第6話、 ブルンガ島・吉浦電気管理部長・富永
6、 ブルンガ島・吉浦電気管理部長・富永
タラップが降ろされると、そこに山部たちを出迎える者が待っていた。チタンフレームの眼鏡をかけ、吉浦電気の作業用ユニホームに『管理』と書かれた腕章を付けた50代の男だ。
「お話は本社より伺っております。保険調査のため、三日間滞在予定の山部さんですね。私は吉浦電気・ブルンガ工場で管理部長をしております富永という者です」
「おお、これはどうも。わたくしJライフ海上保険・リサーチ課の……」
ブルンガ島における日本側責任者への連絡は全て上の方で行なってくれているようだ。
おそらく富永は、山部たちの正体を聞いているだろう。
こうした根回しに沿った形で調査を進めるのは楽だが、あまり流れに沿うと何も見えて来ない。山部は名刺交換の後、一度咳払いをして笑顔を作り直すと、富永に話しかけた。
「今日は、わざわざお出迎え頂き、ありがとうございます。今回の件はこちらで働く日本人の方々にもショックでしたでしょう」
「そうですね。我々はブルンガの人とはビジネスでお付き合いしているわけですが、友久先生の興味はそこにはなかったようで」
そう語る富永の声はしだいに小さくなった。
人間は一言話すだけで、その性格や考え方が分かる。山部には富永が、民間の保険調査員を名乗る捜査官に対して、どこまで話して良いのか迷っているように思えた。
突然、背後からブォーっと、先程とはまた違った、極めて野太い汽笛が響いた。
驚いて振り返ると、山部たちが乗ってきた船の数百メートル背後から、もう少し大きなコンテナ船が桟橋に接岸するところだった。
「東京とブルンガ島を結ぶ貨客船は一隻と聞いていましたが、他にもあるんですか?」
「あれは工場で使う原材料を運び入れているリベリア船籍の貨物船ですよ。工場で作り上げた製品もあの船に積み込まれます」
富永の説明によれば、貨客船の定期便は山部たちの利用した船のみだが原材料や製品を運搬する貨物船は数隻あるという話だった。
「大きな船ではありますが、外国と日本を結ぶコンテナ船にしては少し小型なんじゃないですか?」
檜坂がそう尋ねると――、
「あの船は5000トン級のコンテナ船で、海外貿易でよく使われる数万トン級のコンテナ船よりはだいぶ小型なんですよ」
と富永が答えた。
「水深が浅いんですかね」
山部が聞くと、富永は――、
「いえ、確かにブルンガ島のある場所は航行を妨げない為に大型船の通る水路から少し外れた場所にありますが、それでも横浜沖の水深は十分にあります」と答えた。
「確か明治時代に港として開発されたのも十分な水深があるからでしたっけ」
檜坂が記憶を探るようにして言った。
「そのとおりです。つまり水深の問題ではなく、この島の港湾施設が、それ程大きくないためなんです。島全体が浮いているので、あまり巨大なクレーンも設置できないんですしね。そういう理由で、あのコンテナ船も台湾の高雄港をハブ港にして、そちらで大型のコンテナ船と荷物の積み替えを行っているのです」
となると日本の羽田税関を経由せずに、この島に入って来る人や荷物もあるだろう。要するにブルンガ島を出入りする船を常時検問でもしない限り、犯罪者が第三国を経由して本 国に逃げ帰ることも可能というわけだ。
山部はこの島の治安維持上の問題点を思った。
島に入る人間は右端(西側・本牧埠頭寄り)のヨーロッパの城にあるような、鉄の扉をくぐって入国できるようになっていた。
檜坂がそそり立つ鉄の扉や壁を眺めていると富永が――、
「これは荒天の日の高波や津波から島を守る為の防波壁です。ゲートと呼ばれるあの巨大な門はそのためのものですから、夜になったら閉まるとかいう性質のものではなく通常は24時間開いています」
と説明した。
確かに、こんな鉄のゲートが閉まると、中にいる人達は圧迫感を覚えるだろう。だからこれが災害時だけ閉じる仕組みだというのは納得できる。
「すると荒天時、ゲート開閉の判断は富永さんがやっておられるんですか?」
檜坂の質問に富永は首を振った。
「いいえ、ここはブルンガ国ですから、開閉の判断はブルンガ政府の委任を得たコーバンが行っています。日本側がゲートの開け締めをしたら国際問題ですよ」
