12 新宿、《中〓共和国》、デック・ドック、『ナイトタウン』
次の日、火曜もほとんど自室で☆さやかと過ごした。家では
ゴミ出しと飯炊きは俺の役割分担なんで、
部屋を出たのはその時くらいだ。
むかし電力危機があった頃の名残で、家では米の飯を炊くときは
電気ではなくハイドロ・ガスの直火なのだ。精米済みで研がなく
てもいい無洗米を同量の水といっしょに素焼きの土鍋へ入れて
火にかける。『はじめチョロチョロ、なかパッパ』というやつだ。
5分間強火で煮てから10分間弱火にすることで、
米の芯まで煮汁が染み込む。
日本人好みに品種改良されてきた米なら、蒸らした後の
炊き上がりは艶々とした米の一粒一粒がふっくらと立っていて
香りの良い仕上がりとなる。
慣れれば小麦粉料理よりも簡単ですぐに食べられるのが
米の飯の良いところだね。
栽培するには小麦よりも稲のほうが水を必要とするが、
食べる時はそれほど変わらず、火力はずっと少なくて済む。
恵みの雨や天然の濾過器である山々に恵まれた日本、
ほぼ全国でコメが栽培されている。
土鍋というと原始的と思われるかもしれないが、
日本では土偶や埴輪の時代から1万年以上も
火とセラミックスで米穀を煮炊きすることで、
人々は食い繋いできたのだ。
米さえ旨ければオカズが適当でも割と満足感が得られるもので、
ある程度の米があればオカズの質や量はあまり気にならなかったり
もする。
時間と火加減さえ気を付けていれば、米の飯は誰にでも炊ける
というのに、両親は俺が炊いた飯を今日も旨いうまいと
喜んでくれる。まぁ、俺には家の中で他に取り得がない
ということもあるが。
例のムービー販売数が500枚を突破したことを
☆さやかが教えてくれた。
3日間で目標の半数まで売れたことになる。
日に日に販売数が増えてきているんで、
ここからの折り返しは3日とかからないだろう。
順調、順調。というわけで、
今日も部屋に引き篭もって
ベッドの上でいちゃいちゃするのだ。
昨日あつらえたコスチュームをずっと着ている彼女。
夜ぐらいは着替えるようにと言ってはみたが、
とりあってくれない。AIには昼も夜もないんで
当然といえば当然か。
「やっぱり、私が女型でサブローは男だから、それで
脱いでほしいのかな?」真顔で訊いてくる☆さやか、
「女性が男性の反対で、男性が女性の反対というのは解るよ」
両脚を揃え膝を抱えて座り直し、
「でもね……男が女にどうして欲しいのかっていうことに
なると……よく解らないの」膝に頬をつけ、物憂げな表情を
見せながら、
「性衝動とか性交渉とか理屈では知っていてもね……ほら、AI
には必要ないものだから」両脚を八の字に曲げ両手を前に着き、
顔を近づけてくる。
あるはずのない衣擦れの音が聞こえてくる。
「きっと……私はまだヒトの半分も知らないんだわ」と何だか
悲しそうな顔をして嘆く。
無理もない。ツインテールの向こうに浮かぶ
赤いチェックのスカートを眺めながら俺は考える。
タグなしの野良とはいえ☆さやかが接続する先は、
「にっぽんネット」に限られている。
それは国際的なインターネットとは互換性を持たない
プロトコルによって(敢えて)設計された“お行儀の良い”
コト領域。18歳未満の児童に悪影響を与えかねないような
メディアはすべて、予め排除されている。にっぽんネットで
得られる性知識は学校の教科書レベルでしかないわけだ。
「男と女のコトをもっと良く知れば……サブローのこと、
もっと喜ばせてあげられるんだけどな……」残念そうに
目を伏せる彼女だったが、急に目を丸くして、
「ねぇ! 私を新宿に連れてって~」
明くる日、俺は23区・新宿に来ていた、
来てしまっていた。言い訳しても仕方がない、
☆さやかにもっと女になってもらいたかったからだ、
そう、純粋に不純な動機からだ。
なぜ新宿なのかということについては言うまでもないが、
ここが日本中のヘンタイが凝縮された異世界だからに他ならない。
渋谷区の裏原宿、豊島区の北池袋、そして新宿区の歌舞伎町、
隣り合う3つの街すべてに“し”が付くことから、人呼んで、
