最後の一滴が落ちるまで、ここにいようと決めていた。
「俺ならそんなつまらん生き方したくないけどな」
一瞬、どこから放たれた声か理解できずエプロンを結ぶ手が止まる。
見知らぬ顔の男の子が事務所の備品を取りに来たようだ。私たちと同じ黒のエプロンを着けている。
つまらんとはまた……初対面で言われるような台詞ではない。当然私は気分を害した。
カフェ【宿り木】でバイトを始めて一か月ほど。シフトに入る準備をしながらユリ先輩と進路について話をしていた時のことだ。
「浅見君!盗み聞きはよくないぞ~。いいじゃない人生の目標なんて人それぞれなんだから、安定した生活をしたいのだって充分立派な考え方だよ?茉莉香ちゃん、気にしなくていいからね?この子いっつもこうなんだから」
浅見君と呼ばれたその人は「ハイハイ」と適当な返事をしながら店内に戻って行ってしまった。
「あ、彼とは初めましてか。浅見秋君っていって、茉莉香ちゃんのひとつ上だよ。高校生の時からバイトしてるから、もう3年近くになるね。ちょっとお休みしてたんだけど、昨日からまた出勤してくれてるの」
言いながら入店のタイムカードを差し込む。壊れそうなほどガチャガチャ鳴りながらカードに出勤時間が印刷される。今時こんなに古めかしいタイムカードを使っているところは他にあるのだろうか?私も同じ動作をして、店内に入っていく。
おやつには遅いし晩御飯にはまだ早いこの時間の入客はまばらだ。と言ってもこの店がそう混雑することもないのだけれど。
片田舎の大きい通りから更に小路に入り込んだところにある、古い住宅街に突然現れる小さな店。
カフェというより喫茶店のような店構えは、よく言えばレトロ、悪く言えば古めかしい。でも、古いものが大好きな私にとっては夢のような場所だ。
ユリ先輩のおじいさんの代からずっと変わらず続いているこの店で働けるのが嬉しくて嬉しくて、出勤日は毎回うきうきだったのだけど……
こんな口が悪くて不愛想な人と一緒に働かなきゃいけないなんて。聞いてないよユリ先輩……
「浅見君、ユリと茉莉香ちゃん来たから上がっていいよ。おつかれさま」
ユリ先輩のお父さんが洗い物で濡れた手を拭きながら浅見君とやらに話しかける。
よかった。今日のところは一緒にならずに済むようなので少しほっとした。
「はい。ありがとうございます。じゃあ、これだけやったら上がらせてもらいますね」
そう言って、手際よく薄茶色の紙ナプキンを斜めにくるっと丸めてテーブルやカウンターのナプキン入れに補充していく。悔しいけれど見事な手さばき、綺麗にかわいらしく収められた紙ナプキンに思わず感嘆の声をあげてしまう。
浅見君はそんな私を一瞥して、何か言いたげにゆっくり目線を外すとそのまま残りの紙ナプキンを片手に、話をしているマスターとユリ先輩のところへ行ってしまった。
「では、お先に失礼します。お疲れさまでした。」
仕事とマスターに対してはちゃんとするのね。まあいいわ。きっと人見知りとか、女の子が苦手とか、そういうやつでしょ。
いや待って、ユリ先輩にも挨拶してたな……?私だけ……?
これは考えても意味ないやつだ。溜息と共に頭をゆるゆると横に振っていやな気持を追い出してから、仕事に取り掛かる。
明日もバイトあるんだよね。明日も一緒にならなければいいけど。後でユリ先輩にシフト聞いてみよう。
洗い終わった黄色と赤の花が描かれたグラスを拭きながら、そんなことを考えていた。