要するに、島の安全は統治しているブルンガ政府の責任となっていて、富永の権限は、あくまで吉浦電気工場のみということなのだろうと山部は解釈した。
「ところで、こちらの北側の壁が特に高くなっているのにお気づきでしょうか? 実は南側の壁も同じように高いのですが、これも高波対策のためとなっています。一方、東の壁は海が見えるように、西の壁は横浜の夜景が見れるように少し低くなっています。しかしブルンガ島はいざとなったら回転して向きを変えることもできますので」
富永は、驚くべき補足説明をした。
「エッ、この島には動力が備わっているんですか?」
檜坂が驚いたように目を見開いて尋ねた。
「まあ島全体を回転させる程度の動力は付いています。しかし自力航行できる程の力はありません。現在はここに固定されていますが、必要な時は超大型のタグボートが数台で曳航します」
「ということは潮流で流されないために、ブルンガ島はアンカーで繋がれているわけですね?」
「そのとおりです。普段は12本の巨大なアンカーで固定されています。ですが毎日の潮流の速さや風の向きによって、それぞれのアンカーの鎖の長さも調節されています」
ブルンガ島は安全対策にもずいぶん気を使っているようだ。
富永の説明によって、ゲートと呼ばれる鉄の扉は防波壁であるということは分かった。そうなるとブルンガの入出国検査はどうなっているんだろうか?
山部が疑問に思っていると、ゲートの向こうに駅の改札口に備え付けられているような機械があった。そこにベージュの制服を来たブルンガ人職員が座っている。
「船が出入りする時だけ職員が出て来ます。入出国審査をパスするとフラップドアを開けてくれます。基本的にこの島に住むブルンガ人は全員パスポートを持ってますから、東京ディズニーランドや箱根の温泉地に行きたい時には代理申請機関となっているウチの管理事務所からビザを取得して気軽に出かけます」
富永が気軽にと言ったように、ブルンガ島の入国審査は、職員にビザを提示するだけという簡単なもので、手荷物検査も形式的だった。フラップドアも職員がいない時に乗り越えようと思えばすぐにできそうだ。山部は、こんなもので大丈夫なのかと思いつつ富永の後に続いて入国審査所を通過した。
建物を出ると途端に視界が開けた。
入国審査所前の道路を横切った所は、結構な広さのある緑地帯になっていて、辺り一面にヤギがいる。山部は、中学校の修学旅行で行った奈良公園の鹿のようだと思った。
左方向を見ると壁側には倉庫が立ち並んでいてその脇にクレーンがいくつか設置されている。クレーンは稼働中で壁を超えて製品を搬出している様子が見えた。
また、倉庫群とは道路を挟む形で、左前方にスタンドまで備えたサッカースタジアム(!)があった。
「サッカー場まであるんですね!」
またしても檜坂が観光客のテンションで言った。
「ブルンガ人はサッカーが大好きでしてね。あれは吉浦スタジアムと呼ばれている、工場の福利厚生施設の一つです。縦100m横65m、観客収容人員2000人という本格的なものです。ここにプロチームはありませんが、四つのチームが所属するアマチュアリーグが開催されています」
富永が説明すると、ルカ・ベンが――、
「私もメンバーに入ってます。公務員チーム所属でゴールキーパーをやってます」
と胸を張った。彼はブルンガ島の公務員だったようだ。
確かに長身のルカ・ベンは、ゴールキーパーが似合うかも知れない。
一方、広場に目を戻すと、日本であまり見かけない木があちこちに植えられていた。
「あれはシアの木といって、ブルンガでは国中に生えているそうです。シアバターの原料にもなる木ですよ」
と、またしても富永が解説をした。
「それにしてもかなり余裕のある設計になっているんですね。私は8千人が暮らすと聞いていたので、長崎県の軍艦島のように、狭い敷地に隙間なく住居が建っているのかと思っていました」
「ブルンガ島は、縦横900mあって、そこに約8千人ですからね。多いように感じられるかもしれませんが、人口密度で言うと平方キロあたり約1万人。これは川崎市と横浜市の間くらいで、東京23区でいえば二番目に人口密度の低い港区並です。もっとも、高層階マンションはないので、住居数は多く感じられるでしょう。ですが軍艦島は、最盛期の人口密度が平方キロあたりで7万6千人以上でしたから比較になりません」
