そうまでして、おれを放そうとしないとか!
朝晩に爽やかさを感じるようになった10月に入ってすぐのことだった。友坂は歯痛に悩まされ、2年ぶりに山田歯科医院へ通うことにした。
いざ足を運んでみると診察中の先客はおろか、待合室にさえ患者の姿が見えないのはどういうことか。以前は大勢の患者でごった返し、予約をねじ込んでもらうのは至難の業だったのに……。
おかげでさほど待たされず、治療を受けることができた。
山田先生に口腔内を診察してもらったところ、長期的な治療になると念を押された。歯周病が進んでおり、そのケアに時間をかけなくてはならないとのこと。
あいにく仕事は多忙を極めていた。友坂はオフィス製品のルート営業をやっており、既存企業を巡回している。タイトなスケジュールをこなしていたが、この際だから根本的に治してもらうべきである。
というわけで先生に従うことにした。
週に一度、夕方18時前後に予約を入れてもらい、山田歯科医院へ通うのものの、いつ行っても友坂の前に先客はいないし、治療を終えて待合室に出てきても、次の患者すら待っていない。
ふしぎに思いつつ、受付で次の診療予約を入れてもらった。ところがこちらが希望する日時は、ことごとく他の患者で埋まっているという。
毎回こんな調子だった。
仕方なしに受付の指定した日時に従う友坂だった。
◆◆◆◆◆
山田歯科医院の外観はコンクリート造りの直方体である。隣接する形で、山田先生の立派な邸宅が建っていた。これもモダンなデザインだった。二世帯住宅らしく、最上階に年老いた夫婦の姿を見たことがある。診察室のフロアから両親の部屋へ行き来できる構造になっているようだ。
開業されたのはかれこれ20年近く前だった。できた当時は患者であふれ、またたく間に口コミが広がり、他県から訪れる人もいたほど。ある意味、歯科御殿といってもよかった。
自宅1階は駐車場になっており、ドーベルマンがうずくまるかのようにSクラスのベンツが突っ込んであった。
山田先生はメガネをかけ、細身で、いかにも頭の回転の速そうな人物だった。60前後だろう。ときどきユーモアを交え、治療中の内容もわかりやすく説明してくれる。とてもプライベートでは黒いベンツを乗りまわしているとは思えないほど、腰の低い人だった。
受付の担当者は、これも先生と同い年ぐらいの上品な女性で、山田先生との会話するときの親密さから察するに、恐らく奥さんにちがいあるまい。若いころはさぞかし美人だったであろう面影が残っている。仕事にはいっさい私情を挟まないタイプに見えた。
助手の女性は美人さん。スラッと背が高く、冷たい感じの30代前半で、ほとんど口を利かない。受付のおばさんとどこか顔立ちが似ていた。先生と会話するときも、一定の距離があることから親子ではないようだ。
友坂はひそかに思った。彼女が助手として採用されたのは、単に先生の好みのタイプだからのような気がした。
なまじきれいな女性に口の中をのぞかれるのは恥ずかしく、こんなシチュエーションの場合、あまり嬉しいものではない。
山田ではこの三人だけで切り盛りしていた。
◆◆◆◆◆
ネットで検索したところ、山田歯科医院は評判が悪いわけでもなさそうだ。
逆に近隣に、さらに人気のあるライバル歯科医院があるということでもないらしい。しょせん過疎高齢化が進む人口30,000にも届かない地方都市である。歯医者そのものは十指に満たないとはいえ、積極的にSNSに書き込む人も少ないのかもしれない。
ためしに同僚や客先で、お気に入りの歯医者を教えてくれないかと聞いてみた。みんなバラバラの名前をあげるばかり。
調べてみたかぎり、特定の病院が一人勝ちしているわけでもないようだ。むしろ誰も山田の名をあげなかったのは腑に落ちなかったが……。
山田で治療受けたことあるか? どんな印象だったか?と追及してみた。
何人かは通ったこともあるようだが、可もなく不可もなく、やや料金が高いかな、との歯切れの悪い感想を得た。これといって嫌われている理由もなかった。
日本はコンビニより歯科医院の方が多いと言われている。新たな開業医が現れ、腕がよければそちらへ患者が流れることもめずらしくない。治療期間が短く、料金も安ければなおよしだろう。
去年まで天下を謳歌していたのに、新参が現れるだけでとたんに潮目は変わるのは非情とも言えた。どの業界もそんなものだ。それほど客は移ろいやすい。
たしかに山田は、ひと通りの治療を終えるまで軽く3カ月は引っ張るうえ、料金もそこそこするのはネックだった。わずか10分の治療で2,000円以上かかるのは適正な料金なのか。全国同一の点数表に従っているはずなのに、領収書には点数明細が記されていなく、単に合計金額が印字されているだけだった。
とはいえ先生の腕はまんざら悪いわけではない。
設備も地方では整った方にちがいない。エアタービン(ダイヤモンドコーティングされたドリル)で歯を削っても痛くないようにしてくれるのが救いで、だからこそ友坂は利用してきた。詰め物や、義歯がはずれたこともなかった。
なぜこれほどまでに、山田歯科医院は閑古鳥が鳴くほど落ちぶれたのか?
