第12話 友久教授の研究内容
12、友久教授の研究内容
11時過ぎにホテルに戻った山部は、檜坂の処理能力の高さに驚かされることになった。
彼女は入手した友久のパソコンデーターの中から、この島で書いたとみられる文章ファイルを抜粋し、それをホテルの支配人事務所でプリントアウトしていたのだ。
「何か面白そうなものは見つかった?」
「そうですね。内容は論文、日記、メモ帳とバラバラなんですが、この島で教授が何を研究していたのかは、少し分かってきました」
檜坂はそう言いながら、山部の前に〈クマ族とハミ族、両民族間における古代ブルンガ王国に対してのSD法などによる認識調査〉と書かれた数枚のプリントを提示した。
そこには教授が制作したアンケート結果の他、カイ二乗検定とか書かれたギリシャ文字を使った数式が記されていた。
山部は、そうした数式を小首を傾げながら真剣に眺めている檜坂を見て、こんな数式を読めるのかと感心した。
そういえばこの資料も教授の部屋にあったノートパソコンの消去ファイルから檜坂が拾い上げたものだ。
神奈川県警の牧丘警視正が檜坂巡査部長を助手として同行させるようにと言われた時、山部は正直こんな若い女性が役に立つのだろうか。かえって足手まといにならないかと考えてしまったが、なんのことはない。足手まといは自分自身だったのではないだろうかと思ってしまった。
そのため、檜坂が「学術論文ですが、細かいことは私にはよく分かりません」と言ったことで少し安心してしまった。
「で、大まかな部分は分かったの?」
「そうですね。これはこの島に住むクマ族とハミ族を母集団にして両民族から無作為に選んだそれぞれ50人にアンケートを取ったものだと思います。内容は七世紀頃に最も栄えたと言われる古代ブルンガ王国をどのように捉えているかを調査したものらしいです」
「古代ブルンガ王国?」
「伝説上の王国だそうで、西アフリカでガーナ帝国と覇を争っていたとされるとか書いてありました。これについては多くの歴史学者が存在性は薄いとしているそうです」
「その伝説的な王国について、島に住んでいる両民族が、どういった認識で見ているかを教授は調査していたわけだね」
「そのとおりです。数年前に、ハミ族による政変で滅んだブルンガ王国は、この古代ブルンガ王国との系譜を主張していたようです。時の政府は多額の予算を付けて国民全体への啓蒙に力を入れていて国定教科書にも事実として記載していましたが、クマ族の人々はこの歴史をほぼ全員が信じていたのに対し、ハミ族の人々は創作だと考えていたようです。教授はそれぞれの民族、ことにクマ族の人々の意識が、政権の変わった今でも同じなのかを、この島で調査していたようです」
「両民族の前政権に対する意識調査か。そりゃあ、微妙なテーマだねえ」
「ええ、一つ質問の仕方を間違えると、どちらかの民族を怒らせることになります」
「船に乗った時、君にアピールしていた日浦とかいう男にスナックで出会ったんだけど、あの男も言ってたよ。ハミ族は世俗的で、クマ族は、伝統を重んじる保守的な民族だとか」
「はあ、あの人ですか」
檜坂はほんの一瞬だけ嫌悪の表情を見せた。
この様子だと、明日スナックに行って彼から色々聞き出して欲しいと言うのは気が引ける。
「友久教授は〈ハミ族とクマ族における宗教観の違い〉というタイトルがついた手記の中で、同じ非カルケドン派・コプト教の流れを汲むブルンガ聖教でもハミ族の教会はゴスペル風の賛美歌を歌って現代的にアレンジした教義を教えるのに対し、クマ族の教会では神父が伝統の呪術を交えて教えに従わぬ者は皆、地獄に落ちると恐ろしげに語るとかで、その違いが興味深いと書いていました」
「なるほど。人生観も生き方も、両民族では違うわけだ」
「八年前の政変で、といってもこれが書かれた時点でのことですが倒れたブルンガ王国についてハミ族の人達は『過去の政権』と興味が無いのに対し、クマ族の人々は、亡くなられた王様に今も尊敬の念を持っているかのように語るそうです」
「友久教授はクマ族の集落の側にあるアパートに住んでいたんだっけね」
「文化人類学者の教授にとっては、クマ族の方がより興味深かったんじゃないでしょうか。ブルンガ王国の学校では、初等科から厳格に王に対する忠誠を誓わせたにも関わらずハミ族にはまったく浸透しなかったようです。この点について教授は、インターネット、民族的反発、国内のインフラ整備に関わった中国など外国の影響をあげています」
となると、以前のブルンガ王国ではインターネットの規制や中国などの、政権にとって好ましくない国々との交易を制限したことが推測される。逆にハミ族の人々は中国に信頼を寄せたはずだ。
「そういえば、以前ブルンガ王国でレアメタルや石油の権益を持っていた日本や西洋諸国も、現在のハミ族支配下ブルンガ共和国では影響力を失い、その権益を中国やロシアに握られたという話は聞いたことがあるな」
「山部さん、よく新聞を読んでおられますね」
だとすれば日本はどうして関係が薄くなったこの国をパートナーとして選んだのだろう?
