表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/27

第3話 森倉警視監と檜坂(ひのきさか)巡査部長

3、 森倉警視監と檜坂ひのきざか巡査部長  ( 10月12日 )


 途中の東京駅・八重洲地下街で軽い昼食を済ませた山部は、12時50分に長年通い慣れた丸ノ内線・霞ヶ関駅A3出口を出た。

そこで河野が待っていた。

 河野は警察官としては少し細身で、眼鏡をかけ、スーツをきっちり着こなしている。

 一見すると、丸の内で働くサラリーマンに見えるが、それもそのはず。彼は元銀行員なのだ。初めて山部の部署に配属された河野を上司から紹介された時、はたしてこんなか細い男が役立つのかと不安に感じたものだが、河野は勤勉で物覚えも早く、意外に運動神経も良かった。

「おやっさん、お久しぶりです」

「よせやい、まだ半年じゃないか」

 たわいもない挨拶と会話を交えながらも、詳細については何も話さず、ふたりは警視庁へと向かった。庁舎をちらりと見上げた山部は、つい懐かしさを覚えてしまった。

口では「まだ半年」と言いながら、退官者としての複雑な心境を抱いてしまうのも事実だった。

河野は、既に用意していた来訪者用の入館証を掲げて、勤務者用出入り口から山部を通し、庁舎内某階にある会議室、喫茶『琢磨』に案内した。

 そこに意外な人物が待ち構えていた。

「山部さん、ご無沙汰ばかりで申し訳ありません」

 丁寧な口調で頭を下げた男は、森倉修司。現在の役職は警察庁の警視監だ。

 幹部としては珍しいスポーツ刈りの頭に、所々白い物が交じる。とはいえ45歳の肉体と表情は精悍そのもので、趣味がヨットということもあって日に焼けていた。

 いわゆるキャリア組で、警部補として初任研修についた時、山部が現場の仕事を事細かく教えたことがあった。

 彼らキャリア組の定番は、知能犯を相手にする捜査二課で、捜査一課に配属されるのも珍しい。しかも警部補という仕事には外回りがほとんど無い。にもかかわらず、森倉は自ら山部に希い願って地取り、すなわち聞き込み捜査のイロハを学んだ努力家だ。

 山部の真摯な教えに感謝し、以後階級がどれほど上がろうとも、山部のことを『さん』付けで呼んでいた。

「では、私はこれで……」

 案内の役目を終えた河野が外に出て扉を締めた。

 部屋には他に背広組が2人。さらに会議用テーブル正面にある、壁に備え付けの大型モニター脇には女性警察官が1人、スチール性の椅子に腰掛けていた。 

「紹介します。こちらは外務省の羽島・中東アフリカ局次長。そちらは神奈川県警刑事部の牧丘警視正。あちらでモニターによる説明を担当されるのは同じく神奈川県警の檜坂ひのきざか巡査部長です。みなさん、こちらが元捜査一課におられた山部さんです」

「よろしくお願いします」

 山部は森倉警視監が紹介してくれた会議室のメンバーに、お辞儀した。

 退官したといっても、山部は元警察官だ。階級から言えば雲の上の存在である警視監の森倉が、どうしてこれほど低姿勢なのだろうと、牧丘たちは驚いたようだが次の瞬間、彼らは山部の力量を知ることになった。

「今日、お呼びしたわけは、まだ聞いておられませんね」

「はい何も伺っていません。しかし要件は5日前の日産本牧埠頭の身元不明死体に関することではないですか? 神奈川県警の案件に外務省の方が同席されているということは、近くのブルンガ島でも関係していると見ておられるんでしょうか?」

 書類に目を通していた羽島が顔を上げ山部を凝視した。 

 あの場所に偶然、山部が居合わせたということは言わない。

 職業病というべきか毎朝新聞三紙に目を通しているが、そこから導き出した推測だけを述べた。

「ここ数日で新聞に記載された神奈川県内の重要事件は、能見台で起きた殺人事件とこの件のみ。ワイドショーでは前者がストーカーによる殺人事件とセンセーショナルに扱われていますが、その件で外務省が動くことはないでしょう」

