行き先はコインが決める
この作品は、牧田紗矢乃様主催【第三回・文章×絵企画】参加作品です。
イラストは hal 様(http://5892.mitemin.net/i230008/)からご提供頂きました。
大時計台の中で、二人の少年が大人の目を盗んで話し合っている。
「太陽と月のコインを使うの?」
「そうだよ。二人で決めただろ。オモテ――太陽だったら右へ行く。ウラの月だったら左だ」
蒸気の熱と巨大歯車の轟音に耐えながら、彼らはやせ細った顔を突き合わせる。
「今度こそ自由になれるかな」
「なれるさ」
さあ、行くぜ――と声をかけ、少年は黄金色のコインを弾いた。
◆◇◆
「エド。起きてよ」
相棒に揺り動かされ、エドワードは帽子のつばを持ち上げた。赤い瞳を楽しげに輝かせた少年ウィルが、向かいの座席にいる。ウィルは興奮しているときの癖で、頭から生えた兎耳を内へ外へ忙しなく動かしている。
「もう。寝不足だからって、せっかくの空の旅を爆睡して過ごすなんてもったいないよ」
「うるせ」
エドワードは柔らかな質の髪を掻いた。その拍子に肩掛けにしたランタンが揺れる。彼はその他にも様々な小物を身につけている。相棒のウィルもまた冒険者然とした格好である。
――次はオールディス飛空挺。オールディス飛空挺――
客室放送が流れる。
彼らは今、あるクエストの収穫品を届けるため空中蒸気機関車に乗っていた。届け物を依頼者に渡せば、その報奨金で、幼少から続いた不自由な身分から晴れて解放される。
「ようやく自由だ。これで理不尽な境遇ともおさらばだ」
「待ち遠しいね」
ウィルがそう言って、エドワードの隣に腰掛ける。
その直後、激しい金属音が鳴って機関車が大きく揺れた。駆動部にこもっていた蒸気が客室まで噴き上がる。
ウィルがエドワードの袖を引く。逃げ惑う乗客とは別に、何か明確な意志を持って近づいてくる足音を彼の耳は聞き取っていた。
「乗っ取りかよ」
「駄目だ、エド。前後から挟まれてる」
「――いたぞ!」
白煙の向こうから、黒い影が滑るように現れる。彼らはエドワードたちを視界に捉えると、すぐさま銃を発砲する。座席に張られた濃緑のクッションが爆ぜる。
ウィルはエドワードを抱えて跳躍し、射撃を全て躱していた。エドワードは腰の銃を抜き、素早く撃鉄をあげる。正確無比の射撃で反撃しようとした刹那、ウィルが焦りの声を出す。
「しまった。依頼品が」
弾がポーチをかすめ、中からエメラルドグリーンの鉱石がこぼれたのだ。
鉱石は割れた硝子から機関車の外へ――遙か雲海の下へと落ちる。
襲撃者たちにわずかな動揺が走る。エドワードは、彼らの狙いがあの鉱石だと悟った。
――くそ。こんなわけのわからない連中のせいで自由の証を失ってたまるか。
「ウィル、跳べ!」
「依頼品のキャッチはよろしく、エド!」
小柄ながら強靱な脚力を持つウィルが天井を蹴り、体当たりで窓を破る。エドは鉱石をしっかりと空中でつかんだ。
「よし。ウィル、機関車に戻ってくれ」
「え? エドが何とかしてくれるんじゃないの?」
二人は顔を見合わせた。
抜けるような大空と蠢く雲海。少し視線を上げれば目的地である流麗なオールディス飛空挺がある。まさにここは人智と自然の端境だ。
エドワードの手の中で翠の光が輝いた。
光は二人を包み込み、やがて澄んだ深緑色をした小型飛空挺へと具象化した。機体外観の流麗さに似合わない荒々しい駆動音が耳を打つ。
「すげえ。物質化だぜ。まるで魔法みたいだ」
「でもこれ、身体を固定しないと危なくないかな。覆いがないし」
エドワードが手にした鉱石と、突如現れた飛空挺を交互に見ながら、ウィルがうろたえる。
獣人少年の不安は的中した。
オールディスまで近づいた小型飛空挺が、予想しないタイミングで急制動をかけたのだ。
