透明スイッチ
トイレから出られない。
バイト先のカフェのトイレ。三つ並んだうちの一番奥の個室の洋式便器の上であたしはお尻を出したまま腰かけている。クローズまでの遅番シフトが終わり、誰より早く着替えを済ませたのち、トイレに寄ってから帰ろうと思ったのだが……出るに出られない。
おなかが痛いわけでも、トイレットペーパーが切れているわけでも、水の流れが弱いわけでも、ドアの鍵が壊れているわけでもない。個室に人がいるとは思われていない状況だからだ。
洗面台の前で話をする女子二人の声がする。その話が長い。おかげで出ていくタイミングを失った。
たいして気が合うわけでもない人たちだから、二人が個室に入るのを待って入れ違いに出ていこうと思ったのが間違いだった。彼女たちはただ話をするためだけにトイレに来たのだ。
こんなことなら初めからここにいるよアピールをするべきだった。トイレットペーパーをカラカラと音立てて取るとか、水を流すとか。とっさに気付かれまいとしてトイレットペーパーに伸ばした手を引っこめ、衣擦れの音がしないように身動きもとらず、息も浅くしかしていない。
今更音を立ててもそれはそれで今まで盗み聞きしていたみたいになっちゃうし。いや、まあ、結果的に盗み聞きになっちゃっているんだけどさ。
「だからさ、沙紀、もう春人に告っちゃいなよ」
「そんな勇気ないよ……」
「春人のこと、好きなんでしょ? だったら言ったほうがいいって」
「でも……」
いくらそこにいるのが後輩二人とはいえ、こんな会話の最中に出ていけるわけがない。
ごめんよ、と心の中で沙紀ちゃんに謝る。あんたたちは知らないみたいだけど、春人はあたしの彼氏なんだわ。
隠しているわけじゃないけど、同じバイト先でこういうのって報告するタイミングが難しいっていうか、わざわざ報告するのもどうなの? って感じだし、まだ付き合って一ヶ月しか経っていないし、知る人ぞ知るみたいなことになっちゃっている。
知る人……パートのおばちゃんたちはみんな知っているみたい。さすがというかなんというか。おばちゃんってすごいなって思う。鋭いし、情報が伝わるの早いし。でもそれっておばちゃん同士でしか回らない情報なんだよね。だからこの子たちは知らないんだ。
ああ、もう、無理! 話がこれ以上進む前にここに人がいますよアピールをしないと!
いや、待てよ。トイレットペーパーを勢いよく巻き取ろうと伸ばした手を止める。
いきなり大きな音を立てたら、いかにも今まで聞いていて限界がきましたって感じになっちゃわない? それって逆に言えば、さりげない音を立てたら、実は今までも音はしていたのに話に夢中で気付かなかったんだって思ってもらえるんじゃない? うん、そうだ。そうしよう。
とりあえずはエチケット用の水音のボタンを押す。水の流れる音が意外と大きく響く。
「でも……じゃないよ。そのために春人と同じバイト先にしたんでしょ?」
「それは綾乃がそうしろっていうから」
「だって学校じゃあ春人は男子で固まっているから話すこともできないでしょ?」
「うん、まあ、そうなんだけど」
え。ちょっと、ちょっと。ここに人がいますよー。話聞かれちゃってもいいんですかぁー?
私は壁にあるボタンを片っ端から押していく。温水が出たり風が出たりしても綾乃ちゃんと沙紀ちゃんの声は途切れない。
ええ~。うそでしょ~。まさか聞こえていないってことはないよね?
トイレットペーパーをカラカラ音立てて巻き取ったり、水は大の方で流してみたりしたけれど、二人の話は止まらない。もう一度一通りのボタンを押そうと壁に指を伸ばしてはたと動きを止めた。
──なに、このボタン?
最初は水音のボタンを押したと思ったけれど、一番端にあるのは明らかに押してはダメそうな真っ赤なボタン。どのボタンにもなんの動作が起こるのかが書いてあるけれど……おしゃれぶって英語表記にしているんじゃないわよっ! Soundくらいはわかるけど、赤いボタンに描かれているのはInvisible。自慢じゃないけど英語は苦手なんだから! でもさっきも押したはずなのになにも特別なことは起こらなかったから、きっとよくある機能のひとつなんだろう。
「でも春人は千夏さんと付き合っているんじゃないかな」
沙紀ちゃんの言葉にあたしは身を固くした。これ以上盗み聞きはできない。
私は思いきってドアを開けた。けれども話に夢中なふたりはこちらを見もしない。それどころか綾乃ちゃんが高らかに笑い出した。
「ないない。だって千夏さんはわたし達より二歳も年上のおばさんだよ? 春人が好きになるわけないって」
カッチーン!
「ちょっと! おばさんはないだろうよ、おばさんはさぁ!」
思わず綾乃ちゃんに詰め寄る。けど……あれ?