考えられるのは、先生の人柄だろう。患者に対し高圧的な人だったり、あるいは新人助手の女の子に罵倒する他の歯医者を何人か見てきたなか、山田先生は腰の低い人物だった。このセクハラ・パワハラがご法度の時代だ。スタッフを邪険にしているようには見えない。むしろ美人の助手の方がツンとしているぐらいだ。
友坂のように急な痛みを訴え、飛び込みで診察を受けたとしても、先生は真摯に耳をかたむけ、すぐに対処してくれた。むしろ好感を抱いたほどなのだが……。
◆◆◆◆◆
何度か通院しているうちに、予定外の残業が入り、どうしても予約の時間に合わせられないときがあった。
先方に迷惑をかけるといけないので、早めに電話をかけ、予約のキャンセルを申し出た。
次回の予約の希望日時を指定するのだが、それもすでにふさがっていると断られる始末。仕方なしに受付の奥さんが指定した日時を受け容れるしかなかった……。
いやがうえにも疑念を抱かずにはいられない。
いつ行っても患者の姿を見たことがないのに、予約で埋まっているとはこれ如何に?
平日、勤め人が仕事を終え、集中するあろう時間帯――つまり17時から予約受付ギリギリの19時までの間は、歯科医院にとっては繁忙期のはずである。
少なくとも2年前の山田歯科医院は、そんな状態だった。車5台が停められる駐車スペースでは、車がひっきりなしに出入りしていたのに……。
いつ行っても、誰もいない待合室。
友坂は一人、長椅子に座り、摺りガラスから入る白い光を見つめる。
駐車スペースに車が1台たりとも停まっていなかったとしても、近くの住民は徒歩や自転車、バスで通うだろうから、必ずしもそれが目安にならないが……。
予約を18時に入れているのに、15分前に着いても、「友坂さん、どうぞ」と、なぜか前倒しして診察室に招き入れてくれる。
治療を終えて出てくると、約束の18時だったり……。もはや予約している意味がない。
まるでこの世には友坂以外の人間は滅び、友坂御用達の歯科医院になったみたいだと錯覚さえ抱くようになる。毎回、待合室をはじめ、3つある診察台にも患者の姿はない。
肝心の山田先生も忙しそうには見えないし、美人の助手も手持ち無沙汰にしていた。
受付の奥さんも、小さな事務所に腰かけ、こけしみたいに微動だにしなかった。
いつしか年の瀬にさしかかっていた。
治療を終え、受付で清算するときですら、玄関から誰も入ってこない。それどころか電話もかかってきたタイミングとかち合ったことさえないのはどういうことなのか。
こんなに患者がいないのなら、希望の日時の予約をすんなりと入れてもらえそうなのに。
なのに、受付の奥さんと来たら、申し訳なさそうに次の予約は1週間後の、ごく限られた曜日しか空きがないと録音テープが暗唱するようにおっしゃる。
◆◆◆◆◆
診察台の椅子に仰向けになって口を開け、超音波スケーラーで歯石を取ってもらっている最中だった。
コップの水で口をゆすいだとき、友坂は先生に疑問をぶつけてみた。
「先生――こんなこと聞くのは差し出がましいんですが」
友坂はハンカチで口もとを拭いながら言った。
「どうされました? 僕と友坂さんの仲じゃありませんか。遠慮なさらず、なんでもどうぞ」
山田先生はマスク越しに笑ったので、友坂は思いきって切り出した。
「なんでここ最近、僕以外に患者さんがいらっしゃらないんですか。前はお客さんでいっぱいだったのに。もっと評判のいい歯医者さんに流れてしまったんでしょうか?」
さすがに、友坂しかいない患者数で経営が成り立つのか、助手に支払う給与さえ覚束ないのではないか、とは聞けなかった。過去の栄光となったとはいえ、歯科御殿を築いた人だ。自尊心を傷つけかねない。
先生は乾いた笑い声を洩らした。メインテーブルに置かれた医療器具を弄びながら、
「そんなこと気になさってたんですか」と、言った。ふたたび歯石を取る作業に移るべく、背もたれを自動で倒した。「友坂さんがご存知ないだけです。日中は予約で、ぎっしり詰まっていますって。たしかに最近は夕方の方が、ごらんのように閑散としていますけど。人間、どうしても今ぐらいの時間帯の方がパフォーマンスが落ちますからね。年を取った私としましては、助かっているぐらいです。どうか気になさらずに……」