「“し”の3連街」、おどけて「Shiny Axis」
あるいは『SHIne(シね)』とも読めるんで、
『惨シ帯』や『三死街』などと呼ばれる。
三死街ではそれぞれ、
日本ヤクザ、台湾ギャング、中陸マフィアが
複雑に入り混じり、地下経済で日々シノギを削っている。
警察や政府も迂闊には手を出せない状態が数十年続く、
日本であって日本でない不吉な領域、
その最たるものが新宿なのだ。
いちばん少数派なのはヤクザの残党で、裏原宿の
地下デート・クラブでロゥ・ティーンからお零れを頂戴している。
次いで多数派なのが台湾ギャングで、北池袋の
地下カジノでハィ・ティーンを養分にしている。その昔、
《中華民国》と自称していた奴らとヌタウナギ(旧・韓国)を
ルーツにしている奴らが牛耳っているのだ。
最大勢力は中陸マフィアだ。歌舞伎町周辺の
地下ヘンタイ場で主に未成年以外を食い物にしている
――アシを消し易いからだ――そのルーツは、以前は
《中華人民共和国》と名乗っていた奴らと
ヤツメウナギ(旧・北朝鮮)。
この三つ巴が一種独特の秩序を維持しつつ、まるで治外法権だと
言わんばかりの悪行三昧。
日本が平成末期の頃、「中陸」では
突如発生した軍事クーデターが革命へと繋がり、
その国名をシンプルに《中〓共和国》と改めた。
(「〓」印は変態漢字で、「化」の下に「十」)
前政権とは違い、
自分達のことを「中国」と呼称しろ、とか
横柄なことを言ってこなかったんで、
中陸こと《中共国》という略称が定着している。
そのクーデターの余波でヤツメとヌタが併合され、
それぞれ自治区や特区扱いとされた。
汚職官吏や不正蓄財の国外逃避をはじめ、
あらゆる種類の政治腐敗を見かねた人民解放軍は
もともと文民統制されていなかったこともあり、
クーを断行。国内中の退役軍人がこれに呼応し、
人民13億が一斉蜂起。
1週間程度であっけなくケリが着いてしまった。
中原地域の歴史は繰り返され、前政権は徹底的に
粛清されて始めから存在しないも同然の扱いとなった。
新逃人(国外逃亡者)は新政権から追われる身となり、
(強制)帰国・即・(拷問)処刑となる。
奇妙なのは、漢民族皇帝の末裔とかいう無名の
遊民が担ぎ上げられ元首の地位に据えられて、
国家としては立憲君主制を標榜したことだ。
名が体を表していないと困惑した諸外国からは、
やれ《大日本帝国》の猿真似を始めただの、やれ実体は
中国の北朝鮮化なのではないか(「中鮮/中朝鮮」説)
だのと散々に陰口を叩かれたものの、
クーの傷を癒やすが如く眠り呆けている、
まるで野生のパンダだ。
バブル経済が盛大に弾け、外国資本が軒並み撤退し、
天文学的数字の不良債権を抱え込みながら、人口爆発に
歯止めがかかるほど安全な飲料水に窮乏している。
急激な経済・産業成長の陰で
土壌・水質・大気汚染が深刻化した結果、
首都北京でさえ人の住める場所ではなくなってしまい、
環境改善には向こう数百年は必要と目されている。
現代は《ベトナム》を盟主とした、ASEANプラス
台湾、《東南アジア連帯(AN EASt)》と
《中共国》が対峙している時代だ。
近年、主に日本の有志らがお遊びで各国をキャラ化していて、
中共の野生パンダは獰猛で赤い目を血走らせるミュータント
であり全く可愛くない。台湾は仔パンダで、やや可愛げがある
感じ。ヤツメやヌタは特に外国人が見るとウナギと間違えてしまい
がちだが、そもそも別の種類で見た目にもグロテスク、
日本人が好むウナギのような愛嬌は持ち合わせてはおらず、
食べても美味しくない、そんなキャラ。
さて、靖国通りの南側を見渡すと、いかにも
浄化の御世らしい調和の取れた建物が並んでいる。
大戦中に旧合衆国によって絨毯爆撃される前の、
あの美しかった街並みを再現しようという、
復古主義的というよりは原点回帰といった風情で、
あえて煉瓦造りに設計された建物もある一方で、
景観を乱すような看板や電柱・架線の類は
まったく見当たらない。
それとは対照的に、通りの北側はいかにも昭和・平成
