決願寺へ
宿で一緒になった松田孔明の兄と共に決願寺を目指します。
昨日隼は寄り添いながら宿を目指してくれた。
私が地蔵菩薩様を見て泣いたので心配したようだ。
あんなの見たせらたら誰でも泣く。
だって地蔵菩薩様の裾でまとわり付いていた二人の子供は、衣類を身に着けていなかった。
それで水子を表現しているのではないのかと思ったのだ。
私は急に、この子供達を救い出したくなったのだ。
だから双子を望んだ。
結夏さんと……
誰かの水子でもいい。
この子供達の母親になりたい。
そう願ったのだ。
国道299号脇きあった札所三十二番への案内板。
その遥か手前に秩父ミューズパークへ向かう道がある。
其処があの赤い巴橋手前に出る道だったのだ。
でも私達は札所二十四番の脇を通り抜けて、左久良橋を渡った。
其処からほぼ道なりに、御花畑方面へ向かった。
実際にはどうかは解らないけど、其処の方が巴橋の先の国道に出るより宿泊場所には近かいと感じたのだ。
私達は夕方には宿へ入ったのだった。
宿は土曜日だったのでやはり満室だった。
だけど一人で遍路に回っている方に合い室をお願いしてくれたのだった。
その部屋お礼の挨拶にに行って驚いた。
其処に居たのは翔君のお父さんだった。
実は松田さんは、結夏さんに許しをこうために独りで秩父札所をお遍路していたのだった。
何時もは日帰りだと言う松田さん。
でも今回は初めて宿を取ったようだった。
それは、最後のお遍路とするためだった。
松田さんも、後二寺だったのだ。
私達がお遍路に回っていることを誰かに聞いた訳ではなさそうだ。
松田さんも隼のように、結夏さんの誕生日に傍に貼ってあった甲午年御開帳の散華シールを見て秩父札所巡礼を始めたのだった。
私達は一緒に回ることになった。
朝食が済んだら又女将さんのオニギリ持参で秩父駅に向かい、バスで泉田停留所を目指すことになったのだ。
昨日と同じ急カーブの連続の道を進む。
すると泉田バス停の手前に札所三十二番入口があった。
「昨日此処から入ったんだ」
「もしかしたら般若面があった所? 実は俺も行った。此方が先で三十一番が後だった」
「何処かでスレ違っていたりして……」
「そうかもな」
そう言いながら隼は何故だか遠い目をしていた。
きっと結夏さんのことを考えているんだ。
そう思った。
松田さんは気付いていないらしく、盛んに三十一番の弘法大師の磨崖物の話をしていた。
空はどんよりと雲っていた。
泉田の信号をを北に向かうと暫くして札所三十三番の案内板があった。
私達は其処を右に曲がった。
その先にようばけへと小鹿野化石館への立て札があった。
「ようばけ? なんだか怖そうな名前だな」
「おばけに似てるからか?」
「ようばけとは確か、陽のあたる崖。と言う意味だったかな?」
「陽のあたる崖? それがなんでおばけ?」
「おばけじゃないよ、ようばけだよ」
「何でも崖のことを方言で、はけっ言うそうよ。其処からばけになったんだって。夕日があたると物凄く綺麗なんだってさ」
「だったら、ようばけより、夕ばけ」
「それじゃおばけみたいだな」
「赤平川にある崖で、古代の地層が斜めに見えるそうよ。其処から化石が沢山出土しているんだって」
「だから化石館もある訳だな」
そんな会話をしているうちに気が付いた。
二人が以前のように仲良くなっていることに……
橋があった。
良く下を見ると、滝らしきものがある。
その先には田んぼがあり、穂が垂れていた。
(もうじき黄金色に染まるのかな?)