操縦席の上にしがみついたままだったエドワードとウィルは、機体の外に投げ出され、悲鳴を上げながらオールディスの中に墜落していった。
周囲の光景が一変する。
複雑な機構が、高速で落下していくエドワードとウィルの前に立ち塞がる。
オールディス飛空挺の下部機関室だ。
エドワードは銃を抜き、撃鉄を半分まで上げる。目まぐるしく過ぎる景色の中から一点を見定め、引き金を引く。
銃口から放たれたワイヤーが鉄柱に絡みつき、落下の勢いを殺す。だが完全には止まらない。赤銅色の凹凸がすぐ目の前に来る。ウィルが全身のバネを使い、絶妙のタイミングで歯車を蹴る。何とか、大きな怪我なく床に降り立った。
エドワードとウィルは揃って、肺に溜め込んでいた緊張の息を吐いた。
「……もう! それがあるなら最初から使ってよ、エド!」
「お前の身体能力なら何とかなると思った」
「ならないよ! まあ、勢いで跳んだ僕も僕だけど」
エドワードの左手には、翠の光を放ち続ける鉱石がしっかりとにぎられている。ウィルが指先でつつく。
「それにしても、まさかこの石にあんな力があったなんてね。飛空挺はもったいなかったな。エドもそう思うよね。……エド?」
エドワードは返事をせず、立ち尽くしている。ウィルは首を傾げ、相棒の視線を追う。
彼らの前に、大小様々の歯車や縦横無尽に行き交う鉄柱、その間を魂のように過ぎては消える蒸気が広がっていた。飛空挺オールディスの心臓部だ。この巨大で複雑精緻な機関と比べたら、人はひどく小さな存在だと思える。まるで異世界に迷い込んでしまったかのようだ。
そういえばエドはこういうのが好きだったな、と微笑み、ふと、あることを思い出す。
「ねえ。ここってさ……」
「ウィル、知ってるか。オールディス級の飛空挺には、わざわざ人間がメンテナンスしなくてもいいように自動保守管理機能が付いてるんだぜ」
「今思い出したよ! 伏せてっ」
熱に浮かされたようにつぶやくエドワードを、無理矢理床に引き倒す。その頭上を、二十メートルはある歯車が飛んでいく。あやうく頭が胴体から切り離されるところだった。歯車は別の場所にある軸にひとりでに収まり、何事もなかったかのように駆動を再開する。
自動保守管理機能が働く機関室は、超質量の鋼鉄が縦横無尽に飛び回る危険地帯だった。
「下手すると僕ら挽肉だよ」
「お前は美味しそうだな」
「こんなときに冗談言わないで」
「こんなときだから、だろ。行こうぜ。依頼主はこの上だ」
エドワードが不敵に言う。
そのとき、近くに設置されていた金属ベルがけたたましく鳴った。ウィルが耳を畳んで痛みに耐える。
警備が来る前に先を急がなければ――エドワードは翠鉱石を懐にしまった。すると嘘のようにベルが鳴り止む。
ウィルが恐る恐る、辺りを見回した。
「もしかして、その石のせい? 周りの機器に誤作動を起こす、とか」
「さあな。けど、もし本当にそうなら、この先一瞬たりとも気が抜けねえぞ。やばいな」
言葉とは裏腹に、エドワードは口元を引き上げた。
ウィルが長い耳をそばだてる。しばらく周囲の音を探ると、少し首を傾げつつ、やおら左前方を指差す。
「たぶん、あっち。ボイラーや歯車の音があんまりしない。風も流れてきてるし、間違いない、と思う」
「お前にしては歯切れが悪いな。もしかして、さっきの警報ベルで耳を痛めたのか」
「大丈夫。ちょっとだけ麻痺してる程度だから、すぐ戻るよ。それより急ごう」
エドワードにウィルが抱きつく。
機械銃でワイヤーを飛ばし、高所に乗り移る。そこから先は足場を見つけながら慎重に進む。周囲の警戒はウィルに任せ、エドワードはワイヤー操作に細心の注意を払う。
