姥神長者
1
たった2両しかない単線のローカル電車で約2時間、細い山間を這うように進むと、突如視界が開けてくる。
山の狐狸にでも化かされたかと思うぐらいの眩しい光とそれを運ぶ風…海だ。
反対側のいつまでも続く山の斜面は相変わらず、威圧的にその先の空気を遮っているが、この海面から反射されるキラキラとした陽光は、車内を一気に明るい別世界へと導いてくれた。
列車はやがてその足を弱め、ゆっくりと目的の駅へと停止した。
海沿いの小さな無人駅…その先のこれもまた小さな斜面の町…今回の旅の目的地であり、私の叔母が暮らしていた町だ。
叔母…とは言っても、父の再婚相手となった女性の妹、つまりは義理の叔母になるわけで、血は繋がっていないばかりか、義母の葬儀の時に挨拶と軽い世間話しかした記憶はない。
話した印象では穏やかな、良く言えば奥床しく、悪く言えばどこか陰気な感じのある、そんな女性だった。
だが結局、面識と言えるようなものはそれしか無く…この町に今日まで足を踏み入れること無いままその叔母は他界した。
数年前に母の後を追うように父も亡くなり、これで私は天涯孤独も同然になった。
夢を追い、壊れそうになりながらも何とか日々を過ごし、そして挫折し、空っぽになった私はその叔母の遺品整理…という名目で自分を騙し、この逃避行を続けていた。
逃げる…こんな遠くの町まで…だが何から?
今の自分を白い目で見下す仕事仲間か?無一文になったにも関わらず、執拗に取り立ててくる借金取りから?それともこの現実全てであろうか!?
ともかく私は列車に飛び乗り、そしてこの見知らぬ町まで来てしまっていた…
2
駅を出るとそこは小さなロータリーだった。
1時間に一本しか来ないボロボロのバス停と、少し前に流行ったであろう飲料水が並ぶ自動販売機以外には、何も無いそのロータリーを過ぎ、まだまだ続く9月の残暑でふらふらしながら、海沿いの国道を暫く歩いていくと、急な階段にぶつかった。細いコンクリートの階段は、山の斜面を乱暴に覆い尽くすように、ぐねぐねと曲りくねり私のもう若く無い体力をさらに削っていった。
その階段を息も絶え絶え登りきると、少し開けた坂道に件の家はあった。
「ずいぶん年期の入った家だ」
私はついそんな率直な独り言を言ってしまった。
時間を少しゆっくりにして、誰しもが夢と希望を抱いていた…そんな理想化された、過去の思い出をそのまま写実化させたような、薄茶色に変色した漆喰の壁と入母屋造りの屋根をもつ古い邸宅だった。
もう日はとうに傾いて、夏の名残と秋の始まりを報せるがごとく、西日は金色に輝いていた。
…逢う魔が時。
一瞬、幻想的な雰囲気にほだされて、そんな不気味な単語が頭の中を過ぎった。
確かにこの今までの自分の生活からは想像も出来ない非日常的な風景…どこからが現実でどこからが…いや、現実などそもそも不確かなモノで、それはただの1匹の蝶が見る夢…そんなものなのかもしれない。
思わずそんな形而上の空想に心を遊ばせながら、私は錆びついた門を開いた。
3
こじんまりとした前庭を過ぎ、ガタつく引き戸を開けると中はまるで生活感が感じられないはほとがらんとしていた。「こんな有様で遺品整理とは なぁ…」私はつい、これが自分を騙した逃避行だということを思い出して自嘲気味にそう呟いた。
台所と寝室は多少の生活感があるものの、他の部屋は埃がつもり、戸を開けた途端にカビ臭い匂いがたちこめるほど、長らく足を踏み入れてはいないようだった。一歩ずつ歩みを進めるごとにギシギシと床鳴りがして、静寂に包まれていた家の中をその眠りから覚まさせているようだった。
何か時間の干渉を受けない小さな魔法が、私の来訪と共に解けていく…そんな不可思議な心持ちになりつつ、この家では貴重な、人の痕跡のある寝室に私は来ていた。
部屋にあるのはありきたりな独居老人の日用品が主だったが、タンスの上にある小さな桐箱…そこに何か…説明はつかないが、非科学的な違和感を感じて開けてみると、そこには数枚の奇妙な古写真があった。
モノクロの写真の中には恐らく戦後の日本であろう古い町並みの風景が映し出されていた。
それだけでは、ごくありきたりな、それこそ年を経た人間が終生大事にしていたであろう何らかの思い出が詰まった写真…なのだが、私はどうも先ほどから続く、不可思議な違和感がこの写真から…まるで叫び声のように発せられていると感じてならなかった…
4
その時だった。ふわり…と妙に生暖かい風が身体を通り過ぎたかと思うと、空気が変わった…上手くは説明出来ないが、ここはさっきまで居た場所では無い…意識の奥の奥からそんな感覚が浮き上がってきた。
「う…」私は思わず声に出しながら、鼻に手を当てた。これは…強烈な…腐敗臭…?
「ガタガタガタガタ!」
突然窓ガラスや扉が激しく揺れ動いた。
その戦慄を共とする振動はすぐに鳴り止み、私は笑い続ける膝を思いっきり引っ叩き、何とか明かりのあるある方へ!…ここにいては駄目だ!外へ!
…人の居る場所へ!半ば無意識のまま雨戸を開いて外にでた。
先ほど通った前庭に、躍り出て半狂乱のまま門へと向かうと、何かに足をつまづいた。
私はもう、ろくに受け身も出来ないまま、顔に泥を被り、目尻に涙を溜めながら、私の足元を絡め取った何かを見上げると、そこには朽ちかけ、泥だらけの石碑があった。
…おかしい
…おかしいおかしい!
ほんの数十分前、この家に入るときはこんなモノは無かったはずだ!もうダメだ!何も考えられない!…とにかく逃げよう。ここは居てはいけない場所だ!
しかし全身の筋肉は戦慄に強ばり、全く動かないどころか、呼吸するのさえままならない状況であった。
しかし現実は無慈悲で…そんな私に追い打ちをかけたものが、背後の家の奥深くにあった。
…気配…そして音である。
確かに感じる…邪眼…そんな言葉が似合うような…怖ろしく禍々しい目線が…部屋の暗がりからこちらを見ている気が、はっきりと伝わってきた…
そして…ごとり…ごとりと凡そ形容しがたい不愉快な音で…こちらに…来る?
