第1話 発端 (主な登場人物表)
東京湾・ブルンガ島殺人事件 主な登場人物
山部 邦夫 (やまべくにお)(61) 元警視庁捜査一課刑事
桧坂 香織 (ひのきさか かおり)(25) 神奈川県警巡査部長
河野 光太郎 (こうの こうたろう)(38) 警視庁捜査一課刑事
森倉 修司 (もりくら しゅうじ)(45) 警視監 官房総務課長
友久 直光 (ともひさ なおみつ)(63) 東都大学文化人類学者
日浦 隆之 (ひうら たかゆき)(38) NGOハミクマ理事
富永 芳雄 (とみなが よしお)(52) 吉浦電気・管理部長
間宮 素子 (まみや もとこ)(47) 京沖ホテル支配人
内田 静香 (うちだ しずか)(28) スナック・チーママ
高本 洋介 (たかもと ようすけ)(47) 桑山造船・管理部長
脇田 智則 (わきた とものり)(38) 吉浦電気・工場長
ルカ・ベン(35) ブルンガ島ガイド
アミラ (18) 初等科の教師
1、発端 (203X年10月7日)
コマセバケツに溶かしたアミエビも、まもなく底を突く。
定年退官した今では、連続した動きを続けるのもしんどくなってきたのだが、山部邦夫は先程から座っては仕掛けの上に付いたカゴにアミエビを詰め込み、立ち上がっては海に放り込むという動作を100回以上もくり返していた。
これはサビキ釣りといい、防波堤からアジやイワシといった小魚を狙う定番の釣り方だ。
10月に入ったとはいえ今年はいつまでも夏日が続き、昼下がりの堤防はまだ相当熱気がある。山部は額に流れる汗を拭きながら、好きなことだからこれができるが、もしかしたら警視庁で刑事をしていた頃のトレーニングよりキツイのじゃないかと思った。
「あー首が痛い。それと腰に来る」
ついに山部は竿を立てかけてその場に座り込み、空を見上げて、首筋をさすった。
「山部さん、関西風にカゴを下に付けたら楽ですよ」
本牧の魚釣公園でよく出会う横田と名乗る中年男が、そう言って山部にアドバイスをくれた。
お互い名前は知っているが、どこの何者かは知らない。
確かに横田の言う通りオモリを兼ねたサビキカゴを仕掛けの下に付けた関西風は手返しが早い。だが海の中では仕掛けの上にサビキカゴがあった方が有利なのではないか?
山部はそう考えてこれまで東京仕掛けにこだわってきたのだ。
いずれにせよ今日はまったく釣れない。
昔はこの季節、波止場でよく釣れたアジやイワシはどこへ行ってしまったのか?
山部はため息をついて海を見た。
「確かに釣れませんねえ」
心の声を読んだかのように横田がそう言って笑った。
「昨日の雨で水潮(淡水の流入で海の塩分濃度が若干下がること)になったから、という理由もあるんでしょうが、僕は一番の原因はアレだと思うんですよね」
横田が海の上に浮かぶ建造物を指差した。
それはこの本牧埠頭から4キロ沖。東南東の海上に見える縦横、共に900mもある巨大な浮島だった。
ブルンガ島と呼ばれている、この浮島――、
昔、関西空港が計画された時も一案として上がった『浮体方式』で作られている。
パンデミックを引き起こした、新型コロナウィルス(COVID-19)の影響で長期間低迷が続く経済を立て直すため国が総力を上げて取り組んだ景気浮揚策・レジリエンス21の一環で、2028年から6年の歳月をかけて桑山造船が建造し、2034年の春に横浜沖に浮かべたものだ。
「あそこで釣ったら、もっとデカイやつが掛かると思うんですが、日本人はパスポートとビザが無いと入られないなんて、癪にさわる話ですよね」
横田がいまいましげに舌打ちをした。確かにその場所は東京湾内にありながら日本ではない。現在はブルンガ共和国というアフリカの国なのだった。
同じ景気浮揚策ながら、例えばリニア新幹線の名古屋~大阪間、前倒しなど他のプロジェクトと比べて、この浮島だけ極めて異彩を放つ存在と言えるのは、その特殊な運用法にあった。一種の特区ではあるのだが、とてもそういう括りでは表せないものだ。
たとえばイベリア半島南東端にあるジブラルタル半島はイギリス領であり、イギリス通貨・ポンドが用いられる。あるいは、モロッコ北端に位置するセウタはスペイン領となっていてスペイン法が適用される。これらは強大国が強引に他国を切り取って自国領としたもので対象国が望むものではない。
しかしこの浮島の場合は、逆転の発想とも言うべきもので、日本の領海内に希望する国の飛び地を期間限定で設け、インフラ付きでリースするという形をとっている。