「そのわりには、こちらの希望の予約を取ろうにも、ぜんぶ埋まってると断られますよ。それも毎回」
「受付でそう言われました? 急患を想定して、あえて開けている時間もありますから」
「だとしても、その急患を見かけたこと、ないんだけどなあ」
「急患が入ってこないってことは、患者さんにとっては幸せなことじゃありませんか。歯、およびお口の中の健康を保つには、単に食べ物を噛むという点からだけではありません。食事や会話を楽しむなど、豊かな人生を送るための基礎となるんです。とにかく――」山田先生は快活に言いながら、横になった友坂の頭側に移動し、治療器具を手にした。「今は友坂さんご自身の治療に専念すべきです。私も誠心誠意、やるつもりですから、ご心配は無用。今後も我が医院へ通ってくださいね」
「……ふぁい」
◆◆◆◆◆
無理やり丸め込まれてしまった気がする。
そんなこんなで、歯周病のケアが長引き、ついに年を跨いでしまった。
いくらなんでも山田歯科医院は長く引っ張りすぎだと思った。ケアばかりで焦らし、肝心の根管治療に進めてくれないのだ。
正月が明け、1月2週目から通院したが、まだ治療はしばらく続ける必要があると、先生は言った。
どう考えてもおかしい。
この4カ月間、やはり友坂以外に患者の姿を見たことがないのはどういうことなのか?
あっさり治療を終えてしまうのではなく、口腔内の手入れと称して毎週通わせ、小金だけでも掠め取るやり方ではないか。
言ってみれば患者は金づるだ。易々と手放してなるものか、というえげつない手で友坂は利用されているのだとしたら。
次の診察のとき、友坂はハッタリをかけてみた。むしょうに試さずにはいられなくなった。
またしても歯石を取る治療を受けているときだった。
「じつは会社の同僚に、他県の歯医者を紹介されたんです。二三回度通っただけで終わるほど早いとか。セカンドオピニオンってわけじゃないけど、今度そちらへ診てもらいに行ってみようかな?」
「なにをおっしゃるんです、急に。せっかくウチを懇意にしてくれたじゃありませんか」笑顔が消え、明らかに狼狽する山田先生。メガネ越しにも眼が泳いでいるのが見えた。「どうか、そんなことなさらず、私とともにやっていきましょうよ」
「ふしぎだとは思いませんか? 昔はあんなに大勢来ていた患者さんたち、いったいどこへ消えてしまったんでしょうか? 先生ならなおさら知りたいでしょう? それとも理由を知っているってんじゃ」
「こっちだってね!」と、山田先生はいきなり甲高い声をはりあげた。「こっちだって知りたいよ! そりゃ、以前はさばき切れないほど患者さんが来てくれて、私どもは嬉しい悲鳴をあげたもんです。ところがどうだ、今の有様は? 当医院に致命的な落ち度があるわけじゃない。かと言って、どこか腕のいい開業医が出てきて、そちらにごっそり患者を取られたんでもない! まさかこんなことになるなんて、夢にも思わなかった!」
美人の助手だけではなく、昂奮した声を耳にした受付の奥さんまでもが診察室に入ってきて、山田先生をなだめにかかった。
友坂は非を侘びた。
悪気がないといえば嘘になるが、あまりにも閑古鳥が鳴いた歯科医院で、自分一人だけが治療を受ける構図は異様すぎたのだ。
その場は奥さんが取りなしてくれた。
山田先生はその後、がっくりと肩を落とし、とても診察どころの精神状態ではなくなり、亀が首を甲羅の中に引っ込めるように、奥へ引っ込んだきり出てこなくなった。
奥さんがしきりに励ましていたが、埒が明かなくなったようだ。
助手が代わりに頭をさげ、診察の続きは明日にしてくれと申し出たので、友坂は不承不承頷いた。
納得がいかないまま、医院をあとにした。
◆◆◆◆◆
ところがである。翌日の夕方に実家から電話が入った。
父方の伯父が亡くなった連絡だった。2年にわたり肺癌による闘病生活を続けていたが、このたびついに力尽きたという。