「うああああっ!」
張り詰めた神経が一気に堰を切ると、私は走り出した!門を開け、町中を無軌道に、無我夢中に!
5
何処をどう走ったのか、気がつくと私は駅の前まで来ていた…
「うぐっ…」大きく膝をつき、嗚咽しながらしばらく…考えたくもない…先ほどの出来事など…だが、あれは?…気配はもう無い。とりあえず大丈夫だ。
呼吸が落ち着いてくると同時に、周囲を見渡すと…あぁ!やはりおかしい!
この町は、来た時とはまるで違う…確かにここにあったのだ!…自動販売機が!バス停が!
だが、それだけじゃなかった。
この場所全体が、大きく様変わりしていた。
「はははっ」
私は狂気を含みながら笑った。そうだ!私は気が狂ってしまったのだ!…だからこんな変な錯覚に陥り、逃げたり困惑しているだけなのだと!
だが、そう思い込もうとすればするほど、思惑とは裏腹に頭は冷静さを取り戻し、やはり何か、理屈を超えた異常な事が起こっているんだとそう否応がなしに確信した。
違う駅に来てしまったのか?…いや違う。この町への出入り口はこの駅だけだ。
ではうち捨てられた廃線か?…それも違う。生前の叔母の話では、戦前から駅はここだけだ。
では何故?…
改めて周りを見ると、やはりここは数時間前とは別の場所だった。
駅舎は古い木造の建物となり、今まさに地を踏む道は、アスファルトで舗装されたものでは無かった。ロータリーを取り囲む電線も、今では珍しい木造の物にすり替わり、国道へ伸びる道に点々と突き立てられていた。
その電線から頼りない、私の運命と同じく風前の灯火のような、傘付きの裸電球がぼうっと薄暮のロータリーを照らしていた。
もう嫌だ!もううんざりだ!こんな町さっさと出てしまおう!こんな馬鹿げた状況なら、元の生活のほうがマシだ!
私は電車に飛び乗り、今や初恋の相手より恋しい都会の明かりに出会うことを想像しながら駅の中に入ると…あぁ…助けてくれ…線路がない!
やはり薄暗い裸電球が点滅するそのホームらしき場所の前方には、本来なら当然、線路があるその前方には、伸びきって人の背丈ほどある雑草がまるで立ちはだかる壁のように生えていた。
消えかかる西日の下、ただただ唖然としていると、ざわざわ…酷く不自然な音が、その緑の巨壁の奥から聞こえてきた。同時に感じる死臭…そして細胞の一つ一つが「逃げろ」と警告するほど危険な気配…間違いない。あの家の奥から来た何者かが…ここまで追ってきた?
…あれには絶対に出会ってはいけない!
私の身体の奥の奥から、血潮の一滴一滴がそう絶叫していた。
私は直ぐに一切の思考をおしとどめ、とにかく逃げよう!と文字通り脱兎の如く駆け出した。
ざわざわざわざわっ!
私が走り出すと同時に、その何者かは速度を上げ、真っ直ぐこちらに迫ってきた!
私は全速力で走り抜けながら…つい、その背後の異様な気配に釣られて一瞬、振り返ってしまった。
「……………っ!」
声が出なかった。
もしも神様が居るのなら…いや、誰でも良い!
助けてくれ…こんなものが…あぁこんなものが!
振り返りざまに一瞬、見えてしまったのは、ガリガリに痩せ細り、浅黒い肌と、白いざんばら髪をふり乱す老女…私の叔母だった。
その叔母は…狂気と怒りで充血し、大きく見開いた目をこちらに向けながら、皺だらけの枯れた喉から「シューシュー」と苦しそうな息をしてこちらに近づいてきていた。
衣類は一切着用してはおらず、獣の様に四つ足で追いかけてくるその姿は、凡そ尋常なる理法に守られた、現世に生きるあらゆる生き物には想像を絶する…正に恐怖と狂気、そのものだった。
6
「う…ぐ…っ!!」
私は声にならない、ほとんど声帯を震わせないような叫び声をあげながら、生物的防御本能に従い、とにかく逃げ続けた。
…助けてくれ!誰か!誰か!…少しでも人の匂いがする方へ!…町の中心へ!
私は中年の怠け切った身体に鞭うち、ひたすらに逃げた。肺は焼けるように熱くなり、膝の関節は砕けるほど痛み出した。
だがそれよりもまず自分の生命の安全。それ以上に優先すべき事はない!
走りながら周りを見渡せば…やはり、辺りの街並みもガラリと変わっていて、小洒落たサイディング貼りの建売り物件は漆喰や土壁の平屋に、駐車場や居酒屋は畑に…とまるで時間が遡ったかのような風景が全面に展開していた。
ほどなく後ろの殺気が薄れ、やがて消えていった。…私は速度を少し落とし、恐る恐る後ろを振り返ると…良かった。助かった!