 半ばハッタリのようなもので、外務省の人間が会議に混ざっているといっても本牧の水死体に限った事ではないし、ましてそれが近くにあるブルンガ島に関係しているという結論にはならない。

だが山部を呼び出したのが警視監であるとなると相当やっかいな案件であるはずだ。というのもこのような事件での捜査本部長は、殆どの場合、管轄する警察本部の警視正が務めるからだ。警視監が本部長(?)を務める事件など、山部は現役時代に経験したことがない。それに加えて、目撃した水上バイクの捜索位置からも彼らがそのように考えているのではないかと推測したに過ぎない。

 日頃、あまり自分を前に押し出さない性格の山部にしては、これは珍しいことだった。もしかしたら自分を高く評価してくれた森倉警視監に対しての感謝の意味があったのかもしれないし、元捜査一課の矜持かもしれない。あるいはしばらく現場から遠ざかっていた元刑事の単なるうっぷんばらしであっただけかもしれなかった。

 ともあれ一同が唖然とする中、森倉警視監だけは――、 

「さすがは山部さん、お呼びした甲斐があります」と笑った。 

神奈川県警の牧丘警視正が「では檜坂巡査部長、初めて下さい」と、この件に関する説明を促すとモニター脇にいた婦人警官が立ち上がった。

 童顔でショートヘアーながら襷でも肩にかければ、ミス◯◯と名乗ってもおかしくない美貌の持ち主だ。ただ少し緊張しているのかあるいは単にそそっかしいのか立ち上がった拍子に椅子に蹴躓き、膝に抱えていた資料をバサリと床に落としてしまった。

 牧丘警視正が苦笑いして、申しわけなさそうに会議のメンバーに頭を下げた。

「失礼しました」

 檜坂はすぐに拾い上げると何事もなかったかのようにモニターに初老の男性を映し出し、資料を滑舌良く読み上げ始めた。

「5日前の10月7日11時25分、横浜の本牧埠頭で水死体が上がりました。新聞やテレビでは、まだ身元捜査中としておりますが、実は遺留品から、水死体は都内・目黒区に住む、東都大学・文化人類学科教授の友久直光氏63歳と判明しています。モニターにあるこちらの写真がその友久教授です」 

 そこには穏やかな表情で笑う初老の男が映し出されていた。

大学の教授と言われれば、そう見える。だがラーメン屋のオヤジと紹介されればそんな風にも見える。ストイックな性格にも思えるが、悦楽的であるような印象も受ける。要するにあまり個性的とは言えない風貌の男だった。

 それにしても身元が判明したというのに未だにそれを発表しないのは何故だろう?

 下手に隠すとマスコミがどれ程うるさいか……。

 経験上分かっている山部にはそれが解せなかった。そんな山部の疑問は置き去りにして、檜坂はモニターに教授の頭部にある損傷部を写し出した。

「解剖の所見から右側頭部に陥没があり、MRIによる画像解析の結果、脳挫傷が直接の死因であると断定しました。他にも致命傷ではないものの、打撲による傷が多数見られます。薬毒物定性検査では血中アルコール濃度が0.3㎎/mlと出ましたがそれ以外の薬物は検出されませんでした。問題は友久教授がどこでこの損傷を負ったのかということですが、教授の遺体は、当日の潮の流れと死亡推定時間から、東京湾特殊浮体工作物・通称ブルンガ島より流れ着いたものと見ています」

 モニターの画面は代わって、本牧側から見た巨大な浮島が動画で映し出された。少しモヤのかかった浮島・ブルンガ島は、まるで海上に出現した蜃気楼のように見える。

「こちらがそのブルンガ島です。横浜の本牧沖4㎞の海上に浮かんでいて現在はブルンガ共和国に属し、約8000人のブルンガ人と70名ほどの日本人が暮らしています。それで、教授の致命傷となった脳挫傷はこのブルンガ島から本牧に至る、いずれかの場所で負ったものと考えられます。念のため、日本国内において友久教授が何らかのトラブルに巻き込まれていなかったかを調査しましたが、そのような報告はありませんでした。なお友久教授に戸籍上の妻子はなく、親族としては松戸市に弟夫婦が住んでいます。」