綾乃ちゃんは驚きもしなければこっちを見ることもない。沙紀ちゃんも同じだ。
へ? なにこれ? 気付かないふりとかシカトとかのレベルじゃないんだけど? これじゃあまるで──。
あたしは二人の間に手を伸ばして振ってみたり、視界に入るようにあちこち移動してみるんだけど、ちっとも目が合わない。よし、こうなったら、と思って人差し指でブタ鼻を作って寄り目になってみたりしたのに、やっぱりくすりとも笑わない。
ええ~。うそでしょ~。あんたたちより二歳年上の「お姉さま」がここまでしているのに無反応とは……!
まさか……まさかとは思うけど、もしかして、あたし……見えて、ない?
「お疲れ様でしたぁ~!」
トイレ前の廊下を元気に挨拶しながら通り過ぎる春人の声がした。
きっと春人ならあたしが見えなくなっているなんて冗談だよって言ってくれる。きっと「やっぱ千夏さんっておもしろいよね」っていつもみたいに笑ってくれる。
はる……
「春人っ!」
駆け寄ろうとしたあたしを追い越して、沙紀ちゃんの手を引いた綾乃ちゃんが廊下に飛び出した。あたしはそのあとから廊下に出る。通り過ぎた春人が振り返るところだった。一瞬目が合う。けれどもすぐに笑顔になりかけたあたしから目を離し、「あれ?」って言ってポリポリと頬を掻いた。
「春人、沙紀がね、話があるんだって」
綾乃ちゃんはそう言って、沙紀ちゃんを春人の正面に立たせた。
「え、ちょっと、綾乃ったら……」
戸惑う沙紀ちゃんに綾乃ちゃんは小声で「言っちゃいなよ、だいじょうぶだから」などと発破をかける。春人にもそれは聞こえたはずで、しかもこの状況は「いかにも」って感じで、さらに春人はけっこう勘が鋭くて。だからきっとなにが起こるかわかったはず。だってほら、視線があちこち動き回って、ちょっとモジモジしちゃったりして。そんな春人の様子はかわいらしいんだけど、なんかイラッとする。
「え? なに? もう遅いけど、学校じゃだめなの?」
なに気付かないふりしてんのよ、バカ春人! むかつく。マジむかつくっ!
この子たちが春人の同級生だってことは知っている。休憩時間でもないのにちょっとお客さんが途切れるとすぐに春人に話しかけている。沙紀ちゃんじゃなくて綾乃ちゃんがね。あたしはひそかに思っている。春人を好きなのは沙紀ちゃんだけじゃなくて、綾乃ちゃんもなんじゃないかって。春人って見た目はイケメンだしね。モテると思うよ。
一ヶ月前いきなり春人に告られた時はびっくりした。べつに嬉しさなんてなくて、ただただびっくりした。よく話はするけれど恋愛対象としてみたことなんてこれっぽっちもなかったから。
だって春人は二歳も下だよ? おじいちゃん・おばあちゃんの二歳差は変わらないと思うけど、高校生で二歳下の男の子って男の「子」にしか見えないもん。
とはいえ、いい子であることは間違いないし、話せば楽しい。
なによりすっごく緊張した顔を真っ赤にして「好きなんです。付き合ってもらえませんか?」なんて言われたら「はい」って答えちゃうでしょ。
心の中で自分につっこんだよ。「はい」ってなんだよ、「はい」って~! 先生に呼ばれたとき以外にそんな返事したことないよ、あたし!
春人といるとなんだか妙に女の子になってしまう自分が照れくさくて──そしてそんなあたしも悪くないなんて思ってしまう。だから今でもまだ春人のことを彼氏として好きかどうか自信がないけど、付き合っているんだと思う。
なのに春人ときたら、真っ赤になって俯く沙紀ちゃんの顔を覗き込むような仕草までしちゃって、まんざらでもない様子。
もうっ、ばっかじゃないの! むかつく! むかつくっ! あたしは別に春人のことを好きでもなんでもないんだから、さっさとこんなおばさんとは別れて同級生のかわいい女の子と付き合えばいいのよ!
「あ、あの……わたし……」
恥ずかしさと緊張に言いよどむ沙紀ちゃんをじっと見つめる春人の目は優しくて、不本意ながらドキッとしてしまう。
こいつってこんなにまつ毛長かったんだ。こんなにキラキラした目をしていたんだ。あの目でいつもはあたしのことを見てくれていたんだ……。今はすぐそばにいるのにちらりとも見てもらえないけれど。
「もう、沙紀ったらちゃんと言わなくちゃわからないでしょ。いいよ、わたしが言ってあげる。春人、あのね、沙紀があなたのこと好きなんだって。付き合ってあげてよ。いいでしょ?」
おっと~! 綾乃ちゃん? それはあんまりじゃ……と思ったら、沙紀ちゃんも「ありがと」なんてお礼言っているし。いいんかい、それで?