奴は姿を消してた。もう近くには居ないような気がしたので、その場にへたり込むと、心身両方の限界が胃酸となって食道から外へと逆流した。
「おぇぇぇっ!」
私は胃がひっくり返るほどに、その場にぶち撒けると、幾分か気分もすっきりしてきて…あんな超常的な存在から逃げ切れたのは、毎日の様に私を追い回してくれた金融会社の連中のお陰だな…などと、自虐的なユーモアを思い浮かべる余裕さえ出てきた。
身体もだいぶ落ち着いてきたので顔を上げて周りを見渡せば、どうやら私は目的の、町で1番栄えているであろう、メインの商店街まで来ていた。
黒ずんだ杉板の外壁と、防犯意識の欠片も無さそうなガラスの引き戸…至る所にレトロな字体の看板と時代遅れな女性の貼り紙…まさに戦後の日本のステレオタイプな商店街がそこにはあった。
さらに薄暗がりの空を地上から明るく照らす外灯やネオンが輝き、美味そうな匂いがあちこちの店から湯気と共に躍り出てきた。
私は絶望的な身の上を忘れて、空腹を感じると同時に、くたびれた現代人が、日常の代償として消し去ってきた、子供の頃の毎日が冒険の連続だった…あの時間に戻ったような…そんな少し切ない気持ちになった。
「何か食べる物あったかな」
私はなんとなしにポケットを漁ってみたが、あるのは…泣けなしの金が入った財布と、くしゃくしゃのタバコそして…
「?これは…」おそらく家の騒動で慌てて持ち出したのであろう、寝室にあった古写真が入っていた。
改めて異様な気を放つ写真を見回すと…思い出したくもない見知ったかおがあった。
少女時代の叔母と思われる顔が、数人の友人と共に満面の笑みを浮かべていた。
私はぞくりと身震いし、先ほどのことを思い出さないように、商店街を散策することにした。
夕闇にキラキラ光る商店街を歩きながら、私は人を探した。
だが…気配はするのだが、大勢の気配はするが何処を探しても人っ子ひとり見つからなかった。
…やはりおかしい。
居ないにも関わらず、開店している定食屋は鍋に火を灯し、肉屋には揚げたてのコロッケがおかれ、モダンな喫茶店からは紅茶が…さすがに腹が減ってきて、飲食店ばかりが目に入ってしまう。
一瞬、代金だけ置いて少しつまんで行こうかとも思ったが、この少し時間を逆に進めた日常から、人だけを消し去ってしまったような異空間の食べ物を、軽々しく口にする気にはなれなかった。
7
怪異の真っ只中で、そんな呑気な葛藤をしながらさらに進むと、一軒の…これまたひときわ郷愁漂う駄菓子屋を見つけた。それだけならむしろこの異世界にあるべくしてある、ノスタルジックな駄菓子屋なのだが、私は一目見ただけで悪寒と妙な既視感を覚えた。
恐る恐るポケットから先ほどの写真を取り出してみると…やはり!
若かりし叔母達の後ろには…いま私が居る場所と寸分違わぬ背景が映し出されていた。
黴くさく、黄ばんだ内壁…
今にも崩れそうなボロボロの棚に、対照的な五色の飴や様々な駄菓子が、宝石のようにうず高く積み上げられ、夜の明かりをいっぱいに受け止め光輝くその光景は、写真からたった今、飛び出した物のようだった。
…すると…ここは…町の過去の姿…?
しかし何故人がいない?…そもそも何故私はここにいて、しかも追われているんだ!?
今更ながら自分の珍妙な運命に怒りと怨嗟が込み上げてきて、先ほどまでの熱に浮かれた、妙なオプチミズムが一気に吹き飛んだ。
「あぁぁぁぁぁっ!がぅぇぜー!」
突如、潰れた喉から血液と空気を同時に絞り出すような…低く酷く不快な声…?がした。
!!!!!!!!
い…今のは…近くに…この商店街に…いる?
!…ここに留まるのは賢明ではない!
早く何処か別の場所に移動しなければ!
私は出来るだけ音を立てないようにそっと走り出し、不可思議な商店街を後にした。
幸い追っ手には気取られることなく、商店街からだいぶ遠ざかったが、私は若干後悔していた。
理由は単純で、ほとんど視界が利かないのである。気づけばもうすっかり陽は落ち、辺りに夜の帳が下りていたのだが、商店街を過ぎてしばらくすると、外灯もまばらになり、真っ直ぐな道を真っ直ぐ歩くだけでも困難になってきていた。
闇夜を見通していると…先ほどの狂った叔母の顔が何処からか飛び出して来るような気がして、時折立ち止まってはライターを灯して辺りを見回し、そして張り裂けそうな胸を撫で下ろしながらびくびくと歩いていた。
空には星が、ガラス片を床にばら撒いたように燦然と輝いていたが、今となってはそれが唯一の照明だった。
視界が利かないとなると無意識に、細い路地を避け、道の開けてる方へ方へと歩みを進め、やがて強い潮の香りと波の音がしてきた。
海岸へたどり着いたのだ。…ジャリジャリと大地は砂に変わり、なだらかな斜面になっていた。
しかし海へ来てしまったとなると、そこから先は進めない…海岸沿いを左右どちらかに進むしかないな…と考えていると、砂浜の一点が柿色に光っていた。
「火だ…人が居るんだ!」
私はそう漏らすと、歩みを速めてそこへと向かった。
だが近づくに連れ、私の足は警戒していた。
…本当に誰か居るのだろうか?
…居たとして、それは、本当に…人なのだろうか?
頭の中に叔母の顔がちらつくに連れてそんな恐怖心がみるみる心を支配していった。
それに潮風による海鳴りが、悲鳴のように聞こえ始め、それに乗って前方の明かりから、ただならぬ気配が漂ってきた。
…恐らく誰か居るのは間違いないが…人間…なのか?…あるいは……
そんなことを考えながらゆっくりと近づき、もう目と鼻の先まで来た。
私は近くの岩陰に隠れてそっと様子を伺うと、その明かりは誰かがつけた焚き火だった。
パチパチと良い音を立てながら燃える周りには、美味そうな数尾の魚が串に刺さって焼かれていた。
「ぐぅ〜…」
腹が鳴った。…先ほどからの空腹が限界に達し、無意識にゆっくりと…魚の方に手が伸びる…
「…何をしている?」
私はその声にビクりと反応し、声がしたであろう、焚き火のさらに奥…海岸の波打ち際の辺りを目を凝らして見つめると…そこには1人の男が立っていた。
8
人だ!…人が居たぞ!
私は孤独と言う名の蠱毒からやっと解放された嬉しさから、ただただ彼がいる方へ駆け寄っていった。
だが近づくにつれてその男の異様な気迫と風体が明らかになっていき、私の心は警戒と疑念に染まっていった。
廃屋に長らく垂れ下がっていたカーテンのような…黄ばみ、ボロボロになった布を身に纏い、塵と垢で黒ずんだ肌とつるりと剃り上げた髪…そんな怪しげな姿が、足元の火明りに照らされ闇の中にぼうっと浮き出していた。
何よりも私が懐疑的になった要因は、暗がりでもはっきりと見える異様な眼光。何かこの世界と相通じる超自然的な眼差しがそこにはあった。
本当に…この世の者なのだろうか…?あるいは…。
私がその様にたじろいで居るのを知ってか知らずか、男はぶしつけに
「飯の邪魔だっ…早いとこ退いてくれないか?」
と心底迷惑そうに私をあしらった。
その礼儀もへったくれもなさそうな態度に腹が立ちそうになったが、「良かった…ちゃんと…話が通じるんだな!?」と寸前の感情とは正反対の、歓喜に満ちた言葉を漏らしていた。
私の突然の喜びように男は一瞬、面食らった顔をしたが、すぐに表情を戻すとやはり迷惑そうに
「ほぅ…なるほどあんた…好きでそうしてるわけじゃないのか…随分と難儀な『場所』に居るもんだな…」
!!!!!!
