第8話、 転落現場
8、 転落現場
「そうだ。アパートに行く前に友久教授が転落したという場所も見ておきたいんだが」
山部は今思いついたように言った。実はアパートを調査する前に転落現場を見るというのは事前に決めていたことなのだが、今回の調査があまりにもレールに沿ったもののように思えたため、順番だけでも不確定要素を入れたかったのだ。
「それやったら、すぐそこですわ」
案内人のルカ・ベンは山部の予定変更にも笑顔で応じた。
ルカ・ベンの案内によって、日本人向けのスーパーやドラッグストアーが並んでいる一角を通り抜けて工場裏手にある西門を出た。防風林の下で休んでいるヤギの群れを追い払いながら、しばらく南に歩くと防波堤上に海を眺められる広いデッキが広がっていた。
「日本の人たちはここをウエスト・エンド・アベニューと呼んでます」
そこは、長さは300m近くあり、ここからは先日山部が釣りをしていた本牧の魚釣公園が眺められた。
それにしても広い。このデッキ上には、なんとテント屋根のついたビアホールまであった。
見ると数人のブルンガ人が昼間からジョッキを片手にビールを飲んでいる。
Tokio Barと書かれた看板には『Pombe200YEN』と書かれていた。
どうやらこの島では日本円が流通しているようだ。
海際には高さ1m位の鉄柵がついていて、日本人が二人釣りを楽しんでいた。
これが仕事でなければお仲間に入りたいところだが、そこはグッと堪えて山部は教授が転落したとみられる付近を調査した。
下を覗き込むと海面までは4m程あった。
沖の一文字防波堤などよりは低く感じるが、浮島という構造から干満差は無視できるので、それ程高い防波堤は必要無いものと思われる。
今日は少し風があって波が高い。陸にある防波堤ならテトラポットに白波が打ち付けるところだが、ここでは当然テトラ・ポットは見当たらないし、他にも特に目立った出っ張りは無いようだ。
となると、ここから転落して負傷したとみられる教授の右側頭部の陥没や幾つもの打撲はどう説明すれば良いのだろう?
山部はポケットからデジタルカメラを取り出し、数枚の現場写真を撮ると、釣りをしている日本人に近づいて、親しげに話しかけた。
「すみません。ここでは何が釣れるんですか」
「スズキだね。もっとも今日はまだ上がってないけど。夜になるとよく釣れるんよ」
「そうですか。スズキ! 時間が取れればぜひ狙いたいものです。釣り道具はこの島で手に入るんでしょうか? 海面までは、高さが4mくらいありそうなので、タモ網も必要そうですね」
「工場の購買部に行きゃあ簡単な物は手に入るよ。あんたら、新しく配属された方?」
「いえ実は私、先日ここから転落して亡くなった友久さんの調査をしてます保険会社の者なんですが釣りは大好きなんですよ。もっとも明後日には帰る予定なんですけどね」
「ああ、そう」
釣り人は、あまり関心なさそうにエサを代えて仕掛けを海に放りこんだ。
ルアーではない。いわゆるぶっこみ釣りというやつで、針は丸セイゴの15号くらいか。エサはイソメだった。
「ところで10月6日の夜もここで釣りをされていましたか?」
山部は本題に入った。
「いや騒ぎがあった日は覚えているが、大雨だったから社宅にいたよ。スズキは天気の悪い日の方が釣れるというけど、そこまで熱心じゃないからね」
もう一人の日本人も「俺もそうだね。さすがにその日は釣りをしていなかったよ」と言った。
そういえば10月7日に本牧で釣りをしていた時、水潮の影響で釣れなかったことを山部は思い出した。
つまり10月6日はかなり雨が降ったのだ。
檜坂は転落現場と思われるデッキの床一面をサングラスのようなメガネをかけて探っていた。
メガネ・フレームのテンプル(つる)と呼ばれる部分にダイヤルが付いていて、それを調整しながら何か痕跡が残っていないか調べているようだ。こういう道具を山部は使ったことがなかった。
「それは新兵器?」
「このメガネは強力な偏光グラスで、拡大率も調節できます。肉眼で見分けにくい異物も検出できるのと、もしブルンガ警察がルミノール反応を調べていれば、その痕跡を見ることもできます」
「そりゃすごい……。で、何か見つかった?」
「いいえ、目ぼしいものは何もありません。大雨で流されてしまったのかも。でもそんな雨の日に、どうして教授は酔っ払ってこんな場所を歩いていたんでしょうね……」
檜坂は、メガネを仕舞いながら不思議そうに呟いた。
「目撃情報では、そうなってるね」
「落ちたとすれば、この辺りでしょうか」