日本側にすれば賃金の安い国を呼ぶことで生産コストを下げつつ安定供給が可能になる。またこの浮島で生産することにより、突然、相手国で輸出管理法が適用され、日本に必要な物資が入らなくなるという事態も回避できる。
もちろん応募する国にとっては、自国の土地と同じ扱いにできることで税収や失業対策、技術習得などでメリットが大きい。
法的には大使館と同じ扱いで、そこに日本のコンビニが出店し対象国の人間が働いていると考えればいい。
今回公募に応じた国の中から選ばれたのがブルンガ共和国だ。
こうして吉浦電気が1000人以上のブルンガ人労働者を、彼らが本国で通常得る平均月収を倍程度にした給与で雇い入れることができたのだ。
「おや、事件かな?」
とっくに釣りに対する集中力が切れている横田が、別方向を見て言った。
「今度は何だい?」
山部は、サビキカゴをゆする手を止めず、横田の指差す方向を眺めた。
右手前方、日産埠頭の辺りで、横浜水上警察の所有する警備艇の『あしがら』と『つるぎ』が水上バイク数台を伴い、何らかの作業をしているのが見えた。陸地側ではパトカーが集結して赤色警光灯を回転させている。海上を走る水上バイクは、4㎞沖の浮島周辺まで行っては旋回して戻るという動作を繰り返していた。
「これはドザエモンでも上がったな……」
横田がまるでミステリー小説に出てくる探偵のように、顎を撫でながら言った。
別にこの大掛かりな捜査が、水死体が上がったものと決めつけることはできない。もしかしたら、近々開催予定の国際会議に備えた周到な準備かもしれない。だが確かに山部も刑事時代の経験から、その体制が尋常ではないと直感した。
しばらく眺めていると、警備艇の一隻『つるぎ』が山部たちが釣りをしているすぐ側までやって来た。
乗り込んでいる警察官が浮遊物を捜索している様子が見える。
機動捜査の体制から見ても、やはり横田の言うように死体が回収されたのだろう。
「こりゃあ釣りどころじゃないね」
山部は竿を置いて、作業の様子を凝視した。
「山部さん、あんまり熱心に見ていると怪しまれて職質されるかもしれないよ。ほらよく言うでしょ。犯人は現場に戻るって。山部さんなんかは気が弱そうだから、職質されたらやってもいないのに、『私が犯人です』なんて言ってしまうかもよ」
相手が、元警視庁捜査一課の刑事だったことを知らない横田が、そう言って笑ったので、山部も「それはないよ」と言って苦笑するしかなかった。
海上で警察官たちが何かを懸命に捜査している様子を見ていると山部は今でも血が騒ぐ。だが退官した今では関係の無い話だった。
「なんでもないさ」
山部は自分に言い聞かせるようにして、サビキ釣りに戻った。
[この小説の未来設定について」
この小説の舞台は近未来(2038年)の日本です。
読んでくださった人の中には、なんだ今とほとんど変わってないじゃないかと思われる方もおられるかと思います。
確かにこの小説の中にはエアカーもアンドロイドも、あるいは火星行きのロケットも登場しません。東京湾に変な構造物が浮かんでいて、そこがアフリカであるというだけの話です。
しかし、私は18年後の世界も、現在とさほど変わらないのではないかと考えました。
例えば1968年公開の「2001年宇宙の旅」では、今から19年も前に有人宇宙船ディスカバリー号が木星探査をしていることになっています。1982年公開の「ブレードランナー」では人類は既に太陽系を飛び出し、人間と見分けがつかないレプリカントと呼ばれるアンドロイドが存在しますが、この映画における舞台は2019年のロサンゼルスです。また鉄腕アトムが誕生したのは2003年という設定になっています。
しかし現実の世界ではコンピューターや通信技術、薄型テレビといった分野で予想を超えた進歩はあったものの、物理的経済的な制約を受ける分野ではあまり変っていないように思えます。
この小説では、まだスマホが使われており、それどころか主人公の山部はガラケーを持っています。いくらなんでもこの時代にガラケーはないだろうと思われるでしょうが、私は体内に埋め込んだ端末をコンタクト型のモニターと仮想キーボードで操る未来より、未だにしぶとくプライバシーの守れるガラケーに固執する人がいる未来の方が現実的ではないかと思い、あえてそのような設定にしてみました。付け加えれば税抜きの缶コーヒーは、まだ100円としています。
18年後、どうなっているかは分かりませんが、この小説がまだ残っていて、かつ私がまだ生きていれば検証してみたいと思っています。
この小説は他サイトで以前書いた中編小説を長編に改編したもので長編の完全版はこのサイトだけで発表します。