名?」
「さぁなぁ。どう思う?」
「どうでもいいよそんなの」
「冷たいなぁ。うちはそんなに印象悪いか?」
唸って顔を起こす。
「わかったよ! どうすればいいの? これでいいでしょ?」
満面の笑みを浮かべる。
「その調子その調子。そうやなぁ、まずは話を聞かせてくれへんか?」
男から聞いた話を全て伝える。
「ほう。お前さんを見つけるまで、ここいらを散策しとったんやけど、黒猫など見かけたことはあるなぁ」
「ほんと?」
「やけど、特徴とか覚えてへんの? 思い出せる範囲でええで」
「うーん」
あの現場を思い出す。真っ黒な猫。瞳の色は、横切った瞬間でしかわからない。確か黄色か青。自信はない。
「お前さん、あの男とずいぶん距離を取っとったんやなぁ。無理矢理でも成仏させたほうがええんとちゃう?」
「うるさい!」
拗ねるように、早優は言う。またくすくすと笑っている。
「その様子やと、首輪をつけてるようでもなかったんやな。人の玩具でもなかったようや」
「おもちゃって。そんな酷い扱いしてないよ」
「なにを想像したん? 動物を飼うということは、そういうんやないの?」
こういう意地の悪い言い方をする人だというのはわかっているものの、やはり慣れないものがある。いちいち反応していては無駄だと思い、無視をする。
「悪かった悪かった。お前さん、案外繊細なんやなぁ。そんなんで幽霊の話なんて聞けるん? ほんま大丈夫なん? そのうち壊れてまうかもしれへんぞ」
「だから」
と、言いかけたものの、こんな相手に話したくもない。
「ほう、なにか理由がありそうやな。まぁ聞かんとこう。精々頑張るんやで」
再びあの嫌な笑い方をして猫の姿に戻り、早優の部屋から出ていった。妙に疲れた気がする。大きなため息が出た。
思いを腰を上げて、紫苑から少し遅れて早優の部屋を後にした。