長瀬先輩
「なんか、久しぶりだな」
長瀬先輩が目の前に立った。丁度、私から職員室の扉を隠す位置だ。
「……はい、まあ」
先輩と目を合わせるのが躊躇われて、視線を口や首のあたりに彷徨わせる。見上げていることには変わりがなくて、改めて長瀬先輩の身長が高いことを実感した。
そのせいもあって威圧されているような気分になる。うわああ、うわああ、と逃げたい気持ちを心で叫びながら、私は平静を装っていた。装えているか自信はないけど。
時折先輩の背後を伺ってみても、先輩は微妙に身体をずらして巧妙に私から扉を隠す。まるでそこがゴールネットで私をディフェンスしているみたいだと思った。
私に勝ち目はない。素人の私が見ても、先輩は相手選手をマークして攻撃を止めるのがとても上手かった。
「放送で呼ばれてたから、会えるかなとは思ってたんだけど。本当に会えるとは思わなかった」
「……そ、そうなんですか?」
いつもは厳しく張り上げられている先輩の声が優しい。それだけで勝手に顔に熱が上がってくる。うわああ、と心の中で一段大きく私が叫んだ。
「あんまり見かけなくなったし。もしかして俺避けられてる? 普通にしててほしいんだけどな」
「あの、そんな、そんなことはないんですけど」
「そうか?」
お腹の前で腕を組んで、両肘をぐっと握った。もう先輩を見上げていられなかった。
どうしよう、どうしよう、どうしたらいい。先輩もう話しかけないで。早く行ってしまって。
気付かれたくないと思ったときよりも、もっと切実に念を飛ばした。だけどやっぱり私の願いは叶わない。
どうして誰も通りかからないんだろう。誰か職員室から出てきてよ。岩ちゃん、もう一回放送かけて私を呼んでよ。
少しの間黙っていた先輩が、言いにくそうにして話を切り出した。
「あの、さ。だったらまた試合あるから、前みたいに」
「…………え」
思ってもみない言葉だった。先輩が落ち着かなそうに片手を黒髪に伸ばす。
「前みたいに応援に来てくれたりとか」
「……あの、それは、その」
指先に力が入った。なんて返事をしたらいいの。私はどうしたらいいの。前みたいに、なんてそんなのは無理に決まってるのに。
誰か、どうか、助けてください!
三度目の正直でやっと私の願いは聞き届けられた。
背後から誰かが軽快に走ってくるのが聞こえたのだ。ほっとして涙が出そうだった。救いの主を確かめようと振り向くと、それは私の見知った人だった。
「あ、香澄、いた! 放送聞こえたよね、そこで何やって……って長瀬先輩、長瀬先輩じゃないですか! こんにちは! こんなところで奇遇ですね!」
私の隣に走り込んで、矢野恵衣子、えいちゃんは満面に笑みを浮かべた。きっともう私のことなんて眼中にない。なんといっても彼女は長瀬先輩ファンクラブのメンバーなのだから。
考えられる限り最高の救いだった。よくぞこのタイミングで来てくれた。もう本当に嬉しい。後で何か奢ってあげたい。
私の熱い眼差しに気付くことなく、えいちゃんは長瀬先輩に話しかける。
「先輩、こんにちは。今日は練習されないんですか? 後で練習の見学に行こうと思ってたんですけど先輩がいないんだったら……ってあ、すみません突然」
長瀬先輩はえいちゃんの乱入に驚いていたようだったけれど、それも少しの間のことだった。えいちゃんはほとんど毎日長瀬先輩を見に行っているから、先輩の方も見覚えがあったんだろう。
「二年の矢野さん、だったかな。いつも見に来てるだろ、バスケ部」
見に行っているのはバスケ部じゃなくて長瀬先輩ですよ、とえいちゃんも思っただろうけど、私たちはそのことを口に出さなかった。
えいちゃんはますますキラキラしながら先輩を見つめる。
「覚えてくださったんですか。嬉しいです。そういえば先輩、来週また試合があるんですよね? 差し入れとか何か欲しいものありますか?」
「差し入れ? いや、応援に来てくれるだけで十分だから」
「そんな、先輩。もう何でもリクエストしてください」
「いや、悪いよ」
「そうですか? じゃあ何か飲み物とか」
「んー、そうだな」
長瀬先輩はすっかりえいちゃんのペースに巻き込まれていた。えいちゃんは話しながらそれとなく私と長瀬先輩の間に自分を滑り込ませる。
え、と思って彼女を見ると私に向かって目配せをした。早く職員室に入れ、とその目が言っている。
私は感動に打ち震えながらそっと二人から距離を取り始めた。じりじりと後ろに下がり、長瀬先輩を迂回するようにして扉へ近づく。
「あ、じゃあマネージャーさんにも聞いてみます」
「ああ、そうだな。そうしてくれた方が」
「それはそうと先輩、調子の方はどんな感じですか。今度の相手は結構強豪って聞きましたけど」
「……あの、長瀬先輩、私面談あるので」
何も言わずにこの場を離れるのはいくらなんでも失礼な気がして、えいちゃんの言葉に隠れるように言った。長瀬先輩の横をゆっくり、横歩きで通り過ぎる。
「調子はまあまあだけど、そうだな、攻撃力のあるチームだって話だから」
言いながら先輩の目が私を追いかけている。すかさずえいちゃんが興奮気味にたたみ掛けた。
「やっぱりそうなんですか! でも先輩たちのチームだって―――」
「……そろそろ、失礼しますね」
完全に長瀬先輩の横を通り過ぎた。
「―――強いですから」
「山村さん」
長瀬先輩は呼びながら身体ごと私に向き合った。その後ろでえいちゃんがこっそり舌を出している。
いいよ、えいちゃん、十分すぎるくらいだよ。
「引き留めてごめんな。さっきも言ったけど、応援来てくれると嬉しい」
苦笑いして、少し眉間に皺を寄せながら長瀬先輩は言った。
それに何か返事をした方がよかったのかもしれない。だけどずるい私はぺこりと頭を下げて、長瀬先輩に背を向けた。えいちゃんが「聞いてくださいよー」とふざけて甘えた声を出していた。
えいちゃん、本当にありがとう。絶対後で何かお礼する。
こうして私はやっと職員室に入ることができたのだった。
……岩ちゃんには十分くらい説教されたけど、長瀬先輩と話していた時間と比べればあっという間でとても気楽な時間だった。