やがて、人の背丈よりも大きな金属容器が並ぶ区画に差しかかる。下は隙間なく複雑に噛み合う歯車の海だ。頭上の鉄梁を上手く利用し、金属容器を蹴って推力を得ながら、二人はさらに奥へと進む。
突然、視界が白く染まった。金属容器の隙間から蒸気が噴き出したのだ。周囲の温度が一気に上がり、まともに目を開けられなくなる。いくらエドワードでも、この状況で目をつむったままワイヤーを操作するのは自殺行為だった。喋れば蒸気を吸い込んで喉を焼いてしまうかもしれない。
ウィルが抱きつく腕に力を込め、サポートするからそのまま行って、と無言で伝えてきた。袖を引く強さでウィルの意図を察し、エドワードはワイヤーの向きを調節する。幼い頃から一緒だった彼らの経験と絆の賜物だった。
幸い、蒸気の中からはすぐに抜けることができた。
「大丈夫か」
「平気だよ。これくらい。――エド、前。気をつけて」
ウィルが前方を指差す。
金属容器のひとつがゆっくりと倒れる。滑らかな表面に亀裂が入り、そこから破裂音とともに恐ろしい勢いで火柱が上がる。一瞬にして炎の壁となる。
エドワードたちは壁に向かって真っ直ぐ進んでいる。ワイヤー操作では急停止できない。周りにはまともな足場がない。下に落ちれば速やかにすり潰されるが、このまま進めば消し炭だ。
エドワードは目配せをする。うなずいたウィルが、エドワードの腰ベルトに取り付けられた試験管を一本、抜き取る。青白い液体が半分ほど詰まったそれを、ウィルは人差し指と中指の間に挟む。
炎の壁が迫る。
「三、二、一……今!」
エドワードの合図と共に、ウィルは渾身の力で投げた。
試験管が炎に飲まれる寸前、液体の色が灰色に変わる。急速に膨張した内容物が硝子の容器を破り、周囲に音と煙と衝撃波をまき散らす。
噴き上がった炎は、突如吹き付けた風の圧によってわずかな時間、押し戻される。その隙にエドワードとウィルは一気に炎の壁を越えた。
暢気に息をつく間はなかった。金属容器の先の区画では、中型の歯車が空中を行き交っていた。「一難去ってまた一難」とつぶやいたエドワードだが、表情に焦りはない。
中型歯車が作る危険地帯のさらに先に、上へ続く階段の踊り場が見えた。
エドワードがワイヤーを再度調節する。近づいてきた金属の歯を、ウィルがかけ声とともに蹴る。上昇力を得た身体は危険な交差点を越え、目的の踊り場に落ち着いた。
銃をホルスターに収め、エドワードはウィルとハイタッチをする。
「しかし、これほど精巧な造りの機関部に、あんなトラブルが起こるなんてな」
手すりに肘を立て、金属容器の列を振り返る。炎はすでに収まっていて、破損した容器はひとりでに奥の方へと移動していく。
「さっきの警報ベルといい、こりゃあ本当に石のせいかもしれない。改めてとんでもないシロモノだな」
「ちゃんとしまってた方がいいね。エド、僕が持ってるよ。内ベルトに入れとくから」
ウィルの提案にうなずき、鉱石を渡す。獣人少年は、服の下に巻いたベルトのポケットに入れて、大事に封をした。これなら過って落としたりポーチと一緒に紛失したりすることはない。
階段を上ると屋外に出た。大空高所の清々しく冷たい空気が二人の髪を揺らす。蒸気の熱や炎の煤が、エドワードたちの身体から剥がされ後方へ吹き飛ぶ。
そこは、平らな床板が突き出した広い場所だった。床の表面には黒い轍が何本か残っている。どうやら連絡艇か何かの発着場のようだ。
隅の方に、見覚えのある機体が停まっている。二人は顔を見合わせ、機体の側に駆け寄った。
「間違いない。あの飛空挺だ。どうしてこんなところに」
「僕たちのことを待ってたのかな」
「そうだったら、まるで生きてる船だな。――よう、あんた。ありがとな。俺たちはあんたのおかげで助かったんだぜ。寿命が縮まる思いもしたがな」
エドワードが搭乗席を叩く。