春人はというと、相変わらずヘラヘラした顔をしている。あたしはイライラもむかつく感じもすっかりどこかに行っちゃって、ひたすらに哀しさに押し潰されそうになっている。胸の奥がキーンと冷えて、キューッと絞られて、キリキリと痛くて、勝手に涙がポロポロ零れてきた。
またちらりと春人と目が合ったような気もしたけれど、視界が滲んでいるからたしかじゃない。たぶん気のせい。こっちを見てほしいって思っていたからそんなふうに見えちゃっただけ。
ああ、春人は沙紀ちゃんと付き合うんだろうな。沙紀ちゃんはちっちゃくておとなしくてかわいい。あたしとは大違いだ。なんでもっと女の子らしくしてこなかったんだろう。なんでもっとちゃんと春人のことを見てこなかったんだろう。もう手遅れなんだけど。
「俺、彼女いるんだけど──」
春人がそう言ったのに、あたしはちっとも嬉しくない。だってきっと続きはこうだから。「別れるから、それまで待ってて」って。
沙紀ちゃんと綾乃ちゃんも同じことを思っているんだろう、ほんのり笑顔で頷いている。それを見た春人は続きを言う勇気を得たのかにっこり微笑んだ。
「めちゃくちゃ大好きなんだよね」
「──はぁ!?」
叫んだのは綾乃ちゃんと沙紀ちゃん、そしてあたし。あたしの声は聞こえていないみたいだけど。
「えっ? なんで驚くの?」
春人は驚かれたことに驚いている。
「だから気持ちはすげー嬉しいんだけど、ごめん、付き合うのは無理だわ」
はらはらと泣く沙紀ちゃん。怒りだす綾乃ちゃん。
「春人、沙紀のどこがいけないのよ。こんなにかわいいのに。こんなふうに泣いちゃうくらい春人のこと好きなのに。だからわたしだって……」
「ほんと、ごめん。でも、俺、ほかの子を泣かせても平気なくらい彼女のこと好きなんだよね」
「ねぇ、彼女ってまさか」
「うん、千夏さんだよ。俺から告った」
はっきり言った。春人ははっきり言ってくれた。彼女がいるって。彼女のことが好きだって。それはあたしだって。自分から告ったって。
その言葉はどれもありえないくらい温かかった。初めて好きって言われた時の何倍も嬉しい。
ああ、そうか。あたしも春人のことが好きなんだ。この一ヶ月の間にすごく好きになっちゃったんだ。
大粒の涙がボロボロ零れてくる。鼻水まで垂れてきた。
あたしはトイレに駆け込んで、蓋の閉まった便器に腰かけて、トイレットペーパーで盛大に鼻をかんだ。透明になっても鼻は普通にかめるらしい。
もう春人からもあたしは見えない。せっかく気付いた気持ちも宙ぶらりん。
私は泣いて泣いて、今までにこんなに泣いたことなんてあったかなってくらい、いっぱい泣いて、いっぱいトイレットペーパーを使って、泣き疲れてウトウトしていた。
だから、その声が聞こえた時、夢なのか現実なのかちょっとよくわからなくなっていた。
「千夏さん、どうしたの?」
すぐ近くで声がして、便器に座ったまま顔を上げると、開けっ放しになっている個室のドアのところに春人が立っていた。
「春人だ……」
そう呟くと、「うん、春人だよ」と彼は笑った。
「ねえ、見えるの?」
「……?」
「あたしが見えるの?」
「え? 見えるよ? 目が真っ赤に腫れて、鼻水たらして、便器に座っている」
見えている! そうわかった途端にあたしは叫んだ。
「なんで女子トイレに入っているのよっ!」
「ええ~!? そこ責められちゃうの? だって、千夏さんがいなくなっちゃうし、ほかの人はみんな帰っちゃって店に誰もいないし……」
「みんな?」
「うん。誰もいないよ。もしかして、寝惚けているの?」
あれは夢? うん、たしかに現実にはありえない。透明になっちゃうなんて。でもすごくリアルだった。なのになんだか記憶があいまいになっていく。だからきっと夢だったんだろう。
そんなあたしをじっと見つめる春人の目は優しくて、不本意ながらドキッとしてしまう。こいつってこんなにまつ毛長かったんだ。こんなにキラキラした目をしていたんだ。この目はあたしだけを見ていてくれるんだ。
「春人」
「ん?」
「──好き」
「初めてだね、千夏さんが言ってくれたの」
そう、初めて。初めて春人のことが好きだって自信を持って言えるの。
「でもね、千夏さん」
春人が真顔になるから、少し怖くなる。
「それ、トイレで言うことじゃないよね」
そして私たちは笑う。年齢とか学年とか学校とか、みんなみんな透明に消えてしまうくらい笑う。大好きって気持ちだけが残ればいい。
春人、大好きだよ──。
* fin *
おかしいなぁ……「きゅあぴゅん」はふざけた話にするつもりだったのに、なぜかピュアキュンな話になってしまった……( •̆ ·̭ •̆ )
あ、そっか、私の乙女度が高すぎるのね……(*'∀'*)ゞエヘヘ
※私にとっての「きゅあぴゅん」とは、明るく元気に跳ね回るポップなイメージなのでした~♪