やはり話しかけて良かった!知っている!…この男は何か知っているんだ!
「そうなんだ!!親族の家に行ったら急にこんなことになってしまって!きっ…君もここに迷い込んだのか!?…あぁ私には何もかも分からないんだ!頼む!助けてくれっ!」
私が思いのたけを堰きったように吐き出し、哀願すると、男はまるで興味がなさそうに串刺しの魚をひっくり返しながらこう言った
「助けるったってなぁ…俺は別に迷うも何もさっきからずっとここで飯の支度をしてるだけだ」
「!…この世界の住人なのか!?ならせめて出る方法だけでも知らないか!?」
鼻息荒くまくし立てると男はちらりとこちらを見た。先ほどは暗がりで気がつかなかったが、火に当てられたその顔は、思いの外若く、そして驚くほど端正な顔立ちだった。暗闇に照らされるその姿は神秘そのものをその身に体現しているように、幽玄でまた神々しくも見えた。
「何か感違いしてるみたいだが…あんたが居る世界とやらと、俺が居る海岸は全く別の場所だぜ?…俺にはあんたがおぼろげにしか見えないし…信じられないならほら!腹減ってるんだろ?…魚、一本やるから食べてみろよ」
唇の端を片側だけ歪めながら、嘲笑的に吐き棄てると、火元に刺さった串焼きを手に取り、おもむろに私の前に差し出した。
何を言ってるんだこの男は…そうか…長らくこんな場所にいるとこうも頭がおかしくなってしまうのか…
彼に落胆と憐憫の情を沸かせたが、腹が減っていたのは事実。私はそっと手を伸ばし、魚を…取れない!?…そんな馬鹿な!この男、私をからかってるのか!?
彼の手にした魚はまるで蜃気楼の様に私の手をすり抜けた。それだけじゃない!火も、先ほどから私を小馬鹿にした目つきで串をつかむこの男も、私はその手に触れることすら出来なかった。
「なっ!?」
「分かったろ?あんた閉じ込められてるんだよ…普通の人間にあんたの姿は見えないし、あんたからも見えないはずだ。…普通はな」
「じゃあ…君はどうなんだ!?何故私と話が出来る!?」
「俺は少し事情が違ってね…見たくなくても見えてしまうのさ…色々とね。見えることと見られることは表裏一体。お互い認識し合えるのさ。…深淵を覗く者は深淵に覗かれるって、どっかの捻くれ者が言ってただろ?この場合…『深淵』はあんただけどな」
9
!?
私はいささか混乱していた。
形而的で禅問答のような…だが酷く突拍子もない言葉は、私のことをさらなる森の奥深くへ誘い、そして迷わせた。
だが皮肉なことに今その森から抜け出すには、この異形の世捨て人の力を借りる他は無い。
「お…お願いだ!私はもう君しか頼れないんだ!…助けてくれたら何でもする!だから!!」
私は必死に彼に懇願した。四肢と頭を地面に擦り付け…灰色の人生の中ですっかりやり慣れてしまった最上級の懇願を彼に打ち出した。
そんな私の安いプライドをこの得体の知れない男はさも興味無さそうに横目で流し、片眉を上げながら「確かに…面白い物がみられそうだ。中年の土下座は…つまらん洒落にもならないがな。」そう確かに言った。
…これは!承諾してくれたのか?
よかった良かったぞ!
私は何度も彼に頭を下げて、くたびれた財布から全財産を抜き取ると、彼に全部渡そうとした。…が、そうだった。私は彼と彼の周りの物には触れられず、虚しくその紙幣達は空を切った。
彼は少し困ったように笑いながら「だから言ったろ?あんたはどうやら、閉じ込められているんだ。…それに、そんな紙切れ、俺が飛びつくと思ったか?」
そう言うとおもむろに懐から紙パックの安酒を取り出し、ストローを差してゆるゆると飲み始めてしまった。
私は紙幣を拾いながら「すまない。」と軽く謝り、改めて自分の名を名乗った。
彼は酒を飲みながら、短く「久我だ。」
そう言った。
私は自分の状況を久我と名乗ったこの男に説明するのがまず先決だと思い、呑気に夜の海で晩酌する隣りで、今までの経緯をできるだけ詳しく1人語り続けた。
「ほぉ…婆さんね…。恐らくあんたは、魂だけ剥離して、この町と重なる何らかの世界に迷い込んじまったらしい。素敵な経験だが、そっちの世界の食べ物…食べなかったのはまず不幸中の幸いだな。」
彼は少しも顔を合わせることなく空腹の私を尻目に、焼き魚を齧りながらそう呟いた。
「あ…あぁ、空腹だったが直感的に何か食べてはいけない気がして。それにしても、魂とは…」
「ずいぶんな感だな。…まぁ鈍感な人間は、こんな経験しないものだしな。食べ物を食べるとは、飢えを満たすだけじゃ無い。その世界の一部を、自らの血肉にすることだ。…食えばあんたも異世界の一部になっちまう。そしたら手の施し様は無くなってた。」
「な、なら、まだ今のところは助かる手立てがあるってことか…?」
私がそう言うと彼はニタリとアイロニーに満ちた微笑みを浮かべ、「そうだなぁ…とりあえず。今のところ手がかりはその写真と家そのものだからなぁ…あんた、いっそのことその家に戻ってみるか」
!?
なななななな!?何を言い出すのだこの男は!?
さっきの話、聞いてなかったのか!?
あそこには…いや、町中何処にでもだが…この世の者ではない、あの叔母が…それだけじゃない!あそこに行ったら今度こそどんな目に合うか分かったもんじゃない!
違う世界だとか言って自分は安全な傍観者でいるつもりか!…面白いものとはもしや私の…
困惑してあからさまに怒りと恐怖の気色を出す私を全く意に返さず、彼は続けてこう言った。
「あんたの居る町は婆さんの庭も同然だろうな…何処に居たって襲ってくるんだろ?…だったら虎穴に入らずんば何とやらだと思うがね…それに…あんた、もたもたしてると永遠にそこに閉じ込められる羽目になるぞ」
ゴクリと私は唾を飲み、目をかっと開いた。
「肉身持つ者が魂だけってのは非常に不安定な状態なんだ。いつまでもそんな宙ぶらりんが続くとは到底思えない。…それに、その婆さんだけなら俺が何とか出来ると思うしな」
私はまだ彼のことが信じられなかった。
だが、もう元に戻れない…逃げ出したかったあの暮らしが、たまらなく愛しくなった。生きていれば…日常を地に足つけて生きていれば何とかなる!