すると、機体の表面に淡い翠の光線が走った。まるで血が全身を通うように、光は翼の先まで行き渡る。
『Αυτό το αεροπλάνο έχει επιβεβαιώσει τον επιβάτη』
「うお、喋った!?」
「すごい。こんな機体見たことないよ。やっぱり僕たちを待ってたんだ」
「良い子だ。依頼が完了したら、しっかり働いてもらうぜ」
「もう。エドってば、まだ僕たちのものだと決まったわけじゃ――」
ウィルの耳が高く立つ。
「エド、危ない!」
叫ぶ。エドワードを突き飛ばす。銃声が響く。
エドワードは、ゆっくりと――ひどくゆっくりと体勢を崩す相棒を見る。
「ウィールッ!」
手を伸ばす。時間の流れが泥となって全身にまとわりつくような感覚。気ばかり焦り、動けない。指先が、仰向けに倒れていくウィルをかすめ、宙をつかむ。
銃撃によって倒れたウィルが、床板の端から落下した。
蒼白になって下をのぞく。雲の塊があり、ウィルの姿を見つけることはできなかった。崩れ落ち、うなだれる。
背後から複数の足音が迫る。機敏な動きで包囲網を作り、銃口を突きつける。身体の要所を強化革で覆う彼らは、エドワードを空中蒸気機関車で襲った男たちと同じ姿であった。
エドワードの両手が震える。噛んだ唇から鉄錆の味が広がる。血走った目を男たちに向ける。
雄叫びを上げ、ホルスターから抜き様、銃の引き金を引こうとした。だが一瞬早く、滑り寄ってきた男のひとりに後頭部を強打され、エドワードは自らの激情とは裏腹に、身体から力が抜けていく感覚を味わった。
◆◇◆
冷水の刺激で、意識が戻る。目を開けたエドワードは、油が腐ったような饐えた臭いと両手足の違和感に眉をしかめた。
「ようやくお目覚めか」
頭上から声をかけられる。頭部を黒い布で覆った大柄な男が立っていた。エドワードは敵意を込めて睨みつけたが、相手はまったく意に介さない。
エドワードは両手首を後ろ手に、両足首をぴたりと揃えた状態で固定され、床にうつ伏せに転がされていた。両脇に控えていた男たちに頭をつかまれ、後ろを振り向くよう強要される。
「あれが見えるか」
大柄な男が静かに言う。暗がりの中で輪郭が浮かぶそれは、幅が三メートルはある大きな歯車だった。上下にひとつずつ据えられているが、歯車の間にはわずかな隙間があった。
男がゆっくりと近づき、エドワードの足下から伸びる荒縄を手に取った。
「お前の身体は今、この縄で歯車の向こう側と繋がっている。見ての通り、縄は歯車の間を通っている。縄を渡すだけなら問題ないが、さて、人が通るとなるとどうかな」
エドワードの顔が引き攣る。彼らが何をしようとしているのか悟ったのだ。
「ではそろそろ、我々の質問に答えてもらおう。石はどこだ?」
――やはりそれが目的か。
エドワードは視線を逸らした。
「知らねえ。離せよ」
「わかりやすい嘘だ。お前が持っていたところを我々は見ている。それとも、お前の連れに渡したか? ならば仕方ない。面倒だが死体を探しに行かねばなるまい」
「たとえ知っていたとしても」
大空に沈む相棒の姿がフラッシュバックする。奥歯を噛み砕くように言葉を吐き出す。
「貴様らに教えるわけねえだろ。絶対に」
「そうか。残念だな」
大柄な男が合図する。部屋全体が震動を始めた。一対の巨大歯車が動き出す。機関部で見たものと違い、歯車の挙動はぎこちなかった。錆の浮いた軸で無理矢理回すような異音が耳をつんざく。
足首を繋ぐ荒縄が引っぱられ、エドワードの身体が床を滑る。歯車の動きと同様、その速度は緩やかだった。男たちはただ見ているだけだ。少しずつ、少しずつ、彼らとエドワードとの間に距離ができていく。歯車に近づいていく。
