僕と叔父さん
優香との再会に戸惑っていた隼だった。
『ごめん優香。部屋片付けてなかったよ。今日はスーパーのアイスクリームでいい?』
あの日僕はそう言った。
本当は片付いていた。
だって僕の部屋にはローテーブルとソファーベッド以外殆ど家具がないんだ。
だから掃除機を掛ければあっという間終わってしまうんだ。
叔父が宝くじを当てて買ったマンションには二つの部屋があった。
一つは僕が寝ているソファーベッドのある部屋。
もう一つは何も置かれていない、僕が勝手に叔父の部屋としている和室。
僕はこのマンションで叔父と一緒に暮らすのだと思っていた。
だから使わないで空けているんだ。
だけど何時まで待っても叔父は越して来なかった。
それでも……
それだから余計に……
でも本当は、あの『怜奈』と言う女優に迷惑が掛かるようなことがあれば、何時引っ越ししてもいいと思って暮らしていたんだ。
だから荷物は増やさなかったんだ。
でも結夏と結婚すると決めた時に、もう隠れて暮らすのをやめようと思ったのも事実だった。
その時に選んでもらった冷蔵庫やその他諸々の物。
全てに結夏との思い出が刻まれている。
あのカーテンのような決して消すことが出来ない記憶が……
結夏は常に僕を気遣ってくれていた。
でも優香にはそんな負担を掛けさせたくなかった。
だからオープンに付き合いたかったんだ。
それでも僕は怖かった。
優香を傷付けてしまいそうだったから……
僕は優香の前でも、つい結夏って言ってしまう。
優香がその事実に気付いて、僕を避けるのではないかと気が気じゃなかったんだ。
だから優香に嫌わてしまいそうで戦々恐々としていたんだ。
何なんだよ。
結夏に優香だなんて頭がこんがらがるよ。
でも、二人とも大好きだ。
どうしようもないくらい大好きだ。
『王子様』って優香が言った時、ドキンとした。
だって女の子って、好きな男性を王子様に例えるって聞いたことがあるからだ。
もしかしたら、優香は僕が好き?
なんて、考えすぎかな。
結夏ごめん。君のことで頭はいっぱいのはずなのに……。それでも優香のことを考えてしまうんだ。やはり僕は優順不断なのかな?
優香ったら『私結構料理好きなんだ。良かったら作ってあげるよ』なんて言っちゃって、可愛いヤツだなあ。
でも、あれって本気かなー?
そりゃ僕だって一緒に暮らしたいし、料理も作ってもらいたい。
でも早すぎるよ。
ま、優香の言った意味はきっと違うと思うけどね。
きっと僕の体のこと気にしてくれているだけだと思うけどね。
それでも僕は優香の中に初恋を感じたんだ。
本当は優香が好きだったのではないのかと……
僕が本当に大好きだったのは、子供の頃から一緒にいた優香ではなかったのだろうかと……
だからあまりにも辛すぎて、ブランコの一件を忘れさせたのかも知れない。
勿論、結夏のことも好きだった。
だから学生結婚をしようと思っていたんだ。
今、その思いが揺れている。
優香の出現によって、結夏から離れようとしている自負に気が付いて……
それにしてもグッドタイミングだったな。
銀行でお金を下ろしておいて良かったよ。
光熱費や電話代などの生活費の全てはあの口座で管理してる。
僕は二十歳になった時から国民年金にも加入しているんだ。
やはり義務だし、学生だからって甘えてはいけないと思うんだ。
『俺は二十歳だから、本当なら国民年金を納めなくちゃいけないとは思うよ。だけど俺達は学生だから免除されるらしいんだ。だから、その手続きをしようと思ってる。隼もどうだ?』
孔明が二十歳を迎えた時言っていた。
紙切れ一枚で生活困難者を救済するシステムは素晴らしいと思う。
手厚い保障もあるようだ。だからと言ってそれに甘えてはいけないと思うんだ。
何でも全額免除や半分免除とかその人の収入に応じた対応になっているようだ。
本当は僕もその制度に甘えたい。
でも一応名前と顔がバレているから出来ないんだ。
【元子役の相澤隼、収入が無くて国民年金免除手続き】
そんなタブロイド誌の記事が頭に浮かんだんだ。
僕は業界では大女優の息子だってことになってるから、その人に迷惑掛ける訳にはいかなかったんだ。
だから俺は身を隠すように生活している。
それもバイク通学をしている要因の一つだった。
その大女優と呼ばれている人は母の姉だった。
僕の母は、その女優が売れ始めた頃付き人だったらしいんだ。
とても仲の良い姉妹で、二人で渋谷センター街を歩いていた時にスカウトされたようだ。
その人はマネージャーとなって、姉を一生懸命に育てたそうだ。
本当は二人共デビューさせたかったようだ。
でも母は芸能界より愛する人を選んだのだ。
その女優は連ドラの主役に抜擢される前に、一年間のブランクがあったようだ。
本人やマネージャーの話では、アメリカで演技の勉強をしていたようだ。
でも其処には母も居たらしい。
そして母はそのアメリカで僕を出産したんだ。
極秘に帰国した時に、僕も一緒だったようだ。
でも僕は彼女の妹に抱かれていたのだ。
見た目が似ている姉妹だからこそ、そんな噂が小さな時から付いて回っていたのだった。
だから僕は常に、そんなネモハもないデマに付き纏わられていたんだ。
僕の両親がカルフォルニアに転勤した際、暫く帰って来なかった『怜奈』をマネージャーはイラつきながら待っていた。
そして僕を連れて帰国した後に『怜奈』は復帰した訳だ。
『怜奈』の僕の可愛がりようは相当な物だったそうだ。