軍艦島との比較はよくされるためか富永はかなりくわしかった。富永の説明を聞いて、山部は改めてそんな広大な島が海に浮かんでいるのだと、このプロジェクトのすごさを実感した。
「ここには日本人も70名以上住んでいると聞きましたが、皆ブルンガ人に混ざって住んでるんですか?」
「いいえ、日本人の大半はこの先にある工場脇、ヘリポートの近くに固まって住んでいます。そこにこの島を訪れた日本人のための、京沖ホテルというのがあります。今からそちらまでご案内いたしますので」
そう告げると富永は緑地帯の中の遊歩道をスタジアム側に歩き出した。山部たちが後を追って歩いていると、どこからかノリの良い音楽が聞こえて来た。
見ると緑地帯の隅にポールが立っていて、そこに付いているスピーカーから流れて来たものだった。日本で言えばここはラジオ体操広場のようなものだろうか。
音楽はフランス語で歌われるレゲエのような感じで、重低音の男性歌手が聴衆に語りかけるように歌っていた。
「あれはブルンガの歌?」
山部が尋ねると、
「あれはブルンガで今一番売れている歌手・トマが歌う『ケセラセラ』という曲ですよ」
と、ルカ・ベンが答えた。
山部が知る『ケセラセラ』は1956年にドリス・ディが歌ったもので、日本語訳された歌を父親が「ケセラセラ。成るように成る~」と歌っていたものだ。
しかしこれは全く違う曲だった。
「陽気な曲だねえ。お祭りとかで歌うもの?」
「違うようですよ。歌詞はけっこう深刻です」
小声で檜坂が耳打ちした。
この島に派遣されたのは、わずか3人という調査団だがその内の2人が通訳というのは便利なものだなと山部は思った。
『やつらがやって来て村を襲った。
妻は殺され、若者達もみな死んでしまった。
なんとか追い返したが、次に来たらどうしよう。
ここにはもう守ってくれる兵士も若者もいない。
愛する娘をどうやって守ろう。
そうだ呪術師に頼んで娘を隠してもらおう。
そうすれば奴らに見つかる事もない。
後は運命に任せればいい』
「というような内容ですよ」
檜坂が歌の内容を翻訳した。
「この歌はブルンガ北部のヤルケ村が、隣国より侵入して来たペケハレムという、イスラムのテロリスト集団に襲われたという実話に基づいてできた歌なんですわ。ブルンガが、西アフリカでは珍しいキリスト教の国やから、よう襲われるんですわ」
ルカ・ベンも話を聞いていたようで、かなり深刻そうに言った。
警視庁内で山部は森倉からブルンガ国では今でも国内で民族紛争が起きているという話は聞いていた。しかしそれに加えて、テロの被害まであるとすると人が簡単に殺されるという環境下にあるこの国の人々は、日本とは違った死生観を持っているに違いない。
「さあ、こちらです」
ゆっくり歩く山部たちを急かせるかのように声をかけた富永は、先程の倉庫前の道路とは直角に交わる道路に誘導した。
「この道は吉浦電気の工場に面して南北に走っているもので、通称『ヨシウラ通り』と呼ばれています」
「島には、その他にも道が?」
「ええ勿論です。例えば島の真ん中を南北に走っている対向二車線道路を『メインストリート』と言ってコーバンや役場の前を通りサッカースタジアムに至ります。他にも学校前を走っているのが、『学校通り』、最東端にあるのが『東海岸通り』と言います。東西を走る道路としては、先程横切りました倉庫前をサッカースタジアム沿いに走る『トウキョウライン』。島の南側を走る『オーシャンライン』というのもあります。それ以外にも道幅が狭く、車一台が走れるだけの道は網目のように張り巡らされています」
富永は少し誇らしげに言った。
碁盤上に貼られた道路を持つ大阪では南北に走る道路を○○筋と言い、東西に走る道路を○○通りというが、ブルンガ島は、通りと筋の考え方が逆のようだ。
「ただしこれらはブルンガ人が日本人と意思疎通を行う際の呼び方で、ブルンガ人の間では『ヨシウラ通り』をYoshiura boulevard と、『トウキョウライン』をTokyo boulevardと呼んでますけどね」