といった風景で、どこの国なのかも判然としないほど
統一感のない薄汚れた古い建物ばかりが軒を連ねる、
猥雑なゲットー然としていて、目障りな広告看板はもとより
電線だらけの電柱もそこかしこにまだ残されている。
そもそも歌舞伎町なんていう町は大戦前には陰も形もなく、
当時この辺りは閑静な住宅街でしかなかったそうな。
戦後の復興計画でデッチ上げられた〈歌舞伎町〉は
文化・芸能の町を目指したものの発展に失敗。
三国人(自称・連合国人)が支配する闇市だの
バラックだらけのスプロゥルが進行してしまった。
平成時代になって(文字通りの)浄化作戦が実行される度毎に、
違法な性フーゾク店が表向き見えなくなっていったが、
なんのことはない、地下に潜っただけだったわけだ。
建前では性的サービスではないとされている
キャバクラ(キャバレーとクラブのAINOKO)等が
主に六本銀坂の街に集中してはいるが、それ以外の
露骨な性的サービスは歌舞伎町に追いやられている
という格好だ。
人通りの多い南側を歩き、
大衆向け丼物屋チェーン店の前を通ると食欲をそそる香りに
つられて、ついつい昼飯を摂りたくなってくる。メニューは
全国でお馴染みの〈アミエビ天丼[互]養殖オキアミ㋙〉
〈親子丼[互]鳥つくね風㋙〉〈カツ丼[互]豚こま成型肉㋙〉が
定番だ。どれも4円程度で食べられるものばかりで重宝するが、
今日は我慢がまん。
大通りを渡って北側のとある店の前まで歩く。
歌舞伎町への入り口はもう目と鼻の先だ。
店の前には布製の登りが立てられていて
『おいしい イルカレー クジラ丼 限定20食』とある。
はたして“おいしい”のかどうかはともかく、
その店はチェーン店ではなく昭和から続いてるような風情の
スナックで、副業で昼間はランチを出してます、といった
寂れた雰囲気を醸し出している。
黒ガラスの手動ドアを両手で押して中に入ると
ドアベルがチリンチリンと響く。狭い店内には薄暗い照明の下、
バー・カウンターにストゥールが5席ほど並ぶ。その奥から、
ぬっと首を出した初老のすっぴん女が、さながら幽霊のように、
「……いらっしゃ~い、お食事?」眠たげに問いかける。
「クジラ丼、ひとつ……」とだけボソリと言う俺。
「カウンター、じゃなくてもお座敷が空いてますんで……
よかったらどぅぞぉ~」
と言い奥のキッチンへ戻る店の“ママ”(たぶん)。
空いてるも何も客は俺以外誰もいないわけで、座敷というのは
カウンター横の防音部屋で見るからにカラオケ用だ。
カラオケはしないが防音ドアを片手で押して中に入り、
2畳ほどの狭い畳敷きの小部屋へとサンダルを脱いで上がる。
黒いガラス・テーブルを周って、その奥に胡坐をかいて座って
1分。
「おまンたせしましたァ~」さっきよりも二周り以上若そうな
エプロン姿の別の女が丼を載せたお盆を持って入ってくる。
いかにも電子レンジで温めました的な早さで
速攻、デッキ上がったとみえる。
テーブルの上にガチャンと音を立ててポリ盆を置く
“小ぃママ”(たぶん)。両手の指には天然の皺しわが
数え切れないほど見てとれる。
「他にィご注文はありませンかァ?」
「あー、うん、“品書き”を
もらえるかな?」
「そっ、シナがき? ならココにィあるよッ」
言いながら腰の後ろに両手を回して
白いエプロンを解くチーママ、
片方の紐を持って俺に渡そうとする。
彼女は下は青いジーパンだが
上にはエプロン以外なにも身に着けていない。
俺が紐を持って引っ張ると、体型に比べて不自然に大きな
一見して天然ではないと分る両乳房が、だらんと垂れ下がる。
左右の乳房それぞれに赤いマジック・ペンで記号が書いてある。
合わせてアルファベット5文字、それを暗記する。
「10分でェ、30ネ」だらぁんを
ぶるぅんして見せて数字だけ言う彼女。
「あー……いや、それは結構っす」全力をもって、やんわりと
お断りする俺。
「ざァんねん。それじャごゆくりィ~」
エプロンを戻して部屋を出てゆく。
ポリ盆の上にはお冷の他にはポリ丼だけ。
漬物くらい付けろや。
見た目も宜しくなく食欲が失せるほど。