だから『怜奈』の子供説が噂されるようになったようだ。
だからマネージャーは、母が傍にいることを好ましく思っていなかったようだ。
だけど、僕を預ける保育園が無いから仕方なくく一緒に移動していたようだ。
両親は今ニューヨークで暮らしている。
父は商社で働いていて、パートナー同席でのパーティなども多いんだ。
だから母は僕から目が離してしまうことを悩んでいたんだ。
メイドを雇えば良いってものでもないらしい。
その頃アメリカでは、預けた子供への虐待が世間を賑わしていた。
母は僕を見知らぬベビーシッターに預けることを躊躇ったんだ。
だから次の海外転勤の際に、何時も僕の傍にいた叔父に預けられたんだ。
叔父は僕を物凄く可愛がってくれていたのだ。
だから安心して旅立って行ったのだ。
叔父は父の弟で団体職員だった。
だから忙しかったんだ。
営利法人と公務員を除いた団体の職員でNPOなども含まれているようだ。
僕は叔父が何処で働いているのかなんて知らない。
可愛いがってもらっているだけで満足していたのだ。
あの日の優香との会話の中で、叔父が優香に土下座をしたことを思い出した。
叔父は優香に本気で謝ってくれた。
本当は優香が、ブランコに乗っている僕の後ろから近付いて来たんだ。
避けられない事故だったんだ。
でもそんな言い訳が通じる相手ではないと判断したようだ。
叔父は両手をしっかり地面に付けて、尚且つ頭も擦り付けるように謝罪していた。
子供心に、とんでもないことをやらかしたと思ったものだった。
だからって言う訳ではないけど、僕は叔父が大好きなのだ。
でも僕は優香から聞くまで、そのことを忘れていたのだ。
何故そんな大事なことの記憶がなかったのかは定かではない。
きっと思い出したくない過去だったから封印していたのだろう。
その後で僕は又、原島先生の手を煩わせることになった。
朝早くから保育園の前で待っている僕が放って置けなかったようだ。
だから僕は、何時も原島先生の傍を離れなかったんだ。
大好きな優香ともう遊べない。
その事実を少しでも忘れてしまいたかったのかも知れない。
そうだよ。
僕が大好きなのは、今も昔も優香だったのかも知れない。
あのオンボロアパートは、学生時代の拠点だったそうだ。
叔父は僕と同じ大学出身だったんだ。
その頃はまだ青田刈りって生き残っていたようだ。
昭和三十七年の流行語にも選ばれたこの言葉。
企業が学生を抱え込むことを、青い田んぼのうちに買い取る青田買いになぞらえたそうだ。
叔父は優秀な生徒だったので、優遇されていたようだ。
でも叔父は決して傲らなかった。
初心を貫くために、彼処で暮らしていたのだった。
叔父は誰にも頼らず生活していた。
自炊もしていたんだ。
ただ僕は叔父の後ろ姿を見ていながら、それらを身に付けてこなかったんだ。
悔やまれるよ。
だってまさか、叔父から離れて生活するなんて思いもよらなかったんだ。
僕の朝は相変わらずサンドウィッチ系パンと牛乳から始まる。
優香のことを思いながらも、結夏のしがらみから抜け出せない。
結夏にも優香にもすまないと思いながら……
僕は生きて行くしかないのだろうか?
『隼。此処で思いっきり遊んでみろ』
このマンションを僕に貸す時に叔父は言った。
『男たるもの、小さく縮こまっていてはいけない』
そう言いながら、ある男性のアルバムを見せてくれた。
その人は大学時代の友人で、ライトバンの上に普通車の屋根を溶接してキャンピングカーを手作りしたそうだ。
『それでアメリカ大陸を横断する。そんなでっかい夢の持ち主だった』
叔父の語るその人は叔父の中で生きていた。
何故そう感じたかと言うと、その人はアメリカで行方不明になっていたからだった。
生死も解らないその友人を叔父はずっと探し続けていたのだ。
僕はその人に何故か興味を抱いた。
僕もそんな生き方をしたいと思ったんだ。
いつの間にかその人が僕の中にも入り込んでいた。
今も出来ていないと思うけど、未だに僕の憧れの人なのだ。
車を改良したり手を加えたりした場合、次の車検は通らないそうだ。
だからその人は廃車しても良い素材を探して合体させたのだ。
是が非でもアメリカへ行く気だったようだ。
そして……
その人はアメリカへと渡ったままに行方不明になってしまったのだった。
もしかしたら叔父のアメリカ行きは、その友人を探すためなのかも知れない。
ふとそう思った。
清貧の思想って本があるそうだ。
清く貧しく美しく……
みたいな物かな?
その人はそれを貫いていたようだ。
あのオンボロアパートがまだそんなにも古くなかった頃、叔父は良く其処で寝泊まりしていたらしい。
って言うことは、あのアパートはその人が借りていた物だったのだ。
叔父は行方不明になった親友が日本に帰って来た時のためにその人の部屋を残しておきたかったようだ。
だから今でもずっとあのアパートで暮らしているのだった。
だから僕はその日のために和室を使用していなかったのだ。
叔父とその人は掛がえのない絆で結ばれていた。
それが判るから……
あの部屋は、叔父のために空けてあるんだ。
結夏と優香には悪いけど、僕が本当に暮らしたいのは叔父なのかも知れない。
図書館で何気にチラシを見ていたら、あのマンションの賃貸物件が掲載されていた。
四万八千円から四万五千円に下げたそうだ。
僕はその半分も叔父に払っていなかったのだ。
隼は叔父さんが大好きだった。