…私はそう強く願い、震えながらも彼に頷いた。
10
私は暗がりの中を歩いていた。
先ほど海岸へと向かっていた道を引き返し、商店街を抜け…あの忌まわしい家に辿り着くためにだ。
左右の雑木が海風に揺らされる度、私は酷く怯え、前を行く奇妙な道づれにすり寄って行った。
だが…やはり彼には触れることすら出来ず、結局のところこの不可思議な町には自分独りなのだと、改めて実感し、恐怖が胸の中を支配していった。
孤独と恐怖を少しでも紛らわそうと、私は先達に話しかけた。
「し、しかし、奇妙な感覚だな。こうやって連れ立って歩いているのに、お互い別の世界に居るなんて…」
すると彼は少し歩みを緩め、少し間を置いてからこう語った。
「そうでもないさ。人間…いや、生きとし生けるものもそうでない物も、皆自分の世界を持っている…目や耳や感覚なんてのは、その世界を繋ぐ窓口でしか無いのさ。」
私はいくらか恐怖が紛れた代わりに急に頭がむず痒くなり、ぽりぽりと頭を掻きながら
「む、よくわからん。今までいた世界では、間違いなく色々な人や生き物と共に生きてきたぞ?」
「共に生きる…たしかにそれも真実だがな。例えば…川だ。」
「川?」
「そう。川を渡る者にとってそれは障害、漁師にとっては、生活の糧。釣られる魚にしてみれば、命の危険ある我が住処となる…もっと言えば神や魔物からすれば別の物にも見えるらしいが…得てして同じもののようで、各々の世界に同じ川は一つと無いのさ。」
「わかったようなわからんような。」
「当事者がわからんとは…面白い奴だ…この道も同じようで同じで無い。…こんなふうにな。」
皮肉たっぷりの笑みでそう言い終えると、彼は突然姿を消してしまった。
「お、おい!冗談はよせ!…何処にいるんだ!」
四方に目を凝らし、叫び続けたが、夜の静寂に反響するは、我が絶叫…ただそれだけだった。
視界の利かない闇の檻の中、私は再び独りになってしまった。
孤独とはどんな恐ろしい存在よりも人の心を蝕むものだ。
闇と得体の知れない恐怖…そして孤独の三重苦は、私の擦りきれそうな精神を一気に焼き切った。
「ゔ…ゔわぁぁぁ」
冷静な思考など出来るはずもなく、ただその昏い三重奏に踊らされながら、私は狂った踊り子のようにふらふらと、ひたすらに明かりを求めて走った。
光の射す方へ方へと走り続け、いつしか…あの商店街に来てしまった。
その夜店の楽しげな町灯りは、私の心を狂気から解放させてくれたが、同時に胸の緊張も最大限に高鳴った。
…ここの何処かには、恐らく…あの叔母が居る。
今や道づれにも見放され、独りあの狂女と相対する気力などあるはずもなく。しかし引き返した所で闇夜の真ん中で、私が出来ることなど毛の先ほども無かった。
八方塞がり。そんな言葉が頭をよぎった。
…いっそのことここの何処かの食料を食べ、人では無い何者かになってしまおうか…
そんな背徳的で自暴自棄な考えが頭にちらつき、無意識のうちに『禁断の果実』を探し歩いて居ると、件の駄菓子屋の前に来ていた。
相変わらず時間の流れを知らない夜の町の中で、ひときわ空の星を店内に無理矢理詰め込んだような、幻想的な輝きを放っていた。
そんな店の中を眺め、恍惚としながら、現実逃避もそこそこにただぼーっとしていると、「ぼりぼり、がりっ」
酷く物騒な物音が聞こえた。
11
い…今の音は…
そんな一瞬の知覚をかき消すが如く、店の奥からあの忌まわしい存在が飛び出してきた。
!…半狂乱していた私はこの者が纏わせる異様な気配と悪臭に全く無関心でいてしまったらしい。
ぼりぼりと、店内の駄菓子をその瓶ごと咀嚼し、口の周りが真っ赤な鮮血に染まろうとも、意にも介さず手当たり次第、口に詰め込むその姿に、先ほどからの空腹感は音もなく消え去り、口の中に酸味と苦味をもつ液体が、またしても胃の中から逆流してきた。
子供の頃に夢見たような、幻想的なその店は、一気に熱病でうなされた夜の悪夢へと姿を変えた。
ぎょろり…
振り向いたっ!!…ダメだ見つかった!
「ミ…ミヅゲダ…」
口から無数の血と唾液を滴らせながら、歓喜と邪念に狂ったその顔は、私を凍りつかせるには十分だった。
『それ』は壁一面に据え付けられている、菓子棚に、まるで凶悪で巨大な蜘蛛のようにへばり付きながら、そろりそろりとこちらに向かって来た。
…私は動けなかった。もとより体力と気力が限界に達しており、身体は恐怖で石のように硬ばっていた。
元よりこの距離では逃げ果せはしまい…
不思議と頭は冷静だった。ゆっくり目を閉じ、生命最後の瞬間を奥歯噛み締め居直っていると、何処からか低い音律が聞こえてきた。
「ナウボバキャバティ・タレイロキャ・ハラチビシシュダヤ・ボウダヤバキャバティ…」
その異国の重低音はまるで母胎の胎動のように私の心に染み渡り、凍りついた身体を暖かく溶かしてくれた。
…これは、いわゆる真言?…と言うやつなのか!?
するとその声はだんだんと私に近づき、ついには私の真隣まで来ていた。私は閉じた目に再び光を灯し、声のする方へと瞳を走らせると…!!!
