・5年目 真夜中の砂漠にて
シャンバラの緑化率6.5%――
それから月日が流れ、もうじき1年のうちの半分が過ぎ去ろうとしていた頃――
「ユリウス……?」
「すまん、起こしたか」
シェラハの眠るベッドから密かに抜け出して、俺は魔導師の黒ローブの方を身に付けていた。
「いいの、寝付いたばかりだったから。それよりもこんな時間にどこに行くの?」
「いや、少し工房の方に行くだけだ」
「ねぇユリウス、そんなに無理をしちゃダメよ。実験なんて明日まとめてやればいいじゃない」
「……眠れないんだ」
俺がそう返すと、シェラハは照明魔法を発動させて、ベッドの中でクルリとシーツを身体に巻き付けて身を起こした。そうすると繊細な鎖骨と褐色の肩がむき出しになって女神のように綺麗だった。
大きな胸がシーツ越しに隆起するその姿は、子供たちにはとても見せられないほどに刺激的だ。俺はその姿にまた少し見とれてしまっていた。
「温かい飲み物を作るわ。……手伝ってくれてもいいのよ?」
「いや……先に行っているよ」
自分の寝室を出て、居間の暖炉にファイアボルトで火を入れつつ、錬金術工房の方に移動した。
オーブと水槽の方ではなく、錬金釜の前までやってくると照明魔法で辺りを照らし、付箋だらけのメモ帳を開いた。
……そこから先はいつもの単純作業だ。
シャンバラを再生させる。それが己の使命だと信じて、試作品を1つ1つ完成させていった。
「ユリウスッ、ユリウスってばっ!」
「あ、ああ、すまん……。ぼんやりとしていた」
「きっと頭が疲れているのよ。はい、砂糖たっぷりのレモンティーよ」
「ありがとう。うっ、甘いな……」
片手でマグカップいっぱいのレモンティーをすすりながら、もう片手で釜の攪拌と魔力供給を続けた。
シェラハはそんな俺の隣に並んで、茶をすすりながら俺の顔や工房の天井、釜の中などに気まぐれな視線を送っていた。
「ねぇ、ユリウス、初めて会った頃のこと、覚えてる……?」
「もちろん、忘れられるはずもない。酷い扱いだった」
「ごめんなさい」
「別にいい。あの頃の俺はなんというか、小者だった」
「そうね」
「いや、そこは否定しろ……」
「ふふふっ……あの時捕まえた男が、自分の旦那様になるなんて、なんだか不思議……」
「ほぼ同感だな。全面同意と言い直してもいいくらいだ」
釜がポンッと軽い音を立てて、辺りに爽やかな緑の香りと淡い光が漂った。
シェラハがレモンティーをテーブルに置いて、錬金釜から小ビンに種を移してくれるのを、俺は次の素材の準備をしながらいつもの感覚で見守った。
「さ、もう寝ましょ」
「まだ眠れそうもない」
「ダメよ、あたしを独りで寝かせるつもり?」
「お、おい……っ」
シェラハは昔からひかえめな人だ。そんな彼女が男に背中に大きな胸を押し付けて誘惑をしてきた。まるでメープルみたいにピッタリと貼り付いて今夜の彼女は離れない。
いつにないその積極性は、彼女の作戦通りに俺をベッドに帰りたくさせた。
「あ、あたし、なんでもしていいわ……だから、もう戻りましょ……?」
「眠れないんだ」
「眠れるまで一緒にいるわ! な、何度でも、付き合うわ……」
「……まずいな、このままでは本当に誘惑に負けそうだ」
「あたしと休みなさいっ、あなたはがんばり過ぎだって言ってるのっ!」
作業の手を止めて、シェラハの温かくてやわらかな抱擁から抜け出すと、素材を元の棚に戻した。
ただ、このまま素直にシェラハの要求に従うのは気に入らない。そこで照明魔法を自分の頭上に引き寄せて、シェラハの手を引いた。小瓶を詰め込んだ木箱と一緒に。
「夜の散歩に付き合ってくれ。1人じゃ寒い」
「いいわ。さっと済ませて部屋に帰りましょ……」
「あ、ああ……」
「どうしたの?」
「いや……なんでもないぞ」
ただでさえ目が離せなくなるほどに綺麗な人だ。そんな美しい女性に誘惑されると、実験なんて中止して彼女を抱き上げて、このままベッドに戻りたくなった。
けれどもそうもいかない。
「この時間はさすがに、かなり冷えるわね……。風が冷たい……っ」
「帰るか?」
「あなた1人に行かせられるわけないでしょ。さ、木箱、こっちにちょうだい」
夜の砂漠――と呼ぶには緑がかなり混在する不思議なご近所を、俺たちはぴったりと寄り添い合って歩いた。
滅多に曇ることのない空からは、冴え冴えとした青い月光が美しく降り注ぎ、遠くの砂漠をぼんやりと幻想的に照らしている。
「ねぇ、ユリウス、あなたは何を焦っているの?」
「ああ、その質問には答えない」
「答えないなら答えさせて見せるわ! んっ……」
「んなっ、んっんぐっ……?!」