そんなことを思っていた。
平坦な道を進みと、右側に札所三十三番の駐車場が見えて来た。
目指す菊水寺はその反対にあった。
すぐ行こうとする松田さんを征して、まず山門の前に立った。
私と隼は其処で一礼してから山門を潜り抜け境内に入った。
後ろを見ると、松田さんも同じことをしていた。
その後菊の花を模した手水場で左手右手の順に手を清め、左手の水で口をすすいでから輪袈裟と念珠で身支度を整えた。
「これが正式? 俺、罰当たりなことばかりしていたかも?」
「私達だって同じようなものよ。ただ本に書いてあった通りにしているだけだもの」
「いや、心構えが違う」
松田さんは神妙に言った。
納め札と、写経を所定の箱に入れた後灯明と線香と賽銭を上げた。
胸の前にて合掌して三礼する。
「うやうやしくみ仏を礼拝してたてまつる」
墨書したメモを松田さんに見せながら、本堂に向かって三人同時に言った。
「次はこれ、開経偈」
「むじょうじんじんみみょうほうひゃくせんまんごうなんそうぐうがこんけんもんとくじゅうじかんげつにょらいしんげつき」
「その次はいよいよ、般若心経よ。納経帳にも記してあるわ」
私がそう言うと、松田さんは自分の納経帳を出していた。
「ぶっせつ、まかはんにゃはらみったしんぎょう」
たどたどしく松田さんが唱える傍で私達も追々した。
「般若波羅蜜多とは、仏様によって完成された大いなる智慧の世界の真髄を説かれたお経と言う意味なの」
「かんじんざいぼさつ。ぎょうじんはんにゃはらみったじ。しょうけんごうんかいくう。どいっさいくやく。しゃり。しきふいくう。くうふいしき。しきそくぜくう。くうそくぜしき。じゅそうぎょうしき。やくぶにょぜ。しゃり。ぜしょほうくうそう。ふしょうふめつ。ふくふじょう。ふそういげん。ぜこくうちゅうむしき。むじゅそうぎょうしき。むげんにびぜつしんい。むしきしょうこうみそくほう。むげんかい。ないしむいしきかい。むむみょう。やくむむじょうじん。ないしむろうし。やくむろうしじん。むくしゅうめつどう。むちやくむとく。いむしょとくこ。ぼだいさった。えはんにゃはらみったこ。しんむけいげ。むけいげこ。むうくふ。おんりいっさいてんどうむそう。くきょうねは。さんぜしょぶつ。えはんにゃはらみったこ。とくあのくたらさんみゃくさんぼだい。こちはんにゃはらみった。ぜだいじんしゅ。ぜだいみょうしゅ。ぜむじょうしゅ。ぜむとうどうしゅ。のうじょいっさいく。しんじつふこ。こせつはんにゃはらみったしゅ。そくせつしゅわつ。ぎゃていぎゃていはらぎゃてい。はらそうぎゃていほじそわか。はんにゃしんぎょう」
「おん、あろりきゃ、そわか」
菊水寺も聖観音のご真言だった。
これを三度繰り返す。
「おんあぼきゃべいろうしゃのうまかぼだらまにはんどまじんばらはらばりたやうん」
光明真言も三度繰り返す。
「南無大師遍照金剛」
その後で御宝号も三度唱えた。
「願わくばこの功徳を以て遍く一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん」
回向文を一度唱える。
「ありがとうございました」
と御礼をしてから、芭蕉の句碑などを見て回った後に本堂に入った。
菊水寺の納経所は驚いたことに本堂の中にあったのだ。
私達は今は秘宝となった聖観音に向かい合掌してから朱印をいただいた。
「さっき仏説摩訶般若波羅蜜多心経と書かれた半紙をを奉納したけど、時間が許す限り写経することにしたの」
「長い般若心経を読み上げるだけで日が暮れてしまうような気がしたからなんだ。結夏と流れた胎児の御霊を成仏させるために買った半紙を有効利用したんだ。きっと結夏も許してくれると思ったのからね」
私は仏説摩訶般若波羅蜜多心経と書かれた半紙をを松田さんに見せることにした。
「この一枚で最後なの」
「全ての札所に納めるために三十四枚ずつ持参するつもりだった。でも時間が足りなくて、あの宿でも書いていたんだ」
「俺はやっぱり考え方が違っていたようだな。今更だけど悔やまれるよ。女将さんは電話で相部屋を頼む時、二人を大切なお客さんだからって言ってた。やっと意味が解ったような気がする」
「違うよ兄貴。僕も同じだった。全部優香のお陰なんだ」
「兄貴って、又そう言ってくれるのか?」