来てくれたのか!!!…そこには久我と名乗ったあの男が、掌を奇妙に絡ませながらこの、仏と生きとし生けるものを讃える歓喜の歌を一糸乱れぬリズムで唱え、歌っていた。
「くっ!!」
私は彼の名を喜びに乗せて叫ぼうとしたが、彼は目を合わせながら、左右に首を振り、私に沈黙を促した。
…奇妙なことが起きていた。
それは私がまだ『生きている』ということだ。
先ほど死を覚悟して目を閉じてから、件の狂女が間合いを詰め、私の腹わたにかぶりつくのには十分な時間があったのだが、どうやら私は五体満足で同じ場所に立っているらしい。
先ほどまで私を睨みつけ、舌舐めずりしていた眼前の化け物は、店中をあちこちと這い回り、まるで、何かを探すように棚や菓子をひっくり返した。
「ドコダァァァ!!ワタジノタイセツナ…」
…これはまさか、いや、しかし…私のことが…見えていない!?
困惑した視線を隣で一心不乱に唱え続ける彼に送ると、彼は私の推測を肯定するように、目に笑みを浮かべた。
…何だと!?そんなことが!!この男、そんなことが出来るのか!
私は、目の前で暴れ回る狂女よりも、自分を救ってくれたであろうこの男の方がずっと、異世界の住人に相応しいように思えてならなかった。
「あぁぁぁぁぁナイ…ワダシノ…キオク…オモヒデ…」
叔母は不快極まる、慟哭にも似た叫び声をあげながら、店を飛び出し、道路や外壁を縦横無尽に這いずりながら、やがて視界の彼方に消えていった。
こ…これは、助かったのか?
そんな困惑する私を見ながら彼は、「悪いな…やはりあんたの居る世界と、道の造りが微妙に違っていてな…」
先ほどの怪異など存在しなかったように、さも平然とそう言った。
「君は…今のは君の力なんだろ!?…そんなことが出来るのか!?」
安堵し、同時に驚愕している私は彼に詰め寄り、半ば叫ぶようにそう言うと、彼はこれも当たり前の様に店の外を眺めながら言った。
「古くから百鬼、怪異に逢うたら仏頂尊勝陀羅尼…誰でも出来る、基本中の基本だ。それよりも…」
商店街の細道に点々と染め上がった鮮血を、彼は目で追いながらこう続けた。
「多分、あの婆さんの狙いは、婆さんの思い出…あんたのポケットに入ってる写真だろうな…」
私はやはりというか…薄々、頭の中に浮き上がっていた疑念をぴしゃりと言われて、ただただ、頷き、その推論を肯定することしか出来なかった。
12
「…年寄りにとって過去の思い出ってのは、命より大事な宝物だからなぁ…」
そう、他人事と言わんばかりに淡々と呟くと、彼は何処から取り出したのか、本日2本目となる紙パックをプチンと開封していた。
…やはり、過失とは言えこんな物を持ち出してしまったばかりに…そうか!
何故気がつかなかったのだろう!狙いが私でなくて写真なら、これを何処かに置いていくか、どうにかすればとりあえず叔母は私を追いかけては来ないはずだ!
私の妙案は私の擦り切れた心に一筋の光を灯した。直ぐにポケットから写真を取り出し、何処かあからさまに見えやすい場所をキョロキョロと探していると、私の思考を悟った先達は、ストローで酒をすすりながら、軽蔑したように鼻で笑ってこう語りかけた。
「…写真捨てたらこの世界から抜け出す手がかりも無くなると思うぞ。それに…婆さんにとっちゃあんたは人の家に土足で上がり込んで、大切な物を奪った盗っ人だ。…俺なら、生かしちゃおかないな…」
…確かに。言われてみればその通りだ。
目的が何であれ、叔母が私を見る目は明確な殺意が込められていた。
だが、このままずっと夜の鬼ごっこをするつもりか!?…いかに彼が玄妙な技を使ったとて、危機には変わりない!!もううんざりだ!
私はまたもや自棄になり、目を真っ赤に腫らして、彼に言い放った。
「ではどうしろと言うんだ!ま、まさかこのまま殺されろとでも言うのか!」
行き場のない八つ当たりだった。
そんなことを言っても状況は変わらない…ばかりか、もし彼が閉口し、踵を返してしまったら?…私はいつもつまらない失敗ばかりだ…
だが、彼は私の激昂をもろともせず…まさに暖簾に腕押しとでも言うが如くうっすら笑みを浮かべながら「見ろよ」と一言、顎で道端に溢れる血痕を指し示した。
…私は彼の言いたいことが直ぐにわかった。
だが、それこそ自殺行為ではないのか?
身震いしながら彼に視線を合わせると、彼は先ほどと少しも変わらない表情で「言ったろ?…虎穴に入らずんば…だ。」
私は恐怖と緊張で思わずそこにへたり込んだ。
商店街を少し出れば、明かりもまばらになり、私たちは目を凝らしながら路上に咲いた牡丹の花を点々と追いかけていた。
昼間の残暑が嘘のように辺りは冷え込み、冷たい空気と、わずかな血の匂いだけが私の世界を構成していた。
…だが、私は恐怖の反面、嬉かった。
久我は狼狽する私にきちんと道を示し、どうやら最後まで付き合ってくれるようであった。
…その心遣いが、絶望的な私の心を、にわかに火照らせていた。
彼のような人間が、私の過去の人生で1人でも居てくれたら…私はそもそもの発端の、無計画な逃避行などせずに済んだのかも知れない。
だが実際にはその逃避行の果ての怪異の中で、彼と出会った。…皮肉であるが、そうあるべくしてあったであろう、私の底意地の悪い運命とやらに、少し、ほんの少しだけではあるが、初めて敬意を表した。
少し先を行くボロ切れをまとったこの青年は、私の心情など知らずに、時折立ち止まり、血痕に顔を近づけ、何やら目を閉じ思案しては、小さく先ほどとは違う真言を唱え、再び無言で歩き出していった。
見失わないように時折足を速め、また逆に立ち止まり、彼のペースに合わせながら、夜道を歩いて行くと…やはり…やはり、ここに来てしまっていた。
私の目の前には全ての始まりであろう、古い一軒の民家があった。
13
最初に入った時には、ここだけが町の時間に取り残され、孤独に、静かに佇んでいたが、今再び見返せば、この家はこの時間、この世界にこそ相応しく、まるで数十年来の旧友に久しく出会った様に、生き生きと、そして堂々と夜の帳に腰掛けていた。
…だが、その暗がりの奥から漂う強い腐臭は、やはりこの異常な町であっても、ここだけは特別、別格な場所であることを再認識させた。
足は、動かなかった。
まるで断崖の上に立たされている様に、そこから踏み出す一歩が恐ろしかった。
そんなカチコチに固まった私の足とは対照的に、彼は目を細めながら入母屋造りの屋根を見上げ、まるで滑る様にスタスタと門をくぐっていった。
私は取り残されまいと慌てて動こうとすると、硬直した足の筋肉は歩調をつかめず、段差もないのにつまずき、よろけながらも彼に追従し、その門をくぐった。
前庭には相変わらず、不気味な石碑が建っていた。私はなるべく見ない様にしてその場を通り過ぎようとしたが、私の先達はそこで興味深げに足を止め、しばし思案した後に「ほぉ…そうゆうことだったか」と感嘆の笑みと共に独りつぶやいた。
私には不気味で不可思議…そんな感情由来の情報しか引き出せなかったこの石碑を見て、彼は何かに気がついたらしい!