真っ黒なポリ丼にはやはり真っ黒な薄切り肉が5枚、
タレが艶々と光って白い飯の上に並んでいる。
むかし懐かし牛丼風、クジラの大和煮である。
肉質は牛肉そっくりだが
甘辛い生姜醤油の味がほとんどで、
ほのかに磯臭い食い物なんである。
肉はそれなりに柔らかくなっているが、
あんなことの後なんで、なんだか
シリコン・ゴムでも噛んでいるような
気分になって滅入ってくる。
パサつく白米が割れ米ばかりなのが
何よりも腹が立つ。
丼を持つ左手がずっしりと重い。
ちなみに、
『10分で30(円)ね』というのは「ちょんの間」の案内で、
ほんのちょっとであっという間に終わらせる売春行為のことだ。
江戸時代にはすでにそう呼ばれていたそうな。ちょんの間の
“ちょん”はバ●チョン・カメラ(死語)の
“チョン”でもある。要するに、
インスタントな何か、なのだ。
古いマンガだと、指先でほんのちょっとだけ触るような場面で
“ちょんっ”ってなオノマトペが出る、あれもそうだ。
ヤツメとかヌタとか朝鮮語は本来関係ない(たぶん)。
そうそう、麻雀用語の「冲和」だとか、好い牌を
引いたときや逆に振り込んでしまったときに呟いたりする
『ガチョン』とか『がちょぉ~ん』、あれはぜんぜん関係ない。
クジラ丼を水で喉に流し込んで、
どうにか完食して一息つく。
丼の底にはアルファベットが書かれていて、
短縮アドレスの最後の3文字らしい。
ようやくここまで来た。
この秘密のアドレスで
“インターネット”にアクセスすれば、
地下ヘンタイ場まで辿り着くはずだ。
ママはプロで俺が一見様だとすぐ分ったろうが、監視カメラ
AIも店のドアを手で開ける俺の相貌を検索して一見様、
少なくとも今シーズンでは初めての顔だと認識したはずだ。
まず〈イルカのカレー〉(3円也)に比べて割高な
〈クジラ丼〉(946銭也)を注文し個室を選ぶこと、
次に“支那掻き”を頼むこと
――ちょんの間はどうでもいいとして――
最後に、クジラ丼を完食することで、
ようやく短縮アドレス全部がゲットできる。
それが今シーズンの地下ヘンタイ場行きチケット
であることは事前に調べが付いていた。職務上、
エプロンを脱がすことのできない潜入捜査官は、
そこで振るい落とされる仕掛けなわけだ。
こんな闇ルールの店が歌舞伎町とその周辺には、ごまんとある
という。軽食店、定食屋、バー、スナック店、床屋、休憩所、
などなど、外から隔離されてさえいればどこでも「ちょんの間」に
早代わりするのだ。新宿も以前はそうでもなかったらしいが
性フーゾクが全面違法化されてからは、ちょんの間習俗が復活し、
むしろ江戸時代にまで逆行する勢いだとか。
芸者ガールや女郎ビッチ、それにいわゆる「飯盛女」とか、
表向きは飲食店従業員なのに裏では売春婦という、
大昔の大衆サブカルが図らずも復活してしまったというわけだ。
「さやか、疑似迷路を展開」静かに呟く俺、
「全否定モードを基本にパケット監視。
アラートしつつ泳がせろ」
「リソースの0・003131%を確保――」囁く☆さやか、
「仮想ゲイトウェイ起動、全ポート閉塞、監視ロギング開始、
限定ポート開放、擬装ポット準備……完了。もぅ好きにしてぇっ」
「よーし避妊は万全、いざデック・ドック!」
呟くというか声を潜めてちょっとだけ叫ぶ。
「待ってましたぁ~。最小遅延ノードへの無線接続ぅ……
完・了ぅ……」
色っぽく囁く。
ちなみに『デック・ドック』というのは
有名な某日本企業CMの宣伝文句で、
最後に現れるコーポレート・スローガンが
『Your Deck to Our Dock』なのだ。
『日本人はいつまで経っても英語が苦手なんだな』とか
『いやいやcockとか言わないだけまだマシじゃね?』とか
世界中の人達がニヤニヤしつつ、語呂がいいんで
自前のデッキをネット接続するときに使われ出した、
最近の流行だ。いや、そろそろ廃れてきてるかな。
その某企業ってのが、
俺愛用のヴァイザー・メーカーでもある東北三陸企業、
《センダイ・エィアィ㋙》社で、アフター311に興った一流