「当たり前だ。孔明の兄貴なら、僕にとっても兄貴だよ」
「嬉しい。嬉しいよ。俺は罪を犯した。結夏を助けることなく、その場を立ち去ってしまった」
松田さんがあのことを話出すと、隼は厳しい表情になった。
「結夏を襲う気なんてなかったんだ。ただ驚かしてやりたかったんだ」
「それじゃ何でスキンが……」
「使用したのは彼処じゃない。ポケットに入っていたのが落ちただけなんだ」
「だって孔明が『そうなんだ。確かに兄貴は、ストーカーの仕業に見せ掛けようとしていたんだ。だからスキンも用意していたんだ。でも、太鼓橋の隙間から落ちた結夏を助けに行こうとした時、階段で……』って言ってた……」
「あれは警察が勝手に決めつけて……俺は結夏にそんなことはしていない」
「でも、結夏さんのストーカーだった人が後を付けていたのでしょ?」
「そうだよ。だから通報されると思ったんだ。結夏が妊娠していたなんて知らなかったから……まさか」
「そうだよな。結局僕のせいなんだよね……」
まるで、責任転換されたような物言い。
隼のその言葉で押し黙った松田さんは、気まずそうに私達の後を付いて来たのだった。
結願寺までの道程は途方もなく長く、生憎雨も降りだした。
それは三人に与えられた試練のようにも思えていた。
図書館で秩父札所の本を数冊借りて、地図を見比べた。
古いのには札立峠の道が示してあった。
それより若い本には、その峠は通行不可になっていた。
そんな場を通る訳にはいかない。
だから、物凄い遠回りになってしまったのだった。
龍勢会館で一休みした後で、持参した地図のコピーを見ながら赤平川沿いの道を行く。
二時間ほど歩いた場所で、札所三十四番と秩父華厳の滝と書かれた案内板に出会した。
其処を左に曲がり更に二時間ほど歩いた。
足はパンパン、膝はガタガタだった。
それでもどうにか雨の中を、結願寺の駐車場脇に辿り着いた。
其処も坂道だった。
私は金剛杖を頼りに、その道を歩き始めた。
絶対に必要になると言って、無理矢理持たせてくれた結夏さんのお母さん。
私は遠い故郷の空に向かい合掌した。
入口には、散ってしまった山百合の葉。
途中には未だに青々とした紫陽花もあった。
それらに気を取られながら石仏の脇を通る。
本堂が見える手前の石仏に挨拶をする。
此処が最後などだと思うと余計に緊張してきた。
私は粗相がないようにと所作を頭の中で繰り返していた。
「おん、ばざら、だらま、きりく」
千手観音のご真言だ。
回向文やお礼まで終えて納経所へ向かおうとした時、一匹の蜥蜴が足元にあった踏み台の隙間から中に潜っていった。
「あれっ、これ踏み砂だわ」
「あっ、本当だ。西国三十三箇所、坂東三十三箇所。それに秩父三十四箇所砂がの中に入っているらしいよ」
「それって凄いな」
「でも私、もっと凄い踏み砂知っているわよ」
「もしかしたら百穴?」
「ううん違うよ。隼の大学の上にある……」
「坂東の方が凄いのかなー?」
「そうかもね。地蔵菩薩の立像の下には、百観音の他に四国八十八箇所の砂も入っているらしいのよ」
「最強だな、それは」
「うん。だから、帰ってから行ってみようよ」
「お焚き上げしてもらう前に行こうか?」
「うん。そうしましょうよ。其処でもう一度結夏さんと隼人君のために祈りましょう」
「ところで、そのお焚き上げってなんだ?」
「結夏の流れた胎児に隼人って名付けて祈ってきたんだ。これがその時作ったお札だよ。僕の子供の位牌みたいなもんだな」
隼はそう言いながら隼人之霊と墨書した紙を松田さんに示した。
「結夏……」
そう言いながら松田さんは踏み砂の前で踞った。
幼馴染みで、弟の孔明さんが愛した結夏さんを結果的に死に追いやった松田さん。
悔やんでも悔やみキレない念に支配されているようだった。
断腸の思いで立ち上がった松田さんと一緒に納経所へ行き、御朱印と記念メダルを購入した。
その後皆野町栄バス停に時刻表を見て秩父華厳の滝に向かい、頂上にある閻魔大王の大座像に結夏さんと隼人君の成仏を祈った。
その後でバスで皆野駅に行き、秩父線経由で地元駅に戻った。
雨で体力を奪われた私達の非力を詫びながら……
秩父三十四札所のお遍路は修了しました。
残るは水子供養を締め括る御焚き上げだけです。