巨大な金属歯まで到達すれば、人間の身体など無慈悲にすり潰されるだろう。この低速だ。足首、太股、背腹、首、そして頭が潰されるまで、恐ろしく永い時間がかかるはず。安らかな死に真っ向から反旗を翻す所業だ。
――冗談じゃない。
身をよじる。ポーチやランタンがなくなっていることに気付いた。おそらく気絶している間に男たちが物色したのだろう。身ぐるみ全てが剥がされたわけではないことが救いだった。
巨大歯車まで、あとどのくらいの距離が残っているのか。うつ伏せに引っ張られる状況では、それを把握できない。轟音の反響で耳も役に立たない。
圧倒的な暴力が見えないところから迫ってくる――その恐怖は、エドワードの精神を激しく削る。
「くそ。俺たちは自由になるんだ。お前らなんかに殺されてたまるか」
浸食する恐怖に抗うため、エドワードは声を張り上げた。
すると、リーダーらしい大柄な男が近づいてきた。襟元をつかまれる。男の強い膂力と、荒縄が引っ張る力が逆方向にせめぎ合い、エドワードの身体は軋みを上げる。
「では、自由になってみるか」
目を見開く。予想外の言葉だった。
「その様子だとお前はまだ年季が明けていないようだ。我々が欲しいのは石だけ。協力してくれたのなら、代わりに自由を約束しよう」
「そんな嘘で誤魔化されない」
「嘘ではない。何なら飛空挺も用意しよう。自由気ままに飛び回ると良い。その心地良さは私も知っているつもりだ」
毒の言葉だ、と思った。
荒縄は変わらずエドワードを歯車に引き込もうとする。大柄な男は涼しい顔で剛力を発揮し続けている。これ以上はまずいと、肉体が声なき悲鳴をエドワードに寄越す。
「ほら。早く決めろ。でないと私の握力が保たない」
わざとらしく襟首をつかむ手を緩める男。エドワードの上着がずれる。
エドワードは汗の浮いた顔で笑った。
「お前らがくれる自由なんて、轍と一緒だ。これまでと何も変わらねえ。そんな自由、こっちから願い下げだ」
「そうか。……本当に残念だな」
男は、エドワードの身体を強く床に叩き付けた。肺から空気が絞り出され、目の裏に火花が散る。
「下を探せ。獣人の男が転がっているはずだ。そいつを調べろ」
男が指示を出す。エドワードから皆の視線が外れる。
鼻血を垂らしながら、エドワードは何とか拘束から逃れようと身をよじった。
懐の奥に隠し持っていた試験管が、いつの間にかずれ落ちかけている。それに気付いたエドワードは口角を上げた。
――まだ諦めねえぞ、俺は。
男たちに悟られないように身体を揺する。試験管が懐から床へ落ちる瞬間、思い切り身をよじる。
直後、爆音とともに粘り気のある灰色の気体が広がった。何事かと振り返った男たちの視界を覆い隠す。異常を感知し、巨大歯車が動きを止める。
エドワードは痛みに顔をしかめた。身体のすぐ側で試験管が破裂したため、硝子の破片で切り傷を負ったのだ。その代わり、手首を戒めていた荒縄がほつれた。縄を引き千切り、両手を自由にする。
硝子の破片を手に取り、薬煙で濁る視界の中、足首の縄を切り離そうとする。
撃鉄を起こす音がした。銃口が煙を突き抜け、エドワードの頭部に向けられていた。二歩と離れていない場所に、男の黒い影があった。
エドワードの手が止まる。汗が額から吹き出て、薬煙を吸い、滴る。
銃口は小揺るぎもしない。足掻いても無駄だと無言で強く伝えてくる。
硝子の欠片を握る手が緩む。
そのとき、上方から何かが降ってきた。薬煙をこじ開け、男の銃を地面に叩き付けたそれは、見覚えがあるナイフだった。
次いで、足下でもナイフが刺さる音がした。拘束が解かれる。直後、小柄な人影がエドワードを抱え上げ、一気に跳躍した。上昇の勢いで薬煙が引き剥がされていく。
エドワードは歓喜で叫んだ。
「ウィル! 無事だったか!」
「遅れてごめん。見ての通りピンピンしてるから、安心して」