ブルンガが王国だった時代には東京の大使館を東アジアの窓口としていたが現在のブルンガ共和国では大使も北京に常駐し、日本の大使館には自国民の駐在員さえ置いていないではないか。
山部は不思議に思った。
もし人件費が安い国を東京湾に呼んで来たいだけなら、もっと交流のある国でも良かったはずだ。
その回答がこれらのファイルの中にあるのだろうか。
「実はこうした論文だけではなく、直接今回の調査にとって重要な日記であろうと思われるファイルも見つけたんですが、これを開くためのキーワードが分かりません」
「キーワード?」
「隠しファイルの事です。明らかにギガ単位のファイルが存在しているんですが、それらを開くにはパスワードが必要なんです。それで何かヒントがないかと探してるんです」
檜坂が少し目をこすりながら言った。
山部たちが調査できるのは明後日までと定められている。だから檜坂がなんとかパスワードを見つけたいという気持も分かる。
しかし彼女の調査にかける情熱は単に日数が限られているということ以上のものがあると山部は感じた。
それはもしかしたら……。
「そうか。まあ、あまり根を詰めずに、今日はもう休んでくれ」
そうでなくても彼女は目が疲れやすいはずだ。
羽田の出国手続きの際、何本かの特殊な目薬を持ち込んだのは、そのせいだ。だから休ませなければならない。
山部は明日に備えて眠るようにと厳命して自室に入った。
ベッドに横たわると、心なしか天井がグルグル回っているように感じる。
ビールは酔うほども飲んでいなかったので、これはやはり島全体がゆっくりと波間に浮き沈みしているせいではないだろうか。
山部はここで少し今回の事案を整理してみることにした。
まず第一に、これは友久教授の死体が東京湾に浮かぶブルンガ島より流れ着いたという事件、もしくは事故についての調査だ。(あくまで捜査ではない)
外務省やブルンガ政府は、これが事故であったという穏便な調査結果を期待しているようで、徹底的な調査はできない。
与えられた時間は僅か3日間(実質48時間)。調査にあたる人員は案内役のルカ・ベンを除けば、山部自身と檜坂巡査部長の2名だけだ。
そのためこの事案を依頼してきた森倉警視監も真相の究明を期待しているわけではなく日本の治安を守る警察の立場から、元刑事の目を通して浮かぶ、ホシの目ぼしであるとか、島内に存在するであろう犯罪組織の概要を掴んでもらいたいというだけだ。
今日一日で分かったことはといえば……、
〇 この島の日本側施設を管理する富永管理部長もブルンガ警察も調査に協力的で、いわゆる檀家回り状態になっている。ただし住民の中には調査を好ましく思っていない者もいるようで、こちらに向けた投石があった。
〇 友久教授が転落したとされる現場は水深が深く、酔って落ちたとしても、それだけでは死亡原因とされる傷はつきにくいと思われるが、目撃者(ブルンガ人)は酔って落ちたと主張している。
〇 ブルンガ人の町は、昼間見て回った地域には、極端に治安が悪いゲットーなどは無く、市場も賑わっており貧困層も見当たらなかった。
〇 友久教授のアパートは荒らされていない。それどころか、まるで工作でもされたかのように生前の生活が分かる状態で残されている。ビール缶が多数残されていた。
〇 友久教授のパソコンのデーターは(本人もしくは外部の者)によって消されていたが、檜坂が特殊技能で取り出し、分析中。
〇 日本人の集まるスナック・ブルンガでは従業員でチーママの静香、店の客でNGOの日浦や吉浦電機の関係者に聴取。その結果友久教授死亡の前にもクマ族のモカンゼという人が殺害されたらしい。なお友久教授には(おそらくは内縁の)奥さんがいることが判明。
裏付けは河野に頼んである。
ここから見えてくる状況とは何だろう?
山部は天井を見つめながら、いくつもある可能性を考えた。
まず、友久教授がやはり事故だったという可能性。もちろん否定できないが山部の長年の経験が、これは殺しだと告げていた。
ではもし殺人事件だと仮定すると、友久教授を殺したのは誰だろう?
友久教授は資産家でもなければ犯罪に手を染めているわけでもない。
彼は文化人類学者で東京湾に浮かぶこのブルンガ島に住み、対立するクマ族とハミ族の歴史やそれぞれの民族の意識調査をしていた。
この島では、表だって紛争はないが影では両民族のギャング同士、あるいは巻き込まれた民間人も殺害されることがあるという。現に先日もモカンゼというクマ族の男が殺されたらしい。教授はクマ族が住む地域に暮らしており、またそこでは日本人がよく思われていない感がある。
ではクマ族、もしくはハミ族のギャングによって殺されたのか?
だが、部屋の工作は計画的で激情型の人間によるものではない。そうなると組織が絡んでくるのだが、ギャングに殺された(つまり島の治安は良くない)ということを隠ぺいするために第三者による工作が行われたのであれば話は別だ。
しかしその場合はパソコンに記録された教授の記録を消去する必要があるとは思えない。では教授を殺害したのは、どこかの秘密組織だろうか? もしそうなら教授自身が別の顔を持っていてどこかの組織に属していて……、
あるいは、この島には軍事上の秘密でもあって、教授が偶然それを見つけたとか。
いやいや、それは突拍子もない話だ。
そんな映画みたいな話ではなく案外単純な人間関係の諍いなのかもしれない。教授には内縁の妻がいて、昨年300万円を引き出していて、それが関係しているとすると……、
遠くから、以前映画で観たフランス警察のパトカーのサイレンのような音が聞こえていた。事件だろうか?
もしかすると900m四方しかないこの島では、毎晩騒乱が起こっているのかもしれない。
そう思いながら、いつしか山部は眠っていた。
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