とはいえ、島を代表する『ヨシウラ通り』でも無人清掃車が一台可動しているだけで、他に駐車中の軽トラが一台あるだけなので、この島ではあまり車が必要ないのかもしれない。そればかりか8千人以上の人が住んでいるという話なのに昼下がりの時間帯ということもあってか、この辺りを歩いている人はまばらで、道路上にはヤギばかりが目立っていた。
そのヤギを追い立てるように自転車で遊ぶ子供達がいた。
ブルンガ人の子供が乗っている自転車は、どれも日本ではあまり見かけない鮮やかな原色だ。
「先程『学校前通り』があると言われましたが、家族でこちらに移住している人もおられるんですね」
檜坂が子供たちを見ながらそう言ったその時――、
「ムワリーン!(先生)」
自転車で遊んでいた子どもたちがルカ・ベンを見つけて駆け寄ってきた。
「ここの学校で勉強する子供たちですねん。そんで私は普段、先生をやってますねん」
ルカ・ベンがそう言いながら、先程100円ショップで買ってきた文房具を子供たちの手に一個ずつ与えた。
「彼は本来中等部の先生ですが、小さい子共たちにもやさしくて、物知りの先生ということで、小さい子からもずいぶん親しまれていますよ」
富永が笑った。どうやらルカ・ベン先生はこの島では結構な顔らしい。
山部には外務省が彼を推薦したわけが分かるような気がした。
ルカ・ベンからお土産をもらった子供たちは、大喜びでお互いに戦利品を見せあっていたが、そのうちの一人がツツツと檜坂の後ろに回り込み、バサーっとスカートをまくりあげた。
「Aura la!(うわっ)」
ルカ・ベンが慌てて、そのイタズラっ子を捕まえようとしたが、それより早く檜坂が捕まえてヘッドロックをしていた。
「どうだ、まいったか?」
彼女は笑いながらその子の頭をグイグイ締め上げた。
「J'abandonne! J'abandonne!(降参、降参)」
悪ガキが檜坂の背中を叩いて放してくれるように頼む様子を見て周りの子供たちが大笑いをした。山部が知る昭和の頃の光景がここではまだ残っているのだ。
富永は「こちらへどうぞ」と、山部たちを通りの右側にある吉浦電気・ブルンガ工場の門の中へと引き入れた。日本人街は塀に囲われたこの工場の敷地内にあるらしい。
入口近くには管理事務所があり、背後に一端が100mほどもある建物が二列で三棟並んでいたが、これが島の経済を支える工場だという。
操業中というのに意外なほど静かであるため、山部はこれらの工場では精密機器の生産でもしているのだろうと推察した。
そこから工場内にある私道を少し南の方角に歩くとまた緑地帯になり、その中に白い住宅が点在している場所に出た。
「これが日本人街です。白い住宅は全て社宅で、夫婦で住まれている方向け。マンション形式の社宅もありますが、そちらは単身赴任者向けとなっています」
この辺りも人通りはまばらで、富永と同じ作業着を着た日本人と思われる若い男女がパラパラと歩いている程度だった。
「日本人の子供はいないようですね。みなさん、子供さんを連れてこちらへは来られないんですか?」
檜坂が尋ねた。
山部は最初気づかなかったが、確かにこれまでブルンガ人の子供は見ても日本人の子供を見かけなかった。
「日本の子供たち向けの学校がないんですよ。そのため最初ご夫婦でこの島に住んでおられても、子供が生まれると奥さんだけ日本に戻られ、ご主人が単身赴任となる方もおられます。もちろん本牧が目と鼻の先なので船で30分もあれば渡れるんでしょうが、航路は羽田行きだけですし、何よりここは外国扱いのため、毎回出入国の手続きも必要ですので」
「なるほど。ところで社員以外の日本人の方はどこに住んでおられるんでしょう? 友久教授が他の場所に住んでいたという話はお聞きましたが、実はここに来る船の中でNGOの方に会いました。そういった人たちや、スナックに勤めてる方などは?」
「その方たちも近くにお住まいですよ。工場の敷地近くにも日本人が多く住まれている地域があります。そちらには波力発電施設で働いている日本人も住んでおられます」
「それらを含めて70数名というわけですね」
「そのとおりです。さあ着きました。ここが山部さんたちの滞在中の宿舎となる京沖ホテルです」
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