第2話、警視庁元刑事・山部邦夫の今
2、警視庁元刑事・山部邦夫の今
夜7時に放送されるテレビのニュースでは『横浜の本牧埠頭で身元不明の死体が上がりました。神奈川県警の発表では……』などという、報道は無かった。
翌日(10月8日)朝のワイドショーでも同じ横浜の能見台で起きた殺人事件が『横浜の女性殺害はストーカーによる殺人か?』とセンセーショナルに語られていたが、本牧の事件については興味が無いかように完全無視だった。
わずかに新聞の地方欄でのみ、横浜港で見つかった身元不明死体について数行触れられていたものの、その控えめな扱いが山部にはむしろ何か裏でもあるのではないかと感じさせた。
「やれやれ、このクセが治らんなあ……」
山部は苦笑した。
4ヶ月程前、家電の量販店で山部に先んじて定年退官した高見沢元警部と偶然会った際、高見沢の老け込みが激しくて驚いたことがあった。
刑事畑一筋で現在の山部と同じく独り暮らし。趣味も無いという人だったことから、退官後に生きがいを見つけるのが難しかったのかもしれない。山部のように身長が1m70cmと警視庁内でも小柄だった者とは違って、1m85cmの堂々たる体格だった高見沢がすっかり小さくなったように見えた。
「お元気そうですね」とは言ったものの、自分はあんな風になるまいと誓い、その対策として子供の頃に好きだった釣りを再び始めたのだった。
実は警視庁OBは、比較的再就職先に困らない。
元々警務部という内部部局があって、再就職先の斡旋をしてくれる上、企業側でも悪質なクレーマーや、暴力団対策に警察のOBを重宝しているからなのだが、とりわけ山部のように、妻の病状が悪化して移動を願い出るまでは警視庁の花形部署・捜査一課にいた者は、高待遇で再就職できる確率が高い。
しかし民間企業の社風にうまく適応できる者とできない者がいる。高見沢はどうやら不適応組のようだ。
山部の場合も知り合いから某アパレルメーカーの総務課に誘われてはいるのだが、新しい世界に飛び込んで行く勇気とか情熱を持てず、年金が満額支給されるまでの間も就職せず、退職金を生活費に回して釣り三昧の生活をしようかと思っていた。
と、背後でカランという音がした。
「いかん、いかん。お前を忘れていたな」
山部はそう呟きながら、フローリング床の片隅に置いたプラスティック製の皿の前で、こちらを睨んでいる『相棒』に謝り、いつもより多めにキャットフードを盛り付けた。
山部が相棒と呼ぶこの猫は、若年性のアルツハイマーが進行して山部の定年を待たずに亡くなった妻・智美が、生前拾って来たハチワレ柄の雌猫だ。
智美は、自分で世話ができなくなるまで可愛がっていた。
ニャ~ンと鳴いたその声が、山部にはまるで今は亡き智美からの呼びかけのように感じられた。
「あなた、本当は本牧で見かけた事件に興味があるんでしょうだって? 何言ってんだよ智美。僕はもう警察官じゃないんだぜ」
山部は仏壇の上に飾ってある遺影に向かって愚痴を言った。
それにあれは神奈川で起きた事件だから管轄も違う。
現役時代に山部が目撃したとしても神奈川県警に任せるべき案件だったはずだ。
ところがそう考えた3日後の10月11日、山部の携帯に元部下であった河野からメールが届いた。それは山部が釣りの最中に機動捜査を目撃したこの事件に、彼自身が首を突っ込まざるを得なくなるきっかけとなるものだった。
〈おやっさん、明日の13時に『喫茶琢磨』に来て頂けませんか? 少しお願いしたいことがあります〉というのがその内容だった。
このメールにある喫茶琢磨はグー◯ルで検索しても出てこない。つまり隠語だ。
喫茶琢磨とは警視庁内にある小さな会議室を指している。
そんな所に来て欲しいというからには、古巣の一課で何か相談に乗って欲しい難解な問題でも起きたのかもしれない。
いいさ、どうせ暇を持て余している身だ。山部は了解の旨をメールに打ち込んだ。
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