 檜坂は、友久教授の死について、ここまでに分かっていることをまとめた図表を写し出した。

「友久教授の都内の自宅が荒らされていたとか、銀行口座からここ最近、多額の現金が引き出されていたなどの異常はありませんでしたか?」

山部は少し質問をしてみた。退官したのは半年前だが、第一線を離れてからは3年が経つ。要するにこの質問は、刑事としての勘を取り戻すためのものでもあった。

「自宅が荒らされていた痕跡はありません。銀行口座については、生活費なのか、毎週15万円程度は引き出されてますがそれだけです。ただ昨年、教授は300万円という多額の現金を直接引き出した記録があります。おそらく銀行員が案じて使い途を尋ねたと思われますが、これに関しても教授は被害届を出していません」

 マイナンバーによる個人資産の管理が法制化されたためか、銀行を通した資金の流れはよくわかる。300万円の使い途は氣になるが被害届も出ていないのであれば、脅されていたということでもないかもしれない。大人だからたまに散財することもあるだろう。

となると、やはり国内でのトラブルが原因という理由ではないのかなと山部は推測した。しかし、まだ詰めなくてはならないことがある。

「これが事故にせよ事件にせよ他の場所で海に転落した、もしくは他の場所で殺害され、プレジャーボート等で遺棄された場合も考えられるのでは?」

 山部は別の見方からそう尋ねた。彼らもプロなのだから、正確な情報に基づいているとは思うが、初動捜査では、あらゆる可能性を排除しないのが基本だからだ。

「実は出入国記録があるのです」

外務省の羽島局次長が、山部の質問に答えようとする檜坂を制して答えた。

羽島という男、身長は1m60cm少々で痩身。要眼鏡。普通に喋っていても眉間に皺が出る。神経質そうな男だな……。山部は刑事時代の癖でそう分析した。 

「東京湾内にあるとはいえ、あの島は日本ではなくブルンガ共和国の領土扱いになっています。そのため立入るにはパスポートとビザが必要になってくるのです。友久教授はブルンガ島に渡航した記録があるものの、そこから出たという記録がありません。そういった理由もあってブルンガ島から流れ着いたという結論に達しました。巡査部長、後を続けて下さい」 

 檜坂が羽島にお辞儀して、話を続けた。

「ブルンガ大使館を通じて島に問い合わせたところ、すぐにブルンガ島のコーバンから返答がありました。コーバンというのは日本の交番から来た名前ですが、実際の規模は日本でいう所轄程度になります。そこから寄せられた情報によると10月6日の夜、島から酒に酔った人物が転落したという報を受け、周辺の海域を照らし出して捜査をしたということです。6日は雨で、数少ない目撃者の話から転落事故の該当者は日本人と判明。これが友久教授であろうという結論に達しました」

「そちらの方からも、落ちたのが誰だか判明したんですか?」

「はい。なぜなら現在ブルンガ島に滞在する日本人は吉浦電気関係者、浮島のメンテナンスを担当する桑山造船、日本人向けホテル京沖の支配人、アフリカの雇用を助けるNGO組織ハミクマの職員、さらには島内娯楽施設であるスナックの従業員を入れて76名、そのすべての所在がブルンガ警察によって確認済みだからです。なお、当時観光客等は滞在しておりませんでした」

 山部はその敏速な捜査に驚いた。ブルンガの警察はこれほど優秀なのだろうか? だがまあそれはいい。気になったのは日本の警察が報告を鵜呑みにしている点だ。

「待って下さい。今、事故と言われましたが、多数の打撲による傷まで認められているというのに、この件を日本側でも既に、事故と見なしているわけですか?」

「そうなります」

 森倉が少し残念そうに言った。 

「ブルンガ警察の発表では、これがもし誰かに襲われたのであれば教授から現地警察に助けを求める通報があったはずだが、それは無かったということです」

「目と鼻の先にある日本の警察へは?」

「ブルンガ島は、基本的に日本のスマホでも、大量のデータやアプリケーションを伴わない簡単なメールは繋がるはずなんですが、当日こちらへ通報はありませんでした。もっとも通報があったとしても現地は外国という扱いですから、直接我々が乗り出すわけにはいかず、ブルンガのコーバンに救援要請をするくらいしかできません」