「どうしたんだ?何か分かったのか?」
私が率直に疑問をぶつけると、
「さぁてな…だがもしかすると、あんたを元の世界に帰せるかもしれない。」
そう言いながらもなお、その石碑をその内に潜む何らかの声と、悠久の年月に晒され続けた薫香を、五感ともう一つの感覚で入念に調べ上げていた。
私は彼の幸先良い返答に満足し、恐怖も忘れて彼が動き出すのを待っていた。
程なくして…「やはり、写真は元の場所に戻すのが1番だな。…それも、持ち出した本人の手で」
そう言いながら私を真っ直ぐに見据えた。
私は先ほどの喜びが嘘のようにしばらく何も言わずにまばたきをしていた。
「嫌だ。そんな…何が起こるかわからないじゃないか!勘弁してくれ!他に方法は無いのか!?」
「何が起こるかわからないねぇ…だが何か起こさなきゃ、あんたの状況は改善しないんじゃないのか?…別に俺はどちらでも構わないぞ。」
そう言われてしまうと閉口するしか無かった。
だが、私は振り返り、異臭と邪気漂う家を見据え、「わかった。入ろう…虎穴とやらに。…写真は寝室にあったんだ。」
自分でも不思議だったが、そう言ってしまった。
14
ガタついた引き戸を開けると、外とは違い、家の中は一変していた。強烈な腐敗臭と至る所に散乱した生活ゴミで足の踏み場も無かった。
黒く変色し、カピカピに乾いた食べ物のカスや容器に無数の蛆が白い柔肌をくねらせ、おぞましいばかりのオーガズムに身を躍らせていた。
「こ…こんな家じゃなかったのだが…」
私が身を震わせながら言うと、
「これは…多分、婆さんの死に際の状況だろう。人間、死ぬ瞬間の映像はどんなものよりも強烈に記憶するものさ。…だがこれではっきりしたよ…この世界は婆さんの思い出で出来ているんだ」
思い出で出来ている…もし本当にそうなら、駄菓子屋や他の場所も、写真と瓜二つなのは合点がいく。…だとすると、やはり私が持ち出した写真は…
「あんたの思ってる通りさ。ただの宝物じゃない。その写真はこの世界そのものだ。だから、あんたが持ち出しちまったから、あんたが迷い込んでしまったんだろうよ…」
そう言いながら彼と私は、寝室へと、臭気と嗚咽に耐えながらゴミだらけの廊下を進んで行った。
廊下との境の破れた襖の奥から…これまでとは比べものにならないぐらいの淀んだ気配がした。
いる…恐らく、いや確実に…
全身から脂汗が滴り、身体中の血液は沸騰したように戦慄いた。
だが私は震えと慟哭を抑えながら、恐る恐るその襖を開いた。
………頭の中が真っ白になった。
これが…本当に現実にあった光景なのだろうか…
以前にも増して散乱したゴミと…部屋のあちこちに散らばる糞尿、汚物…その想像を絶する酸鼻な光景に嫌悪感を隠せなかったが、それ以上に、こんなところで誰の助けも得られず、徐々に衰弱していく体と、世間から切り離され、忘れられていく命…それは確かに、孤独と老いの牢獄…いや文字どおりの地獄だった。
老人の孤独死…
私は、老衰…老い衰えると書く鎖に繋がれ人生の最後を迎えた叔母の身に私は哀れみと無念さを隠せなかった。
すると雲が晴れたのか、あたりは星明かりに包まれ、淡くぼんやりとだが…視界が開けてきた。
…私は見てしまった。
今まで見てきたものよりもずっと怖ろしく、そして哀しい…老女の最期を。
祈るように布団にしがみつき、苦痛と恥辱に耐えながら、汚物を垂れ流し、歯を弱々しくも食いしばる…ガリガリに痩せた叔母がそこには居た。
世間を羨み、自己の運命を呪い…だがその強い感情さえ、誰にも気づかれずに死んだ1人の人間の姿がそこにはあった。
「この…町…楽しかったころの…大好きな…神様…もう1度…お願いしま…す」
声が聞こえた。
誰のものかはわかっていた。
私と久我はただその声にならない声に耳を傾けた。
叔母は掠れた…ほとんど聞こえないような声でそう繰り返し繰り返し言い続けていた。
時折、胃から逆流する胃液と血液でむせこみながらも…必死で祈り続けていた。
枯れ果てたしわくちゃの目からは、目やにと共に一筋の光が流れていた。
…そして気がつけば私も泣いていた。
何が哀しかったのかは…自分でもわからなかった。だが、私の瞳は、今までの…人生の全てで溜め込んできたであろう何かを濁流のように溢れさせていた。
「…そろそろ、婆さんも楽にしてやらんとな」
久我は今までにないぐらい、穏やかな声でそう呟いた。
私は真っ赤に腫らした目で彼を見つめ、震えながら、まるで壊れた人形のように何度も頷いた。
…やるべきことはわかっている。
私はポケットからそっと写真を取り出すと、桐箱の中へ戻した。
すると久我は、『上出来だ』と言わんばかりの笑みを浮かべると、おもむろに両手を絡ませ…全ての魂を眠りに導く子守唄のように、穏やかに、ゆっくりと…「オン・サゲイ・サメイ・ウン・ハッタ」
そう繰り返し唱え始めた。
瞬間、私は強い眠気に襲われ、だんだんと意識が遠のいていった。
15
まどろみの中で夢を見ていた。…そんな気がした。
あの不思議な町で、数人の少女たちが駄菓子を手に笑っていた。そんな夢だ。
彼女達の背後には、そのうちの1人と良く似た老婆が、とても穏やかな顔つきで佇んでいた。
「これはお前の夢であり…あの婆さんの夢でもある」
後ろから声がした。振り返るまでもなく、声の主はわかっていた。「久我…」
私は短くそう言うと、彼はまたストローで酒を煽りながら、ゆっくり語り始めた。
「あの石碑は、道祖神なんだ。」