檜坂は風に煽られつつ鉄柵から大きく身を乗り出し、スマホで現場を動画撮影し始めた。
またしても彼女は、スカートの乱れなど気にしていないようで、ルカ・ベンと釣り人の一人が、檜坂を見て顔を崩している。
パンツを見せるのが趣味なのか? とは、セクハラになるので言えない。
「それより、落ちないでくれよ」
「ハイ、もう撮影は終わります」
檜坂はようやく裾を直した。
ビアホールから流れてくる音楽は、風の向きによって大きくなったり、小さくなったりしていた。
「ルカ、あそこのビアホールは、雨の夜も営業しているのか聞いてみてくれないか?」
「あそこは台風でもない限り夜遅くまでやってますよ。常連さんが飲んでるか、あたってみましょう」
山部たちは、まずは従業員に聴き込もうとしたが、ビールを運んできたギャルソン(給仕)は、ルカ・ベンが話しかける前に逃げるようにして調理場に引っ込んだ。
仕方なくルカ・ベンは昼間からラフな格好で酔いつぶれている客にクリアファイルに入った友久教授の写真を見せて、当日の様子を尋ねてみた。こちらは質問されるのが楽しいのか、ルカ・ベンの問いかけにも上機嫌で答えた。
「Je me souviens」
酔客はフランス語でそう言った。
「彼は覚えているそうです」
ルカ・ベンが翻訳する前に、檜坂がその酔客の言葉を翻訳した。
「教授は初めから酒に酔っていて、上機嫌で歌を唄いながら雨の中を歩いていたらしいのですが、ふいに転落したそうです。大きな水音がしたので驚いたそうです」
「えらく具体的だな。教授はここで飲んでいたのか聞いてくれる」
「Est-ce qu'il buvait dans ce bar?」
檜坂が流暢なフランス語で尋ねた。
「このビアホールで飲んでいたわけではなく他で飲んでいたようだと彼は言っています」
「その時、既に怪我をしていたかどうか分かるか?」
それを今度はルカ・ベンがスワヒリ語で尋ねた。
ブルンガ人はフランス語も話すが、こちらの方が意思の疎通がしやすいのだと言う。
その結果、この男は遠目に見ていただけだが、歩いてきた教授が怪我をしているようには見えなかったと話した。
「だとすると、やはり教授の怪我は海に転落した時に付いた事になる。しかし海は深い。4m上から落下したとしても海底の岩石に叩きつけられるとは考えにくいと思うんだが、君はどう思う?」
山部はルカ・ベンにも意見を聞いた。
「前に釣ってる人が、根掛かりすると言うてはったことがあるんでそうやとすると、下の方には迫り出した岩でもあるんやないでしょうか」
これはもっともな意見だった。
深度がある海の中でもその部分にだけ岩礁があって、そこに船が乗り上げると座礁の危険があるポイントがある。ブルンガ島は超巨大な船だが、底が平らであれば喫水は意外と浅いのかもしれない。だからこそ大型船の通る水路から外れた位置にも設置できたのだろう。
ただ、友久教授の傷が岩礁に当たったことで付いた傷ならば、警視庁も初めから海図を調べているはずだ。
山部はもう一人の酔客にも聞き込みをしたが、こちらは朝から、飲んでいたのでその日はかなり酔っており、騒ぎすら覚えていないと答えた。
「この人たちは、働いていないのかい?」
山部がふと疑問に思ったことをルカ・ベンに尋ねると彼らは工場で働く人間ではなく、商店の人達で女房に店を任せて一日中飲んでいるということだった。
「ちょっと酷いですね」
檜坂がポツリと言った。
「残念やけど、そんな人も多いんですよ。ハミの男たちは、戦いになれば命をかけて家族や集落を守ります。そのかわり日常の子育てや放牧、市場での売り買いなどは女性が請け負ってるんです。今の時代が平和であっても、それは変わりません」
ルカ・ベンがため息を付いた。
つまり時代が変わっても生き方を変えにくい社会では、人はやる気をなくすということだろうか。日本でも似たような話はある。山部は少し古いギャラップの調査(やる気のある社員、日本では6%)という記事を思い出した。
「まあ確かに日本でも、お茶くみが女性の仕事と考えている中高年の男性もいますからね」
檜坂は女性の視点からそう言った。確かに彼女のようにアクティブな女性は、保守的な警察組織の中では、不満を覚えることも多いかもしれない。山部は矛先が自分に向かわないうちに話題を変えた。
「じゃあ、今度は教授が住んでいたアパートに行ってみるか」
山部たちはデッキを後にして、友久教授が住んでいたというブルンガ人の街中にあるアパートに向かう事にした。
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