「通報が無かったから事故と? しかし急襲されたのであれば通報できないですよ」

「目撃者の話では、教授が酒に酔って1人で海岸沿いを歩いていたというんですよ」

すると、自分がこの場所に呼ばれた理由は何だろう? 山部には解せなかった。

これがまだ捜査段階であれば、引退したとはいえ、長年殺人事件を担当してきた山部が捜査本部に助言者として呼ばれることもあるかもしれない。だが、既に事故と決定しているのなら自分は必要の無い人間のはずだ。

 そんな山部の疑問に応じるかのように森倉は続けて説明した。

「仮に、この件が事故と結論付けられたとしても、我々は島で起きたことの真相を知っておかなければなりません。このブルンガ島は我が国の首都・東京の目の前に浮かんでいるのです。またそこで起きたことが本当は殺しであったとすれば、その犯人を特定し、好ましからざる人物として本国に送還してもらうよう要請をしなければなりません」

「もし殺しであったと判明した場合、犯人の引き渡しを日本側が求めることは?」

「できません。ご存知のように、日本人が他国で殺害された場合は能動的、受動的属地主義や保護主義に依拠して日本の刑法が適用されます。しかしこの場合でも立法管轄権は及びますが、執行管轄権は行使できません。もちろん犯人引き渡し条約があれば良いのですが日本と犯罪人引渡し条約を結ぶ国は21世紀初頭の2カ国から大幅に増えたものの、その中にはブルンガ共和国が含まれていないのです。これは日本側に原因があるのではなく当該国内において邦人が犯罪事件に巻き込まれた時に、はたして公正な裁きを受けられるかどうか心許無いというのが理由ですが、ともかくそうした事情によって我々ができることは限られています。つまりあちらの警察署が既に事故として片付けている以上は、よほどのことがない限り、こちらから再捜査を要求するのは難しいのです」

 ここでまた羽島が割り込み、森倉から説明を引き継いだ。 

「そこで外務省としては、政府関係者とは無関係な民間の保険会社の調査員という肩書でブルンガ島に渡り、出来る限りの調査をして頂きたいと考えたわけです」

「頂きたい? つまり、その役目を私が担うのですか?」

「貴方であれば長年の経験で、今回の事案について正しく判断していただけるのではないかと森倉警視監から伺ったものですから」

 そう言って森倉をチラリと見た。

「無論、調査が差し障り無く行えるように、日本語のできる現地ガイドもお付けします。候補に上がっているのは日本への留学経験もあって、ブルンガ島建造以前から当該国との交渉では何度か働いてもらっている経験豊かな人物です」

 山部はなんとも急な展開に「はあ……」としか言えなかった。

「それから重要なことですが、それらの費用は謝礼も含め、すべて外務省がお支払い致します。またこの間の身分は臨時の国家公務員として扱わせて頂きます。期間は10月15日の午後から、10月17日の午前中まで。かなり短期間ではありますが、これは民間保険会社が行う事実関係を確認するだけの調査ということになっておりますので……。あとは現地滞在期間中のホテルの手配。それとブルンガ島の詳細な地図などもこちらで用意します。その条件で調査を引き受けてもらえませんか?」 

 羽島の畳み掛けに山部は戸惑った。 

 確かにブルンガ島は、東京湾にあり警視庁から直線距離でも30キロ程度しか離れていない。けれどそこは日本の法律が及ばぬ異国であり、何か突発的な危機が起こったとしても仲間のサポートは期待できないのだ。

 妻の智美が元気な頃であれば「あなた、ぜひ引き受けなさいな」と背中を押してくれたに違いない。だが智美は若年性アルツハイマーを患って既に他界し自分も老いた。一人暮らしの小さな分譲住宅には相棒という名の猫がいて数日間留守にするとなれば誰かに世話を頼まなくてはならない。けれども結婚した息子は今、関西で働いている。