…道祖神。聞いたことがある。塞の神とも呼ばれるその存在は禍事や魔物を人々の住まう地に入り込ませないように、村の辻道や家の入り口に祀られる、民衆に馴染み深い神の名だ。
「いや、それだけじゃない。」
久我は私の心に返答し、こう続けた。
「道祖神には様々な形があり、その中でも夫婦形として祀られるものが多いが、あの家に祀られてたのは、老婆の姿をした神だった…。」
老婆…私は今一度、町明かりに佇む女性を見た。
「…そういった形で祀られる道祖神は、元々はその土地、あるいはその家筋の姥神であった場合が多い。…まぁ姥神にしろ夫婦にしろ、一部で有名な男根形にしろ、そこに込められた願いは同じだ。」
姥…乳母。夫婦…そして男根。
あぁ…
なるほどそこには生きとし生ける命の根本的な願いである、『限りある命を次の世代に伝える』という思いが込められていた。
「だが、叔母は…」
私が言いかけると、久我は鼻を鳴らしてこう続けた。
「あぁ、婆さんは独り身で孤独に苛まれ死んでいった。当の道祖神も、人々に忘れ去られ…まぁ婆さんにとってあの神は、少女時代から祈り、そして見守ってくれる、文字通り『乳母』神だったのだろうよ。…神と人、共に過去の華やかな時代を懐かしみ、時代に忘れ去られた孤独な老婆…気が合ったのだろう。神は婆さんの魂と混合して、この世界を作り出したのさ…あの写真を依り代にしてな。」
「そこに…私が閉じ込められたのか。」
「その通りだ。しかもよりにもよって、子孫繁栄の願いが込められた神の領域に…義理にしろたったひとりの親類が、それもこの世界の依り代になっている写真を持ち出してしまったんだからな…あんたが巻き込まれない方がおかしい。」
私は…神の築き上げた、1人と1柱だけの浄土に土足で踏み入ってしまったというわけか…。
「私はこれからどうなる?」
恐れもせず、感情高ぶらず、至って冷静かつ淡々と、この先の行く末を彼に聞いてみた。
「さてな…この世界からはもうじき出られるはずだ。…だがもし出られたら、あんたに頼みがある」
久我は初めて、真剣な顔つきで私を見た。…そして、懇願した。
「…君には助けられてばかりだ。私に出来ることなら何でもしよう。いや、させて欲しい!」
もとより断る気など無い。
そう言い終えると久我はにっこり私に微笑みかけて、「助かる…」そう呟くと、続けてこう言った。
「多分、この世界で石碑があった場所の地中に、その石碑が埋まってるはずだ。…あんたの手で掘り返し、末長く奉ってくれないか?」
…確かに。今回の発端は私自身。その私にしか出来ない頼みだった。
私はもう一度彼の目を見つめ、そして大きく頷いた。
彼は安心したようにまた微笑し、小さく頷くと「さて、そろそろこの婆さん達を在るべき世界に送るとするか。…ついでに、あんたもいい加減、元の世界に帰してやるよ」
そう言い放つと目を閉じ、深く息をすると、手を絡ませ「オン・バザラ・ボキシャ・ボク」
そう唱えながらゆっくりと星の輝く空を見た。
16
すると瞬く間に星々は光を増し、さらに地上のあらゆる灯りがその本分を悟ったが如く、より強く輝きだした。
天上天下…そこから溢れだす光は、神も人も、思い出も現世も、全てを抱きしめ受け入れるように強く、強く輝いていた。
いつしか眼前は光でいっぱいになり…
…ふと笑い声が聞こえた気がした。
優しげな乳母と楽しそうな少女の笑い声…そんな気がした。
…いつしか私も微笑んでいた。
あぁ…大嫌いだった私の世界が…こんなにも光に満ち溢れているとは…
私は、まどろみ、薄れる意識の中で…おそらくほほえみ、そして泣いていた。
この光は…一切を…遍く照らす…
………………光が淡くなった。
頬を伝うは一筋の暖かさ…それに鳥の声だった。
次第にはっきりしてきた意識の中、私は恐る恐る目を開いた。
!!!
…帰って、来た!
いつしか夜は明け、私は怪異に会う前の叔母の寝室で、祈るように、泣きながら、眠っていた。
…そうか、久我は一つだけ、間違っていた。
その自分の姿を理解した時、そう思った。
『過去の華やかな時代を懐かしみ、時代に忘れ去られた孤独な存在』
それは叔母と、姥神だけでは無かった。
他でも無いこの私も、彼女らの魂に共鳴し、一つになっていた。…そんな気がしてならなかった。
久我…彼の姿は何処にも無かった。
何となくわかっていた。
私はふらふらと身体を起こしながら、その彼との約束を守るため、戸を開け、潮風の匂いと朝日差す庭に歩みを進めた。
エピローグ
この町に、奇妙な男が住み着いたと、噂になっていた。
齢は40〜50代の穏やかそうな中年男性だった。
彼は以前、親族が暮らしていたと言う古い民家で生活を始めた。
初めはどうやら大層、金に困っていたようだったが、コツコツと商売を始め、数年後にはこの町屈指の有力者になっていた。
遅まきながら妻子にも恵まれ、絵に描いたような成功者の姿に人々は羨み、訝しんで彼に成功の秘訣を尋ねると、笑いながら決まって彼はこう言った。
「うちの庭に古い道祖神さまがありましてね、私は姥神さまと呼んでいますが…これに毎朝欠かさず手を合わせていますと、不思議と商売が上手く行くんですよ。」
何故か拝む時は決まって、懐から大切に古い写真を取り出し、それにも同様に手を合わせていた。
町の人々はそんな彼を、果報者と慈しみ、親しみを込めて「姥神長者」とそう呼び、敬愛していたそうである。
…だが、かつて夜の海岸で、独りひょうひょうと酒を飲んでいた男が、数年ぶりにこの町に帰ってきたことを町の人々は愚か、当の姥神長者も…まだ誰も知らない。