「馬鹿野郎、色々死ぬかと思ったぞ」
獣人の相棒を小突く。照れ笑いが返ってきた。
ウィルは天井近くにある作業用の足場に着地すると、エドワードを先導した。この先に外に通じる出入り口があるらしい。
「エド、手や背中の怪我は大丈夫? 結構血が出てるけど」
「皮膚を切っただけだ。心配すんな。それよりお前の方こそ平気か? 銃で撃たれて、下に落ちただろ」
「これのおかげだよ」
ウィルは胸元を指差した。服に開いた穴の下に、翠鉱石を収めた内ベルトが見える。銃弾を完全に防ぐとは、何という強度の硬さだろうか。
「撃たれて落ちたとき、実はすぐ下に足場があったんだ。雲に隠れてて見えなかったけど。それからエドを探して回ってたときに音がして、すぐに煙幕が見えたからさ。間違いない、ここだ、って」
「そっか。まったく、お前も悪運が強いヤツだなあ」
「エド。もしかして泣いてる?」
エドワードは視線を逸らす。鼻をすすり、天を仰いで、相棒の肩を叩く。
「無事で良かった。それから、助けに来てくれてありがとう。正直、もう駄目だと思った」
「礼なんかいらないよ。僕たちは二人でひとりじゃないか。一緒に自由を目指すんだ」
エドワードとウィルは、顔を見合わせて笑った。
狭い鉄の階段を上っていく。エドワードは、手首や背中の裂傷の痛みに眉をひそめる。
「それにしてもさっきの奴ら。でかい盗賊団か何かだろうが、そいつらがここまでして狙う石ってのは、相当のシロモノなんだろうな。何だか依頼主に渡すのがもったいなくなってきたぜ」
「駄目だよエド。大事な物なんだから」
「わかってるよ。言ってみただけだ」
階段の踊り場に足を乗せる。
直後、鉄の手すりに火花が走る。跳弾が狭い通路内に恐ろしい音を響かせる。
「あいつら、もう追いついて来やがった」
「エド、上だ。急いで!」
下階から足音がする。そう離れていない。エドワードたちは急いで階段を駆け上がる。
突き当たりの扉を体当たりでこじ開ける。途端、強い風が二人の顔にぶつかってきた。
正面に青深い空がある。手すりに囲まれた足場は、ひと一人を横にしたほどの広さしかない。壁は滑らかな鉄製で足をかけられる箇所はなく、飛び降りようにも下までは遙か遠い。唯一、旗を吊り下げるために壁から突き出た鉄棒が飛び移れそうな場所だが、身を隠す物は皆無で、銃を持った相手に対しては「どうぞ狙って下さい」と言うようなものだ。
行き詰まったことを知ったのだろう。銃を持った男たちが歩速を緩めて近づいてくる。
先頭に立つリーダーの頭には、黄と黒の獣耳があった。相手も獣人ならば追いつく速さも納得できる。彼らを突破することがほぼ絶望的になったのも理解できる。頭を怪力でつかまれたときに獣人だと気付くべきだった、とエドワードは悔やんだ。
「諦めの悪さには共感するが」
リーダーの男がエドワードの前に立つ。銃口を額の中心に向ける。
「残念ながら終演だ。石を渡せ。大人しく渡すなら、約束通り自由を保障しよう。ここまで粘った褒美だ」
「……何度も言わせんな。断る」
「私はお前を気に入ったから言うのだがね。考えても見ろ。それを依頼人に渡したからといって、本当に自由が与えられると思うか? また次の依頼を押しつけられての繰り返しだ。『まっとうに使われる』限り、お前たちに自由はないのだよ」
リーダーは自分の胸を指差し、「ここに生き証人がいる」と言った。
エドワードは目を閉じた。それからウィルに合図し、翠鉱石を受け取る。
「良い子だ。さあ、それをこちらへ」
「ひとつ教えろ。あんたの言う自由は、あんたの下で働くってことか」
「そうなるな。だが、今よりは格段に自由だ。飛空挺に乗れるようになるのも嘘じゃない」
「じゃあ答えは決まった。――拒否だ!」
いっせいに銃口がこちらを向く。エドワードは怯まない。