 山部はこれは困ったとばかり「ウーン」と唸ったが、ここで断れば自分を推挙してくれた森倉に申し訳ない。それはやはり避けたかった。

 島への渡航費などは、外交機密費で賄うらしいし、相棒の世話はペットホテルに相談してみよう。ブルンガ島のことは分からないが現場に行けば、経験を活かして何とかなるだろうという気にもなった。そこで――、

「分かりました。実質48時間という短期間ですし、私では大してお役にも立てないかもしれませんが、それでよろしければ島に渡りましょう」

 と、請け負ってしまった。

「で、日本側の他のメンバーは?」

「私が助手として同行することになっています」

 先程、説明をした神奈川県警の女性警察官・檜坂が挙手をした。

「檜坂香織巡査部長はなかなか優秀でしてね。25才の若さながら学生時代にはアフリカへの留学経験もあるので英語、フランス語、スワヒリ語も堪能です」

 要するにこの若い女性警察官は、語学のスペシャリストらしい。しかし今の時代高度な翻訳でも小さな端末ひとつで用が足りる。現地ガイドも付けるというのに、なぜ外国語が得意という女性警察官を伴う必要があるのだろう。要するにこれは神奈川県警の案件だから、どうしても神奈川県警の人間が含まれなければいけないということだろうか?

 そういう思いが山部の顔に出たのかも知れない。

「最近は通訳機さえあれば不自由ないと思われるかも知れませんが、ブルンガ島はネット環境が日本と異なるようです。回線が繋がっているデスクトップならともかく、移動式のノートパソコンやスマホだとデータ通信上のエラーが多くなり、アプリケーションがうまく働かない場合が多いようです。しかしウチの檜坂がいれば大丈夫です」

 神奈川県警の牧丘警視正は、いささか誇らしげに檜坂が必要なわけを説明した。

その後は詳細な打ち合わせに移り、2時間ばかりでこの場は散会となった。

琢磨での会議を終えた山部は、「おやっさん、少しいいですか?」と、河野に呼び止められた。


 河野が案内したのは取調べの全面可視化に伴って、設置されたモニター室で、ここでは全ての取調べの様子を録画する機器が稼働している。

いくつかの部屋で取り調べが行われている中、河野が見て欲しいと言ったのは7号室だった。そこでは山部も知っている四課(マル暴担当)の刑事らがいて、通訳を交えてひとりのアフリカ系男性を尋問していた。

「あの男は昨日、千歳烏山で腕から血を流して歩いているところを職質されました。その際、様子がおかしいので手荷物を調べると、ショルダーバッグの中から、大型のナイフと禁止薬物を発見したため、現行犯逮捕となりました」

 担当刑事が机を叩いて厳しく尋問していても、ビクリとするのは通訳だけで、男の方はまるで動ぜず、大げさに手振りを交えながら首を振っていた。

「話を聞くと、自分は騙されて薬を売らされていたが、金をもらえなかったことで腹をたて、その地区を総括している男と喧嘩になったというんです。もっともケンカ相手の男は見つかっていません」

「ありそうな話だな。で、所轄の世田谷署でなく、こっちで調べてるわけは?」

「上からの命令です。男は自分がブルキナファソの人間で、パスポートは組織に取り上げられたと言っていますが、当該大使館に問い合わせたところ、職員は彼が自国の人間とは思えず、所持していたナイフもブルンガ人が用いる物だと教えてくれました」

「なるほど」

「その情報を受け、試しにブルンガでは公用語ながら、ブルキナファソでは話されないスワヒリ語を使って、ストループテスト(例えば母国語で『赤』という文字が青色で書かれていた場合、何色かと問われると多少時間がかかる。これが知らない言語であれば二つの情報が干渉しあわない)をした処、男がスワヒリ語を日常使っていることが判明しました。同時に羽田空港の記録とモニター調査した結果、彼がブルンガ島を出て、観光目的で日本に入って来たことが確認されたのです」

「すると、あの男は合法的に島から出て世田谷で薬物の売買をしていたということか? 大型のナイフをどうやって持ち出せたのかも謎だが、日本国内に既に彼らの麻薬組織があるのかもしれんな」