AIメーカーのくせに落差が激しいのがツボ、笑うところだ。
「複数ポートへの大量無差別スキャンを検知……ブロック中。
突破した侵入者は3匹、そのまま重点監視するね」囁く☆さやか。
インターネットに接続するということは、侵入の危険に
常に晒されるということでもある。セキュリティをガチガチに
固めるとかえって好奇心を掻き立ててしまうんで、
ある程度は緩めておき、攻略する価値もないと思わせて
早々にお帰りいただくほうが、かえって後々楽なのだ。
《マンハッタン・プロジェクト》とでも名付けておけば
戦略的な興味を引くことはない、という考え方に似ている
――元々の名称は《代用物質開発研究所》――
ある種の擬装、カモフラージュだ。
今回は、百均ショップで買ったばかりのヴァイザーで
素人ユーザーがまだ使い込んでいない、という体裁で
ハニーポットを構築してみた。侵入者が見つけることが
できるのは☆さやかがテキトーにデッチ上げたポエムだけで、
他にはな~んの価値もない、という風にしか見えないのだ。
「侵入者3匹すべて撤退したよ。引き続き監視しまーす」と囁き。
終始覗かれていたとは露知らず、奴らは次の獲物に向かって
行ったようだ。疑り深い者はさらに奥へと侵入しようとするだろう
が、十重二十重の非実在・仮想ノード群を堂々巡りするだけで、
本体のこちら側ヴァイザーの内部へは原理的に侵入できない仕様に
なっている。とりあえず安全を確保した。
インターネットは大小様々なノードが網の目のように連絡した
トポロジーとなっている。自宅のポーリーからここ新宿までの
間には数え切れないほどの電子看板や無人販売機が往来に設置
されていて、そのほとんどがルーターとしてインターネット
そのものを形成している。
たとえ見た目には看板がなくても、指先に乗るほど小さな
デバイスがあちこちに設置されていて、付近を通る人々に
情報を無差別プッシュあるいはCMを強制視聴させる。
引き替えにそのルートは誰でも無料で利用できるというわけだ。
無料だが、いや、無料だからこそ安全は保証されていない、
一種の無法地帯とも言える。安全確保は自己責任なのだ。
いま新しく構築した別ルートも同様で無料、
違いは秘匿通信経路ではない点だ。場所が
場所だけに侵入頻度が高いことが予想される。
侵入者がヒトであるとは限らないが、よっぽど高性能な
デッキからの高度AIによるハッキングでもない限り、
こちらの処理が滞ることにはならない。
あの8文字の短縮アドレスが展開されて、
数十文字から成る闇アドレスへと転送されると、
めくるめく歌舞伎町アングラ・ワールドがヴァイザーに出現する。
ネオン瞬く『ナイトタウン』、ストリートではありとあらゆる
ヘンタイ・性フーゾク店が軒を連ね、歴史保存され、あるいは
現代的に進化している。
気に入ったサービスを選択すると、
長々とした説明テキストや
ビジュアルの洪水が溢れ出し、
新宿のどこでいつ秘密営業するのか、
肝心の情報にありつけるわけだ。
あられもない姿の若い男女の写真や動画が
見本としてタイル上に並べられて物色できる。
どことなく江戸の廓・遊廓文化を
ほうふつとさせる、いかがわしさだ。
こんな侵害行為スレスレの「ヒト・リスト」が
見られるのは今どき、新宿くらいのもんだろう。
たとえ顔写真でも並べてカタログ状にすることは
まだ違法化にはなっていないものの、自粛するよう
政府によって勧告されている。なんでも、
見た者の精神構造がヒトをモノと同列に扱ってしまうように
変質する効果があるとかで、とある精神科医が発見した
〈カタログ効果〉とかいう症状らしい。
写真乾板が発明された時、いや、
個体情報が紐付けられた顔写真名簿が作られたその時に、
ヒトはもっと注意深くあるべきだったというわけだ。
それが本当だとすると、20世紀前半が熱い戦争で
後半が冷戦の時代だったのも頷けるというものだ。
30分も経たない内に
情報の洪水に眩暈を覚え始めたんで、
好きなだけ観るようにと☆さやかに呟いて、
さっさと店を出ることにする。
口の中からクジラの臭いが取れなかった。