「依頼をこなすだけの小間使いも、あんたらの下に付くのも、まっぴらだ。そんなのは俺たちの求める自由じゃない」
「そちらの同族君も同じ意見なのかな」
男がウィルを見る。獣人少年は決意の表情でうなずく。
「エドの信念は、僕の信念だ」
「賢明ではないな。ならばどうする。お前たち二人だけでできることなど何もないぞ」
「違うな。俺たち二人『だから』、何でもできるんだ」
男を真っ直ぐ見据え、エドワードは啖呵を切る。すると男の固く引き絞られた口元が、ほんのわずか緩んだように見えた。
エドワードは手にした翠鉱石を高々と掲げた。
「これが欲しいなら、あんたたちにくれてやるよ。受け取れ!」
思いきり投げる。男たちの視線が、驚愕の表情とともに『右へ』流れる。エドワードによって中空へ放られた鉱石は、陽光を反射しながら静かに落下していく。
エドワードが動く。ウィルの腰を抱えると、手すりを乗り越え、翠鉱石とは反対の方向に思い切り跳躍する。ぎりぎりのところで、突き出た鉄の棒をつかむ。
振り返ると、リーダーの指示の元、男たちが慌ただしく階下に消えていくところだった。
リーダーと目が合う。
悔しそうな、呆れたような、それでいて羨ましそうな――一目では計りきれない複雑な表情をしていた。
やがてリーダーの男も視界から消える。エドワードは息を吐いた。
こめかみを軽く叩かれる。
「こら。こういうのは僕の仕事だよ。この棒をつかみ損ねたらどうするつもりだったのさ」
「悪い。つい、な」
鉄の棒の上によじ登り、並んで腰掛けた。風を全身で感じる。
「ちょっと意外だったよ。エドがあの人の誘いに乗らなかったのも、石を思い切って棄てちゃったのも。何より、あんな格好良い台詞を言ったのが一番、意外」
「馬鹿にすんなよ」
「してないよ。僕は嬉しかったんだ」
足をぶらぶらさせるウィル。
「エドが、僕と一緒の自由が良いって言ってくれたことが、嬉しかった」
「……当たり前だろ。ああ、まったく。今更恥ずかしくなってきた」
頭を抱えるエド。ウィルは朗らかに笑った。
「さてと。これからどうしようか。もう少しで自由だったけど、これで振り出しに戻ったよね。むしろ追われる身かな」
「さあて。少なくとも、あの男たちはもう追ってこないだろうよ。奴らは奴らで、きっと自由に生きていくんだ。それでいいさ」
「あんな酷いコトされたのに、結構寛大だね。エドは」
「こっちは何も失ってないからな」
エドワードは鉄棒の上で立ち上がる。全身で風を受け、「俺たちは自由だ!」と叫ぶ。その拍子にバランスを崩し、慌てて支えようとしたウィルともども、空の中へ倒れ込む。
翠の光が視界の端で煌めいた。
エドワードとウィルは小型飛空挺の中に収まっていた。
指示をせがむように、様々な計器が明滅する。あの不思議な言語も聞こえてきた。
『Αυτό το αεροπλάνο έχει επιβεβαιώσει τον επιβάτη』
「何言ってるかわからないが、いいぜ。お前も仲間だ。なんたって、『自由』の言葉に反応して来てくれたんだからな」
「もうオールディスには来られないね。勝手に依頼を反故にしちゃったから」
「構うもんか。空はこれだけ広いんだ。何とかなるさ」
「じゃあまずは、どこに行こうか」
ウィルの言葉にエドワードは考える。それからふと思いついて、懐を探る。取り出した物を見た相棒は表情を和らげた。
「太陽と月のコインを使うの?」
「そうだ。オモテ――太陽だったら右へ行く。ウラの月だったら左だ」
機械仕掛けの船の震動を感じながら、彼らは顔を突き合わせる。
「懐かしいな。今度こそ自由なんだね」
「そうとも。俺たちがそう思う限りずっと、な」
さあ、行くぜ――と声をかけ、エドワードは黄金色のコインを弾いた。