急きょ、通夜に参列しなければならなくなり、歯医者どころではなくなった。そのころには良くも悪くも歯周病ケアの効果の賜物か、歯ぐきの腫れや歯痛もなく、ケロッとしていた。
キャンセルしたくてキャンセルするわけではない。スマホをタップし、申し訳ないと思いつつも山田歯科医院に断りの電話をかけた。
受付の奥さんが電話に出、友坂は予約のキャンセルの旨を伝えると、相手は残念そうに、「ああ、そう……」と言った。
その背後であろう。山田先生のものと思われる男性のうめき声が聞こえた。
「ええー?」
さぞかし山田歯科医院は友坂の来院を心待ちにしていたにちがいない。まさか友坂が行かないだけで、1日の彼らの食い扶持を稼げないんじゃ……。
とりあえず次回の予約は来週の水曜、18時に入れてもらった。
これとて受付の奥さんの指定した日時だった。
2日後の金曜日、ルート営業にくり出している最中だった。
立ち寄った個人経営の鉄工所から車を出すと、よく考えてみれば山田歯科医院がある地域であることに気づいた。
ここからそう遠くはない。試しに行ってみるか。
なんてことはない。ちょっとのぞいてみるだけだ。
車をしばらく走らせると、じきに例のコンクリート造りの直方体が見えてきた。
そばの民家沿いに車をパーキングさせる。あえて歯科医院の駐車スペースには乗り入れない。そもそも予約外だったし、院内に気配を聞かれるのもまずい。
やはり駐車スペースはがら空きである。自転車やスクーターすら停まっていない。
あとは院内に徒歩か、バスで通った患者がいるかどうかであろう。
友坂の身内に、意地悪な暴露趣味の心が芽生えたわけではない。
純粋に知りたくなったのだ。先生も奥さんも、予約で埋まっていると嘯いているわりに、その時間にはなにをしているのかを。
だから突撃することにした。
車外に出ると、秘密諜報員のように周囲を気にしつつ、靴音さえ立てず、建物に近づいた。
自動ドアを開け、受付に眼をやった。
狭い事務所で、虚ろな表情をしていた奥さんは、友坂の気配に気づいた。驚いたそぶりを見せた。
奥さんのそばだった。椅子に腰かけ、口を半開きにし、惚けたような顔の山田先生が壁にもたれていた。片方の耳にマスクの紐を引っかけ、白衣姿で股の間にだらりと両腕を垂らしていた。さながら昼食をすませ午睡するオラウータンといったところだった。
かたわらの美人の助手はカウンターで頬杖をつき、片手でスマホをいじっていた。
奥さんがあわてて山田先生の肩をつかみ、揺り動かす。
山田先生は眼をパチクリさせ、反射的にマスクを装着した。
そして玄関で立ち尽くす友坂と眼が合うなり、あわてて診察室の方へ走っていった。助手も遅れてついていった。
靴を脱ぐのももどかしく、玄関に飛び込んだ友坂。
「どういうことですか! この時間って、予約入ってるんじゃなかったんですか?」
「お待ちになって、友坂さん!」
友坂は受付のおばさんの制止も聞かず、山田先生のあとを追った。
診察室のドアを勢いよく開けた。
眼の前に、美人の助手が両腕を広げて立ちふさがっていた。
「まだ入ってはいけません!」
時間稼ぎするための妨害だろう。助手は通すまいと、身を挺して友坂の侵入を阻止した。
肝心の山田先生は――フロア奥の、自宅の一室に通じるドアを開けているところだった。
その向こうから、90前後の、ヨボヨボのばあさんの手を引いてくる。下のジャージは紙おむつで重装備されているらしく、不自然に膨らんでいた。ばあさんは烈しく抵抗している。
「あたしゃ、総入れ歯だよ。この期に及んで、なんで歯の治療をせにゃならないんだい!」
「頼む、お袋……。患者のフリをしてくれ!」
山田先生は実母を診察台に座らせると、器具を手にし、口にねじ込んだ。
実母は捕まった雌鶏みたいに、むーむー呻いた。
友坂は背中の毛がそそけ立つ思いにかられた。
「せっかくですが、友坂さん」と、山田先生はふり返り、息をはずませながら言った。「ごらんのように、今取り込んでいまして、診察は予定時間にお願いします!」
「そうまでして、おれを放そうとしないとか!」
了
半分実話で、半分妄想です^^;