「実はそれだけではないんですよ。島では、未成人を含むブルンガ人10数名が行方不明になっているという情報があります。私は不法移民を斡旋する組織まで、できている気がするんです。そういう疑いもあって、こちらに移送されて来たのではないかと思うんです」

「つまり現在取り調べているのは四課だが、実は公安が注目しているという事件というわけか」

 河野の推測通りかもしれない。日本の首都近くに浮かぶ自国領の浮島に行けば、今までの倍ほど給料がもらえると聞いてやって来たブルンガ人も、目の前に見える日本に脱出さえすれば、さらにその数倍稼げるということが分かれば、メキシコ人がアメリカを目指す以上の騒ぎになることは目に見えている。海上保安庁や神奈川県警の目があるといっても、その気になれば夜陰に紛れて4キロの海峡を渡るのは、そう難しいことではないだろう。 

 すなわち治安維持という面から見れば、公安にとっては由々しき事態というわけだ。

特に来年は横浜で環境問題の重要な国際会議が開催される予定になっている。治安の悪化は看過できる問題ではない。

 それにあの男は自ら麻薬の売人だと言ったという。

 山部の知る限り犯罪者は皆、自分の罪を軽くしようと一段低い犯罪を自供するものだ。それなのに国籍まで誤魔化そうとした男が、自分は麻薬の密売人でしたと正直に吐露するだろうか? もしこの男が、麻薬の売人等とは格の違う犯罪者だとしたら――? 

 そう考えれば、ここは相当注意深く取り調べを行わなければならない。

 政府としては、東京湾の真ん中に労賃の安い外国をそのまま持って来るというのを妙案と考えたのだろうが、人間の心理を無視した奇策など、うまくいくはずがない。

 山部はそう思った。

「つまりこれからは不法移民を斡旋する組織のことまで考えないといけないのか」

「取り締まり方を間違えると人権問題にもなりますしね」

「日本人がアフリカ人を騙して狭い島に閉じ込め、安い給料で強制的に働かせているってか?」

「そりゃあ聞こえが良くないですね」

 河野が苦笑いしたところで、部屋のドアが開く音がした。

「こちらにおられると聞きまして。先程は突然会議にお呼び立てして失礼いたしました」

そう言いながら入ってきたのは森倉だった。

「あ、警視監!」

 河野が慌てて立ち上がり敬礼した。河野に続いて山部も立ち上がろうとするのを押し止めた森倉は、椅子を自分で引き寄せて山部と向き合う形で座ると、今回の依頼について警察としての立ち位置を話しはじめた。

「実は会議では山部さんに詳しく話せなかったんですが、ブルンガ共和国は現在もなお政情不安で本国では国政の主導権を握るハミ族と、旧王国系のクマ族の間で、暗殺合戦が繰り広げられているそうです」

「つまり治安があまり良くないと?」

「あまり報道されていませんが、その通りです。事前調査をすれば危険性が予測できたはずですが、日本政府が何故ブルンガ共和国を浮島プロジェクトの対象国に選んだのかについてはわかりません。一応、第9回のアフリカ開発会議(TICAD)で決まったと説明されていますがね」 

「私の場合は、新聞や雑誌で読んだだけですが、確かあの浮島には当初ASEAN諸国も興味を示していて、ラオスあたりが有望だと書かれていましたね」

 山部が相槌を打った。

「いずれにせよ、今回のことが殺人事件と断定されると、各方面で波風が立つことから、羽島局次長としては穏便に事故として片付けたいという意図が垣間見えます。つまり外務省が山部さんに期待するのは、やはり事故であったという穏便な結果報告です。実は我々警察もその意向に沿って動くということで内諾しております」

「穏便にですか」

「はい、極めて穏便な報告をお願いしたいということです。ご存知かと思いますが、この浮島は微妙な問題を抱えています。日本政府としては当初、工場と生活に必要なインフラ付きの土地を他国に貸し出すことで、自国の近くに安定して労働力を確保し、かつ移民に反対する国民感情にも配慮しようとしました。しかし浮島がいかに対象国の自治を保証していていると説明しても、人権に敏感な欧米諸国では『南アフリカのアパルトヘイト時代に存在したホームランドを思わせる悪夢!』と非難する声がありますし、また工場労働者とその家族で3千人程度と計算していた人口は、自然に市場や歓楽施設ができたことで想定外の8千人にも膨れ上がりました。こんな狭い場所でその人口は問題だとの声も聞こえます」