何年も連れ添っておいて、キス1つで恥じらう嫁と旦那というのもどうかと思う。けれど俺たちにとって、野外でこういうことをするなんて今でもあり得ないことだった。
月だけが俺たちを静かに見下ろしていた。
「こ、答えるまでするわっ! え、えいっ……!」
「あ、足払いっ?! ぐぁっ!」
押し倒すと表現するにはちょっと巧みで力技過ぎる足さばきで、俺は黄金の真珠と心の中で揶揄する美女に押し倒された。彼女は俺の腰の上に馬乗りになって、問いかけへの答えを求めた。
このままでは2人そろって風邪をひいてしまうな……。
「答えて、ユリウス。あたし、あなたが心配なの……。まさか、重い病気だなんて言わないわよね……?」
「違う」
「そう、よかった……。あたし、ずっとそれが心配で……」
「違うんだ。俺はただ……」
その言葉の続きを本当に口にしていいものやら、俺は深く迷った。
「ただなぁに?」
「……いや、ただ……ただみんなに置いて行かれるのが、怖くなったんだ」
冷たい砂漠でシェラハ抱き寄せて、彼女の温かなぬくもりを求めた。心が安らいだが、それは一時の麻薬に過ぎない。
「それって、寿命のことかしら……?」
「そうだ。子供たちはどんどん成長して、俺だけが老いてゆく……。俺はなぜ、ヒューマンに生まれてしまったんだ……。シャンバラのエルフとして生まれれば、こんな思いをしなくても済んだのに……。そう思う日が、最近増えてきた……」
「ユリウス……。あたしだって同じことを思っていたわ。なぜあたしは、あなたと同じヒューマンに生まれなかったのか、神様に何度も心の中で問いかけてきたわ……」
「お前も……?」
「メープルもグラフもよ! 同じ時間を過ごせたらどんなにいいか……あたしたちが思わない日はないわ!」
胸の中で沸き起こる感激に彼女を強く抱き締めて、それから抱擁を解いて冷たい砂漠から助け起こした。
辺りはもう実験にちょうどいい不毛の土地になっていた。
「俺が生きているうちにこのシャンバラを再生させて、残された家族に何かが残るようにしたかったんだ。俺が塵となって消えても、緑にあふれる大地があればそれが慰めになる。俺の代わりになる。俺はそう信じている」
落とされた木箱から小瓶を手に取り、シェラハから少し離れてからそれを砂漠に蒔いた。
……失敗。……これも失敗。……失敗。
最後を手に取ろうと振り返ると、シェラハがビンを手に取って俺を手招いていた。
「そんなこと、言われなくとも知ってたわ。さ、帰りましょ」
「ああ、いつも心配をかけてすまない」
シェラハが最後の小瓶を逆さにして、今夜の実験は終わった。
いや、待てよ、これは――
「見てっ、ユリウスッ! これって成功っ、成功よねっ?!」
シェラハの喜びの大声に返事すら返さずに、俺は彼女から小ビンを奪い取ってラベルの番号を確かめると、喜びの感情のままに彼女を固く抱き締めた。
俺たちの足下に広大な緑が生まれていた。面積は以前の成功例とさほど変わらない。だが肝心なのは、レシピだ。
今回のレシピは砂漠の緑化アイテムの必須素材であり、需要過多により高騰が止まらない『大地の結晶』を使わないレシピだった。
「なんとか言ってよ、ユリウス! これって成功なのねっ!?」
「ああっ、やったぞ、シェラハ! これは三重丸の大成功だっ!!」
効果はほぼ同じでも、別の素材で似た効果を引き出せるならばその有用性は2倍どころではない。俺たちは砂漠に生まれた緑の大地で踊り回り、その草木が見慣れない物であることに少し遅れてから気付いた。
「ねぇ、ユリウス……」
「ああ、あれがソテツで、あっちのがシャボテン。あの青い果実が実っている木は、たぶんバナナだろう」
シェラハが質問する前に先制して答えた。
俺たちを取り囲む植物たちは、どれもが常夏の国々で見られるものだった。
この種は『常夏の恵み』とでも名付ようか。
「ユリウス……ッ! 最高っ、やっぱりあなたは最高よっ、うふふふふっっ♪」
「お、おい……シェラハ……?」
シャンバラの姫君は隣の木を三角跳びの足場にして、バナナの房にしがみついた。そして猿みたいに身を揺すって房ごっそり全部をもぎ取ると、幸せいっぱいの笑顔で戻って来た。
「ふふふっ、あのバナナがこんなにいっぱいっ! さ、帰りましょ!」
「あ、ああ……」
内心、この後のことを期待していた……。
けれども今のシェラハは食欲――いや、甘味欲に心まで飲まれていて、もう早く帰って温かい場所でこの青いバナナを食べることしか頭になかった。
素直にあのとき、誘惑に乗っていればこんなことにはならかったというのに……。
俺は深い後悔を覚えながらも、ビンを木箱に戻して先を行くシェラハの後ろ姿を追った。
もしかしたらこれは、シャンバラに空前のバナナブームが来る前振れなのかもしれないな……。




