シスターズ・ヘイ
「暇な時とか何してんの?」
「ドラゴンと戦ってる」
相変わらずとんでもないことを真顔で答える姉に、杏奈は呆れてモノも言えなかった。本人は冗談を言っているつもりもなく、至って本気だ。だから余計に怖かった。
杏奈は時計をチラと見上げた。面会時間はあと一分程度。ガラス越しに見る三ヶ月ぶりの姉の姿は、元気そうで安心だった。隔離病棟の塀の中での暮らしで、少し痩せたのかもしれないが、言動のぶっ飛び具合に比べれば些細なことだ。
「じゃあお姉ちゃん、私もう行くね。また会いに来るから」
「次はちゃんと神経毒を持ってきてくれよ。奴らにはアレが有効なんだ」
真剣な眼差しの姉に杏奈は苦笑いで答えた。面会室を抜け、そそくさと病院の外に出る。新鮮な空気を思いっきり吸い込み、杏奈は胸をなで下ろした。やっと解放された、それが今の正直な感想だった。
姉の空想癖が、やがて誇大妄想となり暴走し始めたのが三年前。
幼い頃から妄想に浸る傾向はあった。奈の姉は中学の時ある日突然「竜にビルが破壊された」だの「ドラゴンの炎が降ってくる」だの、彼女にしか見えない怪物と戦いだしたのだった。
それだけならただ単に「痛い子」で済んだだろう。だが姉はその日から台所から包丁を持ち出し道端で暴れまわったり、屋上で一人パンチやキックを繰り返していた。その行動は次第に冗談では済まないようなレベルにまで達してしまった。当然そんな姿は周りにも目に付くし、両親も対処せざるを得ず、やむなく姉を精神病院に連れて行った。
だが医者にさえ彼女を「治療」することは叶わず、姉はそのまま隔離され鉄格子のついた部屋の中で暮らすことになったのだった。何しろ昼夜問わず突然架空の怪物相手に暴れだすのだから、誰にも手に負えない。結局姉の病名は分からず終いで、「妄想癖」の延長で片付けられた。どちらにせよ、到底元の生活には戻れないだろうというのが医者や両親、そして杏奈自身の見解だった。
病院の外で、杏奈は建物を振り返った。普通の患者さん達が来診に来る東側とは別に、西側は灰色の壁でぐるりと囲まれている。姉の生活する隔離病棟もそちら側だった。まるで刑務所の塀のようだ、と杏奈はいつも思っていた。姉は決して悪いことをしたわけではないのに。
「杏奈さん!!」
「斎藤先生…」
杏奈が声をかけられ入口の方を振り返ると、白衣を着た若い男がこちらに走ってきた。斎藤先生だ。姉の担当の精神科医で、数年前からずっとお世話になっている。斎藤は杏奈の下に駆け寄ってくると、息を切らしながら興奮したように語りだした。
「お伝えしたいことが…お姉さんの病名が分かったんです…!」
「え…本当ですか!?」
杏奈は驚いた。これまでは妄想癖ぐらいにしか捉えられていなかった姉の症状が、ついに解明されたのだ。もしかしたらこれで、姉の治療にも繋がるかもしれない。
「お聞きしてもいいですか?姉は一体どんな病を…」
「飛蚊症です」
「飛蚊症?」
飛蚊症…。視界に黒い虫みたいな点が見えるというアレだろうか。
「要するに『飛竜症』とでも言うのか…お姉さんは蚊の代わりに、瞳の中に竜が見えているんです」
「それは…」
杏奈は言葉に詰まった。何とも幻想的な話だが、つまり姉は頭がおかしくなった訳ではなかった。彼女は本当に竜が目の前に見えていて、それと戦っていたのだ。杏奈は胸にこみ上げてくるものを感じながら、急いで斎藤に尋ねた。
「…治るんですか?」
「ええ、もちろん。病名がはっきりすれば、対策はかの…」
斎藤が言い終わらないうちに、彼の上半身が引きちぎられ、残った下半身がドサリと地面に倒れ込んだ。彼の血飛沫を全身に浴びながら、杏奈は呆然とそれを眺めた。一体何が起きたのか、さっぱり分からない。間髪入れず轟音が耳に飛び込んできて、杏奈は音のする方へと顔を上げた。
隔離病棟の灰色の塀が、脆くも崩れ去っていた。
杏奈は目を疑った。
崩れた塀の上で翼を広げていたのは、見たこともないほど巨大な…竜の姿だった。