「なるほど……」

「島を貸し出す対照国として、『ブルンガ共和国』を選んだのは行政取り決め、つまり国会の承認を得ない外務省の政策的考慮でして。そういった経緯から羽島局次長にとっても敏感な問題なのでしょう」

 そのせいか外務省ではマスコミが、この件で騒ぐことを極度に恐れている。だから日本側の調査でも教授が亡くなったのは酒に酔って転落したと考えられるという報告書が欲しいのだろう。

「ご不満のようですね」

「というわけではありませんが。そういった微妙な報告をまとめるのが目的であれば、私よりも他の方が適任だったのではないかなとも思います」

「さすがは山部さん……」

 森倉がポツンと呟いた。 

「やはり私の人選に狂いはありませんでした」

 怪訝そうな表情の山部に対して、森倉が真剣な眼差しで、本当の目的を告げた。

「釈迦に説法でしょうが我々警察は日本の安全を託されています。真相を解明し犯罪を抑止する義務があるんです。今回、調査時間が非常に限られていますので、そんな短時間では何も見えて来ないかもしれません。その上、この事案が殺人事件であることが判明したとしても犯人の逮捕は不可能です。しかしできれば山部さんの目に浮かぶホシの目ぼしだけでも付けて頂きたい。さらには島内に存在するであろう犯罪組織の概要を掴んでもらいたいのです」 

「すると、外務省の意向は?」

「無視して下さって結構です! 我々はあくまで警察として動きましょう。問題が起きた場合の責任は、すべて私が取らせていただきます」

 森倉の意気込みに山部は少し驚いた。 

「正直に申しますと、私は外務省から相談を受けた時点で調査員の候補は山部さん以外、頭に浮かびませんでした。彼らは、警視庁の現役警察官ではなくOBを、それもなるべく刑事らしからぬ風貌と穏やかな物腰の人物との条件を付けて来ました。ブルンガ国政府に疑念を持たれぬためとの説明がありましたが、ありきたりの調査が行えればそれで良しとの意図が透けて見えます。ならばこれを逆手にとってやろうと山部さんに、お願いしたわけです」

「確かに私は刑事らしからぬ面構えですからね」

 山部は自嘲して、頭をポリポリかいた。

「また御冗談を。勿論、警視庁OBには他にも捜査に秀いでた人材は多くおられます。しかし地取りの名人にして、胆力、それと抜群の記憶力をも兼ね備えた人物は私の知る限り山部さんだけです」 

「いやいや、とてもそのような者では……」 

 山部は森倉のあまりの高評価に恐縮し、慌てて打ち消した。だが森倉はその認識を改める気は無いようで――、

「山部さんには、無理なお願いを引き受けて頂き、感謝しております」

 と言って深く礼をした。

 はたして自分は森倉の期待に答えることができるだろうか……。

 山部は心中、大変な事になったと思う一方で、これでやり残してきた最後の務めを果たせるという安堵感もあった。 

 山部がまだ警視庁にいた最後の3年間――、 

 若年性アルツハイマーで身の回りのことさえできなくなった妻・智美の介護のため一課を退き、比較的時間通りに帰宅できる部署に回してもらっていた。

河野らが何日も自宅に帰れず泊まり込みで捜査を続けていた時も山部はそれを横目で見ながら手助けもできず、定刻帰宅していた。

 仲間たちに迷惑をかけた借りを、今回少しでも返せるかもしれない……。そう思った。 

 モニターには、今も取調の刑事と麻薬密売の容疑者であるアフリカ系男性のやり取りが映されていたが、山部の目にはその黒人の鋭い眼光や、ストイックに短く刈り揃えられた髪の毛から単なる金目当ての売人とは映らず、むしろ過激思想を持った政治犯のように見えていた。


気